第八章 政治 2

 フェリクスはアスカニウスの私邸へと走った、護衛兵士ひとりがその走りに必死についてくる。


「し、神官様はッ、健脚でいらっしゃいますな!」


 護衛兵士に返事をすることもできず、道に敷き詰められた石畳を蹴った。

 思わぬ事態になった。早くアスカニウスに指示を仰がなければ。

 アルバ・ロンガを超えた先の斜面は北側になるが、真昼の太陽はほぼ真上から降り注ぎ、日陰などほとんどない。つづら折りの坂道では目を細め、時折手で日差しを遮りながら、フェリクスはアスカニウスの私邸に駆け込んだ。


 屋敷の中に入ってもなお全身から汗が噴き出す。トーガが重く邪魔だったが、脱いでいる時間すら惜しい。

 アスカニウスの私室の前にはポンペイウスが控えており、フェリクスの形相を見て驚いた顔をする。扉はきっちりと閉じられていた。


「クラディウス様に火急のご報告が!」

「お、おお……お待ちください、家令を呼びますので」


 しかしフェリクスは案内を待たず扉を押し開いた。


「フェリクス殿!」


 ポンペイウスの焦った声に心の中で無礼を詫びながら寝室の奥へと大股で侵入していく。


「クラディウス様! 大変です!」


 帳は下ろされていなかった。金糸の織り込まれた紐で留められた紗布の間を通りって寝台に近付くと、アスカニウスは掛布を顎まで引き上げて眠っていた。

 掛布は絹と毛織物を重ね、体の下には幾重にも毛皮が敷かれている。

 いくら朝晩は冷え込むアルバ市であっても、今は真昼だ。

 汗だくで頬を上気させているフェリクスの姿と、毛皮に横たわるアスカニウスの姿はあまりにもちぐはぐで、見えない壁の向こうだけ冬が訪れたかのようではないか。


「クラディウス様……?」


 フェリクスは荒くなった呼吸を整えながら、おそるおそるアスカニウスに近寄る。

 頬が白いのはいつものことだ。軍人として野山で日を浴びていただろうに、アスカニウスの肌は青白い。髪も青みがかった白銀色で、全身が淡い色なのだ。

 しかし、唯一温かそうな色を湛えていた唇までもが……秋口のカンパニュラの花のような、紫がかった淡いピンク色すらも失われ、老人のように白くかさついている。


 日差しの中を走ったことで火照っていた体に、今度は冷や汗が流れ始めた。胸の中に手を入れて握られたかのように苦しく、上手く呼吸ができずに息が詰まる。

 フェリクスは衝動的に床に膝をつき、アスカニウスの口元に手を翳した。

 呼吸は、している。手のひらに湿った呼気が触れ、フェリクスは詰めていた息をなんとか吐き出すことが出来た。

 だが、それだけだ。息は、している。

 震える指先でアスカニウスの顔に触れた。

 触れた唇も、頬も固く冷たく、もうあと少し冷たくなったら――死んでしまいそうなほどだ。


「お帰りになられましたか」


 茫然とするフェリクスの背後から声をかけたのは、家令のオトだった。振り返るとその隣にはポンペイウスも立っている。


「クラディウス様の、ご様子が……」

「実はフェリクス様にご相談しようと、帰りをお待ちしておりました。ご容体が急にお悪くなりまして……皆様を送り出した後、横になったらそのままお目覚めにならず」

「医師は呼びましたか? すぐに診てもらわなければ!」


 オトは悲しげに首を振った。涙をこらえている様子で眉間に皺をよせ、しかし声だけは冷静に紡がれる。


「アスカニウス様のお体を診られる医師は、地上にはいないのです」


 フェリクスはオトの悲痛な面持ちに、なんと声をかければよいか分からない。

 以前アスカニウスの口からも聞いたことだ。医師には匙を投げられたと。先祖返りだから。それも、水場の見つからない水龍だから。どんな名医でも人間の医師の手には余ってしまう。


「ピュートーから戴いた薬湯はよく効いたようなのですが、もう手持ちがなくなってしまいました。フェリクス様なら何か対処がお分かりになるのではないかと思ったのですが」


 フェリクスは震える手で、助けを求めるように自分の胸元の服を握る。

 そこには固い感触があった。


「薬湯が足りないなら……聖水しか、ありません」


 フェリクスはトーガの中に手を入れ、首から提げていた皮紐を引いて小瓶を取り出した。

 ピュートーからずっと肌身離さず持っていた泉の水。アスカニウスが船に乗った初日早々に飲んでしまった水と同じもの。

 コルクでしっかりと封のされた瓶の口を切る。


「クラディウス様の体を起こしてください」


 ポンペイウスの手を借りてアスカニウスの上体を起こすと、フェリクスは右腕でアスカニウスの頭を抱えるようにしっかりと固定する。

 まず少しだけ瓶を傾けて唇を湿らせた。アスカニウスの反応はない。


「失礼致します」


 フェリクスは誰にともなく断ると、聖水を自分の口に含む。意図を察したのか、ポンペイウスもオトも止めはしなかった。


 アスカニウスの乾いた唇に、フェリクスの唇が重なる。


 水はわずかだ。ほんの一口分しかない。フェリクスは慎重にアスカニウスの口の中へ聖水を落としていった。

 触れた唇はもちろん、手を添えた首や頬も、歯列すらも冷たい。掛布の下にあった肩も、腕も冷たい。以前ピュートーで体調を崩した時のアスカニウスよりも、もっと冷たかった。

