第三章 懸念 1

 ユリアン・クラディウス・フィレヌスは夜明け前に神域へと入った。

 今日は供をしたいと申し出た専属護衛、パリスとヘラスのふたりも引き連れている。


 石畳が三又に分かれる少し手前には警備兵が槍を持って立っている。

 いつぞやのように咎められることはなく、ユリアンは得意顔で神殿に続く道を進んだ。


 初日は作法を知らず、翌日はふてくされて部屋にこもっていたが、三日目からは毎日欠かさず朝晩の祈りに参列している。


 アルバ貴族は屋敷の敷地内に神棚ララリウムを置く。

 ユリアンも自宅――クラディウス本邸――に立派な神棚があるが、可能な限り神殿に詣でていた。


 神殿が好きだ。


 ここで手を合わせて祈っていると、絡まりあってムカムカする胸の中のわだかまりがほどけていく。


 ムカムカが体の中に溜まると、ユリアンは自分を止めることができなくなる。

 大声を出したり、泣き出したり、幼稚な行動を取ってしまう。

 そうしたくはないのに、あのムカムカはどうしても我慢することが出来ない。


 ひんやりとした神殿の静かな空気は、それを洗い流してくれるのだ。


 そして、こうして祈り続ければきっと、神は自分の願いを聞き届けてくれるに違いないと信じていた。


「おはようございます、ユリアン様。今朝はクラディウス様とご一緒ではないのですね?」


 神殿前の半円形の広場でフェリクスに声をかけられる。

 ユリアンの左右にいたパリスとヘラスが深々と頭を下げた。


長殿おさどのは体調が優れぬ故、今日は祈りには参列されない。僕がクラディウスの代表として参ったのだ」


 ユリアンはトーガの端を摘んでゆったりと話す。

 帝国一の大貴族として相応しい振る舞いをしなくてはならない。


 ユリアンはいつも母を手本にしている。五人の子を産んでなお皇帝一族の親衛隊を務める母は、ユリアンの憧れだった。


 フェリクスはその様子に微笑ましげな視線を送った後、わずかに表情を曇らせる。


「体調が? 旅の疲れが出たのでしょうか」

「そうかもしれんな。長殿は頑健なお方だが、ピュートーへ来る前も職務が大変お忙しかった」


 ユリアンはすっかりフェリクスに懐いていた。


 フェリクスは何を聞いても必ず答えてくれるのだ。母やアスカニウス、大好きな伯父たちもユリアンにたくさんのことを教えてくれるが、フェリクスの知識量も彼らに引けを取らない。


