第八章 政治 3

 ある市民議員は、いつも一番に議場に現れる。


 今日は議会への出席に対して気が重かったが、それでもなんとか最初に入ることが出来た。

 普段ならもっと早くに着いているのだが、三日前から持ち越しとなっている議題について考え込んでしまい、朝食の席でぼんやりとしてしまったのだ。

 議員になる前から世話になっているアスカニウスの不利にならぬよう取りなしたいが、自分には今の議場の雰囲気を変えられるほどの力があるか、自信は持てなかった。


「お席までご案内致します」


 議員が扉を開くと、異国情緒漂う妙齢の女性に出迎えられた。肩に結び目があるトゥニカは東方の着こなしだと議員は知っていた。髪の結い方、装飾品、化粧など、アルバ市周辺とは違った雰囲気で、神秘的に見える。


「む、そなたはモレアの者か?」

「はい。神域ピュートーの守村から参りましたニコレと申します」


 ニコレは戸惑う議員に笑いかけ、すり鉢状の議席の一角へと案内する。

 議席は決まっている訳ではないのだが、議長席から向かって左側に市民議員、右側に貴族議員が座るのが慣例だ。

 それはかつて貴族のみが参加していた元老院に市民を迎え入れたとき『議席の半分を市民に開放した』とされた時からの慣習なのだ。厳密には半分明け渡したわけではなく、五十人の定員だったところに市民議員五十人を新たに加えたのだが。


 議員がニコレに勧められた席に座ろうとすると、普段はただの石造りそのままの座席に立派な牛革がかけられていた。


「そのままお掛けください」

「あ、ああ」


 周囲を見回すと、他の席にも色々な物が置かれている。すぐ隣は毛織物、その向こうには木彫りの肘置き。さらに議会場のあちこちに見慣れない花が生けられ、壁にまで装飾が施されている。

 まるで異国の地に迷い込んでしまったよう。

 牛革の上に腰掛けた議員が呆けて口を開けていると、紫色のトーガを纏ったふたりの神官が近づいて来た。

 フェリクスとマルキアだ。


「一番乗りですね。いつもお早く議場にいらっしゃるのですか?」

「外はお暑うございましたでしょう。どうぞ、プティサネにございます」


 マルキアに差し出された足の短い硝子の器を受け取った議員は、なおも事態を飲み込めずふたりの顔を順番に見つめる。

 フェリクスは議員に向かってゆっくりと礼を取った。


「先日の議会ではピュートーにご投票いただき、ありがとうございました」

「ああ、いや、礼を言われるようなことは。むしろあのような騒動になってしまい、本当に申し訳ない」


 議員は手元の器を覗き込み、ほんのりと香る麦に鼻をひくつかせた。尻の下に敷かれた牛革は滑らかで、つい手で撫でていたくなる。


「これはクラディウス様のお計らいかな?」

「はい。私共も投票結果には驚きましたが、各神域に投票してくださった議員の皆様に、まずは感謝のおもてなしをすべしと。こちらのプティサネは、クラディウス様がピュートー滞在中に大変お気に召された物で、是非皆様にも召し上がっていただきたく、急ぎご用意致しました」

「ほう」


 議員がプティサネに口を付けるのを見届け、フェリクスは次に入場してきた人物のもとへと急ぐ。もてなす相手はあと三十二人もいるのだ。


 もちろん、これらは全てアスカニウスによる演出だ。

 ネメア、エリス、ピュートー、それぞれに投票した議員をこうしてもてなすよう、アスカニウスは全ての代表団を集めて指示をした。担当者であるセサルとアウグスト、それにレグルス、ユリアンといったクラディウス一門総出で準備にあたり、モレア代表団は対立候補という立場を超えて手を取り合ったのだ。


 半分ほどの議員が着席したのを見て、フェリクスはすり鉢状の底にある議長席の後ろへと進む。それを察したヴィオラとマルキア、そして他の神官たち――ネメアとエリスの神官も続いた。