 一滴もこぼさぬようゆっくりと水を移し終えフェリクスは顔を上げる。アスカニウスの唇に、ほんのりと色が戻ったように見えた。

 ポンペイウスがアスカニウスの体を寝台に戻す。


「後で私の分の聖水もお持ちします。妻に渡して自宅の神棚ララリウムに供えてあるので」

「私も村の皆に声をかけてみます。きっと大切に身に着けているはずですから」


 フェリクスが濡れたアスカニウスの唇をトーガの端で拭うと、アスカニウスの目元がむずがるように動いた。


「……うまい」


 アスカニウスがパチリと目を開け、唇を舐めた。


「この美味い水は、ピュートーの……? 神官殿、もしや」


 目を開きはしたがぼんやりと視線を彷徨わせるアスカニウスの頭を、フェリクスは縋り付くように抱きしめた。


「神官殿? どうしてそんな嬉しいことをしてくれる?」

「……冷たいので」


 死んでしまったかと思った。

 このひと掬いの水がなかったら、二度と声も聞けなかったかもしれない。

 フェリクスは力の加減もできずに力いっぱいアスカニウスの頭を抱きかかえる。


「まだ、冷たいです」

「神官殿は、熱いなあ。前にも思ったが、ユリアンよりも熱くて、赤ん坊みたいだぞ」


 だんだんとアスカニウスの口調が普段通りに戻ってくる。フェリクスの熱が移ったのか、聖水の効果が出たのか、体温も少しずつ上がってきたように感じられた。

 アスカニウスの様子を見つめていたオトとポンペイウスが共に安堵の溜息をこぼす。


「良かった……フェリクス様、本当にありがとうございます!」

「オト、説明してくれ」

「はい。アスカニウス様は午前中ずっと目を覚まされなかったのです。呼びかけにも全く答えられないので、どうしたらよいか途方に暮れておりました。たった今フェリクス様が帰られて、お持ちの聖水を分けてくださったのです」

「やはり、ピュートーの水だったか」


 アスカニウスがわずかに顔を動かしたので、フェリクスは抱えていた彼の頭を開放した。

 その時、部屋の外から控えめに声がかけられる。


「すみません、お客様がいらっしゃって、どうもお急ぎのご様子なんですが」

「こんな時に……」


 若い給仕に呼ばれ、オトが何度かこちらを振り返りながら部屋を出て行く。


「そろそろルキウスたちも戻って来ますね」

「その対応は私が致しましょう。フェリクス殿はアスカニウス様についていてください」


 続いてポンペイウスも部屋を出て行ってしまった。

 フェリクスは今一度アスカニウスの容態を観察する。まだ唇は白く、眼の下には浅黒い隈がある。病人の顔だった。

 その目元を指先でそっと辿ると、アスカニウスは嬉しそうな顔で見上げてくる。


「水をありがとう神官殿。やっぱりピュートーの水が一番だ」

「後で皆に声をかけます。ひとりひと瓶ずつありますから、かき集めれば水差しひとつ分くらいにはなります。しばらくはそれで凌げるでしょう」

「護りの聖水を? いい、いい。全員分を俺が飲んだら、悪いだろ」

「悪くありません! こんな、こんなになるまで……どうして何も言って下さらないのですか?」


 フェリクスが顔を歪めてもアスカニウスは微笑んだままだ。


「いいんだ。どうにもならないことが地上にはある。もう少し長生きする予定だったが、神の思し召しなら従う他あるまい」

「わ、分かりません。まだ神のお召しと決まったわけではありません。聖水があれば治るのなら、すぐピュートーに戻りましょう。きっと良くなります」

「……そうだな。仕事が片付いたら、一緒に帰っても良いか?」


 アスカニウスが掛布から腕を出し、フェリクスの方へと伸ばす。左手の、人間の手であった。爪が丸くて短い。


「一緒に帰ります」


 フェリクスは一瞬悩んだが、その手を取った。白い指先をしっかりと両手で握りしめる。


「必ず一緒に帰りましょう。だから……それまでは」


 指先はまだ冷たかったが、アスカニウスは手を握り返してくれた。きちんと力が入っていることに酷く安心を覚える。


 ――この方が死んでしまうのは、どうしても嫌だ!


