第三章 懸念 3

 子供の回復力はすさまじい。


 ユリアンはいつも通り、緋色の縁取りが施された少年トーガの裾を持ち上げ、フェリクスの前で胸を張っている。


「フェリクス殿、昨日は見苦しいところを見せてすまなかった。そして多分な気遣いに感謝する。届けて貰った薬湯は早速飲んだぞ」

「お元気そうでホッとしました。私で力になれることがあれば、何でもおっしゃってくださいね」


 この世の終末に立ち向かうような悲壮感を漂わせていたユリアンが、今朝にはいつものように朝の祈りにやって来たのを見て、アスカニウスはどっと疲れを覚えた。


 何事もなく神殿群での祈りを終えたユリアンは、手の空いたフェリクスに構ってもらえてご満悦だ。

 心底嬉しそうなフェリクスの様子も釈然としない。


 十二歳の子供と自分への扱いを比べること自体情けないが、彼は相当な子供好きなのだろう。


 昨日ユリアンと共に篭っていたアスカニウスの部屋に、世話人が薬湯と砂袋を持ってきた。時間はかかるが目が良くなる可能性があるという。

 村で一番心得のある医師に頼んで急ぎ作らせたそうだ。


 フェリクスの雰囲気が穏やかなことも解せぬし、ユリアンも薬をもらってから随分と機嫌を良くしていたのがもっと気に入らない。

 誰より心を痛めた自分より、物をくれる他人に懐くとは……やはり子供に親心は伝わらないものだ。


「薬湯より効果の高い塗り薬も作らせていますから、完成したらお届けします。それと、ユリアン様は読書用の水晶はお持ちではありませんか?」


 フェリクスが問うとユリアンは気まずげに視線をそらした。


 読書用の透明な水晶は、紙の上に置くと書かれた文字が大きく見える。軍隊でも遠くの敵の姿を観察するのに使われるものだ。

 ユリアンにも両親が買い与えていたが、そういえば使っているところをあまり見たことがない。


「持っているが、書物は顔に近づければちゃんと読める」

「ユリアン様は前かがみになって本を読まれますね。あれでは体を痛めます。首や肩、腰などが痛くなりませんか?」

「すぐに治るから大丈夫だ。水晶を置くと読むのに時間がかかってしまうし」


 フェリクスはここで一呼吸間を開けた。


「長く続けると肩が痛み、腕が上がらなくなりますよ」

「なんだと!」


 ユリアンがビクリと肩を揺らす。


「それに腰を痛めると、立ち上がれなくなります」

「そ、それは困る!」


 やや大げさだが、フェリクスの脅しは効いたようだ。

 ユリアンは今日から必ず水晶を使って書物を読むと、ザーネス神への誓いをつぶやきはじめた。


 アスカニウスは手を合わせて祈り始めたユリアンを横目に、一歩フェリクスに近づく。


「何から何まですまないな」


 アスカニウスの謝辞に、フェリクスは照れ臭そうに微笑んだ。


「私も幼い頃、自分は無力だと思い込んでいたことがありまして……とても他人事とは思えず」


 きっと誰もが同じことを思うのかもしれない。

 もっと体が大きければ、もっと力が強ければ、もっと聡明であれば……と。


 アスカニウスも、随分と昔のことになってしまった自分の幼少期を思い出す。

 先祖返りという特殊な生まれを厭うたことは数えきれない。


 どうして自分だけ他の子と同じようになれないのかと悔し涙を流すたび、優しく話を聞いてくれたのは十五歳上の長兄だった。


