第五章 眺望 3

 肉の焼ける香ばしい匂いが漂い、あちこちの腹の虫が元気に鳴き出した。

 子供たちは早く肉が食べたくて、行儀良く待てと諭す親の目を盗んで広場のあちこちに作られた焚火ににじり寄って行く。


 火の周りには、木の枠に吊るされ、または串に刺さった肉の塊が炙られていて、その表面からはじわじわと油が滴っている。迎賓館の世話人を中心とした火の番がこまめに肉を返して炙られる面を変えている。

 大人たちも本当はすぐにも酒を煽りたくて仕方がなかったが、準備が整い、代表者の口上が終わるまでは待たなくてはいけなかった。


「焼かれている牛を見るのは初めてです」


 牛肉が火を取り囲んでいるさまを、ユリアンは目を細めて見つめる。

 目の近い者は夜目があまり効かず、すでに日の沈んだ広場は彼には過ごしづらいだろう。しかし、不便を補うほどに、初めて見る光景に興味津々だ。


「そうか、屋敷の調理場はあまり目にしないからな。今度宿営地に連れて行ってやろうか? 自分で肉を焼けるぞ」

「行きたいです!」


 アスカニウスとユリアンの席だけは特別にテーブルが用意された。

 貴族の饗宴は臥台に横たわって料理を摘まむが、もちろんここにそんな設備はない。村人たちは持ち出して来た椅子やベンチに腰掛けるか、多くは気にせず地面に尻を付けて座っている。


 ふたりのための給仕は、フェリクスと、数人の神官見習いが受け持った。まだ体の育ち切らない少年少女が、葡萄酒や水の入った大きな甕を緊張の面持ちで運んでいる。

 ザーネス神に生贄を捧げた正式な饗宴であるため彼らは皆トーガを纏っていた。アスカニウスとユリアンも、それぞれの身分に相応しい正装で臨んでいる。村人たちはいつもと変わらない軽装だが、農作業や手仕事で汚れた服を脱ぎ、新しいものに変えていた。

 もてなしの心と、神々への深い信心を感じて、アスカニウスの口元が自然と綻ぶ。


「フェリクス様、水龍様! ま、まもなく支度が終わります!」


 テーブルの横にやってきたのはルキウスだ。隣にはイレーネがおり、文字通り背を押されて来たらしい。

 フェリクスは見習いを指示する手を止めてルキウスに駆け寄った。


「ルキウス、ありがとうございます。あなたが宴の準備をしてくれたと」

「いえ、違うんです! 俺が言ったんではなくて……イレーネ様が、提案してくださって……」

「誰が言い出したのだって、いいじゃないか。自分の提案だと言ってしまえばいいのに、あまり真面目じゃ損をするよ、ルキウス」


 イレーネの言葉に、近くにいた皆が声を上げて笑う。まだ一滴も飲んでいないのに人々はすでに陽気だ。

 焚火を見ていた人々からルキウスに激励が飛んだ。


「ほおら、そろそろ牛が焼けるよ。みんな腹を空かして待ってる。挨拶はルキウスがするんだろう?」

「は、はい! では、葡萄酒を杯に!」


 ルキウスの号令で、人々は我先にと葡萄酒の入った木桶や甕に集まった。

 食器はそれぞれの自前だ。

 祭りの時だけの、とっておきの硝子の杯を大切そうに持つ者もいれば、馬に飲ませるバケツのような特大の木製ジョッキになみなみと酒を注ぐ者もいる。


 宴の参加者は、村人全員。

 といっても、山の上に住む家族全員が家を空けることはできない。妊婦や生まれたての赤ん坊、足の弱った老人もここにはいない。医師は見習いだけを送り出し、自分は診療所に残っている。

 しかし牛肉と葡萄酒は必ず全員のもとへ届けられるのだ。牢に入れられた罪人にすら、必ず。

 神域の守村はひとりも取りこぼさない。その強い信念が伝わってくるようだった。


 アスカニウスにも葡萄酒が供された。

 テーブルのすぐ近くに置かれた篝火のおかげで、ガラスの杯を満たす葡萄酒の赤がよく見てとれる。立ち上る葡萄の香りが鼻に届いた。つんとした発酵臭と果実の酸っぱい匂い、それに花の蜜のような甘い香りが遅れてやってくる。

