第六章 帝都 1


 風に煽られた髪が顔にかかる。

 フェリクスは顔の横の髪を手で押さえた。


 普段はひとつにまとめるだけの髪を旅路では編み込むようにしていた。それでもほつれてくるひと束が風に煽られる。髪が顔にかかるのがどうしても気になり、何度も指で掬って耳にかけてはまた風に煽られる、ということを繰り返していた。



 ――海の上とは、こんなに風が強いものなのか。



 フェリクスは髪を押さえながらどこまでも広がる青い海を見つめた。この風こそが自分たちの乗った船を押し進め、帝都へと運んでくれる。

 大祭の候補地となったピュートーは代表使節団を結成し、元老院での投票に臨むべく帝都アルバ市を目指すこととなった。

 ピュートーの代表団はフェリクスを含めて五人。

 ルキウスとニコレが村の若者代表として二名。神官は三名で、フェリクスの他にヴィオラとマルキアいう女性が同行している。さらに村の産品を積んだ馬車と共に、数人が後発隊として帝都に来る予定だ。


 アスカニウスが手配した船にはピュートーだけでなくネメアとエリスの代表者たちも乗り込み、それだけの人数がひと月の旅をできるほどであるから、巨大な帆船であった。

 フェリクスはモレア地方の海岸線を行き来する運搬船に一度乗ったことがあるだけで、こんな大きな船は目にするのも初めてだ。甲板からの大海原の眺めはもちろん、大勢の船員が忙しなく動き回っている様子も珍しい。


 邪魔にならぬよう端の方で彼らの仕事ぶりを眺めていると、甲板に出ていたアスカニウスが首から下げた小瓶の口を切るのが目に入った。


「ちょっと、何をしているんですか!」


 風でかき消されないよう声を張り上げたが、船首近くにいたフェリクスが中央にいるアスカニウスに駆け寄った時には、もう小瓶の中身はアスカニウスの喉を滑り落ちた後だった。


「なんだ神官殿、そんな大きな声を出して」

「飲んでしまったのですか⁉」


 フェリクスはアスカニウスの右手――龍の手の中から小瓶をひったくり、すっかり空になっているのを見て盛大な溜息を吐いた。

 小瓶に入っていたのはピュートーの神域に湧き出る泉から汲んだ水。アスカニウスの大好きな泉の聖水だった。ピュートーを発つ時全員がひと瓶ずつ手にしたもので、フェリクスも同じ小瓶を革紐にくくりつけて首から提げている。


「これは旅先で水が足りなくなった時などの、護りとして持たせて戴いたものですよ。それをいきなり飲んでしまうなんて!」

「これっぽっちじゃ足りないな。もっと運ばせるべきだった」


 甲板の上の船乗りたちは、天下の大貴族が質素な身なりの年若い男に怒鳴りつけられているのを見て目を丸くしていた。

 決して小柄ではないフェリクスに比べても、アスカニウスは頭一つ以上背が高い。屈強な船乗りたちに囲まれても一際目立つ大きな体に似合わず、子供のように頬を膨らませてもっと水が欲しいと文句を垂れる。

 片手に握りこめるほど小さなガラス瓶に入る水はほんの少量だ。確かに飲み水としては少ないが、用途が違う。


 フェリクスはもう一度アスカニウスを咎めようと口を開いて、しかし、すぐに諦めた。水に目のない彼に持たせたのが間違いだったのだ。自分が預かるか、ポンペイウスにでも持たせておくべきだった。


「飲み水ならモレア港でたくさん補充したではありませんか……聖水に代わりはないんですよ」

「最後の船旅になるかもしれないんだ。水くらい、飲みたい時に飲ませてくれ」


 アスカニウスは龍の手の長い爪の先で頬をかきながら苦笑を浮かべる。その笑みに力はなく、儚げで、フェリクスは手の内の小瓶を握りしめて奥歯を噛んだ。

 龍の手の爪は白く、手の甲から手首にかけて青みを帯びた銀色の鱗がある。指の間には小さな水かきのような薄い皮膚があり、指は四本。


 アスカニウスは人間の祖である龍の特徴を持つ、大変珍しい先祖返りだ。


 彼は自分の死期を悟っている。ピュートーで共に過ごす間にフェリクスも何度か目にしたが、体調の優れないことが多い。

 アスカニウスは現在百二十歳。人間ならとてつもない長寿であるが、二百年以上生きると言われる先祖返りとしてはまだ若い。彼の見目が三十代ほどの青年にしか見えないのがその証拠だ。

