第五章 眺望 2
帰り道は監視塔からひたすら下り坂を歩く。
ふたりはほとんど無言で黙々と歩いたが、村へ戻ったのは午後も遅い時間になってからだった。商店は店仕舞いし、畑もほとんど手入れは終わっている。
――今日は何も手伝えなかったな。
アスカニウスひとりが彼の時間を独占してしまったことに罪悪感を覚える。しかし同時に、無視できないほどの優越感もあった。
なんと幼稚な感情だろうか。百年生きても煩悩というものは消せないらしい。
「戻られたぞー!」
「フェリクス様! 水龍様!」
迎賓館前の広場が見える場所まで来ると、集まっていた人々が手を振ってふたりを出迎えた。
「お戻りが遅いので心配しました。お加減は?」
もはや挨拶のようにポンペイウスに体調を尋ねられアスカニウスは笑ってしまう。
「見ての通り元気だ。神官殿に頼んで、神域の湖を見せてもらって来たんだ。監視塔からの景色は素晴らしかったぞ」
「長殿おかえりなさいませ! 宴ですよ!」
ポンペイウスの横から飛び出してきたユリアンがアスカニウスの手を取る。
「村の者たちがひそかに準備してくれていたのです。日暮れの祈りで牛を捧げて、皆で食すのです。ほら、葡萄酒の樽もあんなにたくさん!」
ユリアンに手を引かれて広場へ近付いて行くと、すでに饗宴の準備は万端のようだ。
迎賓館前のベンチが広場に並べられ、葡萄酒樽が積み上げられ、その周りで子供たちが早くもはしゃいで駆け回っている。
アスカニウスはフェリクスを振り返る。
「そういえば、神官殿が計画してくれていると噂を聞いていたが」
「はい。皆様の滞在中にと準備をしておりましたが、今夜とは……」
主催者のはずのフェリクスが首を傾げている。
そこに神官見習の少年が駆け寄り、フェリクスに声をかけた。
「フェリクス様、準備はできておりますよ」
「宴は今夜でしたか?」
「ルキウスさんたちが、今日にしようと言い出したんです。急いで牛を決めて、祭壇も作りました。杯を取るのはフェリクス様ですよ」
神域で大きな饗宴を催す時は必ず、ザーネス神に生贄の牛と供物の葡萄酒を捧げる。葡萄酒の入った杯を掲げるのはもちろん神官の仕事だ。
フェリクスはゆっくりとひとつ、大きく息を吸って両手で胸を押さえた。
その顔は、あの晴れやかな笑顔だ。
「ルキウスたちに話があるのです。とても大切な話が」
「はい。話しましょう。夜を徹して!」
少年は嬉しそうに頷き返すと、紫の縁取りのトーガを翻して準備の輪の中に戻って行く。
もう祭りが始まったかのように賑やかだ。食べ物や酒だけでなく、花や布も持ち寄られ、広場は華やかに飾り付けられている。
行き交う人々の中から、ひとりの青年がゆっくりとこちらへ近付いて来た。
背が高く、細長い体型の男はレグルスだ。
「もう歩いて大丈夫なのか?」
「叔父上はすっかり良くなりました。聖水のおかげです」
アスカニウスの問いに、なぜかユリアンが得意げに胸を張った。
レグルスは甥っ子の頭を愛おしげに撫でてやり、何もかもお前のおかげだと大げさな誉め言葉をささやいている。ユリアンを甘やかすクラディウスの面々の中でも、レグルスはその筆頭格だ。
「おかげさまで、もうどこも苦しくもなく、むしろ以前より体が軽いくらいです」
レグルスはユリアンに向けていた過剰に甘い顔を引き締めると、アスカニウスとフェリクスに順番に視線を向ける。
「長殿、それにフェリクス殿も、一緒に来てくださいませんか?」
*
レグルスに連れられて来たのは、神官舎の裏の牢だった。
石造りの平屋には鍵のかかる小部屋が並んでいて、村の警備兵が数人貼り付いている。村人で禁を犯した者や、村の周辺で悪事を働いた野盗などもここに入れられるのだ。もし重罪人となれば宿場町のミデイアから兵士がやって来て州都モレアに連行されることとなる。
イストモスの面々はここに留め置かれていた。
レグルスが私兵に指示を出すと、ルフス、コリン、ミアがそれぞれ小部屋から引き出されてきた。
三人とも逃げることが出来ないよう短い縄で両足が繋がれていて、小さな歩幅で歩くことしかできない。手首は胸の前で結ばれている。
兵士が三人に跪くように命じる。彼らが膝をついてうな垂れると、フェリクスは胸を押さえて顔を背けた。
「お前たち、もう一度ここで証言しなさい」
レグルスの言葉にまず口を開いたのはミアだった。神官のトーガを脱がされ、髪の覆い布も外している。
「イストモスを、援助してくださるという方から……ピュートーの聖水の泉に、毒を入れろと言われていました」
「なっ……‼」
息を飲むフェリクスの隣で、アスカニウスも眉間に皺を寄せる。
ミアはうなだれたまま顔を上げず、震える声で続けた。
「泉が無理なら、井戸でもいいと……毒の入った瓶を渡されて」
「いったい誰がそんなことを?」
フェリクスが膝を折ってミアの顔を覗き込む。
「アルバ貴族の、コーネリウス一門の使いだと言っていました。ただ、私はそう聞いたのですが……」
「わたくしにはクラディウスの私兵だと言っていました。あの荷を……賄賂をクラディウス様が受け取れば、大祭の開催権はイストモスのものになると」
ミアの言葉を引き継いだルフスは、地面にうずくまるように顔を伏せた。もとより白髪交じりの頭の白が急に増えたようで、彼の憔悴ぶりがうかがえた。
混乱した表情でフェリクスがアスカニウスを見上げる。
――随分手の込んだ謀略……なのか?
