第六章 帝都 2

「これがアルバ市の住宅街……本当に四階建てばかりなんですね」


 城門を潜ってすぐ目に飛び込んできた光景に、フェリクスは感嘆の溜息と共に心の声が漏れた。


 ここは帝都アルバ市、ひとつめの壁の内側。

 登り坂の通りに面した集合住宅インスラが立ち並び、そのほとんどが四階建てだ。天を覆わんばかりの圧迫感と、通りを埋め尽くす人々の波に、フェリクスだけでなく三つの神域代表団全員が驚いている。


「モレア市もすげぇって思ったのに、アルバ市はもっとヤバイな!」

「人がたくさん……」


 ルキウスが興奮し、ニコレが溜息と共に力のない声で呟いた。


「神官殿、また口が開いてるぞ」


 隣を歩くアスカニウスに楽しそうに指摘され、フェリクスはすぐに口を閉じ、むっつりとアスカニウスを睨んだ。

 ここに来るまでにも城壁と門の巨大さに驚き、その前は街に繋がる水道橋の大きさに驚き、さらにその前はクラディウス所有の船の絢爛さに驚いた。その度にアスカニウスに笑われ、フェリクスはもう子供のような反応はしまいと口を閉じるのだが、同じことを繰り返してしまう。


「意外と子供っぽいところがあるんだな」

「お恥ずかしい」

「いや、かわいい。もっと驚かせたくなるな」

「なっ……およしください!」


 アスカニウスが流れるような動作で肩を抱いてくるので、フェリクスは大慌てで身を屈めて掻い潜った。その様子を目にしていた数人から忍び笑いが漏れ、フェリクスの耳にも届く。

 まただ。どうしてアスカニウスはわざわざ人に見られる場所で触れようとしてくるのだろう――いや、他人の目がなくても、それはそれで触れようとしてくるのだけれど。

 村のみんなやレグルスたちはおろか、ネメアやエリスの面々も船旅の間にふたりのやり取りを見慣れてしまっていた。


「恐れながら長殿、フェリクス殿が嫌がっております」


 背後からユリアンの援護が飛んでくる。

 船旅の初日こそ揺れに酔っていたユリアンだが、船酔い組の中では誰よりも早く回復し元気に船内を駆け回っていた。ピュートーからずっとふたりの押し問答を見てきたユリアンは、すっかりフェリクスの味方だ。


「母上がいつもおっしゃっています。貴族の子息だからという理由で平民を手籠にするなど、アルバ戦士の風上にも置けぬと。そのような輩を見かけた際には必ず成敗すべし、とも」

「あのなユリアン、相手の意思を尊重するという考えは素晴らしいが、俺と神官殿の関係はもう少し親密で複雑なんだ」

「しかしフェリクス殿ははっきりと『よせ』と申しました。今の行動と言葉の意味は、触れるなということでは?」

「あー、分かった分かった。もう勝手に触らない」


 アスカニウスが両手を挙げて降参の態度を取ったので、フェリクスは列からはみ出していた距離を縮め、元の位置に戻る。


 ひと月の船旅を無事に終え、一行はついに目的地にたどり着いた。

 ケントゥム・セラ港で下船し、久しぶりに陸上の宿で一泊した後、モレア神域代表団は川のぼりの船に乗り換えた。アルバ市のすぐ近くを流れるフマイオーロ川を遡り、その日の昼にはアルバ港に到着。帝都へ入るための身支度を整えて、城壁の前までは馬車で移動してきたのがつい先ごろのこと。


 ポンペイウス率いる兵士と従者に前後を挟まれて長い行列を作って歩く。

 行き交うアルバ市民たちが行列をじろじろと見ているが、代表団はそれどころではない。目にするもの全てが珍しく、行儀も他人の視線も気にする余裕がなかった。


「こんなに大きいと倒れてきそうでちょっと怖いですね」

「ええ、本当に。上の階から落ちたら大変ですわ」


 ヴィオラとマルキアが身を寄せ合うようにノロノロと歩きながら街を見上げている。


「四階建てであれば問題はないのだ」


 ふたりの会話に割って入ったのは、またもユリアンだった。ユリアンは目が弱い代わりに耳が良いようで、こうして他人の会話を聞き取っていることが多い。


「インスラの高さは最大三十七キュビットまでと法で定められている。しかし違法建築が後を立たず、火事や倒壊などが頻発しており問題視されているのだ!」


 そう言って満足げに頷くユリアンを振り返り見てから、フェリクスは隣のアスカニウスに尋ねる。


「建物の高さに制限が?」

「ああ、インスラに限った決まりで神殿や集会場なんかは別だがな。この通りに面したインスラは制限内、普通は四階建てが限界だ。それがもっと奥まったところじゃ六階建てとか、その上にまた小屋を建てたり、危ない場所が多くて困っている」