 先祖返りも、いずれは老いる。老いるよりも先に、アスカニウスは死を感じていた。


 フェリクスはそんなアスカニウスの投げやりな様子に気付くようになっていた。最後だから、最後だからと、彼は一時一時を大切にしながらも、時折何もかも諦めたような表情を見せる。


「……おやめください、最後などと……そのようなことを仰るのは……」


 フェリクスが悩み抜いた末に選んだ言葉に、アスカニウスは気まずげに視線を逸らした。


 彼の瞳は、深緑色を淡くして少しだけ銀箔を散らしたような不思議な色をしている。植物の葉の色には例えがたい、深い湖や沼の色に似ていると思っていたが、きっとこれは海の色だ。

 航海に出て初めて知ったことだが、海は進むごとに色が変わっていく。時間によっても違う。アスカニウスの瞳の色はこの広い海のどこかにあるに違いない。

 逞しい体躯の中で濃い色を持つは瞳だけで、他はどこも白に近い色に染められている。髪は青みがかった白銀色で、本人曰はく三年前の退役後から伸ばしっぱなしで毛先はてんで自由な向きに跳ねており、どこか動物のたてがみを彷彿とさせる。肌は雪のように白く、唇だけが血色を見せてはいるが、秋口のカンパニュラの花のように紫がかった淡いピンク色だ。その青白い肌は生まれつきなのか、体調不良から来るものなのか、フェリクスは確かめる術を持たなかった。


「フェリクス殿は船酔いは大丈夫か?」


 黙り込んでしまったふたりに声をかけたのはレグルスだ。モレア港を出港してほどなく、船酔いに見舞われたユリアンを船室に連れて行ったのがレグルスだった。


 ユリアンはアスカニウスに大層懐いているとフェリクスは思っていたが、レグルスの登場でその考えを改めることとなった。

 アスカニウスが「皆が甘やかす」とこぼしていたクラディウスの大人たちの中でも、レグルスが一番ユリアンを甘やかしているのだ。あまりの溺愛ぶり、構いぶりが本人の人格形成に支障をきたす恐れがあるとして、ユリアンの母――レグルスの姉である――が接触を禁止しようと動くほどに。


 しかしここは帝都から船でひと月もかかる遠い海の上。

 レグルスは誰に咎められることもなく甥っ子を撫で回し、なんでも言うことを聞いてやり、欲しがる物を端から買い与えている。

 モレア港でユリアンが興味を示した書物に服飾、食器や家具まで購入して船に積み込ませた時にはアスカニウスが激しい叱責を飛ばしたが、レグルスには堪えた様子がない。


 彼は柔和な見た目に反して、自分の意志を断固として貫く強さと、為政者らしい飄々とした腹黒さを持ち合わせていた。当初と印象が変わったものの、フェリクスはレグルスに信頼を寄せている。


「おかげさまで。大きな船はあまり揺れないというのは本当なのですね」


 フェリクスが振り返って返事をすると、レグルスの後ろからひとりの青年が顔を出した。


「いやいや、他のモレアの人みんな部屋でひっくり返ってるよ。生き残ってるの、もう神官さんだけだからね」


 そう言って笑ったのはセサル・クラディウス・ヴェネトゥス。

 白銀の髪と白い肌を持つクラディウス一門の若者で、年齢は二十五歳。未来のアルバ帝国を背負って立つ政治家の卵だ。此度の大祭復古の事業では神域のひとつエリスを担当している。


