第七章 不安 4

 人垣の一箇所が割れ、緋色のトーガを纏った人物が輪の中心に飛び込んできた。


「いったいなんの騒ぎだ!」


 大柄でも小柄でもない平均的な体系、焦げ茶色の髪に、オリーブ色の瞳。帝都に着いた初日に顔を合わせた、若き議員メルケースだった。今日も取り巻きを引き連れている。

 フェリクスは素早く貴族への礼の姿勢を取った。ヴィオラとマルキア、ピュートー村の面々がそれに続く。


「モレアの神官様方がこのような揉め事を起こすとは」


 メルケースの芝居がかった口調に顔を上げ、彼のオリーブ色の瞳をしっかり見返しながらフェリクスは答える。


「お言葉ですが、侮辱の言葉を投げられた故、それを否定しただけのこと。神殿の教えに背かず、法に則った職業は全て等しく世のために存在しているのに、この者は我々のみならず楽士の身も侮辱したのです」


 知らず、低い声で強い口調になった。

 男には信仰の誤りもあるだろうが、おそらくフェリクスたち余所者が大きな顔をすることに腹を立てているのだろう。しかし、自分たちを気に入らないことと、楽士を貶めることは、なんの関係もない。フェリクスはどうしてもその点が許せなかった。


「まことか?」


 メルケースが髭面の男に問いかける。


「は、はあ……でも、神官がこんな場所で演奏するなんて、それこそ神を侮辱してませんかね? 俺だって別に楽士を馬鹿にしたいわけでなくて、神官には神官らしい振る舞いをしてもらわんと、示しがつかないじゃありませんか!」


 男は話しているうちにすぐ調子を取り戻し、それらしい言葉を並べてメルケースに訴える。


「ふむ。私は神事にそう詳しくはない。神官様、神殿以外の場所での演奏は神への冒涜になりうるのか?」


 メルケースは今度はフェリクスに問いかけた。


「あり得ません。アルバ市に特別な法や規則があるというのならば分かりませんが」

「皆の者、どうだ!」


 次にメルケースは両手を広げ、野次馬となった広場の人々に問う。

 回廊の横は突然、演説の会場になった。


「アルバ市には神官の演奏場所を定める法があっただろうか?」


 相変わらず言葉も身振りも大げさだ。フェリクスはわざとらしいメルケースの振る舞いを好きになれなかったが、彼は市民の賛同を得ることに成功した。

 そんな法はないとあちこちから声が上がり、髭面の男は落ち着かない様子であたりを見回し、また乱暴に人垣をかき分けて逃げ出した。


「安心したまえ、はじまりの地の神官様。市民の言う通り、広場で神官が演奏をしてはならないという法はない。皇帝はお許しになっている。それすなわち、ザーネス神の許しだ」


 事を収めたメルケースに市民から喝采が贈られた。


「はじまりの地の方々、さて、どの神域の代表だったか?」

「ピュートーにございます」

「おお、そうだった。今日はクラディウスの長様はご一緒ではないのか?」


 この「そうだった」も、貴族特有のフリに違いない。

 フェリクスは気が昂ったまま、メルケースの顔をじっと見返して答えた。頭なら先程下げたばかりだ。


「クラディウス様はご多忙につき、他のお仕事をなさっております」

「おや? もしかしてそなたは、例の豪胆な神官様ではないか。長様を袖にしたという……」


 メルケースはこれまた大げさなまでにニヤニヤと口元を歪めた。


 ――こんな方だっただろうか…?


 フェリクスは訝しげにメルケースの表情を伺う。以前会った時も大仰な仕草やわざとらしい口調だったが、こんな下卑た振る舞いをする人物には思えなかった。貴族らしい気高さのある人物だと感じていたのだが。


「その後、長様とはどうなっておる? ついに求愛は受け入れたのだろうか?」


 メルケースは人を不快にさせる仕草で詰め寄る。

 フェリクスは冷静な表情を作りながらメルケースをまっすぐに見つめ返した。


「お答えしかねます」

「なるほど。にべもない。長様もお可哀想に。大祭の開催権まで捧げてこうして取り立てているのに、モレアの神官ともなると地位が高すぎて手が届かないとは」


 メルケースはフェリクスに近付いて話しながらも何度も顔を左右に向け、周囲の人々に話を聞かせるように大きな声を出す。


「……お戯れを」

「長様がお忙しいのは今に始まった事ではないが、ピュートーの活動はほとんどレグルスが代行しているそうではないか。神官様があまりにもつれなくて、長様は大祭復古もお嫌になったのでは? よもやピュートーは見捨てられたのではと心配しているのだよ」

「クラディウス様はそんな方ではありません! かの方は心からピュートーを愛し支援してくださっています!」


 叫んでから、しまったと思った。人々の好奇の視線がフェリクスに刺さる。メルケースの酷薄な目が細められ、唇は満足げに弧を描いた。


 ――やられた!


