第三章 懸念 2

 聖水の泉は、神殿群からパルナ山側に少し歩いた場所にあった。


 宝物庫や彫像が立ち並ぶ広場とは違い、木々の立ち並ぶ森の入口にあたる。

 下草は丁寧に刈り取られ、自然石を使った二重の半円が描かれており、その境の内側にはピュートーの神官が許可した者しか立ち入ることができない。

 周囲には見えるだけでも五人の警備兵が見張っていて、彼らの目を盗んで泉に近づくことはかなり難しい。


 アスカニウスとユリアンはその境の外側で、フェリクスが泉から水を汲むのを待っていた。


「火龍が守る聖水の泉も、なかなかいいと思ったのにな」


 当初アスカニウスが勘違いした溜池には火龍像が置かれていたが、泉を守る彫像は水龍の姿を模していた。

 ワニのような大きな口に、馬のような鬣を持つ水龍が、蛇のような細長い体で石盆の周りをぐるりと囲んでいる。胸の横から突き出る二本の腕はアスカニウスの右手にそっくりで、鋭い爪の根元は小さな丸い鱗で覆われている。

 あの火龍像に負けず劣らず、精巧で迫力満点の彫像だ。


「実際、パルナ様は湖を守っているのですよ。水龍が不在でもパルナ様とザーネス神のお言葉を受けて、我々は水の浄化を進めているのですから」


 フェリクスは柄杓で掬った水をガラスの杯に移し、濡れた手と杯の外を紫のトーガの裾で拭う。アスカニウスの体調が悪いと知ったフェリクスは、毎朝の祈りの後で泉から水をくれるようになった。

