第五章 眺望 4

 アスカニウスがルキウスたちの様子を笑って見ていると、テーブルの方へイレーネと数人の村人がゆっくりと近づいて来た。

 イレーネの手を取って支えているのは、昨夜会議の最前列で発言していた口髭の男性だ。


「イレーネ神官」

「どうかピュートーをよろしくお願い致します、水龍様」

「昨夜は遅くまでご苦労だった。見事に村の意見をまとめてくれたと聞いたぞ」

「とんでもない。ゆっくり話せば、皆気持ちは同じだと分かり合えただけのこと……この通りろくな作法も知らぬ田舎者ばかりですが、どうかお導きください」


 口髭の男性がひとつ頭を下げてからアスカニウスに向き合った。


「水龍様を信じてお任せします。俺は炭職人です。毎日木を燻す以外、何もしたことがない。帝都のこともよく分からんし、神事にも詳しくはありません。でも、若いもんたちがあんなに楽しそうにしてるんだ。ザーネス様への信心を忘れずに励めば、きっといいことがあるんじゃないかと、そう思えてきました」

「理解に感謝する。今度貴殿の作った炭を見せてくれ」


 アスカニウスがテーブル越しに手を伸ばすと、男は心底驚いた顔をした。

 手を引かずに待っているとおずおずと握ってくれる。その手にはいくつものマメや火脹れがあった。


 それをきっかけに村人が入れ代わり立ち代わり、アスカニウスの席を訪れた。

 手を握り合ったり、酒を注いで共に飲んだり、幾人もと言葉を交わす。全員と話すことは叶わなかったが、今まで顔を合わせる機会のなかった者とも近づくことが出来た。


 そうこうしている間に、焼き上がった牛肉が切り分けられ、全員に配布される。生贄の牛一頭で足りるはずもなく、実際に焼かれた牛は五頭。さらに羊も二頭紛れ込んでいた。

 酒の種類も葡萄酒だけではなく、葡萄以外のさまざまな果実酒。アスカニウスのお気に入りとなったキュケオンも振る舞われた。


「神官殿も何か一言ないのか?」


 人の列が途切れたところで、アスカニウスはフェリクスを促す。フェリクスも多くの人々に話しかけられ、何杯も葡萄酒を勧められていた。


「はい。改めてお世話になります。誘致のために何をすればいいかも、まだ分かりませんが……」

「違う、違う。俺にではなく、みんなに向けてだ」


 アスカニウスが慌てて広場を指差すと、フェリクスは目を丸くして口を噤んだ後、照れた様子で肩を竦めた。


 周囲の人々に押し出されるような形で、フェリクスは輪の中心へと進んだ。そして律儀にアスカニウスに向かって深く頭を下げる。

 村人たちはフェリクスの言葉を聞きたがり、子供たちも肉をほおばる手を止めて彼に顔を向けた。


「私は今でも、少し怖い」


 フェリクスは紫色のトーガの襞を片手で掴んだ。


「ピュートーの誰かが、悪意に傷つけられないか。理不尽な目に遭わないか。お金や権力の脅威に巻き込まれないか……心配は尽きません」


 夜空の下で人々に囲まれ、篝火の灯りの中で話すフェリクスを、アスカニウスはじっと見つめる。

 彼は言葉の通り不安そうな顔をしていた。その不安を完全に取り去ることは、地上で生きている限りは難しい。


 天界に住むことを許された古の英雄ですら、富や名声を巡って争いを起こし、恋人を取り合って嫉妬に駆られる。人の心は純白の輝きだけで出来ているのではなく、おりのように沈んで淀んだ黒い影が常に存在しているのだ。


「でも、ピュートーは大祭を担うに相応しい土地かと、それだけを聞かれたのなら、胸を張って答えます。誰に恥じることもない。ここはザーネス様への祈りを迎え入れるのに相応しい神域だと、誇りを持って、そう答えます」


 わっと歓声が上がる。

 あちこちで口笛が鳴った。


「その通り!」

「ピュートーはいいところだ、ザーネス様のお気に入り!」

「葡萄酒も美味い!」


 フェリクスは右へ左へ首を巡らせ、村人たちと視線を合わせる。


「これからが大変ですよ。我々は本当の大祭を見たこともない。毎年行っている秋のザーネス祭とは規模が違います。私たちは多くを学び、考え、エリスやネメアという伝統の神域と競い合うことになります。ですが、やると決めたなら、本気で大祭を我が村に呼び込みましょう!」


 歓声はほとんど怒号のようになった。爆発的な渦だ。

 肉体自慢の男たちは互いの腕をぶつけ合って雄叫びを上げる。ルキウスが一際大きな声を上げて、周囲の人間と手を叩きあっている。


 どこからともなく歌と手拍子が始まった。

 モレア語のそれは、ザーネス神に見守られた神域を表している。祝詞ではなく分かりやすい口語の歌詞で、つまり村自慢の歌だ。


 牛の食べる草がたくさん生えている。

 葡萄酒のもとになる葡萄が実っている。

 パルナ山はどこよりも高く聳える――歌い、手を叩き、何人かが火の周りで踊り出した。


 用意されていた楽器が人々の輪の中に運び込まれ、演奏したい者たちで取り合いになった。

 今日は俺だ、私の方が上手いのだからと、何の基準で決めるかアスカニウスには分からなかったが、しばしの話し合いの後に演奏者が決まっていく。


 丈の高いダウリ太鼓を手に入れた者は、地面に座って足で抱え込んだ。大人の上半身ほどもある大きな弦楽器のキタラを勝ち取った者は、ベンチをひとつ占領した。

 笛は複数登場した。根本から二本に分かれたアウロスに、階段上に長さの違う木を並べて作られたナイ。十歳前後のまだ小さな子供もいれば、いかにも良い音を奏でそうな貫禄のある老婆まで、勝者たちは誇らしげに楽器を構える。


