第七章 不安 5

 アスカニウスがまた体調を崩したことは、同じ屋敷で世話になっているフェリクスたちにはもちろん、クラディウス一門の家々にただちに知らされた。


 急ぎ駆けつけたユリアンと共に、ピュートーを代表してフェリクスが私室を訪ねる。

 先日フェリクスが呼ばれた時は帳で遮られていた奥の寝室。アスカニウスの寝台はさすがの豪華さで客室の物よりさらに大きく、天蓋を支える柱には水龍、壁側の横板には土龍が彫り込まれている。


「という訳で、演説はユリアンに頼む。しっかりやれよ」


 椅子に並んで座っていたユリアンとフェリクスは思わず顔を見合わせる。

 寝台の淵に腰掛けたアスカニウスの発言を受け、ユリアンは顔を白くして冷や汗を流し始めた。

 なんと、アスカニウスは五日後に迫った元老院での投票。その直前に行われる予定の、大祭候補地ピュートー代表演説をユリアンに任せると言い出したのだ。


「すこし休めばまた働けるだろうが、演説まで日がない。大事を取って俺は議会は欠席することにした」

「し、しかし、長殿、僕は議員ではありませぬし、まだ被選挙権も持たぬ未熟者でありまして」

「セサルもアウグストも同じだ。気にする必要はない」

「えっ、いえ、その、気にする、と申しますか」


 ユリアンはまだ十二歳。貴族の子息と言えど、まだ基礎学習段階の年齢だ。いきなりの実践の場が元老院議員での代表演説とは荷が重すぎる。

 議会での代表演説、そして投票まで、あと五日しかない。


「クラディウス様、あまりにも突然過ぎます。ユリアン様がいかに熱心でも、まだ公務に就くような年齢ではありませんし」


 見かねたフェリクスが助け舟を出すとユリアンは縋るような目つきで何度も頷いた。ユリアンの震えが伝わった椅子がカタカタと小さな音を立てるほどだ。


「なにもひとりでやれとは言ってない。神官殿もいるし、レグルスもつける。心配なことはレグルスに聞くといい。あいつの演説は俺よりもきちんとしていて参考になるぞ。お前も武人ではなく政治家として生きると決めたなら、経験は詰めるだけ積んだ方がいいだろう。期待してるぞ」

「は、はいっ! 承知致しました!」


 フェリクスはもう一度アスカニウスを説得しようとしたが、隣のユリアンは突然元気な声で返事をした。アスカニウスの言葉のどこがユリアンの心の琴線に触れたのか分からないが、唐突にやる気を出したらしい。

 フェリクスはユリアンの表情を伺う。


「本当に大丈夫なのですか?」

「大丈夫だ。勉学と経験は早いほど良いと母上がいつもおっしゃっている。それでは長殿、早速レグルス叔父上のところに行って参ります!」


 頬を紅潮させたユリアンが拳を握りしめて立ち上がった時だった。


「失礼致します。アクィリアです」


 部屋の出入り口の方から凛とした女性の声が響いてきた。

 アスカニウスがそちらに視線を向けると同時に、ユリアンが飛び跳ねるように勢いよく振り返った。


「母上!」

「やはりユリアンも来ていたのか。ヘラスとパリスがいるから、どうしたかと思えば」


 入室してきたのはテラコッタ色の髪に、同色のやや吊り上がった丸い瞳、そばかすの浮かぶ頬――ユリアンと良く似た容姿の女性であった。肌がよく日焼けしていることと、結い上げた髪が長いことを除けば、ほとんど生き写しと言えるだろう。


「あいすみませぬ長殿。また愚息がふらふらと遊びに」

「遊びじゃないぞ、アクィリア。たった今ユリアンに大きな仕事を言いつけたところだ」


 アクィリアと呼ばれた女性はおそらく三十代の後半。日焼けした硬い肌に細かい皺のある顔立ちから年齢が窺える。

 彼女は帝都親衛隊の制服を纏っていた。高位軍人の装いである緋色のマントから伸びる、しなやかな筋肉のついた腕を惜しげもなく晒している。

 その力強い腕に抱えていた布の包みを寝台の淵に下ろし、アクィリアは腰に手を当ててユリアンを見下ろした。槍を入れているかのように真っ直ぐな背筋は、かがむことなど知らぬかのようだ。


