第八章 政治 5

 最初に異変に気付いたのは臥輿の担ぎ手のひとりだった。

 臥輿には貴人が寝そべって乗るのだが、本人が自重を支えられない状態になると、揺れの違いが担ぎ手にも伝わって乗っている人の体勢が分かるのだという。


「そっと降ろせ。そっとだ」


 他の担ぎ手にそう指示した男は最初、アスカニウスが眠ってしまったのだろうと思ったと言う。仕事を終えての帰路でうたた寝する貴人がいてもおかしくはないが、アスカニウスが臥輿で寝入ってしまうなんて珍しいと思ったと。

 玄関前でヴェールを上げて中を伺う。担ぎ手たちの様子がおかしいことに気付いたフェリクスも慌てて駆け寄った。


「クラディウス様!」


 アスカニウスはぐったりとして、半ば意識を失っていた。家人たちは騒然となった。


「水だ、すぐに水を用意しろ!」

「馬鹿者あまり揺らすな!」

「申し訳ありませんッ」


 アスカニウスは警備兵の背に担がれて運ばれた。


「オト殿はいますか! 聖水を持ってきてください!」


 こんな時は広い屋敷の廊下が憎くなる。最奥にあるアスカニウスの私室まで、ただ歩くだけでこんなに時間がかかるのだから。

 アスカニウスを寝台に横たえるとオトとポンペイウスが現れた。


「朝もお飲みになりましたのに……」


 オトがそう言って小瓶を差し出す。口髭の下の唇が白く、噛み締めた跡が残っている。

 ピュートーの代表と、ユリアンやポンペイウスたち、ガイウスにも頼み込んで集めた泉の聖水はまだたくさん瓶が残っている。しかしこうして日に何本も必要となると、なくなるのも時間の問題だ。クラディウス一門が手に入れた各地の清らかな水を届けさせているが、体調は緩やかに悪化している。