「そうだフェリクス殿、長殿を見舞ってはくれぬか。長殿はフェリクス殿のことが好きだから喜ばれるだろう」


 名案だ。敬愛するアスカニウスの喜ぶことを考え付いて、にんまりと笑が浮かぶ。

 パリスもヘラスも横やりを入れず頷いているので、ユリアンはこの提案に自信を深めた。


「クラディウス様が、私を?」


 しかしフェリクスは困ったように首を傾げた。


 なぜ首を傾げるのか分からない。

 他人の心の機微に疎いと言われるユリアンでも「好き」の気持ちは分かる。好きの気持は大切にすべきだと、母からもよく言われて育ったものだ。

 アスカニウスがことのほかフェリクスを好ましく思っているのは、玄孫の目から見ても明らかだった。


「行ってくれぬか?」

「分かりました、参りましょう。泉の水をお持ちします」

「あの水か! 長殿は水がお好きだからな、きっと喜ばれる」


 ユリアンはまだ祈りの前なのに胸の内がすっきりしていることに気付く。ピュートーに来てから、ムカムカが続くことが少なくなった。


 神域はやはり特別な土地なのだ。

 ここで祈りを続ければ、全てが上手くいくに違いない。







 *







 体が冷えていく。

 寝台に横たわるアスカニウスは、ぼんやりとする意識の中、ひりつくほどに冷たくなった指先の感覚を追っていた。


 アスカニウスの体温は生まれつき低く、肌の表面はどこもひんやりとしているが、最近さらに冷たくなっていると感じていた。

 特に体調の悪い時は、家族や医師が狼狽するほどだ。

 そのたびに、自分は普通の人間ではないのだと思い知らされる。


 龍の先祖返りの誕生は吉兆だ。

 偉大なる龍の特徴を持って生まれてきたアスカニウスは、名門クラディウスの子ということもあり、神の如く人々に敬われ、崇められてきた。


 しかし、と思う。


 こうして冷たくなった時の医師の怯えた様子、近しい者たちの戸惑いの表情を見るたび、崇拝と排斥は背中合わせだと知る。



 ――いっそ見た目もシワクチャになってしまえば、釣り合いが取れるのにな。



 体が冷え過ぎると上手く動かせない。関節が軋み、酷くだるく、起き上がると頭が痛む。

 このまま冷たい時間が長くなって、自分はやがて死ぬのだろう。



 ――ここも俺の水場ではなかったか……。



 アスカニウスは帳の隙間から漏れる陽の光をぼんやりと見つめる。


 ピュートーの泉の水は美味で、飲めば体が軽く感じられた。村に来てから数日は体調も良かったのだが、こうしてまた悪くなるということは、やはり違うのだ。


 クラディウス一門は水龍の血を継いでいる。


 水龍には決まった水場があると言われている。

 それは命が宿った時――アスカニウスが母の腹の中で命の欠片としてこの世に生を受けた後、母が最初に口にした水が、アスカニウスの水場だ。


 母が生まれ育ったすぐ側のアルバーノ湖がアスカニウスの水場だと、誰もが思った。

 しかしアルバーノ湖の水を美味いと感じはしても、幾百年の時を超えて体を支えてくれる力を感じることはなかった。


 職務で訪れた土地の水のどれも違った。

 帝国の領土の半分を踏破してなお、アスカニウスの水場は見つかっていない。


 視界の端で、とばりの裾が風に揺れる。

 世話人が窓を開けておいたのだろう。緑の香りを乗せた春の風がそよりそよりと布の端を弄ぶ。


 アスカニウスが滞在するのは、迎賓館の中でも一番広く豪華な寝室だ。

 木製の大きな寝台には絹地のクッションが置かれ、天蓋には龍と草花の透かし彫りが施されている。帳は軽やかなしゃと、光を遮るウールの二重になっている。


 ピュートーは高原で、海側の低地より季節が遅いはずだが、アルバに比べれば暖かい。

 同じ春でもピュートーの春は、うららかで瑞々みずみずしい。


 暖かな春の空気の中で、アスカニウスは寝台に毛皮を敷き、分厚いウールの掛布を口元まで引き上げてじっと寒さに耐えていた。




「クラディウス様」


 コツリという控えめな一度のノックの後、そっと声をかけてきたのはフェリクスだ。

 もし返事がなければこのまま帰るつもりのような、囁き声に近い、気遣わしげな声だった。


 アスカニウスの首の後ろがふわりと温かくなった。

 こそばゆい。

 この年齢まで生きて、とうに忘れてしまった初恋などというものを引き合いに出すのははばかられるが、些細なことにも彼への好意を実感できるのは幸福だった。


「入れ」

 力の入らない体から、思ったよりとしっかりした声が出た。


 木の扉を開く音、サンダルが石の床を滑る音、次いであの凛とした甘やかな声が、先程よりはっきりとした意思をもって帳の向こうから投げかけられる。


「お加減はいかがですか。水をお持ちしました」


 アスカニウスは気だるい右手を持ち上げ、爪の先で帳を揺らした。

 小さな波の意図を汲み取ってくれたフェリクスが、帳の端をめくって顔を覗かせる。水差しと杯の乗った木の盆を片手に持っていた。


「医師を呼んでいないそうですね?」

「人間の医師では、診ても分からんと言われるからなあ」


 もそりと寝返りを打ってフェリクスの方へ顔を向ける。

 寝台の枕もとに、水差しと杯の乗った盆が置かれた。


「どこが痛みますか?」

「全部だ」


 端正な顔立ちの真ん中に嵌め込まれた黄金の瞳が、かすかに不満を示した。


「ふざけてるんじゃない。時々こうなるんだ。全身がだるくて、酷く冷える」

「寒いのですか?」


 毛皮の上で掛布にくるまっているアスカニウスを見て、熱が出ていると思ったのだろう。

 フェリクスが掛布から覗くアスカニウスの頬に触れた。


「つ、冷たいですよ!」

「あっついなあ……神官殿は、意外と体が温かいんだな」


 あまりの熱さにアスカニウスは肩を竦めてフェリクスの手の平から逃れる。