「長殿から仕事を言いつかったのか?」

「はい! すぐにレグルス叔父上のところに行かねばなりませぬ」

「レグルス? おい、ユリアン、レグルスと言ったか? あいつにはあまり近づくなと再三言っているではないか」

「か、火急の用事です! 演説のために、叔父上の指導を仰ぐ必要があるのです」


 ユリアンは両手を体の脇にピタリとつけ、まだ目線の高さの追いつかない母親を見上げる。


「なるほど、あいわかった。仕事を習うとなればレグルスは師匠、貴様は弟子ということになる。甘えは許されんぞ」

「はいっ!」

「レグルスにはこう言っておけ。仕事を教わる立場として生半可な扱いは無用、厳しく躾けてください、とな」

「承知致しました! 一言一句違わず、叔父上にお伝え致します!」

「それでもレグルスが甘っちょろい扱いをしたら、毅然とこう言うのだ。叔父上、自分は仕事を教えていただく身にございます。どうか肉親の情は捨て、軍団の兵士のように扱ってください、と。自分も今日これより叔父とは思わず、上官として接します、と」

「はい!」

「よし、気合を入れて行け! 職務には死力を尽くすのだ!」

「行って参ります!」


 ユリアンは声を裏返らせながら叫ぶと、部屋の外に控えていたヘラスとパリスを引き連れ、猛然と屋敷を出て行ってしまった。

 フェリクスは親子の怒涛のやりとりをぼんやり眺めることしかできなかった。


「神域からのお客人、驚かせてすまなかった」


 アクィリアに声をかけられてやっと我に返ったフェリクスは、慌てて椅子から立ち上がり膝を折った。


「ご挨拶が遅れまして……お初にお目にかかります、フェリクスと申します。モレアの神域ピュートーにて神官を勤めております」

「ふむ。そなたがフェリクス殿か。私はアクィリア・クラウディア・フィレヌス。帝都親衛隊所属で、ユリアンの母だ」


 声もユリアンによく似ている。彼女の幼少期はきっと今のユリアンそっくりだったに違いない。しかし、小柄でやや内向的な気質のユリアンと比べると、アクィリアはとても力強い。


「ユリアン様には大変お世話になっております」

「まさか! お世話してもらってるのはユリアンの方に決まっているだろう。あの子が言っていたぞ、聡明な神官であるフェリクス殿にピュートーのことを学んだと。私からも礼を言おう、愚息に目をかけてくれてありがとう」


 アクィリアが右手を胸の前にかざし、浅く、しかしゆっくりと優雅に膝を折って会釈をした。武人の礼だ。


「そうだ、アクィリア。言おう言おうと思って、すっかり忘れていた」


 寝台からことの次第を見守っていたアスカニウスが口を開く。


「ユリアンをひとりでピュートーに寄越すなんて、何を考えてるんだ?」

「ひとりではありませんよ。ヘラスとパリスと、他にも二十人ばかり護衛を付けたではありませんか」

「それは、実質ひとりだ。せめて兄の誰かを一緒に行かせるとか」

「急なことで皆忙しかったので。あの子ももう十二歳。帝国は広うございますから、早くから見て回らないと時間が足りませぬ。あの子に必要なのは経験と知識。行きたい場所があるなら行かせてやるのが、親の務めと心得ております」


 アクィリアは相変わらず真っ直ぐな背を曲げることなく、自信に満ちた笑顔で高らかに言い放った。アスカニウスが以前、言っても聞かないと愚痴をこぼしていたが、確かに彼女の信念を曲げさせることは容易ではないだろう。


