第七章 不安 3

 今日もアルバ市の中央広場セントルム・カーヴォ――正式名称フォロ・アルバーノは身動きも取れないほどの人であふれかえっている。

 時刻は午後。

 広場に最も人が増えてくる頃で、どこかで議論が白熱して喧嘩に発展したり、迷子の子供を親だったり、必ず誰かが大声を出している。中にはスリに遭ったなんていう物騒な悲鳴も。これがセントルム・カーヴォの日常風景だ。


 その人垣の中、いち早く待ち人を発見したのはニコレだった。


「あ! 来ました、来ましたよ! メリッサたちです」

「おーい、みんなここだ、こっちだ! カルロ! ウーゴ!」


 ルキウスが大きく手を振ると、門をくぐったばかりの一団がこちらに気付き、何人かが手を振り返す。

 五人の代表団に遅れること五日、後発隊がアルバ市に到着したのだ。

 ピュートー村の後発隊は六名。主に二十代から三十代の若者で、それぞれ農家や工芸家だ。男性が四名、カルロ、レオ、ヨセフ、ウーゴ。女性はふたりでグレタとメリッサ。それにアスカニウスが手配してくれた荷運びの手伝いと警備兵もおり、全員が背中に大荷物を背負っている。


「フェリクス様! マルキア様、ヴィオラ様! なんだか、お久しぶりです! 聞いてたより暑いですねえ、アルバ市も」

「ルキウスもニコレも元気そうだ。帝都はどうだ?」

「いや~、都会には慣れねえよ。飯は美味いけど」


 額に汗を滲ませながら挨拶する面々にいち早く駆け寄ったのはルキウスだ。

 村人同士がひと月以上顔を合わせないなんて初めてのことだ。久しぶり、なんて挨拶が気恥ずかしい。


「ご苦労様でした。船旅は疲れたでしょう。皆さん体調はいかがですか?」


 フェリクスは広場脇の回廊近くに皆を集めた。

 人が多過ぎてどこで立ち止まっても迷惑になる代わりに、どこで立ち止まっても互いに文句を言わないのがセントルム・カーヴォの流儀だった。


「はい、みんな元気です。船酔いには参りましたけど」

「俺は三日で慣れましたけどね!」

「俺は最初から平気でした!」


 村人たちは興奮気味だった。フェリクスも気持ちはよく分かる。初めての船旅、初めての帝都――立ち並ぶ高層建築物に、見たこともないほど多くの人間がひしめく通り、そしてこの広場。