 そこには楽器が置かれていた。

 モレアの神官たち総勢十名がそれぞれの楽器を手に取り、にわかに演奏を始める。議席からは小さなどよめきの後、満足げな溜息が続く。


 ほとんどの議席が埋まった頃に現れたメルケースが、ニコレとグレタに挟まれて後方の席へと案内されて行く。彼もピュートーに投票していたのだ。

 メルケースは必死に冷静を装っているのだろうが視線が忙しなく動き、何が起こっているのか探っているようだった。

 すでに着席し喉を潤した議員たちは、互いの手元を覗き込んで各地の品を見せ合っている。


「おお。その絹地のクッションも見事ですな。エリスですか」

「ピュートーの毛織物も繊細で美しい。これだけ集められると壮観だ」

「器も違いますよ。硝子に、木彫りに、真鍮」


 全ての議員が着席すると、演奏に合わせて詩の朗読が始まった。ネメアの代表者の中に、朗読の名手がいたのだ。


 ――こんなわざとらしいことをして、と思ったけれど、これは……。


 フェリクスはリュラーの絹の弦を弾きながら議会場をゆっくりと見回す。

 議員たちの目つきが、三日前とは明らかに違っていた。きっと彼らはモレアの地を知らない。どの神域にも詣でたことはなく、四つの守村の違いも心の底のところでは分かっていなかったのだ。

 それが、産品に触れ、人と話し、音楽を聴くことで変わってきている。


 朗読は龍の誕生に始まり、始まりの地での龍と人間の営み、創造神ザーネスを讃える祭典のはじまり、そして増えすぎた人間による争い……地上の歴史を辿って行く。


『かくして神が創り、龍の愛した地上は憎しみであふれかえる。この穢れを清めることができるのは、ただひとつ、力ある王による泰安の統治のみとなった。オメガセーム ドスモ バシリャ』


 議場はもはや劇場に様変わりしていた。

 詩には何度も古いモレア語が登場したが、議員の大半はモレア語にも精通している。古モレア語が読み上げられると、意味を解したことを表すように多くの議員が深く頷くのだ。東方を逃れた英雄が航海の末に湖を見つける件にさしかかると、議員たちは一層集中して朗読に聴き入った。


『ならばそなたらにこの地を与えよう。北は我ら土龍の一族が守り、南はそなたら人間が守るのだ』


 詩はついにアルバ帝国誕生の場面を謳い上げた。

 フェリクスは議席の後方を見上げる。


 その瞬間、一度は閉じられた扉が開き、緋色のトーガを纏ったアスカニウスが姿を現した。議員たちが一斉に振り返る。


「クラディウスの」

「今日は欠席じゃないのか」


 場内の視線が集まる中、アスカニウスは階段状の議席の間をゆっくりと下りて来る。何人かが親しげに声をかけ、また何人かは目を合わせまいと顔を背けた。

 フェリクスたちは楽器を手に素早く左右に刷ける。

 議員たちの視線が正面に戻る頃には、ガイウスひとりが議長席に納まっていた。その隣にアスカニウスが立つ。


「先日は議会を欠席してしまい、まことに申し訳ない。詫びというわけではないが、はじまりの地モレアでの大祭復古を提案した者として、ささやかなもてなしと神域の紹介を用意したのだが、いかがだったろうか? 手元の品々にもし瑕疵があるならば遠慮なく指摘してくれ。議員諸君の目に叶ったものだけを神殿に奉納し、さらにはアルバ市民への施しとしても振る舞われるだろう」


 アスカニウスの言葉を受けた議員たちは座席に置かれた品々を手に取り、吟味し始めた。


「さて、俺の話は一旦ここまでに。議長、早速証人を召喚してもらえるか?」


 ガイウスが頷き、レグルスの名が呼ばれる。アスカニウスは中段の空いている議席へと座った。

 レグルスが議長席の横に立つと、後方の席に案内されていたメルケースが身を乗り出し、睨むように鋭い視線を向ける。レグルスもそれを正面から見返した。


「イストモスに意図的に流言を流し、金品を握らせ、クラディウス一門の長に便宜交渉を持ちかけさせようとした実行犯を逮捕いたしました。三日前に表面的な資料しか提出できなかったのは、密かに犯人を追い詰めるため秘密裏に調べを進めていたため」