 アスカニウスは大きく息を吸って香りを味わった後、隣で同じように鼻をひく付かせているユリアンの喉がゴクリと動くのを見て、笑いをかみ殺す。


 皆に葡萄酒が行き渡ったのを見計らって、ルキウスが中央の一番大きな火の横に立った。


「えー、今日は突然の招集になりましたが、必要なことだと思って」

「それ昨日フェリクス様が言ったやつ!」


 ガチガチに緊張して話し始めたルキウスに、すかさずヤジを飛ばしたのは従妹のニコレだ。


「う、うるさい! 途中で遮るんじゃない、失礼だろ!」


 憤慨するルキウスに、ニコレの周りから立て続けに冷やかしの声が飛んだ。


「早くしろルキウス、肉が焦げちまう」

「さっさと飲ませろ!」

「あーもう、お前ら黙っとけ! なんか色々考えてたのに、今ので全部忘れちまったじゃないか!」


 広場がどっと笑いに包まれた。

 ルキウスは歯をむき出しにして不快を示し、笑いの渦が落ち着いてから仕切り直しとなった。


「あー、えーっと。今日はもともと準備してた、クラディウス様とイストモスの皆との席です。イストモスの使節団はレグルス様と神官舎の方にいるんで、一緒ではなくなったけど……急な準備に付き合ってくれてありがとう」


 誰かが口笛を吹いた。

 パラパラと手を叩く音もする。


「昨日の会議は、すごく盛り上がりました。えー、内容はもう聞いてると思うけど、イストモスには精一杯支援するし、大祭のことは、これからもっと話し合いたいです」


 アスカニウスは横に立つフェリクスの顔を窺った。

 フェリクスは嬉しそうな微笑を浮かべてルキウスの口上を聞いていた。生徒の成長を見守る教師のような温かな眼差しだ。


 イストモスの面々のため、レグルスは自分の私兵を連れて神官舎の前庭に席を設けた。

 アスカニウスの従者や兵は中央広場で村人たちと共に宴を楽しんでいる。ユリアンの警護のパリスとヘラスはポンペイウスと並んでテーブルの近くに控えていたが、しっかりと葡萄酒を手にしている。


「そんなわけで、今夜はいっぱい飲んで、いっぱい喋って……そんな感じで! 神々と共に!」


 用意していた言葉を本当に忘れてしまったらしいルキウスは、尻すぼみになった挨拶を誤魔化すように、大声を出して杯を掲げた。


「神々と共に!」

「ザーネス様に!」

「パルナ様に!」


 各々が神の名を口にしてから葡萄酒を味わった。

 アスカニウスはフェリクを見やり、彼がこちらを見るのを待ってから祈りを口にする。


「神々と共に、そして、ピュートーと共に」

「はい。神々と共に、そしてアルバ帝国の平穏に」


 ふたりは視線を交わしたまま杯を傾けた。


「ザーネス様に」


 真剣な表情で神の名を呼んだユリアンは杯を睨みつける様に見つめた後、一気に中身を飲み干した。

 給仕の少年が慌てて甕の上の柄杓に手を伸ばす。杯が空のままでは失礼に当たるのが饗宴の席というものだ。


 それに驚いたのはフェリクスだった。


「ユリアン様はもうそんなにお飲みになるんですね」

「ああ、フィレヌス家は代々凄まじい酒飲みばかりなんだ。大人と変わらないほど飲んでしまうんだが……おいユリアン、ほどほどにな」

「美味しいですね。ここの葡萄酒は甘めです。蜂蜜だけじゃない、何か他の味がします」


 ユリアンは忠告を聞いているのかいないのか、二杯目の香りを嗅ぎながら葡萄酒の品評を始めた。


 葡萄酒の飲み方には作法があり、それは帝国全土、身分の上下も関係ない。樽でできたものをそのまま飲むことはせず、水で薄めて味を整えるのが普通で、貴族はそこに蜂蜜やスパイスを混ぜるのだ。


「蜂蜜と、乾燥させた葡萄から作ったシロップです。子供たちは、ほら、もっとシロップが欲しいので追加するんですよ」


 フェリクスの視線の先で、子供たちが列を作っていた。アスカニウスはその光景を物珍しそうに眺める。


「葡萄酒に葡萄を入れるとは」

「珍しいですね!」


 関心するアスカニウスの隣で、ユリアンがまた豪快に杯を傾けた。


「蜂蜜だけでは量が足りないもので、樹液や果実など色々使うんです……味はいかがですか? お口に合いますか?」

「初めて飲む味だが美味いぞ。葡萄も土によって味が変わるし、その土地のものを味わえるのは幸せなことだ」


 アスカニウスは杯を空にし、給仕に新たに葡萄酒を注いでもらう。隣でフェリクスも一杯目を飲み干した。


「フェリクス様!」


 ルキウスが緊張の面持ちでテーブルの方へと向かってきた。従妹のニコレと、同世代の若者たち数人も一緒だ。

 自分の杯と、小さな甕を抱えてきたルキウスは、フェリクスの杯にその甕から勢いよく葡萄酒を注いだ。


「あ、改めて申し上げます! 我がピュートーで、誉れあるザーネス大祭を、開催したいのです!」


 フェリクスが何か言うよりも先に、ルキウスはまずそう言い放った。

 ニコレがたどたどしいルキウスを代弁するように言葉を続ける。


「昨日あの後、イレーネ様が順番に私たちの話を聞いてくれました。誘致に慎重な意見もありましたけど、フェリクス様のおっしゃる水の浄化の妨げにならなければ……ということで、一応の一致を見たんです」