 フェリクス以外のモレアの人間は皆船酔いで伏せっていた。乗船前ははしゃいでいたルキウスとニコレも、出港してすぐ船室にこもってしまったのだ。


「生まれつき強い人っているから、神官さんは強い人なんだね。俺も同じ。船で酔ったことないんだ」

「やはり体質なんですね。私はこんな沖まで出たのは初めてですが、今のところ体調は問題ありません」

「船酔いって辛いらしいよ。アウグストなんか毎回吐いてさ、死にそうになってんの」


 わざとらしくおどけた言い回しをするセサルに、フェリクスはつられるように笑みを浮かべた。

 彼の気ままなお喋りは自然と人を笑顔にする。分け隔てない人懐こさは誰に対しても有効で、神域の代表者たち全員とすっかり打ち解けていた。


 セサルはアスカニウスやレグルスに比べれば小柄で、目の高さはフェリクスとほとんど同じ。目尻が吊り上がった猫のような丸い目で、笑った時の雰囲気が少しアスカニウスに似ている。アスカニウスの瞳は甘い垂れ目なのだけれど。

 モレア港で船に乗る前にセサル率いるエリス代表団と、もうひとりの担当者アウグスト率いるネメア代表団と合流した。そのアウグストは船に弱いようで、最初から船室に引っ込んだまま出て来ない。


 フェリクスとセサルの会話を受けて、アスカニウスとレグルスが沈痛な面持ちで俯いた。


「アウグストは今回もダメだったな……あれは一生、船嫌いで生きていくんだろう。可哀想に」

「こうも船が苦手では軍人として先が思いやられます。北方の入植地くらいしか駐屯できる場所がなくなってしまう」

「やはり帝都親衛隊に常駐できるよう手を回してやるべきか」


 また風が強く吹き付けてフェリクスの髪を一束舞い上げる。

 髪を押さえながら、目で追うことのできない風を見ようとするかのように、フェリクスは船の進む先を見つめた。

 舳先は西を向いている。太陽はまだ背後にあって、風は南西から吹いてくる。大人が腕を伸ばしても抱えきれない太さの柱に張られた帆はその風をしっかりと受け止め大きく膨らんでいる。


 モレア港からアルバ市近郊のケントゥム・セラ港まで船でおよそひと月、二十八日かかるそうだ。

 マーイウスの月も半ば。季節はいよいよ夏へと近づいている。頭上に大きな雲は見えず天候に恵まれている、航海に相応しい季節だと、船乗りたちが話しているのを聞いた。普段より早く帝都アルバ市に着けるだろうと。


「え? それでは、クラディウス本邸は使わないのですか?」


 レグルスの驚いた様子の声にフェリクスは横を向いていた顔をもとに戻す。

 話題はいつの間にか、アルバ市での代表者たちの滞在場所のことに変わっていた。


「イストモスが候補から外れてしまったのですから、うちは空いていますよ。ピュートー代表団に来てもらえば良いではないですか」

「いや、もとよりピュートーはうちに招くつもりだった」


 アスカニウスの答えにレグルスは目を丸くして驚いている。


「宜しいのですか? あまり他人を入れたくないのかと思っていましたが……」


 話の掴めないフェリクスが戸惑い気味に視線を向けると、アスカニウスは唇の端を吊り上げて子供のような笑みを見せた。


「アルバ市での滞在中、ピュートーの代表団は俺の私邸でもてなすぞ。アルバーノ湖畔の静かで美しい場所だ」

「エリスとネメアはヴェネトゥス家に案内するよ。湖畔ではないけど、眺めはいいし、街にも神殿にも近い一等地! ピュートーの人も遊びに来るといいよ」


 アスカニウスに張り合うようにセサルが誇らしげに胸を逸らした。

 アルバ市を知らないフェリクスに詳しいことは分からないが、どうやらクラディウス一門はいくつも邸宅を所有しており、アスカニウスは湖畔に、セサルは市街の近くに住んでいるらしい。