「聖水をお持ちしましたよ。またティティアとアドリアナの所にどっさり届いたので」

「助かる。この通り調子が悪くてな」

「そう聞いたので参ったのです。さあさあ、お悪いなら横になってください。見舞いに来た方が困るではないですか」


 アスカニウスはアクィリアに強く促され、腰掛けていた寝台に寝そべる。

 アクィリアは先程寝台に置いた袋の結び目を解き、中から美しい飾り壺を取り出した。ひとつひとつは片手で持てるほどの大きさだが、色とりどりの彩色が施された壺は五つにもなった。


「これが全て聖水なのですか?」

「左様。これが西のトレザ、これが南のヴォルビリス。こちらは厳密には聖水ではないが、エメリタの清流。水源が険しい山の中にあるので貴重なのだ」


 アクィリアの説明にフェリクスは息を飲み、寝台の淵に並べられた飾り壺に見入る。

 どれも聞いたことのある地名だが、もちろん訪ねたことはない。地図の上でだけ見知った名所ばかりだ。


「すごい……クラディウス一門ともなると、こんなにたくさんの献上品が」


 フェリクスが溜息とともに感嘆を漏らすと、一瞬の間を置いてアクィリアが盛大に笑い声を上げた。


「あっはっはっはっ! 神官様は清らかだ。その穢れなき感動に横槍を入れるようで申し訳ないが、これは全て嫌がらせで送られて来たものなのだよ」

「嫌がらせ?」

「フェリクス殿は水龍の水場みずばについてご存知か?」

「アクィリア」


 アスカニウスが寝転がったまま不機嫌な顔でアクィリアの手元から飾り壺をひとつ、ひったくる。

 赤茶色の陶製の飾り壺の口には紫色の布が被せられ、葦の紐で厳重に封がされている。アスカニウスはそれを引きちぎる様に外し、壺に直接口をつけた。

 それにアクィリアが眉を潜める。


「客人の前で何をなさる。杯に移してからお飲みください」

「あ、お注ぎします」


 フェリクスは寝台の横の小さな机からガラスの杯を取り上げる。机には陶製の水差しがあり中にはきちんと水が入っていたが、アスカニウスはそれを飲んでいなかった。


「神官殿に水を注いでもらうのは久しぶりだな」


 おとなしく飾り壺を差し出したアスカニウスに微笑まれ、フェリクスは視線を泳がせる。

 あの夜、何も変わらないと言ってくれた通りにアスカニウスの態度は本当に変わらない。しかしフェリクスはなかなかその目をまっすぐに見ることができないでいる。


「こちらに来てからは、もてなされるばかりですから」


 動揺を隠しながら飾り壺の中身を杯に移し、フェリクスは俯いたままそれをアスカニウスに渡した。

 クッションを抱えてうつ伏せに寝そべったアスカニウスは、まるで葡萄酒を飲む様に顔の前に杯を掲げ、ガラスに透ける光を楽しんでから一口含む。


「うん。まあまあだな。しかし、やはり南より東の方が俺の好みだな」

「あの……水龍の水場とは、龍がここと決めた土地の水に聖性が宿ることでしょうか?」


 フェリクスが問うと、アスカニウスは杯を傾けながら考え込むように目を逸らした。

 水龍は水を選ぶ。

 雲に乗って自由に世界を巡り、お気に入りの水場を見つけてそこを住処(すみか)とするのだ。ピュートーを選んだラコウヴァ龍神のように。そうして水龍の水場に選ばれた土地の水には聖性が宿り、ここに並ぶ飾り壺の中身の様に聖水として尊ばれるようになる。


「龍ならばそうだ。だが、先祖返りとなると少し違う」


 答えたのはアクィリアだった。いつのまにかユリアンが座っていた椅子に陣取っている。腰掛けていても背筋は真っ直ぐだ。


「アクィリア、そんな話はしなくていい」

「何故ですか? フェリクス殿に説明が必要です。隠し立てすることではありませぬ」


 アクィリアは一瞥でアスカニウスを黙らせた。ユリアンにもそうだが、アスカニウスはこの親子に弱いらしい。


「龍ならば自身で水場を選べるが、先祖返りの水場は、母が子を宿したすぐ後に飲んだ水で決まるのだ」


 フェリクスはアクィリアの話を聞こうと椅子に座り直した。


「それは初めて聞きました」

「代々水龍の先祖返りが生まれる我が一門でも二、三百年に一度しか話題に上らないからな。普通に考えれば母体がいつも口にしている水が、そのまま子の水場になるだろう。アルバ市民ならばカーヴォ山系奥地の水のどれかか、機会があって口にしたアルバーノ湖の水かのどちらかになると推察できるのだが……」