 彼らは旅の疲れも忘れて子供のようにはしゃぎ回る気持ちを抑え切れないのだ。


「積荷も全部無事ですよ。神殿に納める分はこうして先に担いできました」

「残りは今夜、馬車で運んで来るそうです」

「馬車が入れないなんて不便ですよね。でも、この混みようじゃ仕方ない……馬が人を蹴飛ばすか、立ち往生するかのどっちかだ」


 フェリクスは彼らのお喋りにそっと笑みを浮かべる。抱く感想はみんな同じだ。

 いくつかの荷物を開けてみると、ピュートーの産品が綺麗なまま収まっていた。牛革、羊毛、チーズ、木工品。葡萄酒やキュケオンも馬車で運ばれてくるはずだ。

 これらを元老院議員やアルバ市民議員に配り、ピュートーの豊かさを知ってもらうのだ。もちろんまずは神殿に奉納し、一般市民にも施してもらう。


「大変な役目を任せてしまいましたが、無事完遂しましたね。今宵はクラディウス様がみんなを大層労ってくださると仰せです」


 フェリクスが荷物から顔を上げてそう告げると、一団は歓声を上げる。


「すごく楽しみにしてたんですよ! 天下のクラディウス邸に招いてもらえるなんて」

「重い物担いで来た甲斐がありますよ~!」


 広場の一角で盛り上がるフェリクスたちを行き交う人々が時折振り返る。大荷物を抱える属州民の団体は、これだけ多様な人間が集まるアルバ市でもいささか目を引くようだ。

 そんな中、ひとりの人物が控えめに声をかけた。


「あの……失礼致します」


 フェリクスが振り返ると、頭髪の少ない初老の男性が小さな男の子の手を引いて立っている。


「もしや皆様方が、モレアの神官様ではありませぬか?」

「はい。モレア州の神域ピュートーの守村から参りましたが」

「おお、本当にお会いできた! 実はアルバ市内に、はじまりの地の神官様がいらしていると聞きまして、山ひとつ越えて孫を連れて参ったのです」


 老爺は男の子の手を引き前へと押し出す。男の子はまだ小さく、祖父上の臍のあたりまでの背丈だった。焦げ茶色の瞳で、臆することなくフェリクスを見上げてくる。


「孫はもうすぐ五歳になるのです。是非、神官様から祝福と祈りをいただければと思いまして」

「五歳に。それはおめでとうございます!」


 フェリクスはトーガをたくし上げて膝を折り、男の子の前にしゃがみこんだ。

 五歳の誕生日は盛大に祝福される。四歳まではまだ天の差配の及ぶ年齢で、五歳になってようやく地上の人間として歩み始めると言われているからだ。無事五歳まで育ったことを家族、近所みんなで祝う。

 四は神と龍の数、五は人間の数だ。


「あなたが健やかに育つことを祈ります。お名前は?」

「フェリクス!」


 男の子はフェリクスに向かって元気よく答えた。ふたりの様子を見守っていた人々から笑みがこぼれる。


「こんにちはフェリクス。私と同じ名だね。私もフェリクスというんだ」

「……おんなし名前、いっぱいいるよ。村にフェリクスってなんにんもいるもん」

「これこれ、何を言う」


 フェリクス少年の祖父上は慌てたが、フェリクスはますますにこやかに幼子を見つめる。


「みんなと同じ名は嫌?」


 訊ねると幼いフェリクスは唇を尖らせてそっぽを向いた。大層不満げだ。


「……もっとカッコイイ名前がよかった。フェリクスじゃ、ふつうだもん。ユールースとか、アレクシアヌスとか」


 フェリクス少年の祖父上は大慌てで孫を叱り付けた。


「なんてことを! 農家の子にそんな仰々しい名前をつけるものか。まったく、すみません、最近ちょっと言葉を覚えたもので、生意気な口を聞くようになってしまいまして」

「何も謝るようなことはありませんよ。ユールース様やアレクシアヌス正義王の功績を正しく理解しているのですから、良いことではありませんか」


 ユールースは言わずもがな、クラディウス一門の最初の先祖返りで帝国の礎を築いた人物。アレクシアヌスは二百年ほど前に当時の内乱を鎮め、正義王とあだなされた皇帝の名だ。


「は、はあ、そう言われてみれば、そうかもしれませんな……」


 祖父上は狼狽しながら頭髪の少ない頭をかく。

 フェリクスは再び小さなフェリクスと向き合った。


「私たちと同じフェリクスという名の人はたくさんいますが、どうしてだと思いますか?」

「えー……そういう名前にするって、きまってるから?」

「確かに、貴族でもない者が英雄と同じ名はつけません。しかしそれ以外の名であれば、どんな名をつけるかは決まりはないのですよ」


 フェリクス少年は水分をたっぷり含んだ瞳をぱちぱちと瞬かせる。


「フェリクスとは、幸福な者を意味します。親は生まれてきた我が子の幸せを願うので、フェリクスという男の子はたくさんいるのですよ。あなたのお友達もみんな縁起の良い名ではありませんか?」


 フェリクス少年は素直に頷く。


「ぼくの名前はおじいちゃんがつけたって。神官さまは、だれがフェリクスって名前つけてくれたの?」

「……母が、つけてくれました」


 フェリクスは一瞬言い淀んだことをごまかすように幼子の頭をそっと撫でると、フェリクス少年は不満げな表情でまた唇を尖らせた。


「でもやっぱり、みんなとおんなじより、とくべつな名前のほうがかっこいい……」

「それなら、特別なフェリクスになるしかありませんね」

「とくべつなフェリクス?」


 焦げ茶色の瞳がまたぱちぱちと瞬く。素直な反応にフェリクスは笑みを深くした。


「ユールース様もアレクシアヌス正義王も、生まれた時から特別だったわけではありません。悪を退け帝国のために戦い、平和を成し遂げたからこそ、今でも語り継がれる英雄になったのです。もしあなたが後世に名を残せば、フェリクスという名も英雄の仲間入りを果たすんですよ」