 ふたりの邸宅自慢にレグルスが眉間に皺を寄せる。


「なんだセサル、長城の本邸は使い勝手が悪いような言い方だな」

「実際そうじゃない? 暗いし、やたら人が多いし、坂は急だし。皇帝宮に出仕する時以外、あんまりいいとこないよね」


 セサルの挑発的な物言いにレグルスが歯を噛みしめるのが分かった。しかしフェリクスはそのやり取りよりも、長城という言葉が気になり、思わず口を挟んでいた。


「長城の……? クラディウス本邸は、アルバの長城アルバ・ロンガの中なのですか?」


 フェリクスの問いかけにレグルスは表情を明るくして頷いた。

 アルバ市は城壁に囲まれた街だ。もとは山の上の要塞で、住民を守るために追加された一重に、さらに街が広がって二重の壁を築いた。三つの城壁を持つ大都市なのだ。

 アルバの長城――アルバ・ロンガと呼ばれるのはその最上段、山頂付近に築かれたかつての要塞部分で、現在は皇帝や貴族たちの住まいとなっている。アルバ・ロンガに居を持てるのは当然、高位の貴族だけだ。

 フェリクスも知識としてその意味は知っていた。


「さすがフェリクス殿は博識だ。その通り、クラディウス・フィレヌスは代々アルバ・ロンガに住まい、アルバ・ロンガを守っている」


 レグルスの満足げな物言いに、セサルは鼻白んだ様子で舌を出した。

 クラディウス一門にも複数の家系があり、レグルスとユリアンの属するフィレヌス家は代々一門の長を務めてきた本流だ。当代は龍の先祖返りという特別な出自を持つアスカニウスが長の座に収まっているが、フィレヌス家からすればそれは今だけのこと。本流の誇りを内外に示したいのは当然だろう。

 対してセサルはアスカニウスと同じヴェネトゥス家。家同士の争いとまでは言わないが、同世代の若者同士、常に対抗心を燃やしているのだ。


 フェリクスはセサルの顔色を横目で伺いながらも、好奇心を隠せずレグルスに訊ねた。


「帝国の民であればアルバ・ロンガを知らない者などおりません。では、ユリアン様も長城にお住まいなのですね?」

「もちろん。ユリアンはフィレヌス家筆頭の血筋。そうだ、日を選んでピュートーの皆を本邸に招待することにしよう。ユリアンもきっと喜ぶ」

「レグルス、そのくらいにしておけ。勝手にピュートー代表の予定を決めるな」


 それまで黙っていたアスカニウスが不機嫌な声と共にフェリクスの手を引いた。彼にしてはやや強引な力で。

 フェリクスは突然触れた冷たい手に驚いてアスカニウスを見上げる。


「神官殿、そろそろルキウスたちの具合を見に行こう」

「あ、はい。そうですね。横になっていれば大丈夫だと言っていましたが、念のため」


 フェリクスがそう答えるや否や、アスカニウスはフェリクスの片手を掴んだまま船室に繋がる階段の方へと歩き出した。


「あの、クラディウス様、手を」


 この手はいつもひんやりとしている。

 フェリクスは導かれるままに歩を進めながら、レグルスやセサル、周囲で働く乗組員たちの視線を気にして左右を見た。

 階段の入口で立ち止まったアスカニウスが振り返る。フェリクスはアスカニウスと目が合った後、繋がれた互いの手を見て、また左右に視線を彷徨わせた。


 アスカニウスは片頬を上げて笑い、フェリクスのもう片方の手もひとまとめに掴んでしまう。そして頬を寄せるように顔を近づけ、フェリクスの指先に羽のように軽く唇で触れる。わずかな触れ合いだが、濡れた唇と、指先を吸われる感覚に、不穏な刺激が背中を駆け上がる。


「そ、そういった事はお断りしたはずです!」


 フェリクスは勢いよく手を振り払った。

 頬に火が着いたのではないかと思うほど熱い。その顔をアスカニウスに見られていると思うと、さらに体が火照ってくる。


「ちゃんと口付けの意味を覚えたな?」

「い、意味って……」


 赤い肌をいっそう赤くするフェリクスを見てアスカニウスは満足そうだ。

 以前も同じように口付けを贈られたことがあったが、指先への口付けの意味をフェリクスは知らなかった。厳密には、モレアとアルバで習慣に少しの違いがあったのだ。

 モレアでは両手を取って指にする口付けは、主に親から小さな子供への愛情表現だ。しかしアルバでは家族や親友、恋人への愛の証を意味するのだと聞いたのは、アスカニウスの思いを告げられた後のことだった。