 フェリクスは無言で小瓶を受け取った。

 寝台に乗り上がってアスカニウスの顔を覗き込む。頬に触れると身じろいで、薄く目を開いた。頬はやはり冷たい。明け方の水に触れているようだ。


「聖水を」


 フェリクスが小瓶を見せると、アスカニウスは口元を動かした。

 笑顔を見せようとしているのだ。それは水が大好きなアスカニウスの素直な喜びでもあり、フェリクスたちを安心させようという気遣いでもあった。

 ポンペイウスに手伝ってもらいアスカニウスの上半身を起き上がらせる。開封した瓶を口元に持っていくとしっかりと喉を動かして少ない水を飲み干した。


「口移しは、してくれないのか」

「お元気そうでなによりです」


 アスカニウスの気丈な軽口にフェリクスは平坦な声で返した。


 ――良かった、この間ほどは悪くない。


 フェリクスは俯いてホッと息を吐き、込み上げてきた涙を堪えた。

 三日前、この寝台に横たわるアスカニウスの胸の音を確かめた時。もうあと少しで死んでしまうのではと思った時の、背筋が凍る感覚を思い出してしまう。


「すまん、どこで倒れた?」


 アスカニウスは唇に残った一雫まで舐めとって誰にともなく尋ねた。それにはポンペイウスが答える。


「臥輿の中で。家の者以外には知られておりませんので、ご安心を」

「そうか……」


 アスカニウスを寝台に寝かせ、厚い掛布を肩までかける。それを見届けたポンペイウスは警備兵を促してそっと退室した。

 使用人たちの慌ただしい物音が響いてくる。ルキウスたちもアスカニウスを心配しているだろう。アトリウムにいるのかもしれない。


 フェリクスは部屋の外の騒がしさを遠くに聞きながら、アスカニウスの顔を見つめた。

 目を開いている。その目がフェリクスを見つめ返している。だから大丈夫だと、何度も自分に言い聞かせていないと恐怖に屈してしまいそうになる。

 その視線をどう受け取ったのか、アスカニウスが口を開いた。


「五年も総督を務められるか、さすがに心配になってきた」

「そ、そんなことをおっしゃってはいけません。モレア市になら毎日でもピュートーの水を届けられますから、きっとまた良くなります」


 ガチャンッ‼ 硬いものがぶつかり合う音に、バシャリと水の跳ねる音が続く。

 背後の物音に驚いたフェリクスは勢いよく振り返った。アスカニウスを寝台に肘をついて身を起こす。


「も、申し訳ございません!」


 パウルスが床に蹲るようにして頭を下げていた。その傍には陶製の水差しの破片が散らばっている。

 いつの間にかとばりを捲って寝室に入って来ていたらしい。

 寝台の横で薬湯を用意していたオトが振り返り、パウルスの姿に驚いて器を持ったまま駆け寄った。


「なんだ、一体どうした」

「申し訳ございません! 申し訳ございません!」

「パウルス、落ち着いてください。破片が危ないから……」


 フェリクスは寝台から降りて立ち上がる。

 てっきり、水差しを割ってしまったことを謝罪しているのだと思った。破片が帳の近くに落ちて、床は水浸しだ。


「ごめんなさい、ボクのせいで……ボクがやったんです、水に指を入れるだけでいいって言われて!」


 パウルスは床に額を付けながら泣きじゃくった。

 オトはまず、歯を噛み締めて憤怒の表情になった。しかしすぐ悲しそうに目を潤ませ、最後は悔しげに口元を歪めた。


「アスカニウス様、やはりパウルスが」

「違うだろう。この子が悪いわけじゃない。命じられただけだ」

「しかし! やはり、水を汲ませるべきではなかったのです……申し訳ございません。私が止めるべきでした」

「お前が謝ることでもない。すまない、俺の判断が甘かった」

「そんな……ああ、口惜しい。コーネリウスとヴァレリアスが寄ってたかってアスカニウス様をいたぶるなど、なんという時代でしょう」


「一体どういうことですか? パウルスが……水に指を入れたら、なんだと言うのです?」


 困惑したフェリクスはふたりの会話を遮ってしまった。

 パウルスが無作法をしたことと、水を汲むことと、コーネリウスとヴァレリアス……結びつかない言葉の連続だ。


「言葉で説明しにくいんだが」


 アスカニウスが再び寝台に横たわり、思案の後に話し始める。


「どうも水龍の先祖返りは、水に敏感な分、飲み水の質が悪いと体調にも影響することがある」

「でもパウルスの汲んだ水は綺麗でした。私も、他の皆も飲んでいたのに」

「ああ。泥も毒も入ってない。だが、一滴の悪意が混じっていた。それはつまり、穢れだ」

「けが、れ……」


 フェリクスの脳裏に、水に落ちる一滴のインクのような光景が思い浮かんだ。

 パウルスが人目を盗んで甕の水に指を浸す。そこから、実際には目に見えないが、黒い靄のような小さな悪意が水の中に広がる。見た目には透き通った水の中に、確かに存在する穢れ。それがアスカニウスの体を蝕んでいくところまで想像できてしまった。

 水龍は、穢れた水には棲むことができない。


「俺にだけ効く毒のようなものだな。こんなに効くとは、すっかり弱っている証拠だ。もう少し元気な頃ならたいしたことはなかっただろうに。神官殿でも分からないほどだ。そんなものをいちいち穢れだと言っていられないほど、些細な。たったそれだけで息を切らすほど、体が弱っていたということが、分かっただけだ」

「だけ、では……だけでは済みません! どうして、分かっていてどうして、パウルスを雇い続けていたのですか!」


 パウルスの啜り泣きが聞こえたが、フェリクスは声が大きくなるのを止められなかった。


「パウルスが誰と接触するのか調べていたんだ。それに解雇したら、この子は行く先がないだろう? 農家の子で、稼ぎが足らずに奉公に出されたという話は本当だった。父親が足に大きな怪我を負ったらしい」

「も、申し訳ございません……申し訳ございません」


 アスカニウスの慈悲の言葉に、再びパウルスは床に額を擦り付ける。


「パウルス、悪かった。もっと早く何とかしてやるべきだった……辛い思いをさせたな。心配するな。ずっとここで働いてもいいし、嫌なら他の屋敷を探してやる。いいか、パウルス、思いつめるようなことじゃないんだ。馬鹿馬鹿しいが、アルバ市ではよくあることだ。巻き込んで悪かった……」


 フェリクスはアスカニウスの言葉を聞きながらだんだんと頭がぼんやりしてきた。目の前で起こっていること、身をもって体験したことなのに、どこか遠い。


「パウルスを休ませてやれ。誰かそばに付けてやって」

「……畏まりました」


 アスカニウスに命じられたオトは逡巡の後、パウルスの肩に優しく手を置いて立ち上がらせる。


「誰が、パウルスにそんな酷い命令を?」


 フェリクスは自分の額に拳を押し付けた。ひとつひとつの言葉の意味は分かっても、理解できない、腑に落ちないことだらけだ。

 確かパウルスはシラクス家からの紹介だと言っていた。しかしその前には、コーネリウス一門のどこかからシラクス家に斡旋されたのだとも。


「まあおそらく、首謀者はガイウスだろうな」


 あっさりと告げるアスカニウスにフェリクスはきつく目を閉じる。


「さっき聞いただろう。ガイウスの元老院第一人者として、突出し過ぎる者を作らないことを絶対の規則としてる。それがヤツの理想で、秩序で、法なんだ。今回はそろそろ俺をへこませておきたかったというだけだ」

「……だけ?」


 だけ。それだけ。アスカニウスはなんでもないことのように口にする。

 たったそれだけ。よくある事だからと。それだけの事だと。


「俺に恨みがあるわけでも、殺したいわけでもない。アイツはそういう政治家だというだけだ」

「分かりません。私には、分かりません……」


 フェリクスが力なく告げると、アスカニウスは何度か荒い息を吐いた。つい先程まで意識を失うほど具合が悪かったのだ。横になって話しているだけでも疲れを感じるのだろう。

 そんな仕打ちを受けてなお、何故相手を恨まないのだろう。やり返しもせず、悪意を防ごうともしない。


「なあ、神官殿……ピュートーに土地はあるか? 家を建てたい」

「こんな大豪邸を建てる土地はありませんよ」


 フェリクスは再び寝台に上がり、横たわるアスカニウスに触れる。

 頬が冷たくかさついている。

 以前からこうだっただろうか。フェリクスは必死に思い出そうとするが、自分からアスカニウスに触れたことなど数えるほどもない。


「あまり小さいと、周りがうるさいだろうが、普通の邸宅に住んでみたい。アトリウムはひとつ切りで、食卓もひとつ……浴室はなしだ。奥に小さな庭を作って、そこにララリウムがあって、少しだけ果樹を植える。二階の空き部屋を巡礼者に貸して……モレアの農場を買うのもいいな。その収入で細々と暮らすんだ。凶作の年には金がなくなって、神官殿に泣きつくかもしれない」

「あなたが、そう望むなら……」

「いいのか? この間みたいに毎日神官殿につきまとうぞ」

「つきまとうなんて」


 そんな風には感じていなかった。

 最初こそ彼の真意を見極めようと当て付けのようなことをしたり、わざと汚れ仕事を押し付けたり、根を上げさせようとしたけれど。アスカニウスはそれもきっと見抜いていた。

 分かっていて、いつも笑いながらフェリクスについてきた。

 あっという間に心地良い時間に変わっていた。


「行きましょう……帰りましょう、ピュートーに。私がお連れしますから」

















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