第七章 不安 2
フェリクスはモザイクタイルの敷き詰められたアトリウムを歩いていた。
屋敷ではトーガは着なくて良いと言われたため、ピュートー代表団はアスカニウスの言葉に甘えていつもトゥニカだけで過ごしている。
フェリクスは着慣れたトゥニカの胸元をそっと押さえた。襟の下に入れた聖水の小瓶が指先に触れる。
――部屋を訪ねると、どうなるのだろう……。
フェリクスは客室と同じ棟にあるアスカニウスの部屋に向かっているのだ。一階部分の一番奥が主人の部屋というのは、どの屋敷でも変わらない。いかな広い屋敷であっても、アトリウムの角から角まで歩く時間はほんのわずか。
アスカニウスは、ただ来いと言った。何をするとは言わなかったし、フェリクスも聞かなかった。
目的地である扉の前に人影があることに気付き、フェリクスは足を止める。
「ポンペイウス殿?」
普段の鎧姿よりは軽装のポンペイウスがアスカニウスの部屋の前に立ち、フェリクスを待ち構えていた。
「お待ちしておりましたフェリクス殿。さあ、どうぞ中へ」
「え、ええ……」
「ようやくご決心がついたのですね?」
ポンペイウスは満足げな笑顔を浮かべてフェリクスを扉の前へと促す。
「主人は無体を働くようなお方ではないので、ご安心を」
「はあ……」
フェリクスはポンペイウスの意図がすぐには分からず、曖昧な溜息のような声を出して首を傾げた。
すると上機嫌だったポンペイウスは突然表情を厳しくする。
「アスカニウス様のお部屋に呼ばれたのでしょう?」
「はい、そうですが」
ポンペイウスは眉間に浅いシワを寄せ、苦笑いのように口の端を持ち上げる。どことなく悲しげな表情で噛み締めるようにゆっくりと言葉を紡ぐ。
「フェリクス殿……あまりあのお方を困らせないでいただきたい。一体何がご不満で? アスカニウス様は貴方をピュートーから引き離すつもりもない。
「勝手なことをするなポンペイウス!」
フェリクスが返答に悩む間もなく、目の前の扉が開いてアスカニウスが顔を見せると同時に低い声でポンペイウスを怒鳴りつける。
「貴様はまた家に帰っていないのか! 挙句、神官殿に余計なことを!」
「し、しかしアスカニウス様、お部屋に召されるとおっしゃっていたので、ついに」
「下世話な想像をするな!」
一喝するアスカニウスの形相に、ポンペイウスは大慌てで頭を下げる。
「とにかくお前は家に帰れ。いい加減オリーブに愛想をつかされるぞ!」
事態を飲み込めないフェリクスが茫然とふたりを見ていると、アスカニウスに追い払われるようにポンペイウスは去って行ってしまった。
ポンペイウスの足音が遠ざかり、アトリウムには再び夜の静けさが舞い降りる。
「……ポンペイウス殿は住み込みではなかったのですね」
フェリクスの呟きのような問いかけに、アスカニウスは青みがかった銀髪に手を入れて頭をかいた。彼はこういう所作が妙に庶民的だ。
「うちの敷地内だが、代々側近を住まわせてる家があるんだ。そこに奥方と、娘ふたりと一緒に住んでいる」
「代々の側近、ですか」
ひとりの主人の側近がそう何人も変わるのは、長寿の先祖返りならではであろう。
「そんなことより、神官殿を呼んだのは、他でもない」
フェリクスは自分の息が止まるのを感じた。
先ほどのポンペイウスが何を言いたかったのか、分からないわけではない。その可能性を考えなかったわけでもない。
「取り寄せていたケメト産の
「ビール、ですか?」
「まあ入ってくれ」
アスカニウスは扉を大きく開いてフェリクスを中へ促す。
まず執務用の机が目に入った。背もたれ付きの立派な椅子と、その後ろには書類入れだろう長持ちが床に置かれている。床の毛織物の絨毯と、引き出し付きの小物箪笥は立派な細工でいかにも高級そうだが、目を引く物はそれくらいだ。
さらに奥には寝台があるはずだが、仕切り用の帳が下ろされていて見えない。
アルバ貴族はあまり居室に装飾品を飾らないと聞いている。それらは客人をもてなす宴席や、目につきやすい玄関やアトリウム周辺に置くもので、家族の部屋は意外と実用的な家具だけが置かれているのだ。