「危険極まりないのです! もっと取り締まりを強化しなくては!」

「ユリアンの言う通りだ」


 なにやら張り切ってきたユリアンをすかさず後押ししたのはレグルスだ。彼は船の上からずっとユリアンの隣を離れない。


「問題の根幹は帝都の人口増だ。やはり都市機能の一部を別の街に移転する必要がある」

「レグルスはいつもそれ言うけど、機能の一部って何を? どこに持ってくって言うのさ? 川沿いと水道橋沿いに街を広げるのが一番現実的だと思うんだよね」

「それでは城壁の意味がない。万が一敵に攻め込まれた時はどうするんだ?」

「他に防衛線を作るしかないんじゃない?」


 今度はレグルスとセサルが議論を始めてしまった。アルバ市には議論好きが多いようで、通りの端々にも足を止めて白熱の議論を戦わせている人々が目に付く。


 ――そういえばクラディウス様も、政治について意見を交わす時が一番楽しそうだ。


 フェリクスは背後から響くふたりの議論を聞きながら、隣を歩くアスカニウスの表情を伺った。すると、こちらを見ていたアスカニウスと視線が合う。


「どうした? 疲れたか?」

「いえ、とんでもない。まだ歩き始めたばかりですから」

「ずっと坂が続くから結構脚に来るぞ。まあ、神官殿は健脚だから心配はいらないか」


 市街地は原則、馬車や馬の通行が禁じられている。

 何故ならアルバ市は通行人が多すぎて、馬車の利用を許すとあちこちで流れが滞って結局どこにもたどり着けないからだ。馬車の禁止は皇帝にすら適用され、皇族や貴人たちは担ぎ手を雇って臥輿がよに乗って街の中を移動する。

 ちょうどその時キラキラと光る豪華な臥輿が通りを横切って行き、代表団は揃ってそれを目で追った。


「わ、綺麗!」

「なんて煌びやかな。さぞや高貴な方がお乗りなんでしょうね」


 その絢爛さに主に女性陣から歓声が上がる。

 担ぎ棒の上に人ひとりが横になれる板が置かれ、三角形の立派な屋根まで取り付けられている。屋根から黒い布が垂らされ、そこに宝石が縫い付けられているのでキラキラと光って見えるのだ。


「今のはヴァレリアス一門の奥方の誰かだな。屋根に菱形の紋章があっただろう?」

「ああやって臥輿に黒いヴェールを付けるのが流行ってるんだよ。誰が乗ってるのか見えないのがいいらしいんだけど、俺にはよく意味が分かんない」

「日除けにもなるのだ! 女人は日射しを嫌う故、ヴェールは特に女性用の臥輿に使われることが多いと言われている」


 どうしても歩みの遅くなる一行に、アスカニウスとセサル、それにユリアンが嬉々として街を紹介してくれる。


「あまり裏通りには行かない方がいい、残念ながらアルバ市の路地は危険なんだ」

「追剥も多いけど、一番まずいのは人身売買。どっかに売られて奴隷になりたくなったら勝手に出歩かないでね」

「奥の方には違法建築のインスラが多いのだ。この間も一棟倒壊して大騒ぎになったのだが、またすぐ新しいインスラが建てられた!」

「セサル、いい加減にしろ。モレアの皆さんを怖がらせてどうするんだ。ユリアン、インスラの話から一旦離れて、別の説明をしなさい」


 明らかに悪ふざけで――ユリアンだけは真剣だっただろうが――盛り上がり始めた面々を止めたのはアウグストだ。


 アウグスト・クラディウス・ヴェネトゥス。

 船旅の間一度も部屋から出て来なかった船嫌いの彼は、陸に上がった途端元気になりフェリクスたちを驚かせた。

 軍人らしく短く刈り込んだ黄味がかった金髪に、切れ長の空色の瞳、がっしりとした体格の面長の美丈夫で、乙女たちが噂話に花を咲かせそうな見目の持ち主だ。口数は多くはないが喋れば理路整然としており、二十七歳という年齢よりも幾分か上に見える。


「長殿も。もっとアルバ市の良さを伝えてくださらないと困ります」

「もちろん、これからたっぷり帝都を堪能してもらうぞ。では、そろそろ第一街区の荘厳な姿をご覧いただこうか」


 アスカニウスが指差した先には大きな門が聳えていた。二重目の城壁だ。

 この先がいよいよ帝国の中心。世界中の富が集まり、他に類を見ない街並みが広がっている、その入り口だった。


 アルバ市は山に築かれた都市だ。

 円錐を伏せたような広くなだらかな斜面をもつアルバ山の南側、フマイオーロ川に面した土地を切り開き、山裾から山頂まで坂道にへばりつくように建物がびっしりと建っている。

 山頂には初代皇帝が土龍に導かれてたどり着いたアルバーノ湖、それを半円形に取り囲むアルバ・ロンガ、これが一重目の壁だ。そこから二重目の壁の内側までが第一街区、三重目の壁の内側が第二街区と分かれている。城門に関しては一番外側からひとつ目の門、と数えるので大変ややこしくなるのだが。

 ふたつ目の城門をくぐり、第一街区へと入ったところでルキウスが歓声を上げた。


「これが有名なフォロ・アルバーノか!」


 門の向こうには三角形の広場があった。

 周囲には石造りの公共施設――裁判所や図書館、浴場などが市民に開放されている――が立ち並び、広場の奥は屋根付きの市民集会場になっている。どれも高さ四十キュビットはあろうかという巨大な柱に支えられていて、ルキウスに続くようにモレアの代表団はまた一斉に溜息を吐いた。