 ここで泉の水をもらうのも、もう三日目だ。


「麗人手ずからの取水だ。効果も倍増だな」

 フェリクスの運んできた水をアスカニウスは一息に飲み干す。


 杯をフェリクスに返す時、ふと彼の足元が目に入った。

 フェリクスはいつもサンダルの下に泥除けの布を巻いている。

 砂地を歩くときなどはアスカニウスも同じように麻布を使うが、毎日布で足を覆っている人間も珍しい。


 聞こうかどうか迷った。

 ここにもまたアルバとモレアの風習の違いがあるのかもしれない。


「長殿ばかり、聖水をそんなにたくさん戴いてしまって宜しいのですか?」


 隣で大人しくしていたユリアンが耐え切れなくなったのか、絶妙なタイミングで口を開いた。

 見下ろすと、ユリアンが不満そうに空になった杯を睨んでいた。


 普通の巡礼者はピュートーに到着した時と、帰りの護りの水の二度だけ、泉の水をもらえるのだ。


「お体のためですから。村人も皆、体調が優れぬときには聖水を飲むのですよ」

「そんなに効くのか! 薬要らずで便利だな」

「そこまで万能ではありません。薬と一緒に飲むのですよ」


 フェリクスは相変わらずユリアンに優しく、どんな質問を投げても必ず答えを返してくれる。

 ユリアンは隙を見つけてはフェリクスにくっついて回るようになり、自然とアスカニウスと三人で行動することが増えた。


「僕の目も治るだろうか」

「ユリアン様……」


 小さく呟かれたユリアンの本音をフェリクスは聞き逃さなかった。


「僕は生まれつき目が弱いのだ。医師に薬では治らぬと言われたが、この泉のもとの……水龍の湖の聖水なら、奇跡が起きて治るのではないだろうか」

「ユリアン、それは」


 アスカニウスが言葉を探すより、フェリクスの方が早かった。

 彼は視線を逸らすことなく、いつも通りユリアンをまっすぐ見つめて話した。


「生まれつきのものは、聖水でも変えることはできません」

「えっ……?」


 ユリアンは眉根を寄せる。フェリクスは表情を変えず、淀みなく言葉を続けた。


「生まれつき足のない者が聖水を飲んでも、足は生えません。たとえ湖の水を直接汲んだとしても、それだけは叶わないのです」

「奇跡は? ザーネス神の加護がある龍神の地では奇跡が起きて、大病や大怪我が治ったり、死んだ者が蘇ったりするのではないのか!」


 顔を赤くして声を荒げるユリアンの肩を、後ろからアスカニウスが押さえる。


「よすんだユリアン、神官殿を困らせるな」

「実際に旅人が見聞きしたという手記がたくさん出版されているんだ!」


 ザーネス神託が行われる神域では、奇跡の伝承が数多く残されている。


 アルバの貴族たちは皆モレア地方に起源を持ち、古の時代に自分たちの先祖が神の加護を賜ったという伝承を大切に言い伝えてきた。


 その伝承を聞いた者が、どの家の先祖どんな奇跡を受けたと口伝え、それが長い時を経て誇張されてしまった。

 本来あり得ない奇跡の逸話がまことしやかに囁かれているのだ。


 こと、昨今のアルバ市内では多くの書店が競うように逸話を出版していて、神殿や皇帝もその誇大さに辟易している。完全な作り話ではないが、どんどん虚構に近づいてきてしまっている。

 本の虫のユリアンも、その手の書物を手に入れていたのだ。


「書物に嘘が書かれているのか!」

「違うんだ。落ち着けユリアン」


「ユリアン様」


 フェリクスはユリアンから数歩離れ、トーガを両手で掬い上げるとゆっくりと地面に片膝をついた。

 立てた膝を両手で抱えるのは神殿で祈る時と同じ、正式な礼の姿勢である。


 目線を合わせるために屈まれるのを嫌うユリアンだが、信心深い彼はフェリクスの姿勢が少しも無礼でないことが伝わったのだろう、癇癪を起こすことはなかった。


 そうしてユリアンと目の高さを近くして、フェリクスはゆっくりと語り出す。


「私が知る限り、最も新しいピュートーでの奇跡は……六十年ほど前のことです」


 アスカニウスはユリアンの後ろから両肩に手を置いたままフェリクスを見つめる。


「自分の命と引き換えでいいから、子を助けてくれという母の祈りが届きました。死にかけていた赤子は一命を取り留め、その後母親は死にました」


 ユリアンの体が脈打つように一度大きく震えた。母親に強く憧れるユリアンは、つい我が身に置き換えたのだろう。

 アスカニウスはその細く小さな肩を、一度そっとさすった。


「対価が、必要なのか……」

「そうではありません。ただ、神は犠牲を払った者を救うことを好まれるのでしょう。各地で争いを治めた者や、他者の命を救った者には、お目をかけてくださるのです」

「クラディウスの最初の先祖返りは、戦で失った片目を取り戻したと言われている……あれも嘘なのか」

「それは違うぞ」


 アスカニウスもユリアンの正面にまわり地に膝をつく。

 改めてゆっくりと、まだ細い肩に手を置いた。


「戦乱の世を治めたユールース様は、アルバーノ湖の畔でザーネス神の加護を賜り、傷ついた目を癒された。王城の記録にも正式に刻まれている。出所の分からぬ市井しせいの書物とは違うぞ」