 アスカニウスは四人兄弟の末っ子で、一番上の兄だけが下の三人と歳が離れていた。

 その兄もとうの昔に亡くなってしまったが、そういえばフェリクスはどことなく兄と似ているのかもしれない。


 説教くさいけれど何でも教えてくれる優しいところも、長くまっすぐな髪が美しいところも。


 兄はフェリクスの黒髪とは違って、月の光ような白銀色の髪だった。幼いアスカニウスは兄のことが大好きだった。


「子供が好きなのか?」

「え……?」


 まん丸の金色の瞳が忙しなく瞬く。長いまつ毛からパシパシと音が聞こえてきそうで妙に可愛らしい。



 ――可愛いというたぐいの容姿ではないのにな。



 美貌を褒められた時と同じように首を傾げるフェリクスを、つい見つめてしまう。


「村の子たちの世話も楽しそうにしてるし、小さな子が好きなのかと思ったんだ。ユリアンのことも同じように可愛がってくれる」

「別に小さな子だからということは……ユリアン様はもう大きい子ですよ」


 フェリクスは言ってから小さく笑みをこぼした。

 大きい子、という矛盾と、ユリアンにぴたりと当てはまる表現に、アスカニウスも釣られて鼻からふふと息が漏れてしまう。


「なるほど。じゃあ人が好きなのか」

「人が好き……ですか」


 本人に自覚はないようだが、彼は人が好きに違いない。

 人々の営みを愛し、守ろうとしているのだ。


「俺も人が好きだぞ。人間の生活というのは、日々淡々と過ぎていくようで、毎日少しずつ違う」

「そうですね。言われてみれば、人々の営みが愛しいのかもしれません」


 フェリクスは金色の瞳で、アスカニウスの肩越しに遠くを見つめていた。







 *







 アスカニウスは最初、どこぞの貴族が神域に参拝に訪れたのだと思った。


 馬車が五台も連なって来たからだ。


 うち二台は重そうな荷馬車で、残りの三台の御者付きの馬車に、主人やその家族などの貴人が乗っているのだろう。

 歩いて来た従者や、騎馬の兵士だけでも二十人を超える大行列だった。


 使者が来たのは朝の祈りの直後。これから巡礼の馬車が来るので受け入れを頼む、と。


「最近お客様が多いですねえ」

「迎賓館の部屋で足りるかしら。宿屋の方は空きがあるけど」


 巡礼者の世話人たちがあわただしく走り回る中、アスカニウスは迎賓館前の列柱屋根の下、木のベンチに腰かけてフェリクスを待っていた。トーガを着るため家に戻ったのだ。

 ピュートーの神官たちは祈りの時間以外はトーガを脱いでしまう。


 しかし貴族の参拝者の前で礼装を纏わないのは不敬に当たるため、皆大急ぎで脱いだばかりのトーガをもう一度着ることになった。


「俺が来た時なんか、神官殿は鎧をつけてたじゃないか」


 小走りで戻って来たフェリクスに小さな嫌味をぶつける。


 日の高い時間にフェリクスの正装を見るのは初めてだ。

 高貴な紫色は、燦燦と降り注ぐ日差しや駆け回る子供のいる時間にはあまり似つかわしくなかった。


「水泥棒を出迎えるための正装は鎧です」

「そうだった。泥棒に間違われたんだったな」

「まったく、大勢で参拝するなら先触れのひとりも寄越して欲しいものです。こちらも色々と準備があるのですから」


 明らかな当てつけの言葉に、アスカニウスは我慢することなく噴き出した。フェリクスからこんな軽口が出るとは。