 アルバの広場フォロ・アルバーノ、帝国民なら誰でも名前を知っている有名な場所だ。


「すごい人ですね。今日は何かの集まりが?」


 フェリクスは人々の熱気に気圧されながらアスカニウスに問いかける。広場は人で埋め尽くされ、とても通り抜けられそうにない。


「いや、いつもこんなものだ。ちょうど昼過ぎだからな。仲間と集まって議論したり、裁判を傍聴したり、あと早い者は浴場に繰り出す時間だ。いつも人が集まってるんで、よく政治家や弁護士が演説をぶったりもする」


 アスカニウスの言葉にフェリクスは曖昧に頷くしかなかった。果たしてこの人ごみの中で議論する仲間を見つけられるのか疑問だ。セサルに脅されなくても道に迷うことを恐れて、誰も勝手に出歩いたりしないだろう。


 先導するポンペイウスは迷うことなく三角形の一辺の端に設けられた回廊へと足を向けた。

 回廊は広場を迂回するように弧を描いて上り坂の道になっている。途中から広場を見下ろすような高さになるため、端には腰の高さほどある柵が設けられていた。


「おい聞いたか。フォロ・アルバーノだってよ!」


 人いきれの騒めきの中から揶揄するような男の声がして、フェリクスたちは思わず声の方を振り返った。


「やめとけ。ありゃあ、モレアからの御一行様だよ。はじまりの地の神官様だ」

「ああ、モレアか」


 はっきりと顔までは分からないが壮年の男がふたり、代表団の方にチラと視線を寄越してからそそくさと人ごみに紛れて消えた。


「なんだアレ? 俺、なんか変なこと言いましたかね?」


 男たちが去って行った方を睨みながらルキウスが口を尖らせる。


「あ、俺のアルバ語、やっぱ訛ってる?」

「発音の問題ではないと思います。確かアルバ市民はこの広場のことを、セントルム・カーヴォと呼ぶのだとか」


 フェリクスがそう教えるとルキウスは素直に感心した顔をした後、やっぱり田舎者だと揶揄されたんじゃないかともう一度唇を尖らせた。

 カーヴォとはアルバ周辺の山系全体を指す古い地名。セントルムは中心を意味する。つまりカーヴォ山系の中心、となる。

 実際にアルバ市があるのは山系の西の端。位置としての中心ではなく中心的存在といった意味で、帝都としての威厳を含ませているのだろう。


「よく知ってるな神官殿。正式名称はフォロ・アルバーノで合ってるんだが、セントルム・カーヴォの方が呼び名としては一般的になっている。ここ五十年ほどは政務文書くらいでしかフォロ・アルバーノの名前が使われてないくらいだ」


 アスカニウスは背後を歩くルキウスたちを振り返りながら説明を付け加えた。広場の正式名称はフォロ・アルバーノのままなので、帝国内でもモレアのように遠方の属州民は一般的な呼称を知る機会が少ない――と。


「いずれ政務文書も変わるのでしょうか?」

「そうかもしれないな。だが、名前を変えるとなると、うるさいヤツも多くて」


 アスカニウスは笑おうとして失敗した様子だった。苦い物を我慢するように口元を歪め、広場に集まる人々に視線を向ける。

 ここは二千年の歴史を誇るアルバ帝国の都だ。その伝統を重んじる貴族や議員は長く続いて来た名前を捨てることに抵抗があるのだろう。アスカニウスのようにアルバ市から大祭の開催権を移動したり、広場の正式名称を変えようとする政治家は苦労するに違いない。

 フェリクスは保守的な議員たちの気持ちがよく分かる。

 長年続いて来た慣習を変えるのは、それを信じてきた者にとってこの上ない苦痛だ。恐怖と言っていいだろう。しかし、フェリクスはアスカニウスと出会って考えが変化しつつあった。


 ――慣例や自分の考えにしがみつくだけでは、解決できないことも多いと教えてくださった。


 フェリクスが自分の心の移ろいを思い返していると、広場に集まっていた人々から歓声が上がり、回廊を歩いていた代表団も一斉にそちらへ顔を向けた。


「コーネリウス様!」

「アルバの未来!」


 広場の奥、群衆の向こうの壇上に誰かが上がったのだ。

 人の流れは二手に分かれた。熱気に包まれ少しでも壇へ近付こうとする市民と、その騒動から離れようと足早に散って行く人々のふたつだ。

 フェリクスたちが立ち止まった地点では回廊の傾斜はまだなだらかで、ほんの少し高くなっただけの視界では、何百の人の頭越しに奥の光景を見ることはできない。

 ルキウスが興味津々に回廊の端の柵まで移動して広場を眺めている。ピュートーでは政治家の演説などお目にかかれない。珍しい光景だ。


「すごい歓声ですね。高名な政治家ですか?」

「しまった! メルケースの奴だ……」


 フェリクスが問うと、背の高いアスカニウスは人垣越しに演説者を見て舌打ちをした。














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