「して、その不届き者は?」


 ガイウスの問いかけにレグルスは一度議場を見渡した。


「シルウィウス・バエティカ家の息のかかった者でした。すでに牢獄に繋いでいる」

 静かだった議場がにわかに喧騒で埋め尽くされる。

「わ、私は関係ないぞ!」


 立ち上がったのは貴族議員のひとりだった。その人物の名はドミニクス・シルウィウス・バエティカ。周囲の議員の視線を浴び、顔を赤くして首を振っている。


「左様。バエティカ家はバエティカ家でも、現モレア州総督グスタフ・シルウィウス・バエティカの家系ですので、貴殿とはおそらく関係がないでしょう。遠縁には当たりますが」


 レグルスに窘められたドミニクス氏は何度も小刻みに頷いて、納得した表情で座り直した。


「現モレア州総督グスタフ・シルウィウス・バエティカはモレア州の徴税を管理する職にありながら、不適切な税の取り立てを行なっていた。その最たる被害者が神域イストモスの守村や近隣の町だったのです。総督は戦後復興は順調と虚偽の報告を提出し、そこに投じるはずだった予算のほとんどを懐に入れていた。収入に応じて課せられる十分の一税に関しても、イストモスの資産収入を勝手に多く見積もったこととし、困窮極まる住民に重税を課していたのです」


 レグルスが不正の事実を並べても議員たちに驚きの色はない。モレアに不正があったことは元より皆が知っているのだ。

 ただ、議長席近くの壁際に並ぶモレアの代表団たちには衝撃的な事実だった。多くの者が不安げに周囲と顔を見合わせている。


「モレア市にて多数の証拠書類、および証人を確認しています。実は私がイストモスに赴いた一番の目的は、この不正を暴き、ただしくイストモスに支援の手を差し伸べるためでありました」


 アスカニウスとレグルスに先に話を聞かされていたフェリクスは固く目を閉じ、じっとレグルスの説明に耳を傾けている。


「モレア州総督グスタフ・シルウィウス・バエティカを急ぎアルバ市に召喚し、事実の確認と弁明の機会を設けていただきたく、元老院議員による採決をお願いしたく存じます」

「反対の者は挙手を」


 ガイウスの呼びかけに手を挙げる者はひとりもいなかった。メルケースも澄ました顔でレグルスを見下ろすだけだ。


「では、議題を次へ移す。まず発案者であるメルケース・コーネリウス・アミリヌス殿から意見を」


 メルケースは議席で立ち上がる。三日前にはもっと前の席にいたが、今日はフェリクスたちが前方の席から順に議員を案内したので、後から入場したメルケースは随分後ろの席に座っていた。


「三日前にも述べましたが、モレアの神域はどれも素晴らしく甲乙つけがたく、まさかの全候補地同票となってしまった。さて、ここでもっと基本的な視点に立ち返り、そもそも開催地についての深い議論がなされてきたのか、私は疑問を持った。現在ザーネス大祭の開催権を持っているのはここ、帝都アルバ市ですが、千五百年間大祭を担ってきたアルバ市と、モレアの神域。果たして本当に大祭に相応しいのはどの土地であるのか、何を基準に考えればいいのか……大祭復古を掲げるクラディウス様の率直なご意見を伺いたい」


 メルケースは長々と語ったが、論点はひとつだ。帝都アルバ市から大祭の開催権を移すのが気に入らないと、異様なまでにはっきりとそう述べたのだ。

 これに何人かの議員が賛同の拍手を送った。

 水を向けられたアスカニウスは議席に座ったまま答える。


「モレアの神域での大祭復古は、すでに投票により賛成多数で可決したことだ。その決定を覆すのは元老院の票を軽んじることとなるだろう。だが、メルケースや他議員の意見に耳を貸さないでいれば、それもまた元老院の存在を意味のないものにしてしまう」


