第五章 眺望 5

 宴は深夜を過ぎても続く。

 子供たちとその家族の大半が引き上げていっても、騒ぎ足りない者や独り身の若者は、酒を煽り笑い声を上げている。篝火にはもう何度も薪が追加された。


 地面には酔い潰れた者が転がっている。

 モレアの春がいかに暖かくとも、夜に外で寝て大丈夫なのかとアスカニウスが聞くと、村人たちはいつものことだと笑った。

 兵の半分ほどが酔い潰れてしまいあちこちで寝入っていた。アスカニウスが念のため呼吸を確認してみると、安らかな寝息が響くばかりだったのでそのまま転がしておくことにする。


 同じだけの酒を飲んであまり酔わないのは、アスカニウスが人より体が大きいことと、ピュートーの水が清らかなことが理由だろう。酒も所詮水からできている。水の良し悪しで味が決まるし、アスカニウスは清らかな水を飲むと活力が湧くので悪酔いしない。やはりここの水は今まで飲んだ中でも一番体に合っているようだ。


 アスカニウスは薄闇の中でフェリクスの姿を探した。いつの間にか姿を見失っていたのだ。

 だんだん人が減って静かになる広場の中に、紫色のトーガは見当たらない。


「フェリクス様? そういえばいないですね」

「どっかその辺で寝てんじゃないですか?」


 まだ言葉の通じる者に訊ねるとそんな答えが返ってきて、アスカニウスは苦笑を噛み殺す。


「……神官殿も、その辺で寝るのか」


 人影のある場所を順に見て回った。

 ベンチの影ではルキウスがイビキをかいていて、葡萄酒の樽の間にはヘラスが落ちていた。ポンペイウスは迎賓館の階段を枕にして寝入っていた。

 白い石造りの迎賓館の前には他にも酔っ払いが倒れている。石の床は硬くて冷たいだろうに、皆随分と気持ち良さそうな寝顔だ。


「こんなところに」


 フェリクスの姿は列柱屋根の下にあった。

 大きな白亜の柱にもたれて足を投げ出し、上機嫌で笑顔を浮かべながらうとうとと船を漕いでいる。いつもきっちりと結われている髪は解けかけ、うなじの覆い布も肩の下の方までずり落ちてしまっていた。手の先に転がる木製のジョッキの中身は空だ。

 列柱屋根の外にある篝火がここまで届き、フェリクスの健康的な爪に反射して暗闇の中で白く浮かび上がっていた。

 アスカニウスは傍らに膝をついて、幸せそうな微睡の顔をのぞき込んだ。


「神官殿、もう寝てしまうのか?」

「んぅ……クラディウス様?」


 眠そうに瞳を瞬かせる様子が可愛らしい。アスカニウスはそのまま眠ってしまっても構わないと思いながらも、反応してくれることが嬉しくて言葉を続ける。


「随分飲まされていたな。こんな無防備な神官殿は初めて見た」

「ふふ……わが村のワインは、おいしいでしょう?」


 何がおかしいのかクスクスと笑い、フェリクスはもたれかかっていた柱に背をつけたまま、もぞもぞと体勢を変えて膝を抱える。とうに乱れていたトーガの裾が石の床を引き摺られて、フェリクスの足の先から縦に長く伸びた。


「キュケオンも……牛肉も、おいしいでしょう?」

「ああ、どれも質がいい。羊も美味かったな」

「そうなんですよ、帝国中から、巡礼者が来ても、恥じないように」

「そうだな」


 アスカニウスは静かに相槌を打った。夢見心地のフェリクスの気分を邪魔したくなかった。


「楽しい宴になりました……クラディウス様のおかげです」

「俺の?」

「みんな、新しいことに胸を躍らせているんです。未来に希望を抱いて……今までこの村に、こんなことはなかった」


 フェリクスは頬をすり寄せるようにして自分の膝をしっかりと抱える。


「先祖返りの水龍様がいらして、大祭の候補地になって……すごい……こんなことがあるなんて、想像もしていなかった」

「なんだ、いつの間にか随分と歓迎されていたんだな。神官殿は最初は俺を嫌がっていただろう?」

「本当はずっと、会ってみたかったんですよ、先祖返りの貴方に」


 アスカニウスは息を飲んだ。

 うっとりと目を閉じて口元を緩めるフェリクスは、辿々しく言葉を途切れさせながらも話し続ける。


「帝都の有名な、先祖返りの方は、どんな人なんだろう……長い時間を生きるというのは、どんな思いなんだろう……寂しくは、ないのだろうかと、聞いてみたくて……一度でいいから、お会いしてみたくて」