フェリクスはつい興味を引かれて見回してしまった室内で、個人の居室には普通あり合えないものを目にする。
腰の高さほどの巨大な長方形の石がふたつ。人ひとりが横たわれるほどの大きさで、クッションまで置かれている。
「これは、
臥台は貴族の宴で使われる物だ。この上に腹ばいに寝そべって酒食を楽しむのが作法とされるが、フェリクスもあくまで知識として覚えているだけで、実際に寝そべったことはない。
フェリクスが首を傾げると、アスカニウスはひょいと臥台に腰かけた。
「酒を飲むのに読書用や朝食用の椅子では味気ないだろう? べつに寝転がらなくてもいい、こうして腰かけて使ったりもするんだ」
真似をしてフェリクスも臥台に乗ってみる。高さがあり床に足がつかないが、座り心地は石の長椅子と同じだ。
臥台の足元には大きな甕があり、小さな木製の台には飲み物用の器が並べられている。
アスカニウスが一度臥台から下りてその甕の方に手を伸ばすので、フェリクスは慌てて自分も臥台を下りた。
「私がやりますから!」
酒を注ごうとしているのだ。いくらなんでも大貴族に給仕をさせるわけにはいかない。
フェリクスが手を伸ばすと、すでに大きな木のコップを手にしていたアスカニウスが首を振った。
「いいんだ。今日は俺にやらせてくれ」
しばし迷ったが、フェリクスは大人しく臥台に座り直す。
大きな体を折りたたんでしゃがんだアスカニウスは、赤ん坊なら三人は入りそうな甕の蓋を開け、中身を柄杓で木製のコップに注いでいく。
酒の匂いがあたりに広がった。穀物酒独特の発酵臭と相まって、香りだけで酔いが回りそうだ。
「ガラスではなく木や竹の器を使うのが一般的だそうだ。焼き物でもいいらしいが、器はなるべく大きい方がいいと聞いて、今日はこれにした」
アスカニウスは取っ手のない木のコップの片方をフェリクスに差し出す。
ランプの灯りの下では分かりにくいが、どうやらその酒は濁りのある黄金色に近い黄色で、泡か澱のような白いものが混じっている。
フェリクスは初めて見る飲み物を前に、少しばかり緊張しているのを感じた。アルバ市に来て食べたことのない料理はすでにいくつも口にしたが、その度にこうしてかすかに鼓動が早くなる。
これはきっと、ワクワクと胸が高鳴っているのだ――未知との出会いに。
「ケメト産のお酒は初めてです」
「俺もこのビールというのは初めてだ。昔からある酒らしいが、最近までアルバ市に輸入されてなかったんだ。まあ、飲んでみよう」
ふたりはそれぞれ臥台に腰を下ろし、片手では持ちにくいほど大きなコップを傾けてビールを煽った。
先ほどから漂っている穀物の発酵臭を強く感じた後、果実のような甘い香りが鼻の奥に広がる。葡萄酒と違ってとろみがあり、苦みが強く、しかし飲み込んだ後は爽やかな麦の香りが残る。
「うん、初めての味だが、麦が美味い!」
「香り高いですね。なんだか、色々な味がします」
一口目の感想を言い合うと、ふたりは再び同時にコップに口をつける。とろりとした舌触りと苦味が癖になり一気に飲み干してしまいたくなる酒だ。
「ケメトで大麦を仕込んで、船で運びながら酒が出来上がるらしい。同じ材料で作っても、船に乗せて運んだものと、現地で出来上がったものでは味が違うんだそうだ」
「不思議ですね」
「葡萄酒と同じで移し替えたり、器の口を開けっ放しにしたりしても味が変わる。どうも、飲む時の器でも変わるらしい」
「同じ大麦の酒でも、キュケオンとは全然違いますね。他の材料が違うからでしょうか? それとも製法?」
「ああ、面白いな。酒は付き合いに困らない程度に飲んでいたが、ピュートーの麦のせいですっかりはまり込んでしまった」
早々に一杯目を飲み干したアスカニウスは上機嫌で臥台から下り、甕から二杯目を取る。
「神官殿ももっと飲むか?」
「はい、いただきます」
フェリクスも臥台を下りてアスカニウスの横にしゃがみ込んだ。
「これ、立ったり座ったりするには、少し不便ですね。すごく高くて」