 アスカニウスの主張にも、議場は肯定的な雰囲気だ。メルケースに便乗してアスカニウスを攻撃するかに見えた議員たちも、無関心な顔をして特に発言しようとはしなかった。


「そこで新たに開催地に関する提案をする。しかしこの提案のもともとの考えは俺の頭ではなく、ピュートーの神官殿のものである。せっかく本人が議場にいるのだから、神官殿から意見を述べてもらいたいのだが、議長、許可をもらえるか?」


 フェリクスは一度、きつく目を閉じて祈るように両手を握った。息を吐きながら目を開け、中段の議席に座るアスカニウスを見上げる。

 すべて打ち合わせの通りだ。


「では、ピュートー代表のフェリクス殿から提案を聞こう」


 ガイウスがフェリクスの発言を許可し、フェリクスはついに議場の真ん中、百人の元老院議員の視線が集まる議長席の横へと進み出た。


「ザーネス大祭の開催地について、輪番制を提案致します」


 少し、声が震えた。


「すべての神域で、順番に大祭を開催するのです。さらに開催地にはアルバ市も含めます。次回の開催が、例えばピュートーだとしたら、その次はネメア、エリス、そしてイストモス。最後にまたアルバ市に戻って来るのです」


 前方の議席に目を向けていたフェリクスは、言葉の切れ目で後方の席にも視線を送る。


「輪番制の最も良い点は、次にどこが開催権を持つかで争いが起こり得ないことです。正しく大祭が運営される限り、必ず順番が回ってきます」


 壮年の貴族議員が手を挙げた。


「しかし、五つの開催地を順に巡ると、次に回って来るのは二十五年後だ。そこまで間隔が開くと、催事に必要な道具や物品の維持、神殿関係者の職務の伝達維持も難しいのではないか?」


 ひとりの発言をきっかけに議員たちは弾けるように議論を開始した。アルバの政治家は人の意見を聞いたあと素早く、途切れぬように次々と別の意見をぶつけていく。


「せめてモレアの四つの神域だけで輪番にすべきでは。二十年ならば、なんとか」

「いやしかし、アルバ市も含めるというのは妙案だ」

「アルバ市とはじまりの地の神域を同格とすることで、帝都の地位もより明確になるな」


 フェリクスはしばらく議員に発言させた後、わずかな隙を見て割り込んだ。静かになるのを待っていては発言権が回ってこない。


「さらにもうひとつ提案がございます。大祭の開催間隔を、四年に一度とするのです」


 フェリクスの言葉に。今度は議場全体が動揺を示した。


「なんだと、そんなことが許されるはずがない」

「神官自ら大祭の掟破りを提案するとは!」

「どうかご安心を。掟破りにはなりません」


 眉を顰める議員に向かって、フェリクスはゆったりとした口調で語りかける。

 そこにマルキアが用意していたパピルスの巻本を差し出した。フェリクスは手早く紐を解いて、巻本を広げて見せる。


「これはモレア市所蔵の、古代ザーネス大祭の記録を纏めた書物の写本です。極めて初期……まだ龍神様が直接大祭に参加されていた頃の詳細な記述がございます。それによれば、当時神事はことごとく四年に一度の周期で執り行われていました。ご存知の通り四は神と龍に属する数。現在の五年に一度の大祭は、その後龍神様方が催事一切を人間に託してくださった結果なのです」