 アスカニウスの手を握ってフェリクスは祈った。

 ピュートーに戻りさえすれば、また泉の水さえ手に入るようになれば、きっとアスカニウスは助かる。それまでの間どうか彼が無事であるようにと強く願う。

 そのために、一滴でも多くの聖水を集めなければならない。


「そうだ。投票結果はどうだった?」

「あっ! そのご報告に、急ぎ走ってきたんですが」


 すっかり頭から抜け落ちていた元老院での出来事を語ろうとフェリクスが口を開いたところで、オトが客人を案内して再び部屋を訪れた。


「ガイウス・ヴァレリアス・シラクス様がお越しです」

「アスカニウス様ッ、体調が優れぬとは、誠にございますか?」


 杖をついて入室してきたのは、先ほどまで議場で一緒だったガイウスだった。付き人に片手を支えられ、オトが差し出した椅子に座る。

 アスカニウスが体を起こそうとするので、フェリクスは寝台に乗り上がってそれを支える。アスカニウスの背中はほんのりと温かかった。


「わざわざ来てもらって悪いな」

「いいえ。今日の登壇が代理人だったので、驚きまして。何故わたくしに一言伝えてくれませなんだ」

「なに、代表演説は最後の添え物。もう俺は出来る限りの仕事をしたのでな……それで、結果は?」

「アスカニウス様が無投票でしたため、九十九票で争われたのですが、三候補地全て得票が同じ、三十三票ずつで」

「同票だと?」


 アスカニウスを支えながらフェリクスは目を伏せた。

 明らかに不自然な投票だった。

 特に後半の貴族議員の投票は、それまでの得票差を埋めるように振り分けられたとしか思えない。最後は順番に候補地の名前を呼ぶような形になっていた。

 中には順番通りではなく己の意思で投票したと思われる者もいたが、その後に必ず誰かがその票差をなくしてしまったのだ。


「三日後の議会で再度話し合いの場を設けようと、コーネリウスの発案で決まりました」


 ガイウスが深い溜息を吐いて言葉を切ったので、フェリクスはそっと付け加える。


「ユリアン様は立派に演説なさいました。初めての議会演説とは思えないほど落ち着いておられましたが、投票結果を聞いた途端倒れられてしまって……レグルス様が本邸に連れて帰られました」

「そうだったか。ユリアンには悪いことをしたな」


 アスカニウスは龍の手の爪の先で眉のあたりをかく。

 ガイウスは俯いた顔を上げ、両手で持った杖に体重をかけるようにして身を乗り出した。


「三日後、アスカニウス様に残りの一票を投じていただければ、ことは収まりまする。一票でも多く獲得した候補地、すなわちピュートーが開催地に選ばれるのです」

「……それで皆が納得する様子だったか?」


 アスカニウスに問われたガイウスはもとより細い瞳を、ほとんど瞑るようにしてさらに細める。


「荒れるかも、しれませぬな。コーネリウスの若造は、色々文句をつけておきたいようだ……いくつか手を打つ必要がございます」


 しばしの沈黙が訪れた。


「神官殿、少し込み入った話をしたい。外してくれ」


 アスカニウスは静かにそう言うと寝台の上で身じろいで座り直した。フェリクスはクッションをいくつか引き寄せ、アスカニウスの腰周りに置いてから立ち上がる。


「ひとつ、ガイウス・ヴァレリアス・シラクス様に折り入ってお願いがございます」

「……聞いておこう」


 ガイウスは杖を握り直し、その威圧的な細い瞳で品定めするようにフェリクスを見つめた。


「先日クラディウス様より贈られましたピュートーの泉の聖水は、まだ保管されていらっしゃいますか?」

「もちろんだ。我が家の神棚に供え、毎日祈りの際にはあの瓶を見上げておる」

「神官殿、まさかガイウスからも聖水を貰うのか?」


 アスカニウスが心底意外そうに目を見開く。

 一度贈ったものを返してくれなど、非常識だとフェリクスも分かっていた。しかし一滴でも多く聖水が欲しい。アスカニウスのためにどうしても聖水が必要だった。


「無茶なお願いであることは承知しております。ですが、ピュートーの聖水があればクラディウス様は回復なさいます。三日後の議会への出席のためにも、どうか水を提供してくださいませんか」

「おお、そのような事情であれば、否やがあるだろうか。すぐにこちらへ届けさせよう」


 ガイウスは躊躇なく頷いてくれた。

 それに深く頭を下げ、今度こそフェリクスは踵を返す。


「神官殿」


 フェリクスが振り返ると、アスカニウスは力のない笑みを浮かべていた。

 それは具合が悪いせいなのか、他に憂い事があるせいなのか、ほんのひと時の表情から推し量ることはできなかった。


「すまん。もしかしたらピュートーでの大祭は、少し先延ばしになるかもしれない」


 何か聞き返すより先にアスカニウスが視線を逸らしてガイウスの方を向いてしまう。

 フェリクスはもう一度頭を下げ、アスカニウスの私室から出て行った。
















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