「へえ……!」

「そうなれば、私も英雄と同じ名ということになる。フェリクス、人の役に立ち、フェリクスの名を世に知らしめてください」


 ようやくフェリクス少年が目を輝かせた。焦げ茶色の瞳の奥に、煌めく金銀の星が飛び交うのが見える。

 人は心の内に輝きが生じると瞳にそれが垣間見えるものだ。


「フェリクス様、荷の中に楽器もありますよ。未来の英雄のために一曲贈ってはいかがでしょうか」


 荷を運んできた女性のひとり、グレタがフェリクスに声をかける。

 女性二人は主に楽器類を背負っていた。牛革や木工品に比べれば軽いが、雑に扱えばすぐ壊れてしまう。そういう物をふたりに任せていたのだろう。


「名案ですねグレタ。ご老人、お孫様のために一曲奏でましょう」

「なんと! こんな名誉なことはございません……神に感謝致します」


 ピュートー村の面々は荷物から楽器を引き出し、大急ぎで調子を確認した。

 フェリクスはいつも通りリュラーを構えた。ヴィオラは根本から二本に分かれた笛アウロスを、マルキアはやはり笛で、階段上に長さの違う木を並べて作られたナイを持つ。神官以外の村人たちは歌を担当することになった。


 ピュートーでも五歳の誕生日は特別な祝い事だ。村中からその家に贈り物が届き、神殿でも祝いと祈りが捧げられる。日が暮れれば仕事を終えた皆が集まって、こうして祝いの歌を歌うのだ。

 広場の片隅でふいに始まった楽器演奏に人々が次々と振り返る。

 フェリクスは目を潤ませる老爺と、手を繋いだ幼子を見つめながら象牙の撥を振るう。

 歌詞はモレア語。それもかなり古い言葉で、モレアの人間でもすぐには意味が聞き取れない箇所も多い。しかし、めでたい日の音楽であることは誰にでも分かるだろう。

 演奏が終わると老爺が深々と頭を下げる。


「ありがとうございます。ありがとうございます。この子はきっと健やかに、優しく育ちます。こんなに幸せなことはございません」

「ええ、きっと。あなたたち家族が穏やかに暮らせますよう祈ります」

「ありがとうございます」


 何度か頭を下げた後、老爺は隣に立つ孫の頭を手で押さえるようにして下げさせた。


「ほれ、きちんとお礼を言いなさい」

「ありがとうございました!」


 フェリクス少年はまだ金銀の星が飛び交う瞳のままフェリクスを見上げ、祖父上に促されて広場の人垣の向こうへと去っていく。おそらく第一街区の神殿へ向かうのだろう。


「なんだもう終わっちまったのか」

「今の、モレアの神官様が弾いてたって?」

「神々しい音だったねえ」


 すっかり注目を集めてしまった一行の周りには人の輪が出来ていた。


「神官様、もっと弾いてくださらない? 私、もっと聴きたい!」


 輪の中の若い女性がフェリクスたちに向かって声をかけると、わっと賛同の歓声が上がる。

 フェリクスはその声の大きさに身を竦ませるように足を引いてしまった。演奏中は祖父と孫のふたりばかり見ていて、こんなにたくさんの人に囲まれているなんて気付かなかったのだ。