「どうすればいいのかは、まだ分からないんですけど、名案が思い浮かぶまで、もう少し時間をくれませんか?」


 ニコレとルキウスの意気込みに、背後の若者たちも力強く頷く。

 フェリクスがきょとんとした表情でこちらを振り返ったので、アスカニウスは新たに注がれた葡萄酒を持って立ちあがった。


「みんな聞いてくれ、これからの話をしよう!」


 ルキウスたちはもともと真っすぐだった背筋をさらに強張らせた。

 テーブルの周辺でアスカニウスの声を聞いた者が振り返り、それに気付いた者がまたこちらを見て、その波は広場の隅々まで及んだ。


 皆の視線がアスカニウスに集まった。


「聞き及んでいるだろうが、イストモスは困窮し、不当な搾取の末に追い詰められてしまった。そこに何者かが賄賂によって大祭の開催権が手に入ると唆(そそのか)した……大祭復古の事業のために両神域には迷惑をかけた。本当に申し訳ないと思っている」


 アスカニウスがゆっくりと広場を見渡すと、人々は目を閉じたり、頷くように頭を下げて応えてくれる。


 あちこちで焚かれた篝火が、村人たちの顔を照らしている。

 暗い中に大勢の人が集まっており、全てを見ることは叶わないが、アスカニウスはなるべく広い範囲に視線を送った。


「神官殿は、こういったことに村が巻き込まれることを心から危惧していた。悲しみや憎しみに包まれ、湖の水の清めに差し障ってはならないと」


 隣に立つフェリクスを見ると、なぜか両手で持った杯を顔の前に掲げている。

 ルキウスに勢いよく注がれた葡萄酒が、杯のふちギリギリまで満たしていた。どうやらそれをこぼさずに持っているのが大変で、葡萄酒が揺れないように監視しながら、アスカニウスのことも見ようとしているのだ。


 アスカニウスは盛大に噴き出した。


「神官殿、飲んでいいぞ」

「い、いえ、そういうわけには」

「あっ……すみません! 俺、ちゃんと量を見てなくて!」


 ルキウスがフェリクスの様子に気付き、慌てて謝るが葡萄酒は甕に戻らない。


「こぼしたらもったいない。飲んでしまえ」

「……失礼します」


 フェリクスはしぶしぶ杯に口を付け、喉を大きく鳴らして一口だけ飲んだ。

 アスカニウスはなんとか決壊をまぬがれた杯を取り上げて、自分の前のテーブルに置いてやる。一口減っただけではまだ量が多かった。

 気恥ずかし気に口元を指で拭ったフェリクスは、すぐに表情を戻してアスカニウスに向き直る。

 それに応えるように大きく頷いて、アスカニウスは再び広場に語りかけた。


「俺は神官殿に誓った。不正の芽は必ず摘むと。ピュートーだけではない、全ての神域の守村が平穏に祈りを続けられるよう、クラディウスの名に懸けて全力を尽くすと約束した。そうであればと、神官殿は――皆の了解が得られるならば、大祭の候補地に名を挙げても良いと言ってくれたのだ!」


 ルキウスが口を大きく開けて、目を見開いている。ニコレは両の頬に手を押し当てている。

 フェリクスのもとへ駆けつけた若者たちの一団が絶句しているうちに、他の村人が先に歓声を上げた。


「え、えっ? フェリクス様いいんですか?」

「大祭が来るんですか! ピュートーに!」


 まだ事態が飲み込めない様子のルキウスとニコレが、フェリクスの腕をつかんで詰め寄る。


「気が早いですよ。候補地になったというだけです」

「候補地になってもいいんですか?」

「皆が、それを望むなら」

「やったー! 賛成です、俺は大賛成! なあ、みんなもいいよな?」


 ルキウスが両手を突き上げて広場の中央へ駆けて行く。持っていた杯から盛大に葡萄酒が零れて頭から飛沫をかぶっているが、まるで気付いていないようでそのまま走って行ってしまった。
















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