第六章 帝都 3
壇上にいるのは男のようだ。フェリクスが目を凝らして小さく見える姿を確認しようとすると、その人物が両手を挙げて人々を鎮めた。
石壁にこだましていた歓声の名残が消えるのを待って、その人物はついに第一声を発した。
「その通りだ!」
どの通りだろう?
フェリクスは予想だにしなかった一言目に面食らったが、壇を取り囲む民衆は早くも酔ったように彼の声に耳を傾けている。
「未来とは、今に続く先の世界である。今、私はここに存在し、きっと明日も市民と共にあるだろう。そうして踏み固めて来た道が全て、アルバに通ずる道となってきたのだ!」
「ほら、また未来が過去になった。メルケースはなんでも過去の栄光にしちゃう」
セサルが広場に向かって舌を出した。
「だいたいアルバに通ずる道になるしな」
アウグストがそれに低い声で賛同する。
「母上がメルケース殿の演説は参考にしてはならないとおっしゃっていました」
ユリアンの発言にセサルが噴き出す。
アスカニウスは困った顔で視線を彷徨わせ、レグルスは興味なさげに横を向いてしまった。どうやら演説者はクラディウス一門と対立する政治家のようだ。
セサルたちの揶揄が群衆に、ましてや壇上の人物に聞こえるはずもなく、メルケースという政治家はさらに声を高くして続ける。
「今日は市民に喜ばしい知らせがある。すでに耳にした者も多いだろう。昨日、元老院議員の投票により、北方入植地への移民を広くアルバ市民全体から募集することが決定した!」
人々は怒号のような歓声を上げた。
フェリクスがその声の大きさに思わず首を竦めると、セサルとアウグストが今度は怒号に対抗する大声で野次を飛ばす。
「それ提案したの、うちの長様なんだけどー! 手柄横取りすんなー!」
「お前は当初予算が足りないと渋っていたくせにッ!」
ふたりの批判の声に気付いた数人が振り返ったが、回廊に一堂に会するクラディウス一門の面々を見て驚愕し、慌てて視線を前に戻した。
その小さな波紋は人の波の上を素早く滑っていった。隣人からの口伝てか、周囲の騒めきに何かを察したのか、人々はひとりまたひとりと演説者から目を離してこちらを振り返る。
その様子は壇上にも伝わった。
フェリクスはその人物と目が合ったような気がした。顔の造作も分からないような距離であり得ないはずだが、その人物の意志の強さが伝わってくるようで思わず半歩後ずさる。
「アルバ市民よ、西を向け! 我らがクラディウスの長様が帰還なされたぞ!」
演説者は今までよりも一層声を張り上げる。
先ほどまではちらちらと向けられる程度だった人々の視線が、真っすぐにモレアの代表団に降り注いだ。回廊の柵にもたれて演説を見物していたルキウスは、無数の目に見つめられて柵から手を放してフェリクスたちの横まで下がる。
群衆の騒めきに紛れ込むように、ひとりの男の声が飛んで来た。
「モレア人が」
それに血の気の多いルキウスがすぐに噛みつく。
「誰だ! 今言ったヤツは!」
アルバ市民が他の地域の民を州名で呼ぶのは、田舎者という蔑みの意味になる。ただそのまま田舎者と言われるより、土地そのものを馬鹿にする強い言葉だ。
「おい! 侮辱したヤツは名乗り出ろ!」
「ルキウス、堪えなさい」
「やめてよこんなところで喧嘩なんて」
フェリクスとニコレが肩を引いて止めようとするが、ルキウスの反応を面白がった者がまた声を上げる。
「なんだ公用語が分かるのか?」
「モレア語で話してやろうか?