 フェリクスは手前の席に座る議員に巻本を渡した。近くに座る議員が身を乗り出してそれを覗き込む。


「まあ、確かに四年という数字は縁起が良い」

「そういえばかつては四年に一度だったという資料を見たことがあったな」

「本当なのか?」


 議員たちが話し合うのをフェリクスは静かに待った。


「それでも、まず次回はどこで開催するのか、投票によって決める必要があるのは変わらない」

「やはり再投票か」

「しかし、クラディウス様が投票するならば、一票増えてピュートーに決まることが分かりきっている」

「それの何がいけないのだ」


 フェリクスは議長席のガイウスに視線を送る。

 心得た様子で浅く頷いたガイウスは、二度手を叩いて過熱し始めた議論を止めた。


「ひとつずつ、採決するとしよう。まず、大祭の輪番制に反対の者は、挙手を」


 手は挙がらなかった。


「では、輪番にイストモスとアルバ市を含めることに、反対の者は、挙手を」


 これにも手は挙がらなかった。


「大祭の開催間隔を五年に一度から、四年に一度に改めることに、反対の者は、挙手を」


 誰も手を挙げない。

 フェリクスは息を詰めたままアスカニウスの方を見た。中段の議席に座ったアスカニウスが笑顔で頷く。

 自分の役目が終わったことを知り、フェリクスは深く礼を取る。

 誰かが手を叩いた。拍手だった。

 それが賛辞なのか、義理か、冷やかしや嫌みの類だったのかはフェリクスには分からない。

 ひとりから始まった拍手は議場全体に広がった。顔を上げたフェリクスが瞳を瞬かせながら見回すと、数人の議員が立ち上がっていた。

 アスカニウスは周囲の議員から何やら囁かれ、それに笑顔で応えている。


 ――少しでも、御役に立てたのなら。


 そう思えるだけでフェリクスの胸の内は温かいもので満たされた。壁際に下がりながら、込み上げてくる不思議な感情を噛みしめる。

 それはどこか懐かしい気持ちだった。

 まだ小さな子供だった頃、親代わりの神官に勉強を褒められた時のような。泣きながら訓練した難しい祝詞を言えるようになった時のような。そんな誇らしさと気恥ずかしさ、達成感が入り混じっていた。

 とても懐かしいのに、とても新鮮な感覚だ。


「では最後に開催順を決めねばなるまい。何か意見はあるだろうか」


 発言を求めたのはまたメルケースだった。ガイウスが指名すると相変わらずの大げさな身振り手振りを付けて語り出す。


「ならばやはり、歴史を辿るべきでしょう。古代の大祭に倣うというのならまずネメア、次にエリス、そしてピュートー。この順番の通りに開催していけば、イストモスでの開催は十六年後。復興にも十分な時間が取れるはずです。イストモスの後にアルバ市に戻って来るのが二十年後です」

「ふむ。他に開催順序の提案は?」


 ガイウスが問いかけるが、どこからも手は挙がらなかった。

 フェリクスは再び祈るように両手を握りしめる。もはや次の開催地を巡って競う必要はなくなった。壁際に並ぶ各神域の代表団は揃って役目を終えたのだ。


「では採決を。ザーネス大祭の開催をネメア、エリス、ピュートー、イストモス、アルバ市の順とすることに反対の者は、挙手を」


 もちろん誰ひとり反対する者はいなかった。

 次の大祭開催地はネメアだ。


「では最後に、モレア州総督の後任について話し合おう」


 ガイウスは決して大きい声を出さない。しかし議場では誰よりも良く声が通った。


「ドミニクス・シルウィウス・バエティカ氏を召還すれば、モレア州総督の任は誰かに引き継がれなければなるまい。おそらく、総督ひとりの問題では済まぬ事態であろう。副総督や他の多くの役人にも類が及び、解任となることは明らか。速やかに後任を送る必要があると思うが、皆いかがか?」


