第二章 守村 3
「大きな麻袋に、半分ほど種子を入れて担いだ時にそっくりだったんです」
翌日、フェリクスはそう言ってまた笑った。
朝の祈りのあと、アスカニウスが改めて身内の非礼を詫びたが、彼は本当に気にしていないようだ。
それどころか、昨日アスカニウスがユリアンを肩に担いで運んだ姿が面白かったと力説しはじめた。
「種子用の小さな袋が足りない時は、大きい袋に量を調整して入れるのですが、中身の詰まってない袋を肩に担ぐとフニャリと垂れ下がって」
その時の様子にそっくりだったと、フェリクスはまた思いだし笑いをする。
「神官殿が気分を害さなかったなら良かった」
ふたりは今日も村の仕事を手伝っている。今日一番の大仕事は、診療所での薬草の仕分けだった。
ピュートーには病床のある立派な診療所があり、州都モレア市で学んだという五十手前の精悍な医師が切り盛りしている。
春先から採集したさまざまな植物が大きな作業台の上に並べられ、保管用のタンスの小さな引き出しに種類ごとに収めていく。フェリクスは慣れた手つきで乾燥させた薬草を選り分けた。
アスカニウスも傷薬や痛み止めは分かるが、本格的な医学の心得はない。フェリクスの隣で木箱を支えたり、床を掃き清めたりと、見習いの子供と同じ仕事が精一杯だった。
あと、やはり細かい作業は苦手だ。龍の手は乾燥した薄い葉を摘まむのに向いていない。
「ユリアンはちょっと変わった子だが悪気はないんだ。母親が根っからの軍人で、繊細さを天に忘れてきた
「ええ。ですからユリアン様をアルバに追い返したりしてはなりませんよ。きっと酷く傷付きます」
「神官殿に暴力を振るったのにか?」
「他の者が相手でなくて良かった」
フェリクスはきっと、嘘を吐けない人間だ。思いを飲み込むことはあっても、お世辞や社交辞令で媚を売ることはない。
アスカニウスは目を細めてフェリクスを見た。フェリクスは話しながらも真剣な表情で作業台の上から視線を動かさない。
「神官殿はユリアンを好かないと思っていた」
「何故ですか?」
顔を上げたフェリクスが不思議そうな顔をする。容姿を褒めた時と同じ顔だ。
大きな瞳に見つめ返されてアスカニウスはたじろいだ。
厳格なフェリクスは、ユリアンのような聞き分けのない癇癪持ちを嫌悪するだろうと、勝手に思い込んでいた自分に気付く。
無意識の予想が外れたことにも動揺したが、こぼれ落ちそうな金色の瞳が陽の光を反射して煌めく様に見惚れてしまう。
「お約束した通り、午後の講義にはユリアン様にも参加してもらいましょう」
「本当にいいのか? 他の子たちと問題を起こさないか心配だが……」
「私は心配していません」
フェリクスは自信たっぷりに笑って見せる。
昨日から彼の新しい表情が見られることを、アスカニウスはこっそりユリアンに感謝していた。
*
ユリアンは分かりやすく目を輝かせた。
迎賓館前の列柱屋根の下には大きな布が広げられ、その上にはどっさりと書物が積み上げられている。パピルスの巻本だけでなく、羊皮紙の冊子本も数冊あった。
筆写用紙が帝国中に普及して久しいが、それでも書物は高価で簡単には手に入らない。東方の片田舎にこれだけの蔵書があるとは、ユリアンが驚くのも無理はなかった。
「すっご~い、フェリクス様、今日はどうしたの?」
「ご本がいっぱい!」
いつも通り集まっていた村の子供たちも歓声を上げる。
フェリクスは彼らを集め、その一番後ろにユリアンの姿もあることを確認してから、ひとつ手を叩いた。
「はい。今日は読書会ですよ。それぞれ好きな本を選んで読んでください。分からないことがあればどんどん聞いてくださいね」
「「はーい!」」
書物の山にわっと群がる子供達の一歩後ろで、出遅れたユリアンはアスカニウスの顔を見て、フェリクスを見て、また書物の方を見る。
「龍のおはなしある?」
「読んだことないのがいいなー、これはもう知ってるや」
「それ私が先に取ったの! 返して!」
そうこうしているうちに村の子は豪快に本を掴み、広げて中身を吟味し出した。白い石床の上を巻本が転がり、奪い合いも起きている。
