第三章 懸念 4
イストモスの使節団がピュートーを訪れてから二日。
午後の早い時間に入浴を済ませたアスカニウスは、夕食まで休もうと迎賓館の寝室で寛いでいた。
例によって少々疲れを感じ、体が重かったのだ。
水が好きなアスカニウスは無論、風呂も大好きだが、熱い湯に浸かってもなお疲労が拭えない。
温めたはずの体がすぐ冷えてしまう。
アスカニウスは薄く透ける紗布の
そこに突然訪ねてきたのはフェリクスだった。
「クラディウス様、少し宜しいでしょうかッ」
扉の向こうから聞こえる語気が強い。
「良いぞ」
そう答えるや否や、フェリクスは室内に入ると大股で寝台に近づき、アスカニウスが体を起こすよりも先に話し始めた。
「こういったことは、不正と言うのではないでしょうか?」
「な、なんだ? なんの話だ?」
「ルフス殿が私に言ったのです。イストモスのために、ピュートーは候補地から降りて欲しいと」
ようやく体を起こして帳を捲り上げたアスカニウスに、フェリクスは拳を震わせてそう告げた。
「イストモスが大祭誘致に意欲的なことは分かりました。しかし、うちに辞退せよと耳打ちするなんて、関心しません」
「そ、そうだな」
「このようなことがあって良いのでしょうか!」
「良いか、と聞かれても」
あまりの裏のなさにアスカニウスは呆れ返った。
フェリクスと目を合わせないように左手――人間の手で口元に触れながら天井を仰ぐ。
迎賓館の寝室は細密画や装飾にも隙がない。壁と天井の間に嵌め込まれたレリーフは、龍を喰らった罰当たりな獅子を英雄が退治する場面を描いている。
何もやましいことはない。
アスカニウスにはなんの落ち度もないのだが、黄金色の瞳にじっとりと睨めつけられると、居心地が悪くて仕方がない。
「とりあえず、座らないか」
アスカニウスは寝台の淵に腰かけ、フェリクスに椅子を勧める。
背もたれの高い椅子に浅く座ったフェリクスは、改めて目を吊り上げた。
「つまりあの品は全て賄賂ではありませんか。我々も貴方も、穢れた品を掴まされたのですよ」
フェリクスは怒り狂っていた。
イストモスの使者がピュートーに持ち込んだ寄進物の数々が、実は露骨な賄賂だったということに、彼は今頃気付いたのだ。使節団がやって来てから丸二日経った、今になってやっと。
「まさかあれを善意の品だと信じていたとは」
「なっ……!!」
思わずアスカニウスが漏らした感想にフェリクスは絶句する。
「賄賂だと分かっていて受け取ったのですか!」
「だから全部神殿に預けただろう。そのまま懐に入れたのでは相手の思う壺だ」
「分かっていたのに、何故そうだと言って下さらないのですか」
「まさか神官殿が真に受けているなんて思わなかったんだ」
フェリクスはむっつりと黙り込んだ。
いつも通り簡素なトゥニカ一枚で、迎賓館の調度品やレリーフを背景に座っているフェリクスの姿は、なんとなく不自然に感じられた。
彼はトーガも似合うし、高貴で涼しげな風貌だが、装飾の多い室内よりも豊かな畑や山脈を背にした方がその美しさが際立つ。瑞々しい若木の枝のような褐色の肌は、新芽の緑色の中でこそ映えるのだ。陽射しを反射する水面の煌めきと共に彼を見たい。人工物は白亜の神殿ひとつで十分だろう。
「いや、神官殿を責めているわけじゃない」
彼と共にいるのに、村の手伝いをするでもなく、こうして部屋の中で不愉快な話をするだけなんてもったいない時間だと、アスカニウスは力ない溜息をこぼす。
「他の神域の守村から賄賂が送られてくるなど、考えもしませんでした」
「平時であればそうだな。すまない。イストモスには一門でも有能なレグルスという男を送ったんだが、まだ若いし見た目で
「大祭の開催地は、元老院の投票で決まるのではなかったのですか? このような不正が罷り通るのですか?」
「まだ不正とまでは……」
この金品と引き換えに便宜を、と言われたわけではない。贈り物を受け取り、神殿に寄付しただけで不正とは言えない。
アスカニウスもそう簡単に思惑に乗ってやるつもりはないのだが、フェリクスにとっては下心のある寄進という時点で不正も同然なのだろう。
「気持ちは分かるが、そこまで騒ぐことか? 巡礼に来る貴族の中には信心の疑わしい者だっているだろう。イストモスの思惑も、格好だけ寄進するやつらと同じじゃないか」
「全く違います。確かに、世間体や名誉欲のために訪れる巡礼者はいらっしゃいます。しかしザーネス神は人間の欲望を否定されません。彼らの行動も元を辿れば、神の威光を賜りたいという気持ちからなされているのです。ですが、今回のイストモスの目的は大祭の開催権です。神の名を金で買おうとするなど言語道断。付き従って来た神官たちは、ルフス殿の真意を知っているのでしょうか?」
「あの若い双子か。あれも見栄えの良いのを選んで連れて来たんだろうな」
「なっ! ま、まさか、若者を貴方に当てがおうというつもりではッ?」
――それも今気付いたのか。
美男美女の神官、少年少女、豊満な女たちに、筋骨隆々の男たち……
従者や兵士たちが
「分かった、分かった、そのことは明日にも俺からルフスに聞いてみる。問題があれば担当のレグルスに委ねよう」
アスカニウスはこめかみを押さえた。
悩ましいだけでなく、本格的に頭痛がしてきたのだ。
「明日? まだこんなに日が高いのですよ。今すぐにでもルフス殿の部屋を訪ねるべきではありませんか?」
フェリクスは不満を口にしたが、直後、寝台に倒れ込むようにして肘をついたアスカニウスに驚いて椅子から立ち上がる。
アスカニウスはこみあげてくる吐き気と震える指先に顔を顰め、緩慢な動きで寝台の上にずり上がった。
「申し訳ございません、お加減が……」
「今日は休ませてくれ。ルフスの所へは明日、必ず」
また体が冷たくなっている。アスカニウスを支えようとするフェリクスの手が痛いほどに熱い。
なんとか寝台に体を横たえたアスカニウスは、フェリクスの手を振り払った。
「ポンペイウスを呼んでくれ」
「はい。すぐに聖水をお持ちします」
「いや、いい……今日の分はもう朝貰った」
寝台の木目に擦り付けるようにしてかぶりを振る。
アスカニウスの態度はフェリクスの存在を拒絶するものだっただろう。
それは弱った姿を見せたくないという矜持から来るものか、まだ衰えを知らないフェリクスを妬む気持ちから来るものか、アスカニウス本人にも判断はできなかった。
体調が悪いと、心も同時に悪くなるものだ。
普段なら心地良いはずの存在を疎ましく感じることが、アスカニウスの胸を軋ませる。
生まれて二十年ほどの彼と、特殊な己の体を比べても致し方ない。分かっていても、熱くしなやかな彼の腕に鈍い嫉妬を覚える。
特殊な体――人であって人になりきれない肉体を恨んでしまう。恨もうが憎もうが結果は何も変わらないと、嫌というほど知っているのに、それでも。
「ポンペイウスを呼んでくれ」
アスカニウスはなんとか寝返りを打ってフェリクスに背を向ける。
返ってきた「はい」の声がいつもより硬質に聞こえるのも、ささくれだった心に引っかかった。
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