 メルケースはフェリクスに声を荒げさせるため、アスカニウスを侮辱したに違いなかった。その思惑にまんまと乗ってしまった自分を悔やむが、口から出てしまった言葉は取り消すことができない。


「おお、そうか、愛して……おやおや、神官様もまんざらではない様子だ! クラディウスの長様もお喜びになるだろう。私はふたりの恋の成就を願っているのだから。どうぞ長様をお慰めして差し上げなさい」


 あからさまな言葉にフェリクスの頬がカッと熱くなる。野次馬と化した人々が一層騒ついた。

 フェリクスはこれ以上何も言わぬと固く口を噤みながら、目はメルケースを睨みつける。


「しかし醜聞にはお気をつけなさい。アルバ市民は皆心優しく誠実だが、中にはほんの少し、低俗な噂好きもおります故……」


 最後の言葉だけは小声で、フェリクスと隣のマルキアとヴィオラくらいにしか届かなかっただろう。


「メルケース様、そろそろ移動しませんと面会に遅れます」


 取り巻きの中のひとり、確かコンラードという名の男が静かな声でメルケースに声をかけた。


「さて、騒ぎの原因は取り除いたようだ。私はこれにて」


 唐突に涼しげな表情を取り戻したメルケースは、優雅に軽く膝を折って踵を返す。その様子からは下衆な噂を振りまいて他人を貶めようとした先程までの態度などなかったかのように、誇りと威厳に満ちていた。


 ――これが、帝都の政治家なのか……。


 フェリクスは緋色のトーガの後ろ姿から目を離すことができず、人混みをかき分けて去っていくメルケースの姿が見えなくなるまで見送った。


「なんすかアレ! 引っかき回しに来ただけじゃねーか!」

「ルキウス、声がデカイ」

「聞こえちゃうよ」


 悪態をつくルキウスを、ウーゴとニコレが宥める。


「あっ、おい、あいつ! さっきケチつけてきたおっさん!」


 ルキウスが指さした先。人垣の向こうに半ば埋れたメルケースの後ろ姿に、演奏をやめろと激昂していた髭面の男が駆け寄って行くのが見えた。メルケースの一団に男が近付いて頭を下げている。


「なんだあいつら。もしかしてグル?」

「はあ~? なんでそんなことすんだよ、意味分かんねぇ」


 ウーゴとルキウスが眉を潜める横でフェリクスは一つ大きな息を吐いて目を閉じた。

 明らかな嫌がらせだ。

 ピュートーの、引いてはアスカニウスの醜聞を広めるのが目的の。


「あのメルケースという議員さん、なんだか大祭の開催権が動くのを嫌がっているみたいに見えますね」


 ヴィオラの言葉にフェリクスは目を開く。

 すでにメルケースたちの姿は見えなくなり、野次馬の数も減っていた。


「なるほど……そういう方もいるでしょうね。アルバ市でのザーネス大祭に最後までこだわった人はそれなりにいたと聞いています」


 アスカニウスから教わったのはあくまで議員の話だが、フェリクスの脳裏には三人の若者の影が浮かんでいた。

 先日ユリアンと共に中央神殿へ赴く途中に出会った、あの若者たち。

 もう帝都で大祭を見られないのかと、落胆とまでは言わない気軽な様子で、無関心と言うには足りない好奇心を露わにして、彼らは残念そうに話していた。


 ニコレとルキウスがメルケースの去って行った方に向かって、唇を尖らせ顔を歪めて侮蔑の表情を作って見せていた。直接文句をぶつけられない貴族へのせめてもの意趣返しのつもりだろうが、フェリクスはそれを見て小さく噴き出してしまう。


「なんて顔をしているんですか」

「悔しいじゃないですか! フェリクス様と水龍様をあんな風にからかうの、許せません」

「いっつも子分引き連れて歩いてんすかね! 意外と肝っ玉が小さいんすよ、ああいう男は!」


 ふたりは鼻息荒く、ひとしきり変な顔を作って気を晴らしていた。


「あの人も議員ですから、投票権があるんですよね? どの神域に投票するんでしょう」

「どれも選ばないってありなんすかね? 棄権?」

「もし棄権する議員が何人もいたら……嫌ですね。どの神域にも任せられないと言われるみたいで」


 ニコレの憂い顔にフェリクスは拳を握る。


「そのようなことにならぬよう、我々も頑張りましょう。クラディウス様がくださった機会を活かさなくてはいけません」

「そうっすよね! せっかくピュートーの品も届いたし、残りの宣伝活動、もっと気合い入れていかなきゃですね!」

「では、クラディウス様の私邸に向かいましょう」


 フェリクスの合図で皆が汗をぬぐいながら荷を担ぎ直し、回廊の坂を上り始める。広場は普段通りの無関心なざわめきを取り戻していた。

 フェリクスがすっかり覚えたアスカニウスの私邸への道を先導していると、静かに歩調を合わせたヴィオラが話しかけてきた。


「あの……どうして、水龍様を受け入れないのですか?」


 フェリクスが目を見開くとヴィオラは一度口を噤んだが、しばしの逡巡の後に付け加えるように言った。


「フェリクス様も水龍様を深く信頼されていらっしゃるのに。何か、ご事情がおありなのかと思って……すみません。無粋な口を挟みましたね」

「いえ……」


 フェリクスが何も言わずにいると、ヴィオラは穏やかな笑みを湛えて静かに並んで歩くばかりとなった。


 ひたすらに坂道を上る。背後からは荷を担いだ若者たちの、予想外の暑さに対する不満の声が漏れ聞こえてくる。

 誰にも言えない。例え、共にピュートーを守る村の神官にさえ。そう考えるとフェリクスの胸に鈍い痛みが走る。

 今までは誰にも言えぬ秘密を抱えていることに、ここまでの苦痛を感じたことはなかった。


 ――どうして今になって、辛いと思うのだろう。


 フェリクスは両手をそっと自分の胸に当てる。旅の間にすっかり肌に馴染んだ聖水の入ったガラス瓶が、今日もそこに収まっていた。


















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