第八章 政治 4
「納得がいきません」
フェリクスが元老院議会場を出たところで足を止めると、アスカニウスとレグルスが振り返った。
薄茶色ののっぺりとした建物のすぐ外には、セントルム・カーヴォの雰囲気に似合いの白亜の列柱屋根があり、構造としては議会場の外廊下のようだが、建材や色が全く違って別の建造物のように見える。
事前にアスカニウスから議会の流れは聞いていた。
輪番の提案はフェリクスがするよう頼まれ、その場合次の開催地をピュートーにするのは難しいことも。
「本当にすまない。せめて二番手くらいにしたかったが」
「そうではなくて、属州総督とイストモスの件です」
フェリクスは隣に立つアスカニウスをキッと睨んだ。
レグルスはバエティカ家が汚職を隠すために企てたことと言っていたが、そんなはずはない。総督の汚職と怠慢は明らかだが、その現場であるイストモスに注目が集まるような策を打つはずがないのだ。自らの罪を自ら暴くようなことを。
「イストモスに不正を唆した犯人の目的は、どう考えても大祭復古の妨害でしょう。クラディウス様もそうお考えだったはず」
「ああ、そうだろうな」
それはつまり、メルケースやそれに同調した議員たちの企てに違いない。首謀者の目星は最初からついていたのだ。
「では何故? 真犯人を見逃すようなことをなさるのです。それに、本当にモレア総督になるおつもりですか? 帝都を離れて、議員を辞めて?」
「これはこれは、本日の主役たちがお集りだ」
会話に割って入ったのは回廊の奥から現れたメルケースだった。いつものように取り巻きを引き連れ、その中にはあのコンラードの姿もある。
フェリクスたちが議場を出たのは最後だったので、メルケースはここで待ち構えていたようだ。
「数々の議題が無事解決して良かったですな。それにクラディウスの長様、属州総督就任おめでとうございます。近く祝いの品を御送り致したく存じます」
「どうやって票の操作をした?」
メルケースの露骨な嫌みを止めたのはレグルスだった。
レグルスは珍しく顔を顰めて嫌悪感を露わにしている。メルケースを相手にする時、レグルスはいつも不機嫌そうだ。
「操作? 滅相もない。まさか私が他の議員を買収したとでも言うのか?」
メルケースは眉を上げ肩を竦め、大げさに心外だという態度を取った。
「そんな危ない橋は渡らないだろうな。だから、どうやったのかと聞いているんだ」
「私は彼らと話し合っただけだ。あっさりアルバ市から開催権を移譲しては帝都の威信に関わると考える議員は多かったのでな」
「それで話し合いに参加した議員で示し合わせて同票になるように持ち込んだのか?」
「さて。どうだったろう。そもそも話し合いの議長は私ではないのでな……」
「議長?」
フェリクスがつい口を突いて問うとメルケースは意地悪く目を細める。
「左様。この議会の長は私のような若造ではなく、第一人者であるからな」
「第一人者って……」
元老院の議長であり第一人者である人物は当然ひとりしかいないのだが、フェリクスは思い描いた人物とメルケースの話が繋がらず混乱する。
隣のアスカニウスが何故かくつくつと喉を鳴らして笑った。
「なるほど、それで今日はほとんどイイ所がなかった訳だ。輪番の順序の提案もいまいちキレがなかった。次からはもう少し対抗案と並べるとか、演出に工夫が欲しいところだな」
アスカニウスがメルケースの肩を叩く。フェリクスはやはり話について行くことができない。アスカニウスのからかうような指摘にメルケースは明確に表情を変えた。
「ふんっ、シラクスのじじいめ、最後に美味しいところを攫って行きやがった。猿芝居の台本を書いてやったのも、馬鹿どもに台詞を覚え込ませたのも私だぞ! なのに、私は長様にコンラードを取られて、いつも損ばかりではないか!」
