第三章 懸念 5

 フェリクスが静かに扉を閉めてすぐ、ポンペイウスが部屋に入って来る。


「薬湯をご用意します」

「ああ……」


 世話人が持ってきた湯に、ポンペイウスが煎じ薬を溶いて器に注ぐ。

 フェリクスが村の医師から貰ってきてくれた薬湯だ。冷えた体を温めてくれ、頭痛も和らぐ。

 受け取った焼き物の器が温かい。


 アスカニウスは長い息を吐いた。

 聖水を毎日飲ませてもらっていても、これだ。後どれだけまともに動けるのだろうか。


「今日はマシな方だ。少し休めば夕飯には出られるだろう」


 アスカニウスは毎晩、アルバ市から連れてきた私兵たちとポンペイウス、そしてユリアンも共に食卓を囲んでいる。

 首都の邸宅では席を共にすることの叶わない兵たちとも、旅先でならあまり気を遣わずに近い付き合いができる。


 軍団を率いていた時のアスカニウスは行軍の際、一兵卒と同様に土木工事にも食事の準備にも参加したものだ。しきたりにうるさい市内を出た時くらい、皆と肩肘張らずに食事をとるのはアスカニウスの楽しみでもあった。


 それに今夜は、イストモスの面々も一緒に食事をする約束をしていた。


「そういえば、村の者たちが饗宴の準備をしていると小耳に挟みました。我々と、イストモスの使節団と、村人みんなで火を囲みたいと」


 ポンペイウスが布巾を差し出しながら言う。

 薬湯を飲み干したアスカニウスは、受け取った布で乱暴に口元を拭った。


「さっき神官殿に冷たくしてしまった。その宴が開かれなかったら、俺のせいだな」

「何を申されますか。フェリクス殿はアスカニウス様を心から案じておられました。分かってくださっています」

「そうだろうな。警戒心の強い山猫かと思ったが、苛烈で慈悲深い火龍のような人だった。ポンペイウス、聞いて驚けよ。神官殿はな、イストモスからの寄進が賄賂だなんて欠片かけらも考えていなかったんだ」


 水差しから杯に水を注いでいたポンペイウスが目を見開く。


「まさか」

「神域からの使者に下心なんかあるはずはないと思っていたらしい。今まで相手にしてきたロクに信心のない巡礼者のことも、根っこのところではないがしろにしていない。箱入りの貴族の子でもないのに、汚いものだって散々見てきただろうに……神官殿は妙に浮世離れしているな。愚かで、美しいと思う」

「随分とお気に召したようで」


 ポンペイウスから水の杯を受け取りながら、アスカニウスはずっと聞きたかったことを訊ねることにした。

 村人や、自分の身内に、聞きたくて仕方ないことがあった。


「お前は神官殿の見た目について、どう思う?」

「見た目、ですか?」


 ポンペイウスは顎の下に手を当て、思案する哲学者の彫像と同じ格好でしばし考え込んだ。


「間髪入れずに美貌の神官、と言わないのは何故だ?」

「美貌……」


 眉間に皺を寄せてポンペイウスはますます思案を深めてしまう。


「それはもしや、惚れた欲目というものではありませんか?」

「なんだと」

「好いた相手のことは何でも良く思ってしまうという、アレです」

「失礼な。じゃあお前は神官殿を美しいとは思わないと言うのか?」

「その、普通、と申しますか……あまり印象に残っていない、と申しますか」


 こちらの顔色を窺いながらではあったが、ポンペイウスはそう言い切った。

 信頼のおける従者はアスカニウスとはまったく違った美的感覚だったのだ。


「まさか、本当に俺だけが思い込んでいるのか……」

「そんなに気に入ったのなら、召抱めしかかえれば宜しいではありませんか」


 ポンペイウスは薬湯を作った道具を片付けながら、寝台の上でうな垂れるアスカニウスに提案する。


 貴族が気に入った人間を従者や使用人として雇い入れるのは一般的なことだ。なんらかの仕事を与え報酬を払い、多くの場合住居などの生活面も保証する。

 貴族の庇護者クリエンテスとなり愛人になることを、出世の第一歩とする者は多い。


「そんなつもりじゃない。それに、神官殿が帝都に来てくれると思うか?」

「彼は神域ここを離れたがらないかもしれませんね。であれば、この地に別邸を持たれてはいかがでしょうか」

「引退したらここに住みたいとは思っているぞ」

「それは……なるべく先の予定として、覚えておきます」


 アスカニウスは視線を逸らすポンペイウスに悪いと思いつつも、撤回はしなかった。

 今の仕事を終えたら引退することは、従者である彼にこそ、きちんと分かってもらわなければならない。


「とにかく、そんなつもりはないんだ。ザーネス神に身を捧げていたら勝ち目はないしな……神官殿はいつも足を隠しているだろう? 独身の誓いを立てているのかもしれない」

「足を? そうでしたか。よくご覧になっていますね」


 神官の中には信心を示すために生涯の独身を誓う者もいる。独身を誓った者はその証として、体の一部をザーネス神に奉納するのだ。

 神殿の床に口付けをして誓いを立てたものは口元を隠し、片腕を捧げると決めた者はトーガの下にさらに覆い布を巻いて日々を過ごす。中には長く伸ばした髪を剃り上げて祭壇に捧げ、毎朝必ず髪を剃って祈りを捧げるという者もいる。