「き、貴様らそんな雑に扱うでない! 紙は傷みやすいのだぞ、もっと丁寧に!」
元気過ぎる子らの様子にユリアンが悲鳴のような注意を浴びせる。破れた紙の修復は大変だし、水に濡れるとインクが滲んで読めなくなってしまう。
「ユリアン様の言う通りですよ。エミリア、巻本を広げる時はゆっくりと。ニゲルとアンニウスも、引っ張ったら破れてしまいますよ、ふたりで仲良く読みなさい」
フェリクスの言葉に再び元気よく返事をした子供たちは、今度は行儀良く本を読み始めた。
ユリアンはそれにホッと胸を撫で下ろし、同時にアスカニウスも安堵した。もし目の前で書物が破損でもしたら、ユリアンは激昂せずにはいられなかっただろう。
「ユリアン、お前はどんなものが読みたい?」
「ど、どんなものがあるのでしょうか!」
「ふむ、せっかくだから俺も何か読んでみるか」
ユリアンは読書家で、書物が大好きなのだ。帝都のクラディウス本邸では書庫に入り浸り、覚えた知識を家族や教師に披露するのが常だった。
半分ほどに減ってしまった書物の山を前に悩むふたりのもとに、フェリクスが近づいてくる。
「クラディウス様はこちらをお選びになるかと」
フェリクスは山の中からひとつの巻本を拾い上げ、アスカニウスに差し出した。
「おお、これは!」
アスカニウスの目がユリアンに負けじと輝く。
それは古代の大祭についての記録だった。
原版はモレア市の図書館に所蔵されている石板で、アスカニウスも立ち寄った際に移しの一部見せてもらったが、この巻本にはさらに詳細が記されている。当時の儀式の手順や、集まった民衆の様子など、挿絵までついていた。
「
「馬鹿を言うな、これは俺が先だ」
「ユリアン様にはこちらはいかがでしょう」
それはピュートーの古い歴史をまとめた冊子本だった。
ユリアンは渡された本を立ったまま開いて顔を近づける。
「はじまりの地のことか……モレアの成り立ちくらい知っているぞ」
「その中でもピュートーでの詳しい記録をまとめたものですよ。読んでみてください。ユリアン様に、この村のことをよく知っていただきたいのです」
「ふん」
ユリアンはそっけない態度を取りながらも、ベンチに腰掛け背中を丸めて本に目を落とす。アスカニウスはそれを後ろから覗き込み、冒頭の文章を目で追った。
まずは龍という生き物の説明だった。
龍の中でも力が強く長命なものは、はじまりの時から今までずっと生きていて、それぞれの土地の守護神――龍神として祀られている。ピュートーでは火龍パルナと水龍ラコウヴァがこの龍神にあたり、火の山と聖水の湖が隣り合う独特な土地となった。
ユリアンはじっと集中して読み進めた。一定の速さでページをめくる。他の子供に比べて文章を読むのが早いのは明らかだった。
あっという間に半分ほど読み終えたユリアンが顔を上げる。
「フェリクス殿、毎年夏に火の山に登り、火龍パルナに会うというのは本当か?」
「はい。当番の神官が夏の間、パルナ様にお仕えするのです」
「そなたも火龍に会ったことがあるのか!」
「もちろん。直接お言葉をいただいたこともあります。火龍はザーネス神よりももっと我々に近く、多くの導きをくださるのです」
アスカニウスも近くのベンチに座って巻本を広げる。
周りの子供たちはてんで自由で、好きな格好で好きな書物を読んでいた。
ひとりで黙々と読み進めている子もいれば、ベンチに広げたひとつの書物を数人で覗き込んでいたり、静けさに負けて昼寝を始めてしまった子もいる。
アスカニウスと同じように、書物を手に持ったものの、フェリクスとユリアンの会話に耳を傾けている子もいた。
「ずっと気になっていたのだが、火龍は勝手に湖を作った水龍を追い返したのだろう? なぜ水龍は今でもここに祀られているのだ?」
「その時は
フェリクスに促されてユリアンは本の続きに目を落とす。
その続きはアルバ市の教育ではあまり耳にしない箇所だ。