「声が高いぞメルケース。おい誰か、水を持ってないか?」
レグルスが声をかけるとコンラードが皮袋を持って来た。メルケースはその中身を一気に飲み干すが、興奮して赤くなった顔は変わらない。
フェリクスはようやく繋がった自分の思考に眉根を寄せた。
「シラクスの……まさか本当にヴァレリアス・シラクス様が?」
メルケースが取り仕切っているように見えたが、票を操作して議会を混乱させた首謀者は他にいたのだ。メルケースは自分になんらかの利があり、その話に乗った。
では、イストモスに金品を渡して送り込んだのは、アスカニウスを地方の一役人に据えようとしたのは、それもガイウスでなくてはつじつまが合わなくなってしまう。
メルケースは不機嫌そうな顔の口元だけを笑の形に変えた。
「お察しの通りだ神官様。三候補地同票の発案者はヴァレリアス・シラクス。私はその橋渡し役として小間使いのようにコキ使われたのさ。挙句、モレアの情勢を探るためにコンラードを使ったら、それを理由に長様に嫌がらせをされたんだ」
メルケースは憎々しげに告げると、またクソッと悪態をついて石の床を蹴り上げた。レグルスが子供を諭すようにその下品な言葉遣いを注意する。
「ど、どういうことですか? ヴァレリアス様はクラディウス様と……もしかして、クラディウス様もご存じだったのですか?」
フェリクスの困惑の視線を受け、アスカニウスは龍の手の爪の先で頬をかいた。
「いや、まあ何かやっているとは思っていた。ガイウスはどうしてもアルバ市から大祭がなくなるのをよしと思っていなかったらしくてな……だから最終的にアルバ市も輪番に入れるという提案をして、それで手打ちにしてもらったワケだ」
フェリクスは混乱する頭の中で必死に情報を整理する。
「まさか、あの時ですか? 三日前におふたりで話をされた時…… ヴァレリアス様はお見舞いに来てくださったわけではなかったのですか?」
「見舞いは見舞い。政治は政治だ。ガイウスにはガイウスの譲れない信念がある」
「結局クラディウスとヴァレリアスの思い通りに動くのだ、元老院というものは!」
まるで酒に酔ったようにフラつく足でアスカニウスに詰め寄ろうとするメルケースをレグルスが押し留める。
「口に気を付けろメルケース!」
「ああ、悪い。寛大な長様はいつもお目溢しくださるものだから、私もつい甘えてしまうな。今後は気をつけることにしよう」
「不機嫌になるとあからさまに態度に出すのをやめろと言ってるんだ! ああ、もう、こっちに来い」
レグルスはメルケースの右の二の腕をむんずと掴み、取り巻きたちの方へと引きずって行く。
「おいお前たち、主人を早く連れて帰れ」
「は、はい。メルケース様どうぞこちらへ」
「ええい触るな! ひとりで歩ける!」
「だから騒ぐなと言っている」
使用人らしき中年の男が差し出した手をはたき落とし、メルケースはレグルスの手も振り払った。
「長殿、申し訳ございませぬ。コイツを
レグルスは振り払われた手で再びメルケースを捕らえた。それにコンラードも加勢して、メルケースは両脇から取り押さえられた罪人のように列柱屋根の奥の方へと引きずられて行った。
それを見送ったアスカニウスが小さく溜息をこぼす。
「メルケースは子供の頃から癇癪持ちでな……最近はもう大人になったと思ったが、久しぶりに大暴れしたな」
「そ、そんな呑気なことで宜しいのですか? あんな風に侮辱されて」
「あいつはレグルスと同年だぞ? 俺にとっては曾孫の学友。可愛いもんだ。神官殿だってユリアンが癇癪を起こしても怒らなかったじゃないか」
「そんな……」
フェリクスはトーガの襟を握りしめる。聖水の小瓶がなくなった胸元はどこか寂しく、胸の内にまたあの霞が広がっていくのを感じた。
アスカニウスのことが分からない。アスカニウスが周囲から軽んじられ、それを本人がなんとも思っていないことに強い憤りを覚える。
