第六章 帝都 4

 エリス・ネメアの代表団とは第一街区の途中で分かれ、ピュートー代表団だけがアルバ山の頂点まで登った。古い石の城門は洞穴のように長く、そこを抜けると今度は一気に視界が開ける。

 城門を超えると今度は下り坂。

 入り組んだ坂道、立ち並ぶ邸宅、対岸には鬱蒼とした太古の森。そして一番下には午後の陽光を反射させる水面が広がっていた。


「アルバーノ湖だ!」

「すごーい、本当にまん丸!」


 やはり最初に声を上げたのはルキウスとニコレだ。階段の角の転落防止柵から身を乗り出して坂の下を覗き込む。

 それは巨大な水盆だった。


「これは……なんて神秘的な光景でしょう。神が造られたに違いありませんね」


 フェリクスの言葉にマルキアとヴィオラもうっとりと頷く。


 山頂の窪みの底に、ほぼ完全な円形の湖が煌めいていた。

 長城は山頂の半分までを囲み、残りの半分は手つかずの森が残されている。

 森は土龍の棲み処だ。

 初代皇帝をこの地に導いた土龍の一族が広大な森の中で暮らしているため、切り開くことはおろか、立ち入りも厳しく制限されている。北の森の向こう、ずっと奥に見える白い壁のようなものが、帝国の領土の北限である氷の山脈だ。その先は雪の大地が広がると言われているが、氷の山脈を越えることは困難で、その地を見た人間は極めて少ない。


 ――なんて壮大な眺めだろう。世界がとても広く、大きく感じる。


 フェリクスは山の上を吹き渡る風に結い上げた髪を乱されながら、心地よい無力感を受け止めていた。

 この高さは皇帝陛下の目線だ。帝国を統べるお方は毎日こうして領土を見渡しているに違いない。最も神に近い場所で、神に近い目線で、神に近い思考で。


「神官殿」


 アスカニウスに呼ばれてフェリクスはとっさに手で口を押さえた。

 また口が開いていたのか。

 自分がぼんやりしていた自覚のあるフェリクスは恥じ入ってなかなか振り返れずにいると、アスカニウスは弾けたように笑い出した。


「あっはは、違う違う! そうじゃなくて、いや、口は開いていたけども」

「笑わないでくださいッ」

「ほら、あっちを見てくれ」


 アスカニウスは長城の端、森との境目を指差した。


「アルバの中央神殿があそこだ」


 フェリクスはアスカニウスと視線を合わせないようにしながら体をそちらへ向ける。

 長城とは違う色の屋根が急坂からせり出しているのが見えた。おそらく何度も増築し、時代ごとに建物が注ぎ足されて行ったのだろう。壁や屋根の素材が少しずつ違っている。

 フェリクスは先ほど口を押さえて恥ずかしい思いをしたのを忘れ、柵から身を乗り出して食い入るように神殿を見つめる。


「あれがアルバの! 世界一と名高いザーネス様の四段祭壇しだんさいだんや、ラウィニアの神子がおわす奥神殿があるところですね!」

「四段祭壇は誰でも参拝できると伺いました。我々も詣でて宜しいのでしょうか!」

「わたくし、鳥占いの間を見るのが幼い頃からの夢でしたの!」


 フェリクスだけでなく、ヴィオラとマルキアも勢いよく柵にしがみついた。ルキウスとニコレに比べれば上品に帝都見物をしていた神官たちが揃って声を大きくするので、アスカニウスもポンペイウスも、その後ろの従者たちも驚いている。


「さすが、熱心だな……まさか中央神殿が一番好評とは」


 アスカニウスは苦笑と共に龍の手の爪で頬をかいた。


「うちからだと第一街区の神殿よりずっと近い。神官殿たちは家の神棚ララリウムではなく神殿に詣でたいだろう? 早速、今日の日暮れの祈りから案内させよう」

「ありがとうございます。クラディウス様のお宅はどの辺りですか?」


 フェリクスは神殿から少しずつ視線を下げていった。長城から湖までは、これまで登ってきた山の斜面に比べれば土地はわずかしかない。


 アルバ・ロンガに住居を与えられるのは伝統の貴族の誇りだが、その内側、山の真ん中に家を持つのはさらに難しい。

 城に近い場所であるため身元の怪しい者は建設を許されず、土地代も高額だ。一度そこに邸宅を構えた者は資産の全てを失っても最後まで手放さないと言われるほど、誰もが欲しがる帝国一の立地だった。

 どの邸宅も貴族や大商家のもので、上から屋根を見下ろすだけでも巨大であることが分かる。家同士が隣接することはなく、斜面に逞しく伸びる木々が青々と茂って、建物の白い壁や色とりどりの屋根と交互に街を彩っている。


「あれだ。あの湖に一番近いのが俺の家だ」


 アスカニウスの指先は、他の建物からひとつだけ少し離れた場所にある赤茶色の屋根を示していた。


「こじんまりとした静かな屋敷だ。ゆっくり寛いでくれ」


 湖の淵は海辺のような白い砂で、その家は木々の緑と白い砂の境目にポツンと建っている。

 一行はアスカニウスの言葉に、なるほど、他の邸宅に比べれば少し小さく見えると頷いた。

 それは単に比較の問題で、周囲の家が規格外に巨大であることに気付いていないだけだった。ここに来るまでに四階建てのインスラや、山頂の半分を覆うようなアルバ・ロンガなど、巨大すぎる物を目にして感覚が麻痺していたのかもしれない。


 曲がりくねった坂を下りきり屋敷の前に立ったフェリクスは、自分の口が開いていることに気付いた。間抜け面を長時間人前に晒すことに抵抗はあるが、それでもなかなか口を閉じることができない。

 隣のルキウスも、ニコレも、ヴィオラもマルキア全く同じ顔で高い屋根を見上げている。

 人間上を向くと口が開く、という問題ではなく、見上げた先にあるものに対する驚きの発露であった。


「これが、こじんまりとした屋敷……?」


 フェリクスは思わず宙空に向かって問いかける。

 アスカニウスが個人で所有するという湖畔の邸宅は、まさしく見上げるほど大きかった。


「圧巻です。うちの迎賓館より大きいのでは?」

「モレア市民会議場くらいありそうですね……」


 ヴィオラとマルキアが何故か顔を寄せ合い、小声でそんな会話をしている。

 まず、屋敷の入口に立った状態で屋敷の全体を見ることが出来ない。二階建ての屋根まで届く柱に支えられたポーチだけで五世帯は生活できそうだ。ポーチの奥に見える門は濃い色の木材と黒く塗られた鉄の重厚な作りで、馬車も通り抜けられそうである。屋敷の中に馬車を入れるという話は聞いたことがないので実際に通るのは人間だけのはずだが。


「本当に、うちはこの辺りじゃ一番こじんまりとしているんだがな……」

 アスカニウスは苦笑と共に龍の手の爪で頬をかいた。


















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