第六章 帝都 5

 目を閉じたまま手を引かれていた。

 フェリクスの右手をアスカニウスの左手がしっかりと握り、彼のひんやりとした体温が伝わってくる。指先は冷たいが、掌はほんのり温かい。


「まだだ、まだ目を開けるな」


 言われるまま目を閉じて屋敷の中を進む。磨き上げられた床のなめらかさがサンダル越しにも分かった。塵ひとつ落ちていない。


 まったくこじんまりとしていないアスカニウスの私邸に通されたピュートー代表団は、長旅の疲れを癒すようにと日暮れの祈りの時間まで休憩を取ることになった。一人一部屋、立派な客室を与えられた。

 フェリクスも用意された部屋に荷物を置いたところで、すぐアスカニウスがやって来てここへ連れられて来たのだ。


「日が暮れる前に見せたいものがある」


 アスカニウスはそれが何であるかは教えてくれなかった。

 日暮れ前にということは、屋敷の外だろうか。フェリクスがそう当たりをつけていると、アスカニウスは廊下の途中で止まり、フェリクスに目を閉じるように命じた。


 帝国全土に取り入れられているアルバ様式の邸宅は、天窓の下に貯水槽プールが置かれたアトリウムを、いくつもの部屋が取り囲む四角形の造りをしている。

 アスカニウスの私邸は正方形を四つ、ちょうどLの文字のように繋ぎ合わせた構造で、正方形の繋ぎ目に列柱廊付きの中庭がそれぞれ設けられていた。アトリウムの床のモザイクタイルを敷き詰めるだけで何か月もかかるだろうし、貯水槽はそのまま風呂として使えそうなほど大きい。


 目を閉じるように言われたのは、Lの字の角にあたるアトリウムだった。

 フェリクスがおとなしく目を閉じると、どこかの部屋の扉が開く音がする。

 外に出るのではないようだ。

 手に引かれながら、フェリクスは自然と自分の歩数を数えていた。広い屋敷だ。二十歩を数えても壁に突き当たらない。


「まだですか?」

「もうあと三歩、前に」


 言われた通りに三歩、普段よりは小さな歩幅で進み終えると、繋がれていたアスカニウスの手が離れ、体を固定されるように両肩を掴まれた。


「よし、いいぞ」


 アスカニウスの合図でフェリクスが目を開けると、視界いっぱいに白い水面が広がっていた。

 向かって左手から初夏の午後の日差しが水面を照らし、突き刺さるような陽光が反射していて、フェリクスは開いた目を半分ほどに細めることになった。


「アルバーノ湖……!」


 フェリクスは眩しさに目を細めながら歓声を上げた。後ろからフェリクスの両肩に手を置いたアスカニウスが、その反応に満足したようにふっと笑みの息を漏らす。

 アスカニウスが導いてきたのは邸宅の外に向かって作られた扉の前、湖が一望出来る場所だった。

 部屋から外に大きく開いた扉から、湖の淵へ降りられる石の階段が設けられている。フェリクスはその最上段に立っていた。階段の手すりの支柱に細かな装飾が施されているのが視界の端に入ったが、今は目の前の水面を見つめる方が優先だ。


「ラコウヴァの聖水の湖も素晴らしかったが、アルバーノもなかなかのものだろう」

「美しいです! 太陽が眩しい……確かにこれは日暮れ前でないと見られませんね」


 端から端まで岸が見えるのは、湖が小さいからではなく、見事な円形だからだ。湖面と同じ高さに立つと、坂の上から見た時より一層その広大さが分かる。山の斜面と森に守られて、アルバーノ湖は鏡のように凪いでいた。


「気に入ったか?」

「はい、とても」


 両肩を支えていたアスカニウスの手がフェリクスの体に回された。腹の前で手を組まれ、背中にアスカニウスの胸が密着する。

 フェリクスは息を詰めて身を固くした。


「勝手に、触らないとおっしゃったではありませんか」

「これは神官殿が階段から落ちないようにしているだけだ」

「落ちません」

「どうかな? 今日の神官殿はいつもより無邪気で迂闊だ」


 屋敷の中では寛いでくれという言葉に甘えて、フェリクスはいつものようにトゥニカ一枚の格好だった。帝都訪問のために新しく仕立てた布越しにアスカニウスの腕が腹と胸に触れる。