 フェリクスの長い睫毛が弱い明かりに照らされて震える。

 なるほど。アスカニウスは将軍として名を馳せたこともあり、しばしば子供たちの寝物語に登場させられることがある。フェリクスも幼少期にそんな話を聞き、心ひそかに憧れを抱いてくれていたのかもしれない。

 アスカニウスは首の後ろにくすぐったい感覚を覚えた。


「しかし変わった感想を持つな。寂しくないか聞いてみたいなんて」

「寂しくは、ないのですか……奥様やお子様が、先に……」


 フェリクスは自分の膝に擦り寄ったまま、薄く目を開いた。酔って眠気眼でも、フェリクスはアスカニウスを憂いてくれる。瞳に労りが込められている。


「そうだな。そりゃあ、たまに寂しいと思うこともある」


 アスカニウスが肯首するとフェリクスはまた目を閉じた。


 親どころか兄弟、妻、子も孫もすでに見送ったアスカニウスは、その度に耐え難い苦痛に見舞われた。

 友人が逝き、戦いに連れて出た部下が散り――そう言われてみれば、長く生きるということはいくつもの死を見送ることだったと改めて思い知る。耐え難いと思った苦痛を耐えて生き抜く自分を嫌悪したことすらあった。

 あの苦痛は全て、寂しさの塊だったのだ。


「だが、その分多くの人に出会ってきたし、長く生きているからこそ要職もなんとかこなしているわけだ。こうやって東方の神域にも来ることができた。そう機会のあることじゃない。寂しいばかりでもないぞ」


 フェリクスは再び目を開けてアスカニウスと視線を合わせた。


「そういえば、エリスで新たに先祖返りが生まれたそうだな。背中と目の周りに白い鱗があるとか」

「はい、聞き及んでいます」


 二年ほど前のことだ。神域のひとつエリスで天龍の血を引く先祖返りが生まれていた。

 先祖返りの誕生は正式に報告されることもあれば、秘匿されることもある。噂だけが飛び交い、真実が掴めないことも多い。もしかしたらこの広い帝国のどこかに、もっとたくさんの先祖返りがいるのかもしれない。


「自分以外の先祖返りというのは会ったことがなくてな。次はエリスを訪ねられるといいんだが」

「私もその方と、いつかお会いしてみたい……」


 フェリクスは満ち足りたような笑顔を浮かべ、抱きしめた自分の膝にまた頬を擦り寄せる。


「ふふ、すいません、飲み過ぎてしまった……今、いつ頃でしょう、みんな戻りましたか……?」


 話しているうちに意識がはっきりしてきたらしい。フェリクスはまだ舌足らずな口調ながら、時間を気にし出した。


「もう真夜中だ。みんなほとんど潰れたが、若いのは残ってまだ飲んでる」

「はい……ああ、そうだ、ユリアン様は」

「ユリアンは寝室に下がらせた。レグルスの方へ行きたいと騒いだが、イストモスの皆ももうさすがに部屋に戻されているだろう」


 フェリクスは細く長い息を吐いた。

 ぎゅっと膝を抱えていた腕を緩め、天井を見上げるように柱にもたれた頭を上げる。結い紐がついに完全に解けて、長く艶やかな黒髪が彼の肩から滝のように流れ、床に広がった。その上を白い覆い布がするすると滑り落ちていく。


「レグルス様は、まだお若いのに立派な方ですね。私が無神経な進言をしたのを取りなしてくださった……お優しく、聡明なお方です」

「なんのことだ?」

「イストモスの皆さんを饗宴にお誘いしましたが、あれは私の配慮不足でした。あんなに気後れなさって、悪いことをしてしまった……レグルス様はルフス殿たちの気持ちを汲んで、かつ、私の言葉の全てを拒否しないよう、素早く判断されました」

「ああ、さっきの」


 アスカニウスはフェリクスの憂いを帯びた横顔を見つめながら、宴が始まる前のことを思い起こす。

 確かにルフスたちは広場での宴には参加したくなかっただろう。例えピュートーの人間全員に許されても、本人の罪悪感が払拭されるわけではない。彼らが真に善良であるからこそ完全に罪の意識を消すことは難しい。

 葡萄酒と切り分けられた牛肉は等しく配られた。葡萄酒以外の酒も、肉以外の料理も、なるべくたくさん神官舎の前庭に運ぶようにと、フェリクスは饗宴の支度中に見習いや世話人に託していた。


 アスカニウスはそのことよりも、レグルスを指して若いと言うフェリクスの言葉に違和感を覚えた。


「あれは三十だぞ。政治家としては駆け出しだが、神官殿より若くはないだろう」


 フェリクスはどう見ても二十代半ばだ。容姿と実年齢が違って見えるとしても、四十や五十というのは無理がある。長老並みに人々に頼られているが、レグルスを若いというほどの年齢にはとても見えない。


 そこまで考えてひとつの可能性に思い当たる。

 もしかして彼は、独身の誓いで年齢を捧げたのではないか?