「フェリクス様、もう少し弾きましょうか」

「今日はもうお屋敷に帰って休むだけですから、いいですよね?」


 ヴィオラとマルキアは冷静な、それでいて楽しそうな顔をこちらへ向ける。ふたりの生き生きとした表情にフェリクスの心も沸き立ってくる。

 ピュートーの神域や広場での演奏とは全く違う。広場に半円を作っているのは、フェリクスたちの奏でる音楽を初めて聴く人ばかりだ。


 ――もしかしたら、大祭誘致にも効果があるかもしれない。


 フェリクスはそう思い立ち、背筋を伸ばすとヴィオラとマルキアを振り返る。


「ふたりが良いのなら、もう少しだけ」

「もちろん。皆さんが望んでくださってますし」

「アルバ市の真ん中で楽器を弾くなんてもう二度とない機会ですよ」


 三人が頷きあうと再び歓声が上がった。


「では、龍と共に舞うと言われる、祭りの歌を」


 一番賑やかな曲を選んだ。春にアスカニウスたちとの饗宴でも奏でられた、龍をもてなすための明るく陽気で軽やかな歌。

 曲が始まるとすぐルキウスが躍り出た。それに続いて歌いながら若者たちが手を叩き、観客となった人々も真似をする。


 ネメアは最初にザーネス大祭を開催した地であり、アルバ市と同じ土龍を主に祀っている。エリスは天龍の住まう山脈全体が神域であり、大勢のアルバ市民を受け入れられる。

 それに比べるとピュートーはいささか地味であった。クラディウス一門の長が支援者という以外の強みに欠けている。


 ――それを少しでも覆せるかもしれない。


 フェリクスは熱をこめてリュラーを奏でた。

 今ここに集まっている人々の中に投票権を持つ議員はひとりもいないだろう。しかし、政治家は市民の声を聞いている。市民の意に背く決定をすればあっという間に見放されるのがアルバ市の政治だと、フェリクスはこの数ヶ月でよくよく学んだ。

 アスカニウスが毎朝クリエンテスを迎え、もてなし、悩みや要望を聞いてやるのも、市民の声が届く入り口になっている。噂や評判という伝聞が何万という人間に共有され、大きなひとつの意思に集約されるのが、帝都の政治なのだ。


 曲の最後、跳ねるように楽器が途切れると、拍手と好意的な歓声が広場に響き渡った。


「やるねぇ、モレアも!」

「今のもいい曲だったなあ」

「ねえ、どこの神域の皆様?」


 いくつもの賛辞に混ざって、先程もう少し弾いて欲しいと声をかけてきた女性が問いかける。


「ピュートーです。山の火龍と湖の水龍のおわす、ピュートーの守村から参りました」


 フェリクスはなるべく大きな声ではっきりと答えた。人々の騒めきの中に、ピュートーの名前を囁く声が混ざる。


「フェリクス様、もう一曲やりましょ! あれがいい。夏の村の舞踏!」


 ルキウスが顎から汗を垂らしながらも、溌溂とした笑顔で提案する。荷を担いできて疲れているはずのウーゴもメリッサも、ルキウスに賛成と深く頷いた。


「分かりました。ではもう一曲」


 フェリクスとヴィオラとマルキアが目配せした、その時だった。


「やめんか! 神官が楽士の真似事など、穢らわしい!」


 野太い怒号を浴びせられ、楽しげにざわめいていた人々が静まり返る。

 乱暴に人垣をかき分けて現れたのは、髭で顔の半分近くが覆われた中年の男だった。男は楽器を構えたまま目を見張るフェリクスたちに唾を飛ばして怒鳴りつける。


「おい、やめろ! なんのつもりだ、モレアの神官はいつもこんな低俗な真似をしてるのか!」

「はあっ? なんだアンタいきなり!」


 すかさず噛みつき返そうとするルキウスをニコレとウーゴが止めるのを見て、フェリクスは大きく一歩前へ進み出た。


「申し訳ありません、アルバ市の法には目を通したつもりだったのですが。ここでの楽器演奏はなんらかの規則に反していましたか?」

「辻楽士の真似事をやめろと言ってるんだ! 穢らわしい!」


 髭の男の激昂に、人々の輪からそうだそうだという賛成の声と、なんで演奏を止めるのかという非難の声が同時に上がった。

 フェリクスは突然侮蔑の言葉をぶつけられた悲しみ、驚き、不快感から来る強い反発心を押さえつけ、努めて静かに聞き返す。


「……いったい、何が穢らわしいと?」

「神官の身分でありながら、こんな場所で楽士のような振る舞いをしてることに決まってるだろ!」

「私にはあなたの言っていることの意味が分かりかねます。よもや、神前の奉納演奏は高貴であり、市井を楽しませる楽士が穢らわしいとおっしゃっているのでしょうか……」

「当たり前だ! 楽士なんてのは、媚と色を売る不潔な商売だ!」


 フェリクスは自分の胸の内に憤りが渦巻くのを、歯を食いしばり、目を眇めることでなんとか堪える。睨み付けられた男はハッとした様子で押し黙った。


「……では、なぜ楽士と同じ楽器を、神官も演奏するのでしょうか? このリュラーは神殿でも必ず使われます。神はそれをお許しになっています」

「そ、それは」


 男が何事か言い返そうとすると、ふたりの剣呑なやりとりを見物していた人々の後方からふいに声が上がった。


「おい、役人だ」

「議員じゃないか?」

「メルケース・コーネリウス様だ!」
















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