第七章 不安 1

「すまんが今日は一日レグルスに任せる」


 アスカニウスがフェリクスにそう告げたのは、ピュートー代表団の宣伝活動二日目のことだった。

 議会への出席とクリエンテスたちとの面談で時間が取れないので、代わりにレグルスに任せると。


 その次の日は「一軒目は同行できるが、その後はレグルスに」

 さらに次の日は「午前はレグルスに」

 そのまた次の日は「今日も一日レグルスに。饗宴に招かれたから夕飯も同席できなくなってしまった」


 ――という調子であった。





 今日も同行できないと聞いた朝食の席の後、フェリクスは外出準備を終えたアスカニウスをなんとか掴まえて訊ねる。


「お忙しいのですね。その……体調はいかがですか? 長旅でしたのに、休む間もなく飛び回っておられて」


 朝の表敬訪問に始まり、議会への出席、人々からの陳情はほとんど毎日だ。若い政治家たちがアスカニウスの意見を聞きに屋敷に訪れたり、話し合いの席に呼ばれたりしている。さらに昼餐会や夜の饗宴だ。

 客室と同じ棟のアスカニウスの私室に、使用人たちが書物を運び込んでいるのを見かけたこともある。おそらく就寝前に書類の確認や調べものでもしているのだろう。


「いや、まあ大丈夫だ。もらった薬湯もまだあるしな。疲れた日はあれを寝る前に飲むと、翌朝からまた元気になる」

「しかし、アルバ貴族の饗宴は夜通しだと聞きました」


 フェリクスは眉を下げてアスカニウスを見上げた。

 大きな祭事であれば夜間も酒宴が続くが、日常的に夜通し飲んでいては体に悪いだろう。


「食事の後の酒の席に出てしまうと、朝までかかるな。それは辞退するさ。いくらなんでもそこまで遊んでられない」


 アスカニウスは酷く嬉しそうに破顔すると身をかがめてフェリクスに顔を近付け、少しだけ声を潜めた。


「早めに切り上げて帰ってくるから、神官殿、そのあと俺の部屋に来てくれないか?」





 *





 今日も日暮れの祈りに参加するため、フェリクスたちはアルバ中央神殿へと続く坂道を上って行く。先導するのはヘラス――色白で大きい方――を従えたユリアンだ。パリスは後方から付いて来る。

 ザーネス神への信仰厚いユリアンはクラディウス本邸の神棚ララリウムだけでなく、こうして頻繁に中央神殿にも詣でている。


「ここを右だ!」


 ユリアンは時折フェリクスたちの方を振り返り、ここを曲がる、この路地を通り抜ける、と道順を説明する。すでに五日間、朝晩通うフェリクスたちはすでに道を覚えているのだが……小さな主人が律儀に道を指し示すたび、ヘラスは申し訳なさそうに客人たちに向かって頭を下げる。