 中央神殿の最奥で暮らすラウィニアの神子みこのように――特別な神官職の彼らは、年齢を、自分の時間そのものを神に捧げるという。彼らは四十四歳の任期を終えるまで若々しい容姿のまま神に仕えるのだそうだ。時間を捧げることで、地上での時が止まるのだ。


 アスカニウスは石の床についていた膝を崩し、フェリクスの真横に足を組んでどっかりと座り込む。

 聞くなら今だと決めた。


「神官殿は、もしかして、独身の誓いを立てているのか?」

「えっ?」


 フェリクスが目を見開きアスカニウスの顔をまじまじと見つめる。


「いえ、そのようなことは。おかげさまで村は平穏ですし、大きな飢えや疫病もありません」

「ん? それと、神官殿の誓いとなんの関係がある?」

「はあ……?」


 アスカニウスが問い返すと、フェリクスは困った様子で額の横の髪を掴んだ。

 髪に触れたことで結い紐が解けてしまったことに気付き、両手を頭の後ろに回して髪をひとまとめに掴むと、右肩から体の前に引き出した。長い髪は胸から腹を滑り落ち、トーガの襞が覆い隠す腰のあたりまで届く。

 フェリクスは探るようにゆっくりとアスカニウスに訊ねた。


「クラディウス様の周りでは、飢饉や病がなくても、独身の誓いを立てる方がいらっしゃるのですか?」

「アルバの高位の神官は、みな独身の誓いを立てているぞ」

「何故そんなことを……」

「ザーネス神への信心を示すためじゃないのか?」


 アスカニウスはやや自信なさげに答えた。アルバの神官に直接理由を尋ねたことはなかったからだ。

 その答えにフェリクスは唖然とした表情を見せた。


「独身の誓いとは、本来ザーネス神に身を捧げる……生贄の儀式がもとにあるのです。水害ですとか、凶作ですとか、そういった時にかつて人間の生贄を捧げた神事があったのです。とても古い時代に」

「ああ、そうらしいな」

「ですから、よほどのことがなければ独身の誓いなど立てません。信心を示すために誓いなど……いえ、誓いを立てた方を否定はしません。きっと西方のそのような習慣は、厄災のない今の世を表しているのかもしれませんね。驚きましたが、素晴らしいことです」

「では神官殿は誓いを立ててないんだな?」


 アスカニウスが念を押すと、頷きながらフェリクスは困惑の表情で視線を彷徨わせた。

 さすがにフェリクスにも真意が伝わっただろう。


「神に身を捧げていないなら、俺が口説いてもお叱りを受けないな」

「いえ、その……その通りですが」


 フェリクスは俯き、床に落ちてしまった覆い布を拾い上げて手の中に握りこんだ。

 すぐには拒絶の言葉が出てこない。アスカニウスはそのことにホッとしながら、初々しい反応を見せるフェリクスをすぐにも抱きしめたい気持ちに駆られる。

 抱きしめたかった。

 そうだ、監視塔の上で、白い歯を見せて笑うフェリクスを見た時、アスカニウスは彼を抱きしめたいと思った。熱い肌に頬を寄せ、できることなら力強く抱き返されたいと、そう思ったのだ。


 酔いに任せて手を伸ばした。

 そんなつもりはないなど、どの口が言ったのだろう。

 ポンペイウスに問われた時は何も嘘を吐いたつもりはなかった。フェリクスを好ましく思っても、死を感じる人生の終盤に情人を持つ気などなかった。


 彼の体を白亜の柱から引き剥がしても抗議の声は上がらなかった。膝を抱えていた体勢が崩れ、フェリクスは体を斜めにしてアスカニウスの胸に上半身を預ける。

 アスカニウスは少しずつ腕の力を強くした。フェリクスの形のいい丸い頭がアスカニウスの頬に当たる。長い黒髪はつるつるとしていて、絡まることなく指の間を流れていく。


「あ、あの、クラディウス様」

「神官殿が嫌でなければ」


 彼は嫌悪を感じるならしっかりと拒絶するはずだ。アスカニウスが帝国最大の貴族の長であっても、どれだけ高価な贈り物をしても、心を許さないなら拳の一つも飛んでくるに違いない。