「フェリクス様! リュラーはやっぱりフェリクス様でないと!」


 ニコレが楽器争奪戦の輪から飛び出してきた。合奏に欠かせない竪琴のリュラーをしっかりと抱えている。

 アスカニウスはテーブルを離れフェリクスの方へ歩み寄った。


「リュラーが得意なのか?」

「ええ、まあ。祭礼での演奏をずっと担当していますので」


 フェリクスは謙遜することなく頷いた。


 リュラーは亀の甲羅を基礎にして、山羊の角を二本取り付け、馬の尾と何種類かの繊維をより合わせた弦を張った楽器だ。太鼓や笛に比べると格段に部品が多く、希少で高価な素材も含まれるため、個人で持つことはなかなか難しい。

 太陽神ポイボスが生み出した楽器であり、神殿には必ず祭事用のリュラーが置かれている。


「フェリクス様は名手ですよ。村で一番の奏者です」


 ニコレがフェリクスの胸元にリュラーを押しつけ、誇らしげに笑みを浮かべる。


「それは楽しみだ」


 アスカニウスは火の周りに集まった奏者たちの近く、石畳の上に尻をつけて足を組んで座った。

 すかさずポンペイウスが叫ぶ。


「アスカニウス様、今椅子をお持ちしますから!」

「俺はここでいいから持ってくるな。お前が座っておけ」

「そうはいきませぬ!」


 アスカニウスはテーブルについたままのユリアンを振り返る。


「ユリアン、お前もこっちに来い」

「長殿、お言葉ですが、貴族たる者平民と同じく地面に座するのはいかがなものかと」

「ユリアン様のおっしゃる通りです!」


 主人の命令を聞かず椅子を持ってきたポンペイウスのことは無視した。テーブルの周りでは給仕の少年少女が困惑の表情で事態を見守っている。


「ユリアン、覚えておくといい。こういう時は貴族であっても地面に座った方がいいんだ」

「こういう時とは?」

「軍団の中で兵と一緒に食事をする時と、こうして村の祭に招かれた時だ」

「何故地面に座るのが良いことなのですか?」

「そこからじゃ楽器が遠い。もっと近くでモレアの演奏を聴きたくないのか? あのナイの形を見ろ、アルバとは楽器の形も違うんだ」


 アスカニウスの言葉にユリアンはあっさりと椅子を離れた。ポンペイウスは椅子を持ったまま苦渋の表情を浮かべたが、ヘラスとパリスは驚いた様子もなくユリアンについてきて、膝をつき側に控える。


 ユリアンがアスカニウスの横で同じように足を組んで座ったのが合図だったかのように、奏者たちは一音目を鳴らした。

 楽器の調子を見るための短い旋律を聞いた人々は、早くも歓声を上げて、また酒を飲んだ。


 フェリクスは立ったままリュラーを構えた。

 甲羅の土台部分を左肘に乗せるようにして抱え、左手で山羊の角の片方を握って支える。右手に持った撥は象牙で出来ていて、フェリクスが素早く手首を返すと、弾かれた弦から高い音が伸びた。


 演奏はまず、天界の神々に捧げる静かな旋律から始まった。

 思わず目を閉じてしまう厳かな曲のあとは、龍たちを誘う賑やかな舞踏曲。その次は小さな子供たちが歌う季節の曲になった。

 その場の気分と人々の要望次第で、なんでも奏でられた。


 何杯もの葡萄酒が飲み干され、空になった酒樽が広場に転がされた。人々は酒と料理、そして楽器を取り合って笑い、歌い、踊った。


 アスカニウスは勧められるままに杯を重ね、人々と話すその合間に、フェリクスを見ていた。

 フェリクスはリュラーを弾きながら歌い、葡萄酒を飲み、紫色のトーガの裾を乱して子供たちと共に手を叩いて踊る。広場に置かれたいくつもの篝火に照らされて、赤い肌は一層鮮やかに輝き、金色の瞳は熱を帯びて橙色に染まっていた。

 アスカニウスは象牙の撥を持つ彼の手を見つめながら、子供たちと一緒に数え歌を歌った。


 一杯の水、一筋の光、最初の世界。

 右手と左手、前と後ろに二頭の牛。

 三本の木は、風から守り、雨から守り、天を支える。

 四つの神殿、東西南北、龍の爪。

 五本指の人間が生まれた――


 アスカニウスが子供の頃に聞いた歌詞とは少し違う、しかし、とても懐かしい。きっと帝国中のどこに住む子供も、同じような数え歌を口ずさんで育っている。


 月がどこまで昇ろうと、広場の人々はいつまでも歌をやめなかった。
















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