「クラディウス様はそうではないのですか?」

「左様。その理由が、ここにある嫌がらせの数々だ」


 アクィリアが指差したのは、寝台の淵に並べられた色とりどりの飾り壺だ。


「これらはクラディウス一門の新婚家庭への贈り物だ。もしそこの夫人が身籠ったばかりだったら、もし、その腹の子が先祖返りだったら、アルバ市から遠いどこかの水が水場になるというわけだ」


 フェリクスはしばしアクィリアの顔を見つめながら瞳を瞬かせた。

 水龍の先祖返りにも特定の水場があるとは、初めて聞いた。アクィリアの言う通り先祖返りは極めて珍しいため、それは致し方ないことだ。

 だが、無知を恥じること以上に、胸に去来するこの焦燥感はなんだろう。


「それでは……クラディウス様の体調不良の原因は……」


 フェリクスはアスカニウスの方を見ようとしたが、僅かに顔を動かしただけで直視はできなかった。

 視界の端でアスカニウスが新しい壺の口を開けたので、視線を落としたまままた立ち上がって寝台の横に膝をつき、杯に水を注いで差し出す。

 今度の飾り壺は濃い褐色に赤や黄色の文様が描かれており目にも鮮やかだ。


「……俺の母親がやられたんだ。妊婦を気遣っての贈り物だと信じて、世界中の水を飲んだらしい」

「今は長殿の命で、一門で妊娠の可能性が少しでもある女性は、貰い物の水を飲むことが禁じられている」

「で、全て俺が飲んでいるというわけだ。運よく当たりを引ければ、俺の水場が分かるかもしれない」


 アスカニウスはあっという間に二杯目の聖水を飲み干した。濡れた唇を舐めて満足げな笑みを浮かべているので、一杯目よりは口に合ったようだ。


「では、ピュートーも、違いましたか……」


 フェリクスは床に膝をついたまま残った飾り壺の列を見つめる。


「今までで一番体に合っているとは感じたが、こうしてまた体調を崩すということは、ラコウヴァ龍神の湖も俺の水場ではなかったということだ」


 フェリクスは自分の指先が冷たくなっていくのを、他人事のように感じた。

 今日も良く晴れて厳しい暑さだが、石造りの屋敷の中は外に比べれば幾分か涼しい。それでも首や脇には汗が滲むほどには暑かった。その暑さが突然どこかに遠ざかってしまったように、フェリクスの手足の先が冷えて行く。

 まるで身内の不幸の報せを受けたような、取り返しのつかないことが起きた時のような、ひどい焦燥感と喪失感。


 ――何がこんなに、衝撃的なのだろう?


 フェリクスは自身の心の内を探った。帝都に渦巻く陰湿な貴族の攻防だろうか。アスカニウスが傷つけられたことだろうか。無知な自分自身だろうか。


 アスカニウスが寝台に杯を置いた。

 フェリクスは今度はアスカニウスの顔を見ることができた。何か一枚薄布が垂らされたかのように、視界にも心にも靄がかかっている。気恥ずかしさや気まずさを覆い隠すほどに。


