第六章 帝都 6

 食卓には豪華な朝食が並べられていた。

 何種類ものパン、ジャム、肉のペースト、豆、チーズ、煮炊きされた色とりどりの野菜。それらが大きな――このまま湖に浮かべて漕ぎ出せそうなほど立派な――テーブルの上に並べられている。


 フェリクスの斜め向かいに座ったルキウスが、熱のこもった視線を何度も卓の上を往復させている。早く食べたい。と、その顔に大きく書かれているかのようだ。


「主人が参りますまで今しばらくお待ちを……どうぞ先にミルクをお飲みください。葡萄酒もございます」


 家令のオトが席に着いた面々に頭を下げる。

 年嵩の女性給仕がフェリクスの前にミルクの入った木製のカップを置いた。


「蜂蜜は入れますか?」

「では、お願いします」


 フェリクスが告げると給仕は細長い匙を取り、食卓に置かれた深鉢に入れた。琥珀色に輝く蜂蜜をすくい上げ、カップの中に落としてかき混ぜると甘い香りが辺りに漂う。

 食卓はアトリウムの一角、朝食用の部屋の前に設けられていた。雨の日以外はこうして陽の光の当たる場所で食事をするのも、貴族は当たり前のこと。天候の悪い日には朝食用の部屋の中で食事を摂るそうだが、朝食のためだけに部屋が存在していることにフェリクスたちは心底驚いた。


 案内された椅子に座り、主人であるアスカニウスを待っているのは六人。

 アスカニウスが座る予定の席に近い方からフェリクス、マルキア、ヴィオラと神官が並び、その向かいにルキウス、ニコレが続く。そしてアスカニウスと向かい合う端の席には、ユリアンが座していた。


 ユリアンは今日から始まるピュートー代表団の誘致活動に同行する予定で、こうして早朝から湖畔の私邸を訪れていた。護衛従者のヘラスとパリスがアトリウムの隅に控えている。

 ヘラスは色白で体が大きい。

 パリスは色黒で細くて身軽だ。

 実はフェリクスは最近まで、どちらがヘラスでどちらがパリスなのか見分けがついていなかった。

 見た目は分かり易すぎるほどの違いがあるのだが、きちんとした紹介を受けておらず、いつもふたり一緒にいるところをユリアンが「ヘラス、パリス」とまとめて呼ぶのでどうしても分からなかった。

 かといって「どちらがヘラス殿ですか?」と問う機会もなかった。

 船旅の間にようやくパリスひとりが名を呼ばれる場面に遭遇し、黒くて身軽な方がパリスだと知ったのだった。つまり、白くて大きな方がヘラスだ。


「長殿は何に手間取っておられるのだ?」


 ユリアンが口の周りについたミルクを拭って問いかけると、オトは浅く頭を下げる。


「はっ。アスカニウス様ご帰還の報せを受け、庇護民クリエンテスらが大勢挨拶に訪れているため、朝の面会が長引いております」

「そうか、三月ぶりであるからな。しかしあまり客人を待たせるわけにはいかないぞ。オト、様子を見て参れ」

「畏まりました」


 オトの姿が扉の向こうに消え、それを見送ったルキウスが声を潜めながらも好奇心を隠しきれない弾んだ声で言う。


「本当に毎朝、庇護民が屋敷に来るんですね!」


 庇護民とは貴族に保護される身分の者だ。

 逆に言えば、貴族は必ず幾ばくかの平民を保護する立場にある。貴族はその富で貧民に施し、仕事を与え、悩みを聞き解決へ導く。庇護民の数が多ければ多いほどその貴族の力が強いことを表しているのだ。