 フェリクスの方が発熱しているのではと疑ってから、それだけ自分の体が冷えているのだと思い至った。まだまだ子供体温のユリアンより熱いくらいに感じた。


「よく効く痛み止めの薬湯があります。寒さにも効きますよ」

「水をくれ」


 気遣われるというのは喜びと共に、苛立ちも連れてくるものだ。

 こんなことを思うなんて、自分もユリアンと変わらない我儘坊主ではないか……アスカニウスは複雑な胸中を見つめたくなくて、重たい腕を掛布から出して枕元に伸ばす。


 声を出したことで急に喉の渇きを覚えたのは本当だ。


 緩慢な動きのアスカニウスを遮って、フェリクスが体を起こすように促す。

 剥き出しの二の腕にフェリクスの手が触れて、アスカニウスはびくりと体を揺らした。


「痛みますか?」


 フェリクスの慎重な声と共に、支えてくれる手がトゥニカに覆われた背中へ移動する。


「ここまでのことは、あまりなかったんだが……」


 熱いと感じると同時に、わずかだが痛みに似た感覚が背を走った。

 少し手が触れただけで痛むなど……体の衰えの加速を感じ、アスカニウスは短い吐息を漏らす。



 ――せめて、あと五年。



 大祭の復古を叶えてから生を終えたい。

 もうすでに百二十年も生きたのだから、寿命の長さに不満はない。しかし仕事を途中で投げ出すのは、やると決めたことが出来ないのは、癪に触る。


「飲めますか?」


 差し出されたガラスの杯が窓から差し込む日の光に照らされて輝く。

 腕を上げるが震えてしまうのが情けない。杯の下を支えてもらいながらなんとか水を飲む。

 味が分かることにホッとした。やはりここの水は特別美味だ。


「あー、うまい」


 杯の中身を一気に飲み干す。舌が、喉が喜ぶ。

 腹の中に流れ込んだ後に、全身に活力が巡ってきた。重かった頭が冴えて目が醒める。起き上がるのも億劫だった体が嘘だったように軽くなり、杯を持つ手の震えも止まっていた。


「薬湯はいらないようだ。聖水の泉はすごいな」

「念のため医師を呼びますよ。泉の水は体に良いですが、それだけで生きていけるわけではありません」


 フェリクスはアスカニウスの手から空になった杯を取り上げて盆に戻す。


「村の者はいつも泉の水を飲んでいるのか?」

「いつもではありませんが、体調不良があれば薬と一緒に泉の水が届けられます。湖の水を直接汲むにはザーネス神託を賜って許可を受けなければなりませんが、泉の水なら誰にでも必要な人に与えられます」

「やはり、仕事を片付けたらここで隠居するか」


 アスカニウスが真剣な表情でつぶやくと、フェリクスが目を見開いた。


「引退なさるのですか?」

「見ての通り、もうあちこちガタがきてるんだ。引き際を考えるのが後継のためだろう」

「ですが、先祖返りは三百年生きると」


 龍の先祖返りは長寿で二百年から三百年生きるというのは有名な話だ。

 クラディウス一門に生まれた歴代の先祖返りの記録も、皆二百五十歳を超えたという。最も長寿だったのは三百二十歳だ。


「そう聞いていたんだが。まあ、何事にも例外はあるということだ」


 アスカニウスは自然と口元に笑みが浮かんでいた。


 生まれてから一度も水場の水を口にしていないのだ。歴代の先祖返りより命が短くても仕方がない。

 ただ、寿命よりも、水場の水を飲めないことだけは心残りだ。


 自分の水場の水とは、はどんな味がするのだろう。


 過去の記録で読んだことがあるが、命の味がするそうだ。

 手記を残したその先祖返りは、七歳で初めて水場の水を口にした。そうして命の味を知ったのだという。


 自分もいつか、いつの日か巡り合うと信じて、百二十年も経ってしまった。


「百二十年生きた。あと、もう数年は生きる予定だ。十分だろう」


 アスカニウスは寝台の上で、立てた自分の膝に額をつけて微笑んだ。口にして改めて、十分に生きたと思ったのだ。


「だからな神官殿。大祭の復古は最後の仕事と決めているんだ」

「そんな言い方は、卑怯です」


 フェリクスは一度唇を引き結び、不満げな顔でアスカニウスを睨んだ。


「そんな話を聞かされて、あまり冷たくしては私の良心が痛むではありませんか」

「では大祭の候補地になってくれ。俺もユリアンと共に、水の浄化の妨げにならない方法を考える」

「策が、あるのなら」

「本当か!」


 アスカニウスは寝台から足を下ろして、脇に立つフェリクスとの距離を詰める。


「有効な策があれば、です」

「ありがとう神官殿!」


 フェリクスの手を握ると先程感じたほどの熱さはなかったが、アスカニウスに比べるとやはり体温が高くあたたかい手をしている。


 アスカニウスはその両手を引き寄せて顔を寄せる。

 それは親密な相手への敬愛の証だ。家族や恋人、長年の親友に贈る口付け。アスカニウスの唇がフェリクスの指先に触れる。


「あの……?」


 顔を上げると、フェリクスは心底不思議そうな顔をしてアスカニウスを見つめていた。

 どうしてそんなことをするのだろう、と顔に書いてある。


「モレアでは家族や近しい者に、こうして口付けをしないか?」

「いえ、もちろんしますが……」


 フェリクスはますます困惑した様子で、握りしめられた自分の手を見ている。


「脈がなさ過ぎるのも、虚しいもんだな」


 アスカニウスはフェリクスの手を開放した。


 もう十分生きたと言ったそばから人の心を欲しがるなど矛盾している。

 ままならない自分の胸中をごまかすために、アスカニウスはあいまいな笑みを浮かべた。


 フェリクスはやはり、怪訝な表情でこちらを見ていた。












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