「はぁ~~~っ」


 ルキウスが急斜面を睨むように苦悶の表情を浮かべ、長い溜息を吐き出した。


「都会って目まぐるしいな~。正午に昼餐会して、夜も饗宴やって、毎日何人も新しい人に会って……誰と何を話したか、覚えてらんねえよ」


 代表団は一日、三~五名ほどの議員と面会している。

 百名の議員全員と直接話すのは難しく、アスカニウスが決めた者だけに絞っているが、最終的に五十名と挨拶できる予定だ。


「それにしても、水龍様ってこんなにお忙しい方だったんですね……」


 ニコレがルキウスの言葉を受けて呟く。


「アルバ貴族はもっとゆったり生活なさってると思ってました」

「ええ。毎日あちこちへお出かけで、お疲れにならないのでしょうか」


 ヴィオラとマルキアも心配そうに顔を見合わせている。

 アルバ市へ来て六日目、宣伝活動を開始してから五日目。アスカニウスと行動できたのは初日だけで、その後は朝食を共にした後は顔を合わせない日すらあった。


 ――きちんと休めとおっしゃったのは、クラディウス様の方なのに。


 フェリクスはピュートーで何度も体調を崩したアスカニウスを見ている。

 体がすっかり冷たくなり、寝台から起き上がるだけでも億劫な様子で、泉の聖水と薬湯を飲んでようやく回復するというような状態だったのだ。

 薬湯はなるべくたくさんピュートーから持ってきているが、泉の聖水がなくても大丈夫なのだろうか。


 ――もっとずっと一緒にいるものかと思っていた……。


 フェリクスはオレンジ色に染まっていく坂道の風景をぼんやりと視界に収める。


「もっと水龍様と一緒にいれんのかと思ったのにな」

「そうねえ。なんだか遠くへ行ってしまわれたみたいで寂しい。やっぱり雲の上のお方なんだっていう感じがして」


 ルキウスとニコレの会話に、フェリクスは密かに鼓動を早くする。己の胸の内を暴かれたような気持になったからだ。うっかり内心を口にしてしまったのかと……。


「長殿が多忙なのは当然だ!」


 神殿への道を先頭に立って進んでいたユリアンが振り返った。


「長殿は総司令官を辞した後も、訓練や軍議によく呼ばれている。他にも歴史書の編纂や、裁判記録の確認など、みな長殿を頼りにしているのだ」

「そんなに……それでは、本当に休む暇などないではありませんか」


 フェリクスが声に不満をにじませると、ユリアンの隣のヘラスが半身で振り返った。


「先祖返りは生き字引ですから、なんでも頼られてしまうのです」


 ヘラスはユリアンの倍もありそうな背丈に盛り上がった筋肉を持った厳めしい体の持ち主だが、柔和な表情を見せる男だ。


「アスカニウス様は職務を一族の若者に引き継ぎたいとお考えのようです。レグルス様を重用されているのもその一環でしょう」

「レグルス叔父上はフィレヌス家の、いや、クラディウス一門きっての才人であるからな!」


 そのレグルスも今日はアスカニウスと共にとある貴族邸の饗宴に招かれている。

 貴族の饗宴は日暮れ前に始まる。その理由は簡単で、日が暮れると真っ暗になり、せっかくの料理や部屋の調度品もよく見えなくなるからだ。日が沈んでしばらくするとお開きとなり、多くの場合でその後は朝まで酒宴の時間となるのだが、アスカニウスは早めに帰ってくると言っていた。


 ――そのあと、部屋に来るようにと……。


 またゆっくりと坂道を上り始めた一行について行きながら、フェリクスは朝の出来事を思い出してまたぼんやりとする。

 夜間に誰かの部屋を訪ねたことなど、一度もない。

 その場の勢いで頷いてしまったが、部屋に行って、何をするのだろう?


「ねえ、あれがモレアの?」


 一行の頭上から声が降ってきて、フェリクスは大げさに肩を揺らして声の方を振り返った。坂道と階段が縦横無尽に走るアルバ市では、突然自分の上や下に人が現れる。

 声の主は一段高い道の柵に手を置いてこちらを伺う三人の若い男女だった。

 おそらくどこかの使用人だろう。仕えている屋敷から城壁の向こうの自宅へ帰っていく人間が多い時間帯だ。


「モレアのどこ?」

「さあ? 四つの守村全部から、神官とか村長とかが来てるんでしょ」

「イストモスは来てないってよ。なんか問題起こして、候補から外されたんだって」


 三人はしっかりとこちらを見ていた。フェリクスと目が合ったのだ。こちらに声が聞こえていることも分かっているのだろう。

 ニコレがルキウスの手を強く引いた。いつものように飛び出していかないよう先回りして牽制したのだが、ルキウスよりさらに短気なユリアンが坂の上に向かってすぐさま怒鳴りつけた。


「無礼者たちめ! そのように高い場所から貴族や神官に声をかけるとは!」


 駆け出しそうだったユリアンはヘラスに肩を押さえつけられて止まる。


「あ~、ごめんなさい。帝都は坂が多いもので」

「降りて行った方がいいですかあ?」


 若者たちは軽い口調で形だけの謝罪を述べ、柵にもたれたまま気の抜けた笑顔を浮かべてこちらを見下ろしている。

 大した咎めを受けないと分かっているのだろう。もしかしたら有力な家に勤めているのかもしれない。

 フェリクスはヘラスに半ば抱えられているユリアンに声をかけた。


「ユリアン様、祈りの時間に遅れてしまいます。急ぎましょう」

「む。それはそうだな。祈りの方が大切だ」


 ユリアンはもう一度頭上を睨みつけたが、ヘラスにも促されて神殿への道を歩き始めた。

 一行が再出発したのを確認したフェリクスは若者たちを見上げる。彼らはフェリクスよりも西側にいて、傾いたオレンジ色の陽を正面から受けて眩しかったが、おとなしく柵から離れようとする三人の人影が見えた。


「本当にアルバでの大祭、やめるんだな」

「今年で最後ってこと?」

「もうザーネス大祭見れないのかあ。つまんないね」


 彼らは責めるでもなく、悲しむでもなく、噂話の延長のような何気ない会話を残して去って行った。

















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