 こちらの準備が整ったのを見計らって、馬車から巡礼者たちが下りてくる。

 その中に紫色のトーガ姿の人物が複数いて、アスカニウスとフェリクスは顔を見合わせた。


「なんか様子が違うぞ」

「どこの神殿からでしょうか……」


 疑問を口にしながらもふたりは広場の中央へ進み出る。


 一団の中からふたりの前へやってきたのは、生成りのトーガを纏った男だった。彼は貴族でも神官でもない。

 四十過ぎだろうその代表者は、立派な口髭をひと撫でし、恭しく頭を下げた。


「わたしくしはルフスと申します。イストモスの港を管理する一族の者です」


 浅黒い肌に、褐色の頭には白髪が混じっている。


「イストモスからいらしたのですか……!」


 フェリクスの驚きの声に、ルフスと名乗った男は満面の笑みを浮かべた。


 イストモスは海の水龍が作った地だ。


 地峡と呼ばれるイストモスは、複雑な海岸線を描くモレア半島の中でも特に細くくびれた部分にあたり、半島の南西部と北東部の移動にはイストモスを通る以外に道はない。

 昨今は航海技術の発展により気軽に渡し船を使うことができるが、かつて人々の移動手段が主として徒歩であった頃、イストモスは交通の要所であった。


 東西の海にそれぞれ龍が在り、イストモスの龍神像は必ず二柱一対で作られる。

 この二柱の龍神が協力しあって人を造り興したのがイストモスの地なのだ。


「クラディウスの水龍様がいらっしゃると聞き、いてもたってもいられず御目通りを願いに参りました」


 ルフスは使節団を順に紹介した。


 まず若い男女が進み出る。

 同じ栗色の髪と瞳、濃い亜麻色の肌。男女の体格差がなければ見分けがつかないほどそっくりだ。紫色のトーガを纏い、伸ばした髪を頭の後ろでひとつに結び、白い布で覆って結び目からうなじの辺りを隠している。


「コリンと申します」

「ミアです。ご覧の通り双子で、イストモスの神殿にお仕えしております」


 ミアが姉でコリンが弟だと付け加えたふたりに、アスカニウスの周囲からほうと溜息がこぼれた。


 なるほど、若く美しい姉弟していだ。

 やや痩せ気味だが、その様子も禁欲的な神官らしいと言える。よく似たふたりが並んだ姿は、イストモスの二柱の龍神を彷彿とさせた。

 歳の頃は十八か、十九というところか。


「こちらが村の若衆の代表、こちらが神官見習いです」

 ルフスが双子の隣から紹介を続ける。

 若衆の代表者は男がふたり、神官見習いは少年少女が三名ずつ。従者は名乗らなかったが、見習いの少年の母親くらいの歳の女たちが数名。護衛も兼ねているのだろう、剣闘士のような筋骨隆々の男たちもいる。


 皆下ろし立てのような綺麗な服を身につけており、にこやかにアスカニウスに頭を下げた。


 どうせ名前など覚えきれない。頭に入れることを早々に放棄したアスカニウスはルフスに聞いた。


「レグルスの様子はどうだ?」


 神域イストモスはもちろん、大祭の候補地のひとつだ。

 イストモスの担当になったのはレグルスという名の三十歳になる青年で、アスカニウスの曾孫ひまごである。


「優しく聡明なお方で、皆が尊敬しておりまする。神域を詳しくお調べになっておりまして、大祭誘致が叶ったら増築すべき施設など、お付きの兵士たちと話し合っておられました。もうわたくしも今から楽しみで、楽しみで」