「
回廊に近い場所から次々にからかいの言葉が放たれた。誰が言ったのか、人が多すぎて分からない。それを聞いて笑い声を上げる者、眉を顰めるもの、そっと広場を離れようとする者、反応はさまざまだ。
フェリクスは今にも飛び出して行ってしまいそうなルキウスを、ニコレとふたりがかりで押しとどめる。
「お前たち、そのくらいにしておけ」
「やめないか! 同じ帝国の民であろうに!」
アスカニウスがフェリクスたちの前へ進み出ようとした時、反対側からも静止の声が上がった。
人垣がさっと割れて、緋色のトーガを纏った青年がフェリクスたちの方へとまっすぐに歩いてくる。彼が先ほどの演説者のようだ。
焦げ茶色の髪は襟足を覆うほどの長さで、前髪がふわりと額にかかっている。彼が武人ではなく文人として身を立てていることを表していた。大柄でも小柄でもない平均的な体系だが、まっすぐ背筋の伸びた堂々とした立ち姿。薄いオリーブ色の瞳は全く揺らぐことがない。
「クラディウス様と神聖なる使者様方の御登場に、皆いささか興奮してしまったようだ。ご無礼をお許しください」
男は回廊を見上げ、慇懃な仕草で妙にゆっくりと頭を下げる。
フェリクスたちはどう反応すべきか迷い、互いに顔を見合わせた。エリスやネメアの代表者たちも同じように困惑の表情を浮かべている。
そうして立ち尽くしている間に、演説者の男は広場から回廊へ上がり、こちらへ近付いて来た。
「神域の皆々様、ようこそ帝都アルバ市へ。私はメルケース・コーネリウス・アリミヌスと申します。以後お見知りおきを。アルバ市民は親睦の深め方が少々荒っぽいところがありますが、モレアの皆様を心から歓迎しておりますよ」
メルケースと名乗った男は貴族の証である緋色のトーガの端を左手でつまみ、右手を胸の前に掲げて恭しく礼をする。
最初に礼を返したのはフェリクスだった。それに続いて他の神官たちが同じように紫色のトーガを摘まむと、ルキウスたちも慌てて頭を下げた。
メルケースは満足げに何度か頷き、回廊をゆっくりと辿ってアスカニウスの方へ歩みを進める。
群衆は騒めいていた。演説が途中で終わり、不満を漏らす者もいる。しかしその大半はメルケースとクラディウス一門の対峙を楽しんでいるように見えた。
「お久しぶりにございますクラディウスの長様。此度は無事の御帰還、お慶び申し上げます。モレアはいかがでしたか? 長様は確かピュートーに行かれたとか」
メルケースはアスカニウスの正面に立つと、にこやかな笑みを浮かべて浅く膝を折った。アスカニウスは腕を組んでメルケースの視線を受け止める。
フェリクスは内心、アスカニウスがどう答えるのか気になった。
アルバ市民に囲まれたこの状況で帝都以外の土地を褒めたたえるのだろうか。それとも、当たり障りのない社交辞令を並べるだろうか。よもやピュートーを貶すことはないだろうが、彼の立場が不利になる物言いをして欲しくはない。
フェリクスはそっとアスカニウスの表情を伺った。
「ピュートーの水は美味いぞ」
アスカニウスは前歯を見せて意地の悪い笑み浮かべた。
「西方のトルズの水源も甘かったし、ロディ島の海水から濾した供物の水も絶品だったが、ピュートーの水はそれを上回る。お前も一度飲みに行くといい。ああ、今日は久しぶりにアルバーノ湖の水が飲めるな。だから早く帰りたいんだ」
――なんて、彼らしい躱し方!
フェリクスは目を見張った後、笑いを噛み殺した。
最初に噴き出したのはセサルだった。回廊に近い場所で様子を伺っていた民衆も、思わずと言った様子でくすくすと笑いだす。
どうやらアスカニウスの水へのこだわりはアルバ市民の間でも有名なことらしい。またクラディウス様が水の話をしていると、広場の人々の間に笑いが広がって行く。
「長様は相変わらずだ。水の味については私にはよく分かりませんが……ああ、そういえば!」
人を食ったような笑みを崩すことなく、メルケースはわざとらしい仕草で話題を変えた。
大きな声を出しておいて、今度は周囲に聞こえないよう広場に背を向けてアスカニウスとの距離を詰める。いちいち動きが大げさな男だ。
「クラディウス様がピュートーの若い男を見初められたと聞きました。しかも手酷くフラれたのだとか……さすが、はじまりの地の民は一味違いますな」
メルケースは薄いオリーブ色の瞳でアスカニウスをひたと見つめる。口角を上げているが目は笑ってはいない。あからさまな物言いでアスカニウスの反応を試しているようだ。
「なるほど、属州出身の武人がお好みだという噂は真実だったのですね」
メルケースの視線はアスカニウスの隣のフェリクスを通過し、その半歩前に立つルキウスに注がれた。
この日のために新調した膝の隠れる長めのトゥニカと、アスカニウスが用意してくれた旅装束のマントというルキウスの姿を上から下までじっくり眺め、メルケースは不思議そうに首を傾げた。
「どんな美丈夫が来るのかと楽しみにしておりましたが、意外にも庶民的な……武人にしては弱そうな」
「なっ、まさか俺のこと……ッ?」
メルケースに不躾に見つめられたルキウスが声を裏返らせる。
「俺、武人じゃないし! 宿屋の息子です!」
「おや? 違いましたか。やはり噂話はアテになりませんね」
メルケースはルキウスの横のニコレ、さらに後ろのマルキアとヴィオラを興味なさげに流し見て、アスカニウスに視線を戻す。
「メルケース、お前もか……」
アスカニウスがひどく落胆した様子でうな垂れた。
メルケースは怪訝そうにアスカニウスを見て、もう一度ルキウスを見たが、フェリクスを注視することはなかった。
アスカニウスは苛立たし気にメルケースと視線を合わせ、龍の手の爪の先でフェリクスを指した。
「その噂の相手ならこちらの麗人だ。残念ながらまだ恋人でないことは、噂の通りだがな」
「クラディウス様ッ!」
――わざわざ言わなくても良いのに!