「もうひとつお開けしますか?」

「いや、今はもういい」


 フェリクスは硝子の杯と飾り壺を寝台の横の机に移した。


「ではそろそろお暇致します。クラディウス様におかれましては、どうかごゆっくりお休みください。今日の夕暮れの祈りではご体調の回復を祈ります」

「嬉しいな。神官殿の祈りなら、ザーネス神がすぐに聞き届けてくれるだろう」


 クッションを抱えて寝そべったまま、アスカニウスが頬杖をついてフェリクスに笑いかける。


「……失礼致します。これは片付けておきますね」


 空の壺をふたつ、手にもってアスカニウスの部屋を後にする。

 中身は確かに聖水だった。貴重で、尊い物だ。アスカニウスでなくても口にすれば体に良いもので、病気がちな子に飲ませたり、お産の安全のためにも贈られたりするのだ。

 その清らかで神聖な水を飲んだことで、アスカニウスの母は先祖返りとして生まれてきた子の運命を変えてしまったのだ。


 フェリクスはぼんやりと歩いた。

 部屋の外はアトリウムの中心から降り注ぐ真昼の太陽が眩しいが、相変わらず薄布に覆われたままの視界では不思議と強い日差しが気にならない。

 回廊を三つ分、フェリクスは何も考えられないまま進んだ。

 使用人の部屋と厨房のある棟に近付くと、仕事をする人々の話し声や作業音で急に賑やかになる。


「フェリクス様、どうなさいましたか?」


 厨房近くの回廊の隅にいた使用人がフェリクスに声をかけた。年嵩の女性で、フェリクスともすっかり顔なじみだ。


「この壺を渡しに来たのです。クラディウス様のところに届いた聖水が入っていたもので、中はもう空になったので」

「まあ。お手を煩わせて申し訳ございません」

「良いのです。ついででしたから」


 なんのついでだったのだろうか。フェリクスが意図しないところで、自分の口が勝手にもっともらしい言葉を並べる。

 女性がフェリクスから飾り壺を受け取ろうと動いた時、その隣に隠れるようにしてパウルスがいるのが目に入った。フェリクスと目が合うと、パウルス少年は板状のものを抱えて頭を下げる。


「それは蝋板ですか? ああ、もしかして勉強中でしたか?」


 パウルスが胸元に抱え込んでいたのは、文字の練習や覚え書きに使う蝋板だった。フェリクスが何気なく問うと、パウルスははにかみながら浅く頷く。


「はい。毎日少しずつ、教えてもらっています。もっと小さい頃には学校にも行っていたんですが」


 パウルスが微笑むところを初めて見た。

 相変わらず緊張した様子だが、小さくたどたどしい声にも喜びが滲んでいる。


「アスカニウス様のご指示なんです。ここじゃ全員、読み書き計算ができるようにしてくださるんですよ」


 女性使用人は満面の笑みを浮かべる。

 その温かな笑顔で、フェリクスを取り巻いていた不可解な薄布のような靄が少し晴れたような気がした。


「素晴らしいことですね。もしよければ私にも勉強のお手伝いをさせてください。守村では子供たちの教師としても働いているので、お役に立てると思います」

「まあ、ありがたい!」


 女性は胸に両手を押し当てて喜びを表現した。


「ここへ来れてよかったわね、パウルス。他所じゃこんなに良くしていただくなんて、なかなかないわ」

「は、はい……」


 パウルスは何故か、困ったように眉を下げてしまった。女性からは俯いたパウルスの顔は隠れてしまうのだろうが、フェリクスの方からはそれがはっきりと見えた。

 どうやらパウルスには、人に言えない悩みや秘密があるのだ。一緒に寝起きする使用人たちにも打ち明けられない秘密が。まだ子供のパウルスが何かを抱え込んでいるのは痛ましい。


 ――クラディウス様も、お心の内を見せてはくれなかった。


 フェリクスは唐突に、靄の原因を理解した。

 アスカニウスは水場が見つからずに体調を崩していたのに、それを教えてくれなかったことが悔しかったのだ。

 彼はなんでも明け透けに話してくれると思い込んでいた。例え他の誰かには隠しても、フェリクスには話してくれるのではないかと、心のどこかで思っていたのだ。

 そしてそれが違っていたことに、酷く不満を覚え、憤り、悲しかった。


 フェリクスはパウルスの手元の蝋板を覗き込みながら、胸元の小瓶を握りしめる。すっかり癖のようになったその行動は、今は遠いピュートーの地を感じさせ、フェリクスの心を少しばかり慰めてくれた。
















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