 その考えが自分に都合のいい幻想でないことを、必死に望んでいた。もしフェリクスに、権力を振りかざして言い寄る男だなどと思われたら立ち直れない。


「神官殿が嫌がるなら何もしない。仕事にも事情は持ち込まない。ただ、俺はすっかり神官殿を好きになってしまった。許されるなら口説かせてくれ」


 いくらでも待つ、と続けそうになって、ついにアスカニウスはその言葉を口にすることはできなかった。

 待つことはできる。しかし、きっとそれは期限付きだ。

 フェリクスはアスカニウスの胸元で浅い呼吸を繰り返している。


「断られても恨んだりしないぞ。素直に答えてくれ」

「いえ、いいえ、その……すみません、そんなことを言われたのは、初めてで……」


 か細い声での返答に、アスカニウスは戦慄した。

 やはり遠いモレアの地はまったく価値観が異なるらしい。彼のような魅力的な青年が、誰にも懸想されることなく生きてきたなんて信じられない。


「まさか俺が一番乗りとは」

「ええと、その、なんと答えればいいのか」

「嫌ではないか?」

「……はい」


 アスカニウスは腕の力を緩めてフェリクスの顔を覗き込んだ。

 薄暗い中で顔色までは分からないが、金色の瞳は潤んでいるように見えた。

 経験がなくとも知識がないわけではないだろう。フェリクスはアスカニウスと目が合うと恥じ入ったように目を伏せてしまう。長いまつげが震える様が美しい。


 アスカニウスはゆっくりとフェリクスの頬に触れた。左手の、人間の手の方だ。龍の手では鋭い爪が彼の艶やかな肌を傷つけてしまう。

 指先が触れるとフェリクスは肩をはねさせたが、身を引くことはなく、うすく目を開けてアスカニウスを見上げる。

 フェリクスの濃い褐色の頬が、アスカニウスの白い手に包まれた。

 右腕に力を入れて彼の体を引き寄せる。抵抗はなく、しかし視線は狼狽を表して左右に揺れた。


 まず、額に口付けた。熱い肌だ。

 ぎゅっと閉じられてしまった瞼にも唇で触れる。鼻先に、頬にと場所を移していく。

 頬の唇に近い場所を二度吸ってから、固く閉じられた口元に自分のそれを重ねた。熱く、しっとりと潤っている。一度離れて、また触れる。今度は押し付けたままゆるく顔を動かし、唇をこすりつけるようにすると、フェリクスは一層身を固くしてしまう。

 頬に添えた左手の指先で耳や首筋をくすぐり、身をよじるフェリクスの体を右腕でしっかり抱きしめながら彼の唇を食んだ。アスカニウスの唇の内側の濡れた部分が触れると、驚いたフェリクスの口がうすく開く。ゆっくりとその行為を繰り返すと腕の中の体の緊張がほぐれてくるのを感じた。


 アスカニウスは慎重に舌を伸ばし、まず彼の上唇を舐めた。フェリクスの体がピクリと跳ねる。すでに濡れてぬめりを帯びたそこを左右にくすぐるように辿り、またしばらく唇だけで触れる。

 次に舌を伸ばした時もフェリクスの体はピクリと跳ねた。

 上唇の次は下唇を、遠慮がちに覗く前歯を、その先にある舌先を、順にくすぐった。そのたびにフェリクスの体は同じように何度でも跳ねる。アスカニウスはその小さな震えのような反応を楽しむように、少しずつ、少しずつフェリクスの腔内を攻略していった。


 フェリクスの口の中はひどく熱く、葡萄酒に入れられたシロップの香りがする。


 舌の表面をこすり合わせると逃げるように舌が引っ込んだので、後頭部を左手で引き寄せて唇全体を密着させて深く交わる。捕らえた舌にやんわり吸い付くと、フェリクスの体は一際大きく跳ねた。