アスカニウスは冷静を装いながら、無茶苦茶な証言を頭の中に並べる。
コーネリウス一門はクラディウスに並ぶアルバの大貴族の氏族名だ。名を騙られていると考えるのが自然だろう。
「僕は、シルウィウス・バエティカ家の者に、クラディウス様を誘惑しろと言われていました……姉にやらせたくなければ、自分でやれと……あの短剣も貴族の使いから貰った物で、毒が仕込まれてるなんて、知らなかった!」
ずっと押し黙っていたコリンが絞り出すように叫ぶ。
シルウィウス・バエティカ家は傍系ながら皇帝一族に繋がる血筋だ。こちらも名門中の名門で、もはやアルバ貴族の名簿のようになってきた。アスカニウスは思わず溜息をこぼす。
フェリクスがコリンとミアをまとめて抱きかかえた。二人とも一夜のうちにすっかり
「クラディウス様、どうかこの子たちに寛大な御処置を」
双子を抱きしめたままフェリクスが、首を巡らせてアスカニウスとレグルスに訴える。
「作り話をするならもっとマシなことを言うでしょう。本当に騙されていたに違いありません。どうか詳しく調べてください」
「安心なさい、フェリクス殿。私も彼らを疑ってはいない」
レグルスが落ち着いた声で語りかけると、地面に張り付いていたルフスが恐る恐る顔を上げる。
「し、信じてくださるのですか?」
「信じよう。実は少し、心当たりがある」
レグルスはそう答え、アスカニウスに目配せした。
「ああ。怪しい名前ばかりだな。コーネリウスには、うちを目の敵にしている若い議員がいるし、バエティカ家といえば、横領疑惑のモレア州総督の家だな。当主親子揃って金の亡者として有名だ」
「あなたたちを罪人としてモレア州に引き渡すことはしない。クラディウスに対する謀略の証言者として、私が身元を預かることとする」
レグルスは彼らを引き出して来た私兵に命じて縄を解かせた。
この三人以外はルフスに集められたイストモスの村人や、金で雇われた旅芸人や楽士たちだった。神官舎と宿の一部を借りて待機させている。まとめてイストモスへ戻し、さらに詳しい話を聞く必要があるだろう。
「起きて早々ご苦労だったな」
「新しい証言が出てきてよかったですよ。私が寝ている間にことが済んでいるのではと、心配していたので」
レグルスは本気かどうか分かりにくい表情で肩を竦めた。
解放された三人は涙を流し、レグルスに頭を下げ、フェリクスと抱擁を交わす。コリンは奥歯をかみしめて声を殺しながらも、フェリクスのトゥニカの背中をきつく握りしめている。
幸いレグルスの怪我が大事に至らずに済んだが、なんとも奇妙な話だ。
何者かが複数の名を騙り、イストモスを
しかし、それで犯人は何を得るのだろうか?
アスカニウスが思案にふけっていると、三人を慰めていたフェリクスがこちらを伺っていた。
「あ、あの、彼らにも宴の料理を分け与えたいのですが」
なんともフェリクスらしい申し出だ。
アスカニウスがレグルスを見やると、レグルスはかすかに驚いた表情を浮かべていた。
「お優しい心遣いだ。では、イストモスの皆にも少しずついただくことにしよう」
レグルスが頷いたのを見て、フェリクスはもう一息と進言を重ねる。
「お許しいただけるなら広場で一緒に。もとより、クラディウス様と、イストモスの皆さんと一緒に囲むつもりの饗宴でした」
「そんな……ご勘弁ください。とても、とても」
ルフスは一歩後退り、顔を隠すように頭を下げる。
「遠慮なさらないで。ザーネス神への捧げものはその場にいる全ての者に分け与えられるものでしょう? 村の者も皆歓迎します」
「し、しかし……」
「フェリクス殿、ここの前庭をお借りしても宜しいか?」
レグルスがやんわりとフェリクスの前に割って入った。
牢は建物の裏手に隠れるようにして建っているが、神官舎の前には小さいながら数十人が座すことのできる石畳の前庭がある。迎賓館前の中央広場とは、間にいくつかの宿屋があるだけですぐ近くだ。
「イストモスの皆を集めて、私と兵士はこちらでご相伴に預かろう。皆さんの宴の賑わいを聞きながら、供物の牛を味わいたい」
「レグルス様……」
ルフスが安堵の溜息とともにレグルスを見上げる。ミアとコリンもホッとした様子で頭を下げた。
「手間をかけさせますが、料理を運んでもらいたい」
「……承知しました。用意させます」
フェリクスは穏やかな笑みでレグルスに応えた。
日暮れが近づいている。
アスカニウスはこのあとフェリクスを慰めるべきかどうかを考えていた。
今日聞かせてもらえた弱音は、あっという間に彼の中で消化されて、また新たな強い鎧となって身を覆っているように感じる。
それこそがフェリクスの美徳なのだが、覆い隠すもののない、彼の本音に近い部分に、もっと長い時間触れていたいという欲求が沸き上がるのを無視することはできなかった。
日が暮れる。
生贄の牛が屠られ、祝詞が歌に変わる。
饗宴の夜がはじまる。
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