「俺もそれに今気付いた。臥台を使う時は給仕も呼ばなくてはダメだな……失敗した」
また立ち上がって高い位置に座り直すのが億劫になったのだろう、アスカニウスはそのまま敷物の上に腰を下ろしてしまった。
――どうせ言っても聞かないだろうけど。
フェリクスは一応形だけ眉を顰めた。
「またそのような振る舞いをなさって。ポンペイウス殿がお怒りになりますよ」
「さっき追い返したから、もういない」
臥台を背もたれにして足を投げ出すアスカニウスの前で、フェリクスも毛織物の絨毯に尻をつけて座り込んだ。
アスカニウスはそれを見て満足げに頷き、また一口ビールを煽ってから話しはじめる。
「今日の挨拶回りはどうだった? 何か困ったことはなかったか?」
「バッシアヌス様もメテルス様も熱心に私の話を聞いてくださいました。レグルス様がおっしゃるには、きっとピュートーに投票してくださるだろうと」
「なかなか一緒にいられなくてすまない。それにしても神官殿は、すっかり貴族とも議論ができるようになったみたいだな。もともと村を仕切っていた人間だ、素養は十分……しかし、あまり顔を広げられると、嫉妬するな」
アスカニウスが急に表情を変える。
その変化にフェリクスはどくりと胸が騒いだ。酔いが回りふわふわと霞がかりはじめていた頭の中が急に鋭敏になり、アスカニウスの挙動に意識が集中してしまう。
「神官殿を連れて壁の隅々までを歩きたい。でも、人には見せたくない。きっと明日にもアルバ中が神官殿の輝きに気付いて魅了されてしまう」
「……あなたは時々、恥ずかしくて意味の分からないことをおっしゃる」
フェリクスは大きなコップを両手で握りしめ、視線を彷徨わせながら弱弱しくつぶやいた。
意味が分からない、は過剰な表現だった。
以前はこういった大仰なアスカニウスの物言いが本当に理解できなかったが、今なら分かる。
アスカニウスは自分の容姿を褒め、他の誰かがフェリクスに想いを寄せるのではないかと嫉妬しているのだ。ふざけた言い回しをしているのは、そこまで心配しているわけではないから。でも、口にするからには、全く気にしていないわけでもないから。
フェリクスはアスカニウスの言葉の意味が分かっていた。でもやっぱり、分からなかった。
アスカニウスからの賛辞や嫉妬、くすぐったい睦言になんと答えればいいのか、フェリクスには分からない。分からないので、つい意味が分からないなどと言ってしまう。
気の利いた答えなど用意できないのに、口元だけは笑ってしまいようになる。油断するとすぐ緩む頬を叱咤して、ぎゅっと口を閉じなければならない。
フェリクスが懸命に口をひき結んでいると、アスカニウスの方は楽しげにくつくつと笑うのだ。
「なかなか伝わらないな。俺の気持ちが」
そんな風に言いながら、彼はいつも笑う。
求愛を断っても、言葉の意味を捉えかねても、何かに怒って強い言葉を投げつけても、アスカニウスは嬉しそうに、幸せそうに笑っている。
フェリクスはコップの底に残っていた麦酒を飲み干して、意を決してアスカニウスを見つめた。
「……伝わって、います」
蚊の鳴くような小さな声でも、アスカニウスは聞き逃さなかった。
垂れ目がちの甘い目元、海のどこかにあるはずの深い緑色の瞳を瞬かせながらフェリクスを見つめる。仄暗い夜のランプの下では深緑が少し灰がかって見えた。
「伝わっていたのか」
「……はい」
「本当に?」
「お気持ち、は、嬉しくて……でも」
それ以上アスカニウスの顔を見ていられなくなって、フェリクスは両手で顔を覆って俯く。空になったコップが滑り落ち、自分の足に当たって床に転がる音が聞こえた。
「神官殿」
「これ以上親しくなることはできません……私にはこれ以上、許されないんです」
よほど強い酒だったのだろうか。突然感情があふれてきて制御できない。
あの夜。ピュートーでの饗宴の後、フェリクスがアスカニウスの腕に抱かれ口付けを許したのは、他でもない。いつのまにかアスカニウスに心惹かれていたからだ。酔って浮かれていたからではない。
