第0章 龍神

 神域には戦禍から逃れた人々が押し寄せていた。


 家が燃え、故郷を追われ、帰る場所をなくした者たちが、着の身着のまま神域の守村にたどり着き、何卒お助けくださいと神殿に手を合わせている。

 いくら助けようと手を尽くしても、数多の命が消し飛ぶように失われていく中、ピュートーでひとつの神託が下された。



 ――火龍の血を継ぐ者を聖水に浴する



 紫色のトーガを身に纏った黒髪の神官が、湖の淵に跪き深々とこうべを垂れる。

 見習い神官の少年と警備兵をひとりずつ連れて山を登ってきたその神官は、古いモレア語の祝詞を絶え間なく口にしながら、腕に抱えたモノをゆっくりと差し出した。


 ところどころ汚れた粗末な布に包まれた、ひと抱えほどのモノ……布の中身がわずかに動く。

 それは赤子であった。


「ラコウヴァ様」


 神官の正面には、赤子を見つめる龍がいた。

 湖の浅瀬に細長い体を横たえ、青白い鱗に覆われた両の腕を交差させ水底に肘をつき、寛いだ様子の水龍――神域ピュートーの湖の主・ラコウヴァ龍神だ。


 ギザギザとした歯の並ぶ顔は一見獰猛そうに見えるが、暗緑色の瞳は丸く愛らしい。水龍に限らず龍の瞳は丸く大きく、慈愛に満ちた光をたたえて人間たちを見守っている。

 蛇や魚、ワニなどの生き物は水龍に模して水の神の手で造られたのでよく似ているのだが、龍の体長は二十キュビットをゆうに超える。

 細長い体には規則正しく鱗が並び、長い首の下から二本の腕が生え、その先には立派な四本の爪が伸びる。脚は腕よりもずっと太い。水面から覗く尾は細く尖り、先端まで銀色の鱗に覆いつくされていた。


「この子が」


 ラコウヴァ龍神が声を発した。巨体が発するとは思えない、澄んだ、未発達な少年のような声だった。

 神官は赤子を両手に捧げ持ったまま目を伏せる。


「はい。長老テティカが御神託を賜りました。この子の母親の願いが聞き届けられたのだと伺っております。どうか、この子に水をお与えくださいませ」


 ラコウヴァ龍神は半ば水に浸かっていた右腕を引き上げた。水辺に跪く人間たちに飛沫がかからぬよう、その動きは緩慢なほどにゆっくりだ。

 銀色の尖った爪を持つ龍の手が赤子を包む布の端に触れる。


 赤子の目は開いていたが、巨大な龍に驚く様子もなく、ぼんやりとした視線で宙を見つめていた。本来熟れた果実のように丸いはずの頬は肉が薄く、潤むほどに瑞々しいだろう唇は白くひび割れている。

 赤子は明らかに乳が足りず、その命は今にも儚く消えようとしていた。


「ザーネス様から聞いているよ。早くここに浸けてやりなさい」


 神官は赤子の体を覆う布を取り除き裸にする。隣で静かに控えていた見習い神官が緊張に震える手でその布を受け取った。


「キャンッ」


 体が水面に触れると赤子が声を上げた。まるで仔犬の泣き声のようだ。水が冷たいのか、小枝ほどに細い足をわずかにバタつかせる。

 その両足の先には尖った赤黒い爪のようなものがあった。まだ鳥の足のようにか細いが、赤みがかった褐色の肌には小さな鱗が連なり、尖った爪は四本。

 龍の特徴を持って生まれた、先祖返りの子供だ。


「大丈夫だよ。渇いてるだろ。水に入りな」

「きゅうん」


 ラコウヴァ龍神が声をかけても赤子はむずがり、神官の腕の中で力なく暴れる。

 やはり声は仔犬のようで、赤子を抱える神官も、それを見守る見習いと警備兵も戸惑いの表情を浮かべた。誰もが先祖返りの子を見るのは初めてで、どのように扱えばよいのか分からずにいる。


