第九章 決意 1

 フェリクスは診療所近くの畑で、薬草を摘んでいた。

 畑で育てることのできる薬草は少ない。どんなに良い土に飢えても葉が広がらないものは、山に入って探す他なかった。


「明日は北の山に行ってみます。雨が降らないといいのですが」


 フェリクスが曇天の空を見上げると、医師の見習いのひとりが首を振った。


「今の時期の山は危ないですよ。もう少し待ちましょう」

「ですが……」


 晩夏のモレア州は雨が多い。大きな川が氾濫することもあり、山や川には極力近づかないようにするものだ。

 しかし、薬草が足りなかった。

 アスカニウスに飲ませる薬湯の素だ。

 春から夏の間は簡単に手に入るものばかりだったが、盛夏の時期を過ぎると在庫が心もとなくなってくる。


「では、ミデイアに行ってみます。市場で探せばまだあるかもしれません」

「それなら俺が行きますって。フェリクス様は水龍様についていてください」

「……分かりました。お願いします」


 フェリクスは摘んだ葉を集めた籠を手に、もう一度曇天の空を見上げる。

 心がざわついて仕方がない。何をしても落ち着かないのだ。


「また降ってきそうだな」

「急いで片付けましょう」


 一緒に薬草を摘んでいた者たちが声をかけ合って収穫物を診療所へ運んでいく。フェリクスも道具や籠を抱えて歩き出した。

 フェリクスが自分の家に戻ると、アスカニウスが土間の甕から水を汲んでいるところだった。


「おかえり神官殿」

「ただいま戻りました。体調はいかがですか?」


 フェリクスは持ち帰った薬や食料をテーブルに置くと、アスカニウスの手からそっと柄杓を取り上げる。


「見ての通り、今日はまあまあだ。夕暮れの祈りには顔を出したいから連れて行ってくれないか」

「はい。支度をしましょう」


 アスカニウスは動ける日は必ず祈りに参加したがるので、フェリクスが手を貸して神域への階段を上る。しかしその頻度は確実に減ってきていた。


 アスカニウスはピュートーを再訪した。

 ひと月の船旅の間に何度も意識を失い、そのたびにもうダメかと思われたが、泉の水を口にしてなんとか持ち直したのだ。

 それからさらにひと月が経過したが、アスカニウスの体調は緩やかに悪化していた。最初は迎賓館の主寝室で療養していたが、診療所に近いフェリクスの家に移したのだ。


 今日は本人の言葉通り調子の良い方で、ひとりで歩き回り痛みも訴えていない。だが具合の悪い日は寝台から起き上がることが出来ず、フェリクスがつきっきりで看病することもあった。

 そんな日が続くとフェリクスは恐ろしくて堪らない。朝晩の祈りの時ですら気もそぞろで、何か自分に出来ることはないかと焦るばかりで毎日が過ぎ去っていく。


「フェリクス様~、キャベツ食べますか?」

「ウーゴのとこからパンも貰って来ました!」

 フェリクスの家のドアを叩いたのはニコレとルキウスだ。

 ふたりは頻繁に顔を出し、アスカニウスの療養のためにと食べ物や布などを持って来てくれる。


「あ、水龍様。今日は起きていらっしゃる」

「パン食べますか? もし食べられそうなら肉も持ってきますよ!」

「いつも悪いな」


 アスカニウスが顔を出すとふたりは嬉しそうに駆け寄った。


「ありがとうございます。今夜早速いただきます」


 フェリクスは渡された食材をテーブルに置くため、彼らに背を向けた。

 元老院での攻防の時には夏の盛りだったが、いまや季節は晩夏……もうすぐ秋が来る。暑さはすっかり鳴りを潜め、ピュートーでも朝晩は冷えるようになった。厚い雲に日差しは遮られ、降る雨を冷たいと感じるようになった。


 アスカニウスを家の中に残してニコレとルキウスを見送ると、ふたりは声を潜めてフェリクスに問いかけた。


「やはり、御神託を仰いではいかがでしょうか? 水龍様ならきっとザーネス神がお救いくださるはずです」

「そうですよ。湖の水をいただくとか、パルナ山に上げて直接加護をいただくとか、きっとそういうお許しが出るはずですよ」

「そうですね……」


 フェリクスは曖昧に頷いた。

 今日は大丈夫だったが、明日、彼は目を開けてくれるのだろうかと考えだすと、フェリクスは恐怖に身が竦み、何も手につかなくなってしまう。アスカニウスが休む寝台の横に一日中でもついていたいが、そんなことをすれば彼は気に病むのだ。

「神官殿がそんなことをしなくていい」

 と力ない笑顔を作り、

「村のみんなの世話をしてこい」

 とフェリクスを家から送り出してしまう。


 夜、古い寝台でふたりは寄り添って眠る。

 寒さに震えるアスカニウスのために添い寝したのがきっかけだったが、今ではフェリクスの方がアスカニウスの隣でないと眠れなくなってしまった。

 離れて寝ている間に彼の具合が悪くなったら。いつの間にか息が止まっていたら……心配で何度も目が覚める。そのたびにアスカニウスの寝息を確認し、ひんやりとした肌に触れて胸の音を聞くのだ。

 ゆっくりとした、けれど確かなトクトクと生きている音を確かめて、フェリクスはようやく安心して目を閉じることができた。







 *







 その日、秋の初めに相応しい強い雨が降りしきり、まだ昼だというのに家々は早々に門扉を閉ざしてピュートー村は静まり返っていた。

 ただひたすらに雨粒が地面や木々を打つ音だけが響き、風が吹くと一層音が大きくなり、風が弱まると小さくなる。本来なら天の高い位置に君臨する太陽神の光はほとんど届かず、薄暗く、灰色の雲がパルナ山の山頂をすっかり覆い隠している。