 鋭い右手の爪がユリアンを傷つけないよう、優しく、だがしっかりと肩を掴む。


 ユリアンの名はこの英雄ユールースから取ったのだ。

 両親がアスカニウスに名付けを求め、家族や神官たちと何度も話し合って悩み抜いて考えた名だ。


「それでも……生まれつきの僕の目は、癒されないのでしょう」


 肩を掴んだ両手からユリアンの震えが伝わってくる。


 彼が自分の体をここまで憂えていたとは、アスカニウスは思ってもみなかった。


 ユリアンは年齢にしては体が小さい方だが、両親共に大柄でもないので不思議なことはない。

 目が弱いことだけは気の毒に思っていたが、頭が良く努力を惜しまないこの子は、いずれ立派に育つと確信していた。


 だからアスカニウスも、ユリアンの両親も、一門の大人たちも、この直情的で癇癪持ちの子を微笑ましく見守っているのだ。


 まさか奇跡を信じて、目が良くなるのを待っていたとは。


「僕は、ひとりで馬にも乗れなくて……母上や、長殿のような戦士には、もうなれないのですね……」


 口にして改めてショックを受けたのだろう。

 ユリアンの両目に水の膜が盛り上がり、あっという間に決壊して丸い頬へ流れ出した。


 ユリアンらしからぬ、静かな涙だった。


 アスカニウスは立ち竦むユリアンを抱き上げた。


「すまんが、今日は手伝いができなくなった。部屋で休ませてくる」

「それは……構いませんが」


 フェリクスは絞り出すような弱弱しい声で返事をすると、顔を歪めて胸を押さえた。



 ――どうして神官殿まで泣きそうな顔をするんだ。



 大人しく抱き上げられるユリアンも、悲しげなフェリクスの姿も、アスカニウスの心に深く刺さって鈍い痛みを生む。


 祈りの後の神域にはわずかだがまだ人がいる。数々の小さな祭壇に手を合わせたり、掃除や供物の片づけを手伝う者たちだ。

 彼らもユリアンを運ぶアスカニウスを心配そうな顔で見送った。












「子供扱いはやめてください」


 拒否の言葉を吐きながらも腕の中から出ようとはしないユリアンを抱きしめて、アスカニウスは寝台の上でじっとしている。


 手を離せば愛しい玄孫は絶望の淵へ駆け込んで、神の世界に迎え入れられてしまうのではないかと恐れていた。

 衝動的だが倫理を解し、聡明なこの子は自らを儚んだりはしないと分かっている。

 分かっていても、きつく抱きしめる腕を解くことはできない。


「では、どうすればいい。俺はお前の目を治してやれないんだ」

「それは……」

「目が弱くても、馬に乗れなくても、できることはたくさんある。お前ほど勤勉で勉強熱心な者はいないぞ。それをアクィリアがどれだけ喜んでいるか……まったく、子とは親の気持ちを知らないもんだ」


 触れる肌が熱い。ユリアンからすればアスカニウスの手は冷たいだろう。


「できないと、ならぬのです……」


 アスカニウスの胸に顔を埋めたままのユリアンがくぐもった声で囁く。


「他の者が、当たり前に……当たり前に出来ることを出来ぬと……あなどられます。馬鹿にされます。クラディウスの者が、そんなことでは……」


 また鼻をすすり上げるユリアンをいっそう強く抱きしめる。


 もう十分に生きたと、どれだけ自分に言い聞かせても、この子を残して逝くのかと思うと心配で堪らない。



 ――安心して逝くことなど、できないのかもしれないな。



 百二十年の間に妻を見送り、子に先立たれ、孫も皆逝ってしまってなお、生まれてきた己の子孫は全て愛おしくて仕方がない。


「俺の目が見えなくなったら、俺はならぬ存在になるのか? アクィリアが剣を持てなくなったら、馬に乗れなくなったら、お前は母を侮るのか?」

「しません!」


 勢いよく顔を上げてこちらを睨みつけるテラコッタ色の瞳は、涙に濡れてはいたが、しっかりとした意思を宿している。


「なら大丈夫だ。何の問題もない。ユリアン、最初から何の問題もないんだ」

「でも、でも……」


「分かるぞ。ままならない気持ちは、よく分かる。もしお前を馬鹿にする者がいても、時が経てばそれをしなくなる。本当だ。飲み込め、ユリアン。こればっかりはな、時間をかけて噛み砕いて、食って飲み込んでしまうしかないんだ。しばらくの間は腹が痛むが、そのうちなんてことはなくなる。そのあと美味いものを食えばいいんだ。腹一杯美味いものを食べて、そういえば少し前には腹が痛かったなあと笑えるようになる」


 アスカニウスはユリアンを抱いたままゆっくりと体を前後に揺らす。

 いつぞやの赤子を思い出しながら、あの揺籠のようにゆらゆらと。


 自分の方が小さな子に縋りついている気分だ。ユリアンに触れる指先が冷たくなっていく。


「あったかいなあユリアンは。このままここにいてくれ。お前がいなくなったら寒くてかなわん」


 もう少し、もう少しの間は、冷え切らないで欲しい。動きを止めないで欲しい。


 アスカニウスは柔らかな体を抱えながら、何度もザーネス神に懇願した。
















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