「お疲れ様でございました。ご体調はいかがですか?」
もう誰もいないと思っていた背後から声をかけてきたのはガイウスだった。
ガイウスを目にした瞬間、フェリクスの胸の内の霞が凶暴な嵐のように暴れ出す。アスカニウスを心配する言葉も全て建前で、心の中では別の思惑を持っているのだ。
「見ての通りだ。まあ、丸く収まって良かった」
「私は、納得がいきません」
小さな子供が駄々をこねているような口調になってしまったが、フェリクスの本音だった。
それを聞いたガイウスがもとより細い目をさらに細めてフェリクスを見つめる。顔の他の部分は動かなかったが、どこか嬉しげな、そして好戦的な眼差しだ。
「政治を学びたいと言っておったか。ピュートーの神官殿」
「はい……無知な私にも、ようやくことの次第が分かりました」
フェリクスは浅く礼を取って視線を床に向けた。
列柱屋根の廊下はやはり白い石造りだ。会議は予定より長引き、すでに午後になっていた。広場には多くの市民が行き交っている。
全員が少しずつ妥協し、全員が少しずつ欲しいものを手に入れた。
アスカニウスはモレアでの大祭復古を。
ガイウスはアルバ市での開催を。
メルケースは今回は取り損ねたが、恐らくガイウスは彼に貸しを作った形になる。今後の議会でなんらかの気遣いを受けられるのだろう。若い彼にとって一番の得は議会への影響力だ。
「あちらを立てればこちらが立たぬと言うが、それを繰り返せばどこかに不満が溜まる。溜まった不安はいつか爆発して、周囲に被害をもたらす。それを防ぐのが議長であり、第一人者の仕事だ。なるべく、どちらも立てるというわけだ」
「……議会というのは議場で話し合われることが全てだと思っていました。議場の外ですべきことが、こんなにあるとは」
これも素直な感想だった。
アスカニウスと共に議員たちのもとを訪ね、神殿にも供物を奉納し、それをまた議員に紹介する。さらには広場で一般市民に向けて演説を行い、議員以外の有力者にも根回しが必要だった。
フェリクスが今まで行ってきた守村での会議と、帝都での政治は似て非なるもの。それが規模の違いなのか、もっと根本的な部分違いなのかは、これから学ぶべきことだろう。
「第一人者の見事な舵取り、勉強させていただきました」
「うむ。アルバの政は、かように行われておる。誰かが突出し過ぎてはならぬし、いたずらに貶められてもいかん。皆が等しく利益と名誉を分かち合うように話し合っておる」
「……左様ですか」
フェリクスは飲み込みきれない大きな蟠りをどこに吐き出せばいいのか分からず、顔を上げてガイウスの顔を見つめることしかできない。
「では、わたくしはこれにて」
「ご苦労だったな。ゆっくり休めよ」
ガイウスは老人らしいゆっくりした動作でアスカニウスに浅く頭を下げた。フェリクスはその姿に、何か言ってやりたいという衝動のままに口を開いていた。
「ピュートーで大祭が開催された暁には、ヴァレリアス様を招待致します。きっと最上のおもてなしを。心よりお待ちしております」
こんな皮肉った物言いをしたくはなかった。
しかし、一欠片でも吐き出しておかなければ、身の内からもっと多くの醜いものがこぼれ落ちてしまいそうだったのだ。
「ほほ、これはこれは。結構なことだ。勉強なさい、お若いの」
ガイウスはかすかに眉を動かすと、相変わらず読めない表情のまま背を向けて去って行く。杖をつくコツコツという規則的な音が元老院議会上の石壁にこだまして、少しずつ小さくなった。
ピュートーで大祭が開催されるのは十二年後の予定だ。
その時本当にガイウスと再会できるとは、フェリクスは思っていなかった。
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