 イストモスは大祭誘致に積極的なようだ。

 それにしても、今から新しい施設の建造を楽しみしているとは随分と気が早い。


「心ばかりの贈り物もお持ちしました。半分はクラディウス様に、もう半分は親愛なる神域ピュートーのザーネス神殿に。どうかお納めください」

「そうかそうか。大儀であった」


 手揉みするルフスからアスカニウスはさりげなく目を逸らす。

 媚を売られるのには飽き飽きしているのだ。


 主人のぞんざいな態度を見たポンペイウスがすかさず間に入り、イストモスの一団に言葉をかけた。


「これだけの荷を運んでの移動は大変だったでしょう。ご苦労でした」


 しばらくはポンペイウスに任せよう。

 アスカニウスは一行から離れ、フェリクスも促して隠れるように荷馬車の群れを回り込む。


「宜しいのですか? もっときちんとご挨拶を」

「あれは長くなるぞ。ポンペイウスが上手くやってくれるから、しばらくは逃げられる」


「長殿、フェリクス殿! すごい奉納品の山ですよ!」


 せっせと荷を下ろす村の男たちの中に、ユリアンの姿があった。早速書物を広げている。


 小麦などの穀物が詰まった麻袋、農作物、布類、葡萄酒樽、中身の見えない木箱が山のように広場に積み上げられていく。布で包まれているのは彫刻だろうか。

 もはやこれだけで祭りが開けそうな品揃えだ。


「俺に宛てて来た分も、一緒に神殿に預けてくれ」


 アスカニウスの申し出に、村人たちがわっと歓声を上げる。

 神殿に預けるとは、すなわちその後は村人たちに配られるということだ。


「宜しいのですか?」

「ひと月も神殿に世話になっている身分だ、良いように使ってくれ。荷運びも兵にやらせよう。暇を持て余してるしな」


 奉納品の山を眺めるフェリクスに、アスカニウスは気にするなと手を振って見せる。


「助かります。これだけあると、祭壇を新しく作った方がよさそうなので」

「祭壇を作るのか? 僕も近くで見てみたい」


 すかさずユリアンが見学をねだった。

 アスカニウスも祭壇を作る所は見たことがなかった。これは便乗したいと思ったところで、背後から興奮気味の男の声が飛んできた。


「やや! 水龍様、もしやそちらの坊っちゃまはクラディウス一門の御子息でいらっしゃいますか?」


 ルフスだ。

 ポンペイウスに任せたと思ったが、どうやらアスカニウスを探して来たらしい。


「そなたがイストモスの代表者か?」

「はい。ルフスと申します」


 ユリアンが立ち上がり、ルフスは恭しく膝を折った。


「僕はユリアン・クラディウス・フィレヌス。フィレヌス家当主アクィリアの息子だ」

「さすが、クラディウス・フィレヌスの御曹司は違いますなあ。その御歳でなんと堂々と振る舞われることか」

「当然のことだ。僕はいずれクラディウスの一員として重責を担う身だからな」

「ははあ、立派な志でいらっしゃる」


 大人なら鼻白むルフスのお世辞も、ユリアンの心を満たすことには成功したようだ。


「ルフス殿、素晴らしい品々をありがとうございます。ピュートーを代表してお礼を申し上げます。いずれ必ずお返しを致しましょう」


 フェリクスがトーガの裾を優雅にさばいて、ルフスに向かって頭を下げる。


「いえいえ。同じ神域の守村同士、もっと親交を深めたいと常々思っておりました。このような機会に恵まれ嬉しく思います」

「私も以前イストモスに伺ったことがあるのですよ。大きな水龍像が一対、神域の入り口に鎮座していたのが忘れられません」


 フェリクスがそう告げると、わずかだがルフスの顔色が変わった。


「我が守村に? それは、いつ頃のことで?」

「ええ、そうですね……私がまだ神官見習いになりたての頃でしたので、思い返せばもう随分前のことになります」

「左様でしたか……」


 イストモスには二柱の龍神がある。

 東のケンクレア、西のレカイオン――イストモスを挟むふたつの海に棲む水龍の名であり、海の名であり、港の名でもあった。


「ピュートーにも水龍様が御坐すでしょう。パルナ山の湖の龍が」

「ラコウヴァ様ですね」

「真水の神ですなあ」


 ルフスの不可思議な感想にフェリクスは一瞬戸惑ったが、互いに愛想笑いを浮かべて会話は終了したようだ。


「クラディウス様もこちらの迎賓館にお泊まりでいらっしゃいますか?」


 アスカニウスとユリアンが肯首すると、ルフスは嬉しそうに手揉みした。


「光栄でございます。クラディウスの水龍様と屋根を共にするなど、子々孫々にまで語り継ぐ名誉となりましょう。何卒よろしくお願い致しまする」


 なるほど、明確で分かりやすい。

 彼ら使者の目的は、アスカニウスに取り入ることだろう。

 それならば慣れたものだ。こちらに利があるなら受け入れ、そうでなければ、いなしておけばいい。


 にじり寄ってくるルフスをやんわりと制しながら、アスカニウスは再び視線を明後日の方に向けた。

















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