第二章 守村 2

 神殿の空気はいつもひんやりとしている。


 ピュートー神域の神殿群は、半円形の広場を囲むように建てられている。それぞれ十六本の柱に支えられたレリーフ屋根があり、その奥の心室しんしつの扉は、祈りのために開かれていた。

 参列者は扉の中までは入ることはできないが、神殿内部の荘厳な彫刻や黄金の装飾、数々の奉納品を垣間見ることで、創造神の威厳を窺い知ることが出来る。


 アスカニウスは日の出前から神域に赴き、神官や村人と共に朝の祈りに参加していた。

 今日の口上はフェリクスの当番だ。

 紫色のトーガを纏ったフェリクスは心室の中央、祭壇の前に立ち、モレア語で神々と龍たちへの感謝と祈りを謳う。


 今のモレア州ではモレア語と、帝国共通語のアルバ語の両方が使われているが、モレア語は最も古く神に近い言葉であり、帝都の貴族も必ずモレア語を学んでいる。歴史書のほとんどはモレア語で記されているし、正式な書類はアルバ語とモレア語を併記するという決まりもあるのだ。


 フェリクスのしっとりとした声が石の神殿にこだまする。アスカニウスはそれに聴き入りながらも、余計な雑念が浮かんで祈りに集中することはできなかった。


 ――あの元気過ぎる子が、果たして何をしでかすのか。


 昨日、意気揚々とピュートーに乗り込んできたユリアンは、長旅の疲れのためか与えられえた部屋で早々に眠ってしまった。ふわふわの赤毛に乳色の丸い頬は、眠っていれば天界でザーネス神に仕える天使のようだが、目覚めれば山羊の仔のようにちょろちょろと動き回り、なんにでも首を突っ込みたがる。

 その好奇心に突き動かされ、海を渡ってはるか遠くの属州まで来てしまったほどだ。


「それでは、火龍の神殿へ」

 女性神官の声でアスカニウスは目を開けた。いつの間にかフェリクスの口上は終わっていたようだ。


 上の空だったことを悟られぬよう、アスカニウスは神妙な顔で俯いたまま立ち上がる。ザーネス神殿で祈った後は火龍の神殿へ、その次は水龍の神殿へと、全ての主神殿を順番に回るのだ。

 そうしてアスカニウスはあまり集中できないまま、なんとか朝の祈りを済ませ村へ続く石畳の道へ出た。他の村人たちは太陽神や豊穣の麦の神、葡萄酒の神などの神殿にも詣でているが、雑念だらけの頭で巡ってもかえって不敬であろう。


 いち早く帰路についたアスカニウスは、神域の入口で何やら騒ぎが起きていることに気付いた。


長殿おさどのは中にいるのだろう!」

 甲高い声のあと、いさめる男たちの声が続く。

「ええい、触るな、無礼者! 僕の信心を踏みにじるのかッ⁉」


 アスカニウスはトーガの裾をたくし上げて走った。

 石畳の向こう、神域へ上がる階段の近くでユリアンが警備兵四人に取り囲まれている。


「一体どうした」

「長殿、この無礼者たちを罰してください! 礼拝を妨害するなど重罪! 僕がまだ子供だからといって、侮っていい謂れはありません!」


 ユリアンは白い肌を真っ赤に染め、怒りのあまり瞳に涙すら浮かべていた。相当暴れたようでトーガの着付けが乱れている。


「水龍様、我々は……」

「分かっている」


 すっかり困り果てている警備兵たちに目配せをして、アスカニウスはユリアンの肩に両手を置いて今にも爆発しそうな体をしっかりと地に縫い止めた。

 大柄なアスカニウスが立ったままユリアンに手を伸ばすと熊が人間に襲いかかっているかのようだが、アスカニウスは膝を折らずにユリアンに話しかける。


「いいかユリアン、ここでの朝の礼拝は、アルバとは違って時間が厳格に決まっているんだ。日の出より前に神殿に入らないと、祈りが終わるまで他の者が神域のさかいを超えてはならない」