ルキウスのおかげで話が逸れたと思い込んできたフェリクスは、突然水を向けられて言葉に詰まる。
何故アスカニウスはメルケースにそんな話までするのだろう。噂は不確かであったと思わせておけば良いものを。
「おやおや、左様でしたか。しかしなるほど、神官様を見初められるとは……」
メルケースは今度はフェリクスを頭から爪先までじろじろと観察し始める。フェリクスは恥じらったフリをしてアスカニウスの影に隠れながら、深く頭を下げてメルケースの視線から逃れた。
「メルケース、そろそろいいだろうか? 客人たちは長旅で疲れているんだ」
レグルスがやや強引にアスカニウスとメルケースの間に割り込んできた。
それまで冷静な観察者の顔つきだったメルケースが、打って変わって玩具を差し出された子供のように表情を輝かせる。
「レグルス! 聞いたよ、残念だったな、イストモスが候補から外されてしまうなんて。何者かがイストモスに流言をふり撒いたというのは本当だろうか? 犯人の目星はついているのかい?」
「調査中だ。君は憶測で口を滑らせる悪い癖を、いい加減治した方がいい」
レグルスが煙たげに目を細め、冷たい声を出した。
いつも柔和なレグルスらしからぬ表情に、フェリクスが目を見張る。ルキウスとニコレが息を飲む音も聞こえた。彼らも驚いているようだ。
「君こそ、貧乏くじを引くのが得意なのは変わらないではないか。せっかく名を上げる好機だっただろうに、力を発揮するより前に担当地がなくなってしまうなんて……あまり落ち込むでないぞ?」
「落ち込んでない」
「やせ我慢しなくてもいいのだ」
「してない」
フェリクスは茫然とふたりのやり取りを聞いていた。
広場の民衆の大半は飽きてきたようで、いつの間にか人が減っている。
「本当なら、君の屋敷にもイストモスの代表団が来て賑やかになるはずだったのだろう。でも寂しくてもうちには来ないでくれ」
「行かない」
「今夜はシラクス家の饗宴に呼ばれているのでな、忙しいのだ。次に我が家で宴を催す際には君も招待してやるから」
「いらない! ああ、もう、うるさいな。忙しいのならさっさと仕事に戻れよ!」
「そうさせてもらおう。そろそろ移動しなければならない。まったく、午後は休めるかと思っていたのだが、第二市場の商人たちが陳情に来る予定なのだ。議員になってから一層忙しく敵わない!」
レグルスが虫を追い払うような仕草をしてもメルケースは抗議することもなく、喋りたいだけ喋って満足したのか踵を返した。
「行くぞ、コンラード」
回廊を引き返し広場に降り立つと、メルケースの従者や取り巻きが彼のもとに集まり、一団は何やら楽しそうに人込みの向こうへと去っていく。
コンラードと呼ばれた男だけがこちらに視線を寄越し、おそらくレグルスに向かって短く会釈をした。メルケースやレグルスと同年くらいに見えるまだ若い男だ。
モレアの代表団一行はその様子をあっけにとられたまま見送った。列の先頭が動き出し、フェリクスたちは戸惑いながらも再び回廊を進み始める。
「あの方がコーネリウス一門の?」
メルケースの姿が雑踏の向こうに見えなくなってから、フェリクスはアスカニウスの顔を覗き込んだ。
「議員になったとおっしゃっていました。元老院議員のことでしょうか? 随分お若く見えましたが……」
フェリクスが訊ねると、並んで歩くルキウスとニコレも頷いてアスカニウスの答えを促す。どうやら同じ疑問を持っていたようだ。
アルバ元老院議員は三十歳から議席資格が得られるが、その多くは貴族の世襲で家長は年配に偏る。あの若さで元老院議員とは珍しい。
これにはレグルスが答えてくれた。
「メルケースは私と同じ三十歳だが、父親が病弱だったため規定年齢に達してすぐ議席を譲られた。歴代最年少の元老院議員だ」
「レグルス様は、あの議員さんと親しいのですか?」
ニコレの質問にレグルスは複雑な表情を浮かべた。
嫌がっている風ではなく、かといって、誇らしげでもない。
「腐れ縁だな。同年なので、物心ついた頃から何かにつけて一緒に行動していて……あの通り腹立たしい振る舞いをすることも多いが、悪人ではない」
フェリクスはすっかり遠くなったセントルム・カーヴォを振り返る。
広場は上から見下ろすと本当に綺麗な三角形を描いていた。
もうメルケースの姿はあるはずもなかったが、人混みの中に緋色のトーガを探してしまう。
レグルスとの気軽なやり取り、観察者の鋭い眼……短時間の対面では計り知れないメルケースの心の底が、気になって仕方なかった。
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