 賛同の声が次々と上がる。

 フェリクスは議場の様子を冷静に観察する余裕が出てきた。

 イストモス、そしてモレア州全体の管理に不備が多いことはアスカニウスから細かく説明を受けていた。

 これだけ大掛かりな不正とあれば現職役人の大半が関わっている可能性もある。それを洗い出し、州の行政を立て直す力のある人物でなければいけないだろう。

 属州総督の任期は五年。モレアはアルバ市から遠いので、長期間帝都を離れることになる。


「後任人事が火急の要件であることに、疑いの余地はなかろう。では、モレア州総督の後任は誰が宜しいか」


 ガイウスはそこで一度言葉を切った。

 重たそうな瞼の下から議員たちに鋭い視線を送る。


「わたくしからひとり推薦したい人物がいる――アスカニウス・クラディウス・ヴェネトゥス氏だ」


 議場に再び困惑のどよめきが起こる。

 中でも一番大きな反応を見せたのは、ピュートーの代表団たちだ。フェリクスも息を飲んで議席のアスカニウスを見やる。

 属州総督とは役職名は仰々しいが、あくまで一地方役人でしかない。名門貴族の筆頭に任せるような仕事ではないはずだ。それに属州総督と元老院議員は兼任ができない。

 総督になった瞬間、アスカニウスは議員を辞さなければならない。

 何故ガイウスがそんな提案をするのか、フェリクスには全く理解できなかった。


「推挙されるならば、喜んで」


 アスカニウスは立ち上がり、穏やかな表情を崩すことないまま階段を下りて来る。アスカニウスが議長席の隣に立ったところでガイウスが議員たちに問いかけた。


「反対する者は、挙手を」


 今度は手が挙がった。

 議員の三分の一に届かないくらいの人数だ。その三十名ほどの反対者の、半分は議席から立ち上がらんばかりに勢いよく手を挙げ、残りの半分は戸惑いを隠せない様子で周囲を見回しながらおずおずと手を挙げた。

 ガイウスと補佐官が反対者の人数を数える。


「反対は二十八名。よって、アスカニウス・クラディウス・ヴェネトゥス氏を新たなモレア州総督に、元老院議員の決議をもって正式に任命することとする」

「謹んでお受け致します」


 アスカニウスがトーガの裾を摘まんで頭を下げると、メルケースや、数人の議員たちは満足げな笑みを浮かべた。

 彼らはアスカニウスを遠方の一役人に据えることで、クラディウス一門の力を削ごうとしているのだ。しかし、その推薦をしたのはガイウス……フェリクスは議員たちの反応を見ながら必死に考えを巡らせるが、状況を飲み込めない。


「なんでこんなあっさり受けちゃうんですか?」

「属州総督って、そんな偉い人がなるもんじゃないですよね?」


 ルキウスとニコレが小声でフェリクスに問いかけるが、答えることはできなかった。

 議会はどんどん先に進んで行ってしまう。


「では、早速副総督を指名したい。副総督の任命権は総督にあるはずだ」


 アスカニウスが右手――龍の手を顔の横まで持ち上げた。


「コンラード・アミリヌス殿を、我が右腕に」


 龍の爪の先が議席の後方、扉近くの壁際に立つ人物を指した。

 今日一番の大きな騒めきが起きる。


「アミリヌスの?」

「大出世じゃないか」

「メルケース殿の従者だろう?」


 指名された本人も驚きで立ち尽くしている。メルケースは顔を顰めてアスカニウスを睨んだ。

 コンラード・アミリヌスの名前から分かるように、彼は貴族ではない。おそらくメルケースに取り立てられ、主人の家名を名乗ることを許された市民だ。フェリクスたちが街でメルケースと遭遇する時、その傍らに必ず彼の姿があった。

 大貴族からすれば属州総督の任務は位が低いが、一般市民にとって副総督の座は夢のような大出世だ。

 アスカニウスは大騒ぎになった議員たちを落ち着いた様子で眺めている。


「コンラード殿は軍経験もある。それに最近、ちょうどモレア州での警備と視察任務に行かれていたはずだ。適任と考える」

「コンラード・アミリヌス殿、理由があれば指名を断ることもできるが、いかがか?」


 ガイウスが議場の隅で茫然とするコンラードに問う。メルケースが議席から身を乗り出すように振り返り、強く左右に首を振った。

 その仕草が何を意味していたのか、フェリクスにはやはり理解できなかった。メルケースの後姿からも、遠い場所にいるコンラードの表情からも真意を読み取ることは難しい。


「お断りする理由は……思い付きませぬ」


 コンラードは感情の起伏を感じさせない声でそう言い、頭を下げた。

 ガイウスの閉会の宣言は、戸惑いの騒めきの中に埋もれてしまった。

















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