「……そうだったの、ですか」


 怒れる火龍の爪が急速に収められた。ユリアンは赤かった顔を青くして、震える唇を噛む。

 アルバ市の神殿では、時間になると礼拝できないという規則はなかった。


「夕方の礼拝の前には鐘が鳴らされるから、遅れる心配はない。一緒に参ろう」

「はい……」


 そこに、騒ぎを聞きつけたフェリクスが現れた。紫色のトーガの裾を軽くつまんで持ち上げ、小走りに石畳を駆けてくる。


「どうしたのですか?」

 フェリクスの問いに警備兵のひとりが答えた。

「坊ちゃまが、その、朝の祈りにおいでになったのですが、刻限を過ぎておりまして」

「そっ、そういう規則があるならば、そうだと言えばよいではないか! 僕は知らなくて、それで」

「ユリアン、兵は職務を全うしただけだ」

「僕は……」


 ユリアンはそれ以上言葉が出ないのか、口を引き結んで警備兵を睨みつけた。

 子供に涙目で睨まれるというのは、恐ろしくはないが気まずいものだ。警備兵は苦い顔で視線を逸らす。


 フェリクスはすぐに事態を察したようだった。一度アスカニウスの方に視線を送ってから、ユリアンに向かって正式な礼を取る。

「朝の祈りは終わりました。ユリアン様、よろしければ神域をご案内いたしましょう」

「……もう入ってよいのか?」


 ユリアンは居並ぶ警備兵たちを警戒の眼差しでねめつける。


「どうぞこちらへ」

 フェリクスに促されて、ユリアンは警備兵をジロジロ見ながらも素直に石畳を進んだ。


 帰るつもりだったアスカニウスも来た道を戻ることになり、フェリクスに近づいて耳打ちするようにささやく。

「助かった」


 それにフェリクスはにんまりと目を細めて見上げてきて、アスカニウスの鼓動が跳ね上がる。

 大きな瞳が細められると心がざわついて仕方がない。紫のトーガを纏っている時のフェリクスは一層神秘的だ。


「どこぞの貴人も、何日か前にここで捕まっておられましたね」


 アスカニウスは目を閉じ、わざとらしい咳払いをひとつして、フェリクスの挑発を無視することにした。


「少々直情的なきらいがあるが、話せば分かる子なんだ。」

「そのようですね」


 思ったよりもあっさりと返された言葉に驚く。

 アスカニウスが問い返すより早く、フェリクスはユリアンの先に立って石畳に沿って建てられた宝物庫の説明を始めてしまった。












 ユリアンはあちこちで騒ぎを起こした。


 アスカニウスがフェリクスの仕事を手伝っていると聞くと、案の定ついて来たのだが、どうしても大人しく見ているということができない。

 畑に生えている作物を勝手に抜いてしまったり、作業中の農夫に種蒔きから収穫までの工程を全部説明させようとしたりする。

 薪割りを手伝うと言って手斧を持ったはいいが、何故か薪を細切れに刻んでしまう。その断面を眺めて、自分の知っている木とは違う種類だと気付くと、今度は実際に生えている木まで案内させようとする。


 まだ昼前だがアスカニウスへの苦情――実際には、村人たちの無言の圧力――は、片手で収まらない件数にのぼっていた。


「それで、このカップを作ってどこに売りに行くのだ?」

「はあ、そうですな……巡礼者か、あとはミデイアの方へ」


 ユリアンは今も村人の手仕事について質問攻めにし、老婆を疲弊させていた。

 木材から食器を作っている小さな工房で、最も腕の良い職人だというその老婆は、作りかけの取っ手付きのカップをもてあそびながら冷や汗をかいている。

 フェリクスとアスカニウスは木くずの片付けなどを手伝いに来たのだが、ユリアンは木工の作り方や道具について事細かに聞き、今度は流通と利益について質問を浴びせ始めた。

 手仕事のことならたどたどしくも答えられていた老婆は、助けを求めるように周囲を見回し始めた。


「ミデイアとは近くの宿場町だったな。そこではこのカップがよく売れるのか?」

「へ、へえ……その、売るのは息子だもんで……わたしはよく……」

「そのくらいにしておけ」


 見かねたアスカニウスがふたりの間に割り込む。


「この者たちは仕事が忙しいんだ。また後で聞きなさい」

「分かりました。後で聞きます。一時刻ほど後でしょうか? 午後か、夕刻が宜しいでしょうか?」


 ユリアンにまっすぐな瞳で見上げられ、アスカニウスの視線が泳ぐ。


「あー……そうだな、手の空いた時間を見計らって、俺が声をかけておこう」

「それはいつですか?」

「聞きたいことをまとめておいてくれ。分かる者を探すから」


 この子は興味を持ったものに手を出さずにはいられないのだ。

 挙句、探究心に対する信念が強すぎて、行為を遮られると猛然と怒り出す。そのたびにアスカニウスが諭し、説明に納得がいかず怒りが止まない時は担ぎ上げられて引き離された。


 また噴火してはたまらない。なんとか折衷案をひねり出そうとアスカニウスが苦心していると、フェリクスが助け舟を出してくれた。


「私がお話を聞きましょう」


 ユリアンの関心はすぐにフェリクスに移った。

 フェリクスは運ぼうとしていた木くずの入った桶を一度地面に置き、胸に手を当ててユリアンに向き直る。


「私は帝都の難しい学問は分かりませんが、村のことには詳しいので」

「そうか! このカップがどれほど売れるかも知っているのか?」

「もちろんです。食器類は月に三十点ほど作られていて、半数は村の中と巡礼者に、残りの半数がミデイアで売られています。ミデイアの市に持ち込むと、日用品を扱う商人がまとめて買い上げてくれることもあります」