 振り払う機会を逃したアスカニウスの腕が、ゆったりとフェリクスの体に纏わりついたまま。


「朝霧のアルバーノ湖も見せてやりたい。アルバは毎日のように霧に包まれるんだ。神官殿、一日くらい朝の祈りを休めないか? 祈りから帰ってくるとどうしても霧の時間に間に合わない」


 フェリクスが答えを返さなくてもアスカニウスは構わないらしい。体の横にまっすぐ腕を下ろしたまま固まっているフェリクスを優しく抱きしめながら、編み込まれた黒髪の頭頂部に唇で触れる。

 フェリクスはアスカニウスの息遣いを感じた気がして肩を跳ねさせた。


「火祭りの夜もすごいぞ。知ってるか? 土龍の火祭りは夜通し松明を掲げて、それが湖面を真っ赤に染める」

「あ、はい……昼夜のない土龍に、人間の夜の時間を捧げる、という謂れがあると」

「ははっ、神官殿が知らないはずないか。どうだ、来年の火祭りを見に来ないか? この通り、うちは特等席だ」


 アスカニウスはただフェリクスを抱きしめて、頬を擦り寄せる以上のことはしなかった。

 それだけでもフェリクスには慣れないことだったが、嫌がることはしないという言葉の通りひとつも性急な真似はせず、そしてこの旅の間に口説くと言う宣言の通り、隙を見つけてはこうしてフェリクスの喜ぶものを与えてくれる。


 ひとしきり触れ合って満足したのか、アスカニウスはフェリクスの体を閉じ込めていた腕を解いた。

 フェリクスは緊張から解放されほっとした反面、彼のひんやりした体温が離れることを残念に思うようになっていた。


「アルバーノ湖の水を飲ませてやりたいと思ってな、今持って来させよう」

「宜しいのですか?」

「中央神殿と皇帝と、俺だけは自由に水を汲めるんだ。それ以外は神殿の許可が必要になるが」


 アルバ市民は井戸か水道の水を使って生活している。そのあたりはピュートーと同じだ。アルバ市には水道が整備されている点が人口の違いを物語っているが。カーヴォ山系のもっと高い水源から引かれてくる水道はすでに八本あり、現在さらに二本が建設中だ。

 アスカニウスは開け放たれたままだったアトリウム側の扉に向かって、水を持ってくるよう短く声をかけた。すぐ近くに誰か使用人が控えていたのだろう。


 フェリクスが通されたのは饗宴きょうえんの間だった。部屋の端にはたくさんの臥台がだいや食卓があり、壁にはオリーブの木が描かれている。

 普通、貴族の邸宅の饗宴の間は中庭に面して開放されており、美しく整えられた庭を眺めながら酒食を楽しむものだが、ここは外に向かって大きく開く扉からアルバーノ湖を一望することができるのだ。石の階段から湖畔へ降りていくこともできる。


「失礼致します」


 ほどなくして家令のオトがひとりの少年を伴って現れた。

 オトは屋敷に入ってまず最初に紹介された使用人で、歳はおそらく五十ほど。整えられた口髭がよく似合っている。穏やかな笑みを絶やさない物静かな男で、アスカニウスが彼をとても信頼していることはすぐに分かった。