「ひゃんッ、ひゃんッ」

「大丈夫だ。今までよく頑張ったね」


 ラコウヴァ龍神の声を聞きながら神官は慎重に赤子を水に下ろした。

 首から下の体がほとんど水に浸かると、赤子は大人しくなった。虚だった瞳に輝きが戻り、大きく見開いたまんまるの目で龍神を見上げる。

 赤子の瞳は太陽の光に蜂蜜を垂らしたような、見事な黄金色だった。


「くぅん……」


 赤子が小さな声を漏らすと、ラコウヴァ龍神はゆっくりと爪の先を赤子の顔へと向けた。


「お前の母の憂いを除くために、ひとつをやろう。簡単なまじないだから、この水がないと効き目がなくなる……年に一度はここへ来なさい。そうだね、暖かい季節がいい」


 水龍の銀色の爪の先から一筋、水がこぼれ落ちる。鱗に覆われた大きな手の甲から流れ落ちた水は赤子の顔にかかり、バタバタと音を立てて貧相な頬や額を打った。

 神官たちはギョッとして肩を跳ねさせる。龍神の手は大人の上半身ほどの大きさがあり、手についた水滴と言えど杯で汲んだほどの量になるのだ。

 それが死にかけていた赤子の顔に一度に浴びせられたのだから、驚くのも無理はない。


「んぶッ……んえぇぇぇ……ふやぁっ、ふやぁっ、ふやぁっ!」


 案の定赤子は泣き出した。アンズの実ほどしかない小さな拳を握りしめ、肉の少ない顔をしわくちゃにして声を張り上げる。


「ふやぁっ、ふやぁっ、ほぎゃぁっ、ほぎゃぁっ!」


 規則的に、深く息をするように、赤子は泣いた。その声に合わせて枝のような細い手足が力強く水をかき湖面に波紋を作る。


「ほぎゃぁっ、ほぎゃぁっ、ほぎゃぁっ」

「おお、こんなに元気に!」

「奇跡です!」


 神官たちは歓声を上げ、それにラコウヴァ龍神は静かに頷いた。


「立派な足だ。爪は切ってやった方がいいね。自分で自分を傷つけてしまうから。足は龍だが他は人間、肌が柔らかいだろう」

「仰せの通りに」


 神官が湖面から赤子を引き上げると、見習いが乾いた布で赤子の体と神官の腕を拭う。その間も赤子は元気に泣き声を上げ、飛び跳ねるように動く手足が龍神と人間たちの笑みを誘った。

 赤子が元気になると自然と笑みが浮かぶものだ。


「こんな時に生まれたのでなければ、もっと他の祈りを贈れたかもかもしれないね。可哀想に」

「まことに……」


 神官は再び布に包まれた赤子を抱え直して表情を曇らせる。


「泉の水は惜しまず分けなさい。皆で毎日飲んでもなくならぬよう、なるべくたくさん下へ送るようにしよう」


 ラコウヴァ龍神はそう言って大きな体を揺すり湖面を揺らした。すると鏡の如く凪いでいた湖の端まで、風が強い日のようにさざ波が行き渡る。

 神官と見習い、それに少し離れた場所にいる護衛も揃って深々と頭を下げた。


「ありがとうございます。逃げ延びてきた民に、ラコウヴァ様のご加護を分配することを誓います」


 長く続いた争いのために人々は疲れ切っていた。

 東の国境付近で起こった反乱は、帝国東部の広い範囲を巻き込む戦争に発展した。山奥のピュートーはまだ直接戦火に見舞われていないが、同じ神域であるイストモスの港は反乱軍に占拠され、何度も大きな衝突が起きているという。


「この子に真の平穏が訪れるまでまじないが続くよう祈ろう。いつか不要になる日まで、どうか心安らかに、強く優しく育っておくれ」


 ラコウヴァ龍神は口付けるように鼻先を赤子に近付けた。


「赤子の名は?」

「フェリクスと」

「フェリクス。お前が母の思いを抱き続ける限り、私はお前にこの水を分け与えてまじないをかけてやろう。ゆるりと暮らすが良い。守村の皆がお前を守るよ。だからお前も、共にこの地を守っておくれ」


 見習いの少年は先ほどより近付いた龍神に慄きながらも、手にした布を握りしめてまっすぐにその姿を見つめた。


「ラコウヴァ様! 私にも、何かお手伝いできることはありませんか?」


 突然龍神に直接声をかけた見習いに、神官は何か言おうと口を開きかけて、やめる。

 ラコウヴァ龍神は丸い目を嬉しそうに細めた。龍の顔から表情を読み取るのは難しいが、まるでニッコリ笑っているようだ。


「そうだね。今ここにいる皆はまじないにかからない。他の者は……この子の母以外は皆、まじないのおかげで目が眩むだろう。フェリクスは他の子と同じように扱われるよ。だからお前たちはフェリクスに真実を教え、母の思いを伝えておやり。お前たちだけがこの子を導き、諭し、支えになってやれるだろう」


 見習いの少年はフルリと身を震わせた。

 ラコウヴァ龍神はオリーブ色をうんと深くしたような暗緑色の瞳で穏やかに少年を見つめる。


「一緒に祈っておくれ。この子のために。皆のために。水と、大地と、太陽と、空に向かって祈っておくれ」







 見習いの少年はその時から必死に祈った。

 帝国に平和が訪れますように。

 守村が豊かに栄えますように。

 子らが健やかに育ちますように。


 自分たちより遥かに長い時を生きることとなる赤子に、良き友人が現れ、孤独が慰められますようにと。




















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