火龍と水龍はそれぞれ人間を生み出し、この土地に人間が増えていく。ザーネス神がこの地にピュートーという名を授け、火龍パルナが治める神域とすると、その名誉に嫉妬した水龍ラコウヴァが抗議するのだ。火龍は当然自分が格上だと言って突っぱねる。
「争ってばかりだな。パルナとラコウヴァは仲が悪いのか?」
「仲が悪いわけではありません。最初に火龍が怒ったのは水龍が勝手をしたからですし、水龍が抗議したのもザーネスの愛を独り占めされたと思ったからです。互いを嫌っているわけではありません」
「ふうん……嫌なことをされたら嫌いになるのではないか?」
「その時はそうかもしれませんね。ですが、相手の考えや思いを聞けば、嫌っていた気持ちも変化することがあります」
アスカニウスは自分の手元がいっこうに動いていないことに気付いていた。昼寝をはじめてしまった子の気持ちがよく分かる。
ここは人の心を安心させる。昼日中でもついつい眠気に誘われてしまう。
――自由で、
今までの生活に不満を持ったことはなかった。帝都は
しかし、不思議と心が落ち着くのだ、この場所は。
それはユリアンが穏やかだからだろうか。フェリクスという気に入った者がいるからだろうか。
――水が美味いから、かな。
ここに来てからずっと体調が良い。フェリクスに付いて連日村を駆け回っているが、あまり疲れも感じず、体の痛みも減っていた。以前の健康な己に戻りつつあるかのようだ。
アスカニウスはついに手元の書物を読むことを諦めて本を巻き直す。まだまだ続くユリアンとフェリクスの問答を聴きながらまどろむことに決めた。
「水龍ラコウヴァが不在だというのは?」
「ラコウヴァ様は世界中の水場を回っていると言われています。湖の水がどこよりも清らかになれば、喜んで帰ってくるのです。そのために私たちは日々水が清らかになるよう努めています」
「どうしたら水が清らかになるのだ?」
「我々の心が平穏であることです。人々が助け合い、分かりあい、毎日を楽しく暮らすことで、この地そのものが浄化されるのです」
「なんだ、そんな簡単なことで良いのか! この村はこんなに豊かで平和なのだから、水はもう清らかだろう。どうして水龍は帰って来ないのだ。それが理由で、ここで大祭を開催したくないと聞いたが?」
「水の浄化には時間がかかります。六十年前の戦争で多くの人が亡くなり、多くの人の心が傷ついた……ラコウヴァ様は聖水で人々の傷を癒すことで、穢れを集めてしまわれたのです」
今にも夢の世界に旅立とうとしていたアスカニウスの目が一息に覚める。
またこの展開だ。
よもやフェリクスは、ユリアンにこの話をすることで大祭誘致を断る根回しを進めるつもりだったのだろうか。
アスカニウスは息を詰めながらふたりの会話の続きに耳をそば立てる。
「多くの人が集まることは、多くの悲しみや穢れも持ち込まれる心配があります。我々は早く水を浄化して、早く水龍様にお帰りいただくことを願っていますから」
「では、早く水を浄化できるよう僕も手伝おう! それに大祭が浄化の妨げにならぬよう考えるぞ。僕は長殿の仕事を手伝いに来たのだからな!」
自身に満ちた笑顔を向けるユリアンに、フェリクスは固まった。
「浄化の妨げにならないと分かれば、ピュートーは大祭の候補地になってくれるのであろう?」
「……そう、ですね。浄化の妨げにならなければ」
「合い分かった! 僕が必ずやフェリクス殿の期待に応えよう!」
返答に窮するフェリクスの様子に、アスカニウスは晴れやかな笑みをたたえて立ち上がった。
「いい子だユリアン! その任を果たすと誓うなら、アルバに送り返さないでやろう」
「はい、誓います! 頑張ります!」
立ち上がって姿勢を正したユリアンは、トーガの裾を持ち上げて一人前の誓いの礼を取って見せる。アスカニウスも返礼に自分のトーガの裾を持ち上げる。
石段に腰掛けたままのフェリクスを見ると、悔しそうに口元を歪めていた。
彼の新しい表情を見ることができたので、さらにユリアンを褒めてやることにした。
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