「食器以外には何が売れるのだ? ここでは木工しか作っていないのか? 焼き物は?」

「ピュートーには大規模な焼き窯はありません。鍋や陶器は、木工の食器や彫刻を売ったお金で買ってくるのです」


 ユリアンの質問攻めに淀みなく答えながら、フェリクスはさりげなく桶を持ち直した。フェリクスが喋りながら移動するとヒヨコのようにユリアンが後をついて行く。

 そうしてフェリクスは木くずを運ぶ仕事をこなしながら、ユリアンを職人たちから引き離してしまった。


 アスカニウスも桶を持って歩きながら感嘆の溜息を漏らす。

 木くずは工房の裏手に掘られた地面の穴に捨てる。家々のかまどの焚きつけに使い、残った大量の木くずは穴の中で発酵させて畑の肥やしにするのだ。


「ユリアン様は大変勉強熱心でいらっしゃいますね」

「当然だ! 僕はクラディウス一門筆頭フィレヌス家の一員として、将来は元老院議員になるのだ。勉強しておかねば国を背負っていけぬからな」

「素晴らしいお心掛けです」


 質問に答えてもらい、さらに手放しで褒められて、ユリアンはすっかりご満悦だ。


 ――また、神官殿に助けられたな。


 アスカニウスは木くずを捨てて空になった桶を脇に置き、ふたりの様子を振り返る。


「では、村の子供たちと一緒に講義を受けてみてはいかがでしょう」

「講義? この村で講義があるのか?」

「我々神官が交代で教えております。クラディウスお抱えの教師とは天と地ほど差がありましょうが、土地の話などは目新しいものがあるかと思いますよ」

「ほう」


 すっかり機嫌を良くしたユリアンが、後ろに倒れそうなほど胸を張ってフェリクスを見上げた。


「良い提案だ、僕もその講義とやらに参加しよう」

「歓迎致します。ユリアン様がお読みになりたい本をご用意しましょう……ふふっ」


 懸命に踏ん反り返る様子がおかしかったのか、クスリと笑みを漏らしながらフェリクスが屈み込んだ時だった。


「よせ! ユリアン!」


 アスカニウスが小さな体を取り押さえるのと、フェリクスの頬に細い傷が走ったのは同時だった。

 尻餅をついたフェリクスになおも襲い掛かろうとするユリアンをアスカニウスが羽交い締めにする。


「離してください長殿!」

「これ以上何をするつもりだ」

「ぶ、侮辱だーッ!」


 小さな体のどこから出るのかと思うほど大きな声で叫び、ユリアンは力の限り暴れた。アスカニウスは飛び出して行ってしまいそうなユリアンの体を持ち上げるようにして抱え込む。

 ご機嫌だったユリアンの豹変に、さすがのフェリクスも地面に手をついたまましばし茫然とする。


 咄嗟にフェリクスが身を引き、アスカニウスが素早くユリアンを止めたのが幸いした。ユリアンの振り下ろした平手は爪の先がフェリクスの頬を掠めただけで済んだのだ。


「貴様、僕を笑ったな! 神官であろうとも侮辱は許さん!」


 アスカニウスに完全に抱き上げられても、ユリアンは手足をバタつかせて抵抗を続ける。丸い頬が真っ赤に染まり、感情と共にあふれてしまった涙が一筋伝っていた。


「申し訳ありません、無礼を」

「うるさい! 屈むな!」


 フェリクスがつい上半身を折ってユリアンの顔を覗き込む。ユリアンはこれが大層お気に召さないのだ。

 アスカニウスはユリアンの腹を下にして肩に担ぎ上げた。


「すまない神官殿、許してやってくれ。これはアルバに送り返す」


 ユリアンの膝に胸を連打されながらアスカニウスが目を伏せる。フェリクスが口を開くより先にユリアンが絶叫した。


「嫌です! 帰りません!」

「俺だってお前の自由にさせてやりたいと思ったが、仕事の邪魔になるなら置いておけない」


 アスカニウスの言葉に、それまで渾身の力で暴れていたユリアンがピタリと動きを止めた。

 騒ぎを聞きつけた工房の職人たちが顔を出し、困惑した様子でこちらを窺っている。


「お……お邪魔、ですか」

「当たり前だろう。俺は大祭の開催地候補になってくれと頭を下げて回っているんだぞ。クラディウスの者が村人を傷付けたとあっては、まだ少しも上がっていない俺の評価が下がるばかりじゃないか」

「あ、そんな……そんなつもりは」


 ユリアンはアスカニウスの肩の上でしゅんと萎れてしまった。なんとか噴火が収まったことに安堵し、アスカニウスはユリアンを乗せたままフェリクスを見る。


 フェリクスは楽しげに笑っていた。


 礼節を重んじるフェリクスなら怒り出すのではないかとひやひやしていたのに、何が面白いのか吹き出すのをこらえているようで、声を押し殺して笑っているのだ。


 ――分からん人だ。


 アスカニウスが怪訝な表情を浮かべたからか、フェリクスは気まずげに笑いをひっこめた。


「悪いが、一旦引き上げる。午後はまた手伝いに戻れるようにするから」

「どうかお気になさらず」


 涼しい顔を装いながら、フェリクスの口元はまだかすかに持ち上がっていた。
















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