「寒くはありませんか?」


 フェリクスが問うと、寝台の上で冊子本を読んでいたアスカニウスが顔を上げる。

 部屋でじっとしているアスカニウスが退屈しないよう、フェリクスは神官舎の書庫から書物を借りていた。アスカニウスが動ける日には一緒に本を選ぶこともある。


「ああ問題ない。今日は調子がいい」


 そう言って歯を見せて笑うアスカニウスの顔色は青白い。今日は起き上がれたが、その前の三日間はろくに歩くこともできなかった。


「実はこれから、どうしても行かなければならない場所があります」

「こんな雨の中? 明日ではダメなのか?」


 フェリクスは寝台の足元の方に腰かけ、片足を引き上げてサンダルの紐を解いた。アスカニウスが目を見張って見つめるのを感じながらもう一方のサンダルも脱ぎ捨てる。


「おい、神官殿、どうした」


 覆い布を留めている紐に指をかけるとアスカニウスが慌てた声を出した。冊子本を放り出すように置き、寝台に膝をついてこちらににじり寄ってくる。

 ちょうどアスカニウスがフェリクスの肩に触れた時、完全に紐が解けて両足の覆い布が落ちた。爪先にひっかかる麻布を取り去り、フェリクスは足が良く見えるよう膝を抱えて寝台に上げた。

 アスカニウスは左手をフェリクスの肩に置いたまま身じろぎもせず無言でいた。彼はいつも左手で触れてくる。鋭い龍の爪が他人を傷つけないようにと、癖になっているのだろう。

 フェリクスの両足の爪は少し伸び、先がやや尖り始めていた。最後に爪を削ったのはおよそふた月前――アスカニウスの私邸で、ケメト産のビールを飲んだ、あの夜以来。

 それからずっと爪を伸ばしていた。


「そうか……それを隠していたのか……それが、龍との誓い」


 アスカニウスが小さな声で漏らす。

 彼の視線はフェリクスの足元、足首から下の皮膚を覆う蝋燭の炎の色に似た赤褐色の鱗に注がれていた。


「火龍の先祖返りだそうです」

「道理で、いつも体が温かいと思った」


 アスカニウスがゆっくりと手を滑らせ、横からフェリクスの体を抱きしめる。フェリクスは抗うことなくその腕の中に身を収めた。アスカニウスは相変わらずひんやりとしていて、これでも調子がいいと言えるのかと心配が増す。それに、以前より腕が細くなった気がするのだ。抱きしめる力強さも感じられない。

 もうすぐアスカニウスがいなくなるかもしれない。まだ、ほんの少ししか触れられていないのに。ほんの一面を、ようやく分かり合えたばかりなのに。

 フェリクスは爪の先をそっと撫でた。


「まだ短いですが、この爪なら少しの斜面は捉えられます」


 伸ばせば鋭い牙のようになる四本の爪。まだ先は丸いが馬の蹄ほどの力にはなる。


「斜面?」

「山を登ります。背負いますので、お辛いでしょうが少しの間耐えてください」

「なんだって?」


 アスカニウスは腕を緩めてフェリクスの顔を覗き込んだ。


「パルナ山を登って、湖までお連れします」

「神託を仰いだのか?」


 表情を固くしたフェリクスが首を横に振ると、アスカニウスも同じように小刻みに首を振った。


「それはダメだ。ザーネス神の許しなく神域の奥に立ち入るなど」

「ザーネス様のお声は、怖くて聞けません」


 フェリクスはアスカニウスの腕に縋りつく。


「もし万が一、ザーネス様がお許しにならなかったら……ならぬと言われてしまえば、私は動けなくなります。神の言葉に真っ向から背くことはできません」

「同じことだ。勝手に行くのも神に背くことになるだろう」

「ええ、でも、背くのは私だけです。それにもう見せてしまいました。この足を」


 フェリクスの酷く落ち着き払った声にアスカニウスは狼狽し、言葉を詰まらせた。


「ち、違うんだ……確かに、神官殿の足を見たいと言ったことがあった、でも……」

「この足を隠していれば、私が誰にも言わずにいれば、先祖返りであることを悟られないというラコウヴァ様の加護でした。でも、見せてしまいました。私はもう禁を破ったのです。だからもう、いいんです」

「神を捨てて、俺を選んで欲しかったわけじゃない」


 そんなことは分かっている。

 それでも、アスカニウスに身を案じられることはフェリクスを喜ばせた。彼は相変わらず自分のことより他人のことばかりだ。死を目前にしてなおフェリクスのことを優先してしまう。

 アスカニウスと出会ったことで、フェリクスは自分がとても利己的であることを知った。


「違います。私はどちらかを選ぶことができなかったのです。だから、勝手をします。ザーネス様の声も、貴方の言葉も聞きません。もうのこされるのは嫌なんです。諦めて見送るのは、耐えられない……」


 こう言えばアスカニウスは黙ると確信していた。彼は優しい。そして彼はフェリクスよりもさらに多くの命を見送ってきた。この気持ちを否定することはできないだろう。

 フェリクスは裸足のまま寝台から脚を下ろした。アスカニウスは何も言わない。


 雨はさらに大きな音を立てて屋根や戸を叩いている。

 まるで他の音をすべて掻き消すように。人々を家の中に留め置いてくれている。


 しばらくの後、フェリクスの家から灯りが消えた。
















  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る