 朝の表敬訪問では文字通りの挨拶の他に、仕事の口利きや借金の申し込みなどの面談も行われるという。貧しい者には食べ物や金銭も渡される。


 フェリクスたちが蜂蜜入りの甘いミルクを半分ほど飲み干したところで、ポンペイウスとオトを従えたアスカニウスが現れた。


「待たせて悪かった。まさか、本当に全員が来るとは」


 緋色のトーガを隙なく身に纏い、軍人と家令を両脇に置いた姿は大貴族そのものであるが、どこか気の抜けた物言いはアスカニウスらしい。

 フェリクスはその姿を見てどこかホッとする自分を自覚する。

 彼は皇帝に次ぐ権力者であるはずだが、なぜか親近感を抱かせる。元軍人の大きな体躯は威圧感を与えるはずが、フェリクスは安心感を覚えるのだ。


「三月ぶりの表敬訪問ですから、庇護民が皆来るのは当たり前ではありませぬか」


 ユリアンが呆れたように言うと、オトに椅子を引かれて席に着くところだったアスカニウスが気まずそうな顔をする。


「用のないものは明日でも、明後日でもいいと伝えてあったんだ。なのに全員で来るのは酷いと思わないか? 主人の気持ちを察して欲しいものだ。念のため人数分の朝食とコインを包ませておいて良かった。オト、よくやった」

「恐れ入ります」


 フェリクスは会話の内容にギョッとしたが、給仕たちが取り分け皿や温かいスープ運んできたため言葉を飲み込んだ。

 アスカニウスが抱える庇護民は一体どのくらいだろう。全員分に朝食とコインを用意するなど、一体どれだけの量と額になるのだろうか。

 フェリクスは小さく頭を振って浮かんだ考えを消した。屋敷の大きさも、庇護民の数も、そこで動く物も金も桁が違う。いちいち驚いていては疲れ果ててしまう。


「さあ、どんどん食べてくれ。今日は午前だけで三件回る予定だからな。食べて力をつけておけ」


 席に着いたアスカニウスの前に、パウルス少年が葡萄酒の杯を置く。パウルスは今日も緊張しきりという様子で、アトリウムの隅に控えている間も肩を竦めて落ち着きなく目をキョロキョロさせている。

 アスカニウスが葡萄酒を口にすると、いよいよ朝食の開始だ。


「身内だけの席だ。堅苦しい作法など気にしなくていいぞ」

「ありがたくいただきます」

「地上の恵みに感謝致します」


 各々略式の食前の祈りを捧げ、遠慮がちながら思い思いの料理に手を伸ばす。


「んっ…‼」


 ルキウスが白いパンをひと欠片口に放り込み、声にならない歓声を上げた。

 昨夜の晩餐は、旅人の疲れた体に優しいものをと、温かいスープやパン粥などであった。女性陣はたいそう喜んでいたが、ルキウスはきっと物足りなかったのであろう。

 実はフェリクスも「明日の朝食は豪勢に振る舞おう」というアスカニウスの言葉に、朝が来るのを楽しみにしていた。

 豪華な晩餐ならば何度か列席したことがある。神官としてモレア市の神殿に詣でると、支援者の貴族の屋敷に招かれ夕食を振る舞われるのだ。

 しかし、豪華な朝食というのはどういうものか、フェリクスは実際に卓に着くまで想像できていなかった。


 朝食は普通、前日の夜に支度したものの残りとパンとチーズくらいのものだ。それでも十分に恵まれた土地の場合である。朝食に肉を食べたくて夕餉に出た肉をとっておこうと思っても、目の前の肉をついつい食べてしまうか、共に食卓を囲む家族が食べてしまって喧嘩になる、なんてことは日常茶飯事。

 フェリクス自身は早くに親を亡くし神官として育ったため、一般家庭をよく知らないが、夕餉に呼ばれて行った家で子供たちが肉を取り合ったり、時にはこっそりどこかに隠したりしているのを何度も見たことがある。


 ――たくさんありすぎて、どれから食べようか悩んでしまう。


 貴族の朝食を目にするのはこれが初めてだった。

 フェリクスはしばし迷った後、最初にスープに手をつけた。

 運ばれて来たばかりの乳白色のスープからは香ばしい匂いが立ち込めている。ひと匙口へ運ぶと、トロリとした舌触りと穀類の甘い味が広がった。おそらく小麦と豆類、塩のスープだろうと思うが、フェリクスの知らない食材も使われているに違いない。

 様々な食材を、元がなんであるか分からないように調理するのがアルバ貴族の贅沢の象徴と言われており、昨晩も粥に入っている具材がなんであるか料理人が細かく説明してくれた。