「急に部屋に呼んだりしたから驚かせたな。大丈夫だ、おかしなことは」
「分かっています! 分かっています……貴方がお優しいことは、このような数々の無礼をお許しくださっていることは、分かっているんです」
アスカニウスが優しいと胸が痛む。気遣われると呼吸が苦しくなる。愛の言葉を囁かれると――痛みも苦しみも受け入れて、応えたくなってしまう。
「申し訳ございません」
謝罪の言葉以外、思いつかなかった。
「申し訳、ございません……」
フェリクスは両手で顔を覆ったまま頭を下げた。座り込んだ体制で、礼儀も作法もない。ただ、身を小さくして頭を下げたかった。
「分かった。もう神官殿を困らせないから、顔を上げてくれ」
アスカニウスは俯いたままのフェリクスの肩に手を置き、ゆっくりと上半身を引き起こす。
「……申し訳ございません」
「謝るな。今まで何回振られたと思ってるんだ。もう慣れた」
体を起こしてもなおアスカニウスの顔を見ることが出来ず、フェリクスは視線を絨毯に落としている。
「そんな顔をするな。何度も言ったが、俺が神官殿を口説くのと、仕事はきちんと分けて考えている。明日からまた一緒に宣伝活動だ。いいな?」
「はい……ありがとうございます」
フェリクスはようやく顔を上げてアスカニウスを見た。手を取って立ち上がらせてくれるアスカニウスに身を任せてしまう。
心のどこかで、アスカニウスがこうして声をかけてくれると思っていた。何も話せないが想いに応えられないなどと無茶を言っても、アスカニウスはフェリクスを責めたりしない。自分の中のどこかに、そういう打算があった。
――卑怯で、失礼なことをしてしまった……
アスカニウスに促されて立ち上がりながらフェリクスはひどく恥じ入る。
彼は飄々として見えるが、いつでも誠意が滲んでいる。貴族らしいまわりくどい振る舞いをしても、その先の目的を隠したりはしない。
扉の外まで案内されながら、フェリクスはもう二度とこんな甘えた態度を取るまいと決意する。
「部屋まで送ろう」
「いえ、大丈夫です。すぐそこですから」
「そうだな。小さな屋敷だから」
すっかり定番になったアスカニウスの冗談に、フェリクスは思わず笑顔になって、泣き出しそうになった。
アスカニウスを尊敬している。
恋慕の情を差し引いても、彼は聡明で優しく、信頼できる人物だ。そのような貴人と縁がなったことを神に感謝しなくてはならない。
フェリクスはひとつ大きく息を吸い、胸を張った。
「クラディウス様。私は貴方の役に立ちたいと思っています。貴方の夢が大祭の復古であるなら、それを叶える一助になりたい。ほんの少しでも力になれるなら、どうか存分にお使いください」
「何を今更。神官殿なくしてピュートーへの誘致はなし得ないからな」
「もしピュートーでなくても」
アスカニウスがかすかに眉を動かした。フェリクスは彼の顔を見上げて、その目をまっすぐに見つめる。
「我々はクラディウス様を信じて頼ると決めております。貴方がこの国のために間違いないと考えていらっしゃることのために、どうか存分にお使いください。私には、それくらいしか……」
フェリクスの視線を受け止め、アスカニウスはゆっくりとひとつ頷いた。
そして流れるような動作でフェリクスの足元に跪いた。驚くフェリクスの両手を掬いあげ、まとめて握りしめると、指先に羽根のような口付けを贈る。
「おやすみ、神官殿」
*
フェリクスが部屋に戻るときちんとランプが灯っていた。
使用人たちが客室の全てに灯を入れて回ってくれているのだ。きっと冬ならば火鉢が置かれる。客はただ椅子に座ったり、寝台に横になったりするだけでいい。
与えられた客室はそれはそれは立派なものだ。窓辺に置かれた椅子の背もたれは一枚板で、壁は見事なモザイク絵が彩っている。
フェリクスは
昇降用の木の台に足をかけると、そのまま倒れ込むように寝台の上に突っ伏した。いくつも置かれた絹製のクッションのひとつを抱きしめる。
――言動が矛盾している……私はいったい何をやってるんだ!