 フェリクスはオトに向かって短く目礼する。


「お待たせ致しました。水をお持ちしました。さあ、パウルス」


 オトに着いてきたのは、まだ十五にもならない、頬の丸みに幼さを残す少年だった。

 パウルスと呼ばれた少年は、繊細な彫り物の施された木の盆に二脚の硝子の杯を乗せて持っているが、その手は小刻みに震えていて中の水が揺れている。

 アスカニウスが杯を二つとも取って片方をフェリクスに差し出した。

 杯がなくなっても盆を差し出したまま俯いている少年にアスカニウスは笑みを深める。


「この子がガイウスの口利きの?」

「はい、パウルスと申します。二十日ほど前から仕事をさせています」


 オトがパウルスの肩に手を置き、盆を胸の前に下させる。

 どうやら最近雇ったばかりの使用人らしい。頭を下げる動きもぎこちない。黒い巻き毛の下から覗く目は、緊張のためか忙しなく瞬きを繰り返している。

 パウルスという名も、フェリクスと同じくとても一般的な名前だ。ピュートー村にも何人もパウルスがいたし、旅の間にも何度も同じ名前を耳にした。


「随分固いな。さては俺がいない間に、オトから俺の悪口を吹き込まれたな?」

「滅相もない。アスカニウス様は他の貴人が呆れるほどお優しい方だと、毎日諭しておりましたのに」


 オトはゆっくりとした穏やかな口調で主人に意趣返しをする。


「パウルスにはアスカニウス様の身の回りのお世話を手伝わせようと考えておりますが、宜しいでしょうか。まずはこうして水をお運びしたり、簡単なことから」

「ああ、お前に任せよう。パウルス、ここは他の屋敷より客人も少ない。そんなに肩肘張らずとも大丈夫だ」

「はいッ、よ、よろしくお願い致します……」


 アスカニウスの顔が見れないまま、パウルスは盆を胸に抱えて深々と頭を下げる。

 フェリクスは震えるパウルスが気の毒だった。きっと彼にとってアスカニウスのような大貴族は、対面するのも恐れ多いのだろう。


「パウルス。水をありがとうございます」

「あ、はっ、はい!」


 フェリクスに声をかけられ、パウルスがようやく顔を上げた。

 黒髪に黒い瞳、濃い小麦の穂色の肌の可愛らしい少年だ。おどおどとした態度とは対照的に、やや吊り上がった意志の強そうな目元だった。

 パウルスはフェリクスを見上げた後はどこに視線を置けばいいか悩んだ様子で、盆の端を指先でいじりながらオトの陰に隠れてしまった。


「久しぶりのアルバーノの水だ。これを楽しみにしていたんだ」


 アスカニウスが早速水を口にする隣で、フェリクスは受け取った杯を目の高さに持ち上げて眺めた。

 さすがと言うべきか、当然と言うべきか、どこからどう見ても高級品だ。

 薄く均一な透明の硝子に一切の混じりけはなく、丸く膨らんだ部分から脚にかけて色硝子を混ぜた植物文様が施されている。透明から薄ピンク、黄色、緑色から藍色へと、小さな杯の中で景色が移ろいゆく。

 フェリクスが杯越しに湖を眺めて楽しんでいると、アスカニウスが急に低い声でうなった。


「……不味い」


 アスカニウスは眉間に皺をよせ、首を傾げて杯の中身を覗き込んだ。

 水を飲んで不満げな顔をする彼をフェリクスは初めて見た。


「こんな味だったか? おい、水を汲んだのは誰だ。泥が混ざってないか?」

「あっ……も、申し訳ございません……!」


 アスカニウスの言葉にパウルスが飛び上がり、カタカタとその細い体を震わせた。


「水を汲んだのはこの子です。しかし、いつも通り桶で汲み上げて甕に移し、柄杓でお注ぎしました。私も隣で見ておりましたが」


 オトの弁明の間も、パウルス少年は唇を真っ白にして震えている。

 見かねたフェリクスは自分の杯に口をつけた。なめらかな硝子の口当たりの後、冷たく爽やかな香りの水が舌の上へと滑り込んでくる。おかしな味などしない。


「とても美味しいと思いますが」


 本音だった。

 ピュートーの水と比べるのは少々悔しいが、アルバーノの水もとても美味しい。まろやかで、飲み込んだ後の喉に甘みが感じられる。

 フェリクスは杯を持ち上げてもう一度日にかざして見た。濁りも沈殿物もなく、色硝子に透ける日差しは澄んで煌めいている。


「ほら。綺麗ですよ」


 疑わしげな目のアスカニウスも手元の杯を下から眺めた。やはり水は透明で、汚れなどカケラも見当たらない。


「……参ったな。ピュートーの水に慣れてしまったのか、あまり美味くない」


 額を押さえるアスカニウスに、オトとパウルスは揃って安堵の息を漏らした。


「そ、それとこれとは話が違います。パウルスが可哀想ですよ」


 フェリクスは呆れた顔を作りながらも、内心じわじわと喜びが湧き出てくるのを感じていた。

 ピュートーの水の方が良いと言われて嬉しくないはずもない。人一倍こだわりの強いアスカニウスに認められたとあれば、水龍様のお墨付きだ。

 それに、彼が馴染みのものより自分を選んでくれたような。そんな馬鹿馬鹿しい優越感がこみ上げてくるのを止めることが出来ない。

 少しずつじんわりと、そして途切れることなく滲み出てくる熱い蜜のような感情を悟られないように、フェリクスは俯いてもう一度杯に口を付けた。
















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