「水をくれ」


 葡萄酒を飲み干したアスカニウスが命じると、ビクリと肩を跳ねさせたパウルスがぎこちない動きで杯と水差しを持ち、ぎくしゃくと卓に近付く。かすかに震えながらもなんとか零さずに注がれた水を受け取り、アスカニウスは手を挙げてパウルスを労う。

 フェリクスは驚くほど薫り高いフォカッチャをちぎりながらその様子を見ていた。

 昨日オトが、パウルスにはアスカニウスの身の回りの世話をさせると言っていた。他の使用人が手際よく客に料理をすすめたり、飲み物の器を取り替えたりしている横で、パウルスはアスカニウスの指示で彼の水や食器を運ぶだけだ。

 パウルスが水差しを台に戻したところで、アスカニウスは昨日とは違う装飾の少ない硝子の杯を口へ運ぶ。

 彼はひとくち飲んで動きを止めた。

 フェリクスはそれを見て、口に入れたフォカッチャを噛むのが止まってしまった。


「……やっぱり」


 アスカニウスが杯を掲げて目を眇めたのを見止め、オトが素早く飛んで来る。


「なにか」

「昨日と同じだ、参ったな」


 フェリクスは思わずパウルスの方を振り返った。主人と家令の囁くような会話に、壁際のパウルスは青ざめて震えている。

 オトはさらに声を潜め、アスカニウスの耳元に近付いて話す。


「別の仕事に変えましょうか?」

「いや、その必要はない。あの子は問題ないんだ」

「……左様で」


 ふたりの会話は真横に座るフェリクスの耳にようやく届くほどの小声で、それはきっとパウルスに聞かせないためだろう。

 フェリクスはオトが随分と深刻そうに、口髭の下の唇を引き結んでいるのが気になった。


「パウルス、こっちへ来なさい」


 アスカニウスが手招きすると、顔面蒼白のパウルスがフラフラと卓に近付く。今にも倒れんばかりの顔色だ。

 フェリクスはフォカッチャを飲み込んでアスカニウスの表情を伺う。目が合ったアスカニウスは一度ゆっくり瞬きをして、フェリクスを安心させるように薄く笑みを浮かべた。

 一口だけ飲んだ水の杯が卓に戻される。


「お前のせいじゃないからそんな顔をするな。パウルス、リンゴを剥けるか?」


 そう言ってアスカニウスが食卓から取り上げたのは、翡翠のように鮮やかな緑色のリンゴだった。市場でよく見るのは直径が小指の長さほどのものだが、それより二回りも大きな立派なものだった。


「は、はいッ……剥けます」

「では頼む」


 パウルスは水差しを置いていた台に取って返しナイフを持ってくると、まだ細い指で器用にリンゴの皮を剥く。剥いた皮はパウルスの足元にポトリポトリと落ちていった。後で掃除係が片付ける決まりで、食事をする側も食べられない部分などは床へ捨てるのが作法だ。

 パウルスはリンゴの皮を均一に剥き終えると、実の部分を芯から剥がすようにナイフの刃を入れ、切り分けた果実をアスカニウスの前の皿へと置いていく。相変わらず緊張気味だが、手の動きは危なげない。


「……どうぞ、お召し上がり、ください」

「うん。ご苦労。お前は農家の出だったな。道具の扱いは、さすが手慣れてる」

「はい……」


 頭を下げるパウルスの表情はなお冴えない。蒼白な顔色は和らいだが、申し訳なさそうな顔のままとぼとぼと壁の方に下がって行く。


 ――帝都の貴族と使用人はこんなに距離があるのか。


 アスカニウスが皿を替えろと言えばパウルスは無言で取り替え、新しいスープをと言えば厨房からスープを運んできた。理不尽な要求も威圧的な態度もない。

 しかし、壁に埋まりそうな隅っこで主人の命令をただひたすら待っているパウルスに対して、言葉にし難い感情が湧き上がってくる。

 フェリクスは黒パンに褐色の肉のペーストと淡い緑色の豆のペーストを塗った。一口かじるとまず肉の匂いが、ついで豆の食感と香りがして、最後に小麦の風味が口に広がる。

 アスカニウスが一口だけ飲んだ後手の付けられていない硝子の杯が、中庭に降り注ぐ朝日に照らされてキラキラと輝いていた。

















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