今やアスカニウスに寄りかかっているのはフェリクスの方だ。何もかも彼に頼りきりだ。とっくに彼に心を奪われているのに、応えることは叶わない。
フェリクスは横たわったまま体を丸め、まだ解いていなかったサンダルの紐に手を伸ばす。いつも通り麻布に覆われた両足を引き寄せ布の上から握ると、硬い感触が指先に触れた。
「しまった……そういえば、旅の間は削れなくて……」
起き上がったフェリクスは慎重に耳を澄ませた。
もう深夜だ。部屋の外に人の気配はない。寝室の帳は下りているし、ドアを開けられれば音ですぐに分かる。
「今のうちに」
フェリクスは少ない荷物の中から鉄製のやすりを取り出した。
寝台に腰掛け、両足の麻布をはずす。
爪は月に一度程度削れば十分だった。成長期は毎日手入れが必要だったが、今は思い出した時にすればいい。おそらく体の成長・老いと爪の伸び方は同じようなものらしい。
伸ばせば鋭い牙のような形になる、四本の爪。
指から足首にかけて皮膚を覆うのは、蝋燭の炎の色に似た赤褐色の鱗。
フェリクスは火龍の先祖返りだった。
母はモレア州の人間であったことは確かだが、あとは名前しか分からない。フェリクスが生まれた直後に激化した東方紛争で焼け出され、神域ピュートーに逃れてすぐ亡くなってしまった。
自分の命は消えても良いからと、母は幼い息子の助命をザーネス神に託したのだ。神託により湖の水が与えられたフェリクスは生き長らえ、今もこうして神域に仕えている。
東方紛争が鎮圧されたのはおよそ六十年前――フェリクスの年齢は六十歳を超えているのだ。
爪を削る。
鉄のやすりで丁寧に。
あまり伸びると覆い布に収まらなくなり、人間の足には見えなくなってしまう。
『きちんと手入れをなさい。ラコウヴァ様より賜った水のまじないを、不意にするようなことがなきよう』
削り方を教えてくれたのはピウスという神官で、フェリクスの親代わりとなった男だった。
彼と、もうひとり年嵩の神官、それに村の警備兵のひとり。この三人だけがフェリクスの秘密を知っていた。他の誰もがフェリクスを他の戦災孤児と同じ扱いをし、普通の子供として接した。
それは幸福であり、幼いフェリクスを大変に戸惑わせた。
ピウスは毎日のようにフェリクスに語った。その説教以外はほとんど口を聞かない寡黙な神官だったが、必ず同じ言葉を語って聞かせた。
『目指すのは平穏です。日々変わらず家族と共にあり、静かに神に祈り、恵に感謝する……つつがなく過ぎていく日々がどれだけ幸福なことか、あなたは誰よりも分かっているでしょう』
それは母の願いだった。残された我が子が当たり前の生活を送れるようにと。
良くも悪くも先祖返りは特別だ。長寿と頑健な肉体以外他の人間となんら違ったところはないのだが、敬われたり、時に疎まれたりする。
フェリクスが生まれたのは混乱の世で、特別な人間がどのように扱われるか母も想像がつかなかったのだろう。
だから酷く憂いた。
まだ喋りもしない赤子だったフェリクスに母の記憶はないが、ラコウヴァ龍神の加護を賜ったと聞いた母は安心したように静かに息を引き取ったそうだ。
そして、フェリクス自ら他人に話してしまえば、呪の意味は無くなってしまう。
『先生。もし万が一、龍神様の加護がなくなったら……まじないが効かなくなったら……私はどうなるのでしょうか』
『ラコウヴァ様が湖にお帰りになったら、訊ねてみるが良い。そのためにも水の浄化に尽力するのです』
『……はい』
六十年前、ラコウヴァ龍神より賜ったまじないの効果は今も続いている。人々は誰もフェリクスが先祖返りだと気付かない。何十年も変わらぬ容姿を、おかしいとは思わない。
――私を美しいなどと言ったのは、クラディウス様が初めてだった。
爪を整え終え、フェリクスは再び両足を覆い布で包む。
――足の布を指摘されたのも。
同じ先祖返りには、まじないが薄れるのかもしれない。
フェリクスは布をしっかりと固定しながら我知らず長い溜息をこぼしていた。
布の上から足をさすると、コブのように膨らんでいた爪の先は滑らかな丸みを帯びている。これでまたしばらくは削らなくても済みそうだ。
フェリクスはやすりをしまい、いくつも灯されたままになっているランプを消して回る。
アルバ市は昼間こそ夏の日差しが厳しいが、夜になると急激に肌寒くなる。フェリクスはこの寒い夜が少し苦手だった。
それは寝苦しいほどに暑いピュートーの夏に慣れているからか、それとも火龍の特徴が出ているのか……火龍は火の山のような暖かい土地を好むと言われている。
――そういえば、クラディウス様の手がひんやりと感じるのは、私の体が普通よりも熱いからかもしれない。
フェリクスは暗闇になった部屋の中、ゆっくりと寝台へと戻った。土龍ならば夜目が利くと言うが、フェリクスは暗闇では何も見えない。手探りで寝台に上がり毛織りの掛布に潜り込む。
――ああ、クラディウス様の体調をお聞きするのを忘れてしまった。
体を丸めて目を閉じると、昼間の疲れを思い出したように体がぐったりと弛緩していく。
――私のことばかり気を遣わせてしまった。
勢いよく落ちて行くような眠りの淵で、思い浮かぶのは全てアスカニウスのことだった。
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