「こ、こういったことは、困ります。お応えできませんと申し上げたはずです」

「俺も、何度断られても口説くと言ったはずだが?」

「うっ……」


 あの夜。

 アスカニウスに抱きしめられ、口付けられ……フェリクスが拒絶した後も、アスカニウスは以前と変わらずに接してきた。

 無礼を咎められなかったことにホッとし、彼の寛大さに感謝したのも束の間、アスカニウスはことあるごとにフェリクスを口説くようになったのだ。

 いつものように村の仕事を手伝って回る間も、帝都行きの準備のため代表者で集まる前後にも、愛を囁き、手を繋ぎ、隙を見せると今のように体のどこかに口付けようとする。

 その光景は村中で目撃され、そのたびにフェリクスがばっさりと断っていることも皆に知られていた。


「何度言われても、お応えすることはできません。貴方の時間が無駄になるだけです」


 フェリクスはアスカニウスを直視することが出来ず、視線を泳がせながらなんとかそう口にした。

 彷徨った視線が行きついた先。先ほどまでフェリクスたちのいた場所で、レグルスとセサルがニヤニヤと楽しそうな笑みを浮かべてこちらを見ているのが目に入った。


「ルキウスたちを見に行かなくてはッ」


 フェリクスはアスカニウスの脇を通って船室に繋がる階段へと逃げ込んだ。すぐ後ろをアスカニウスがついてくるのが気配で分かる。

 船はゆっくりと左右に揺れていて、階段を踏み外さないように壁に手をつく必要があった。


「船はダメだな。人が多すぎて神官殿とふたりきりになれない」

「なれなくて良いのです!」


 フェリクスの必死の返答にアスカニウスがくつくつと笑いを漏らす。その笑い声がすぐ近く、頭の後ろの触れそうな位置から聞こえて、フェリクスはまた体温を上昇させた。


「何度も言ったはずです。ザーネス神と龍神様たちへの誓いがあるので」

「独身の誓いは立ててないんだろ?」

「独身の誓いとは別の誓いがあるのです」

「その誓いをしている神官殿を口説くと、俺は神の意に背くことになるか?」

「それは……」


 そうだと頷いてしまえばいいのに、フェリクスはいつもここで躊躇ってしまう。


 階段を下りきったフェリクスは足早に船内を進む。

 船を輪切りにするような等間隔の木の壁は、船体の強度を補うものでもあり、部屋としての利便性はあまり考慮されていない。木の壁の真ん中に出入りのための四角い穴があり、扉はついていない。部屋と廊下の区別がないのだ。船室はその壁と壁の間の空間であり、杭に紐を通して布を吊り下げることでなんとか個室のような体裁を取っている。

 船底の階層が乗組員や兵士たちの部屋、甲板に近い階層が船を雇った主人であるアスカニウスたち貴族と、客人である神域の代表団の部屋になっている。

 ルキウスたちが休んでいる部屋――目隠しの布の前まで来ると、隣に並んで立ったアスカニウスが身をかがめ、フェリクスに顔を寄せて囁いた。


「船旅がひと月。帝都での滞在がひと月だ。その間にゆっくり神官殿を口説かせてもらおう」

「え、遠慮しますッ」


 思わず拒否の言葉を吐いたフェリクスに、アスカニウスは目を細めた。


「つれないな」


 彼の目が、とても優しい。

 アスカニウスはもとより温和な人物だが、フェリクスを見る目にもっと他の感情が込められていると知ってしまった。その感情は、恋愛経験が皆無のフェリクスにさえ意味が分かるほど明確だ。柔らかくて熱い視線に晒されるとフェリクスの方まで体が熱くなる。


 そう。フェリクスは帝国一の大貴族の長から、熱烈な求愛を受けているのだ。

 しかしその想いに応えることはできない。

 少なからずアスカニウスに惹かれている自身の心を封じ込めてでも、そうはできない理由があった。


 フェリクスは乱れてもいない髪を耳にかけるふりをしながら火照った頬を手で押さえて、アスカニウスから視線を逸らした。















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