 ピリリと痛みが走った。

 痺れたような舌の感覚に、アスカニウスは思わずフェリクスの唇から離れる。


「あ……ッ」


 解放されたフェリクスの口から吐息と共に漏れる小さな声にゾクリと背中が反応したが、自分の唇の端から垂れるものに気付いて頭は一気に冷静さを取り戻した。

 血だ。

 アスカニウスの口内はどこからか出血していた。指先で口の周りを拭うと、唾液ではない赤黒いものがかすかに見てとれた。閉じた口の中にもじわじわと血の味が広がっていく。

 最近、ふとしたことで口から血が出ることがある。なにもこんな時に……アスカニウスは苦い鉄の味を飲み込んだ。


「どう、しました……?」


 フェリクスはまだ放心したようにぼんやりとアスカニウスを見上げていた。フェリクスの唇にもついてしまった血を、自分のトーガの裾を引っ張り上げて拭ってやる。


「せっかく神官殿が許してくれたのに台無しだな。すまん、血の味がするだろう?」

「血が……?」


 幸いにもフェリクスの口の中にはあまり残らなかったようだ。瞳を瞬かせたフェリクスは、アスカニウスの口の端に滲む血にようやく気付き、ハッと表情を変えてそこに手を伸ばす。


「大丈夫ですか? 痛みはありませんか?」

「平気だ。たまにあるんだ、熱いものを食べた時なんかに……悪かったな、気分が悪いだろう?」


 フェリクスはアスカニウスの腕の中で首を振った。


「いいえ。私は大丈夫ですが……お加減が悪いのではありませんか? あまりお酒を召されない方が良かったのでは?」

「ははっ、宴の主人が言うことか」


 アスカニウスは腕の力を強めていっそうフェリクスを引き寄せる。頬と頬が触れ合う。彼の赤い肌はやはり熱く、痛いほどだった。


 ――あと五年、あと五年だ。


 ――これで最後だ。誰かを深く思うことも。


 ――だから頼む、神々よ、最期の願いを聞き届けてくれ。


 アスカニウスはきつく目を閉じて祈った。フェリクスは大人しく腕の中に収まっている。そっと頬を擦り付けると、驚いたようにびくりと震え、それからまた大人しくなった。

 彼の片手がアスカニウスの二の腕に伸びて、トーガの襞の上から遠慮がちに触れてきた。初めはそっと、添えるように優しく。少しだけ力が込められて、掴むように、遠慮がちに抱きしめ返される。


 広場ではまだ元気なものたちが笑い声をあげていた。火から遠いこの場所はよく見えないのだろう、様子を伺うような気配もない。

 アスカニウスは目を開けて、自分の胸にもたれるフェリクスの体の線を眺めた。

 紫色のトーガの波から、右足のふくらはぎから下がはみ出ていた。その足首から下はいつもと同じくサンダルと麻布に覆われている。


「いつか神官殿の足が見たいな」


 欲望が口を突いて漏れ出る。


「えっ……?」


 フェリクスが心底驚いた様子で顔を上げた。アスカニウスはうっかり口に出してしまった煩悩が気まずく、暗くてよく見えない屋根を見上げるように視線を逸らす。


「いや、その、いつも足を布で覆っているだろう? だからてっきりザーネス神に両足を捧げたのかと思って――」


 ドンッ、と胸を突かれて言葉が止まった。フェリクスが力一杯腕を突っ張ったのだ。

 もたれ合っていた二人は互いに体勢を崩し、アスカニウスは後ろに傾いた上半身を支えるために片手を床につく。


「な、なんだ?」


 突然の事態に目を見開くアスカニウスの視線の先で、フェリクスは乱れたトーガを手繰り寄せていた。石の床に尻をつけたまま後退り、両足に布を巻きつけようと必死だ。


「神官殿?」

「な、なりません! それは……そういうことはお断りします!」


 まだ浮かれた場所から降りてきていなかったアスカニウスの頭は、フェリクスが大層恥ずかしがっているのだと考えた。

 色恋に縁がなかったというフェリクスに、肉体関係を仄かしたのは性急だった。今後は気を付けなければ、と呑気な結論に至ったが、すぐにその考えは打ち消される。

 彼の表情は羞恥に染まってなどいなかった。青ざめてさえいたかもしれない。


「大祭の候補地にはなります。クラディウス様にはお世話になります。しかし、これは……なりません」


 引きつるほど硬い表情のフェリクスは柱に手をついて身を起こす。


「神官殿、いったい何が」

「申し訳ありませんッ」


 アスカニウスが止める間も無くフェリクスは背を向け、ずりおちる衣装に躓きながらも夜闇の中へと去っていってしまう。


 ――足が、なんだというんだ……。


 ついさっきフェリクスは、戸惑いながらもアスカニウスを受け入れようとしてくれたのではなかったか。


「なんで……」


 冷たい石の床に尻もちをついたまま、アスカニウスは茫然と呟いた。
















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