 フェリクスはいつもサンダルの下の足を麻布で覆っている……彼は両の足をすでに神に捧げているのではないだろうか。

 そうならば、アスカニウスの好意は迷惑になる。


「聞いてみれば良いではありませんか。もう独身の誓いを立てたのか、恋をしてはならぬのかと。そうして悩んでいても事態は動きません」


 呆れた様子のポンペイウスに、アスカニウスは苛立ちを覚えた。


「お前はなんでそう知ったような口をきくんだ? 俺がお前とオリーブを引き合わせてやったのを忘れたのか?」


 オリーブとは、ポンペイウスの奥方だ。

 もう十五年前になる。商家の娘に恋をしたが、ろくに声もかけられないという無骨な軍人を見兼ねて、アスカニウスが両家の仲を取り持ってやったのだ。


「ですからそのように、やれることはなんでもやる、ということです。御命令とあらば私からフェリクス殿に聞いて参りますよ。もう誓いを立てたのかどうかを」


 どうやらポンペイウスは本気らしい。

 アスカニウスは思い切り首を振り、主人思いの従者が暴走しないよう釘を刺す。


「やめろ。やめてくれ。ああもう、馬鹿馬鹿しい話をしてたら、なんだか体が楽になってきたぞ」

「薬が効いて参ったのでしょう。この薬湯は本当によく効くようですな」

「……ああ」


 ポンペイウスが卓の上を片付ける手元を眺めながら、ついフェリクスのことを考えてしまう。

 医師に薬湯を作らせているのも、泉の水を汲むことを許可したのもフェリクスだ。


 神域の守村には十分な医療も、飢えを知らない農地も、家畜も、貨幣を手に入れるだけの工芸品もある。子供たちは自由に学び、家族を助け、健やかに成長している。

 豊かで争いのない、楽園のような場所。


 フェリクスはピュートー村の隅々までを知り尽くしている。守村の平和は彼の手によって作られているようだ。

 博識で、実直で、愚かで……そしてその美しさを知っているのは、何故かアスカニウスだけなのだ。












 アスカニウスが廊下に出ると、紫色のトーガが目に入った。

 一瞬フェリクスかと思ったが、違う。その人物は黒髪ではなく栗色の髪に、赤よりは薄い亜麻色の肌で、フェリクスに比べると体も一回り小さかった。


 アスカニウスに気付いて顔を上げたのは、イストモスの双子の神官の、どちらかだ。


 双子は本当にそっくりな見た目をしている。

 栗色の瞳は大きく丸く、紫色のトーガのひだのひとつひとつまで同じように着こなしている。中性的な小作りな顔は、そっと持ち上げられた唇の端の角度まで同じだ。

 二人並んでいれば男女の体格差で違いが分かるのだが、ひとりずつ対峙すると姉の方か弟の方か分からない。アスカニウスは廊下の向こうから歩いてくる双子の片割れが、どちらなのか判別がつかなかった。


「水龍様、お待ちしておりました」


 声をかけられてようやく弟のコリンだと分かった。その声音は人を不快にしない、柔らかく愛想のいいものだった。

 そう思って観察してみると、線は細いが喉は尖っている。


「本日は夕飯にお招きいただきありがとうございます。一同感動しております」

「巡礼者への施しを共に戴くだけのことだ。俺が振る舞うわけじゃないぞ」

「水龍様と同席できることが嬉しいのです」


 双子の弟はトーガの端を引き上げて軽く膝を折り、小首を傾げて見せる。

 正装時の礼に近い動きだが、その仕草には厳格さよりつやがあった。饗宴の席に呼ばれた役者や楽士が、貴族たちに色目を送る様によく似ている。



 ――分かってやっているな。



 アスカニウスは右の龍の手の爪先で乱暴に頭を掻いた。

 相手にする態度を取るのは危険だ。あくびをするフリまでして視線を逸らし、早々に廊下を歩き出す。


 最初に行動に出たのがこの青年ということは、行き当たりばったりに見える媚売り使節団も、幾ばくかの情報を持っているということだ。

 アスカニウスが情を持つ相手を調べている。

 妻を見送って以来、アスカニウスが懐に入れた数少ない情人は、軍務で親しくなった者ばかりだった。共に長きを過ごし、時に命を助け合う中で深い仲になるという自然な流れを拒まないで来たのだが、どうやら世間には若い男が好きだと思われているらしい。


「モレアでの大祭復古を提案なさったのは、水龍様だそうですね」

「イストモスは誘致に熱心なようだな」


 斜め後ろを付いてくるコリンに、アスカニウスは努めてぞんざいな口調で返す。


「それは当然です。アルバ市に開催権が移る前は、イストモスが二百年に渡ってザーネス大祭を担っていましたから。我々の悲願なのですよ」

「あいにく俺の担当はピュートーだ。その熱意はイストモス担当のレグルスにぶつけるべきじゃないのか?」


 今度は本気であくびが出た。

 おおかた、一族の長であるアスカニウスの方がより力を持っていて、後ろ盾として有利だと考えているのだろう。


 質実剛健で弁の立つ者が評価される帝国内では、レグルスのような物腰柔らかい優男やさおとこはどうしても侮られやすい。

 しかし彼は仕事に誠実で、いざという時に決断力を見せる。一門の若手の中で真っ先に名前が挙がる人物だ。

 その背景も汲み取れず、安直に年齢と肩書きにぶら下がるようでは、イストモスの審美眼もたかが知れている。


「俺とレグルスは互いの担当候補をぶつけ合う、いわば政敵同士ということだ。敵に取り入るのなら、もっと巧妙にやれとレグルスに言っておいてくれ」


 アスカニウスはコリンを視界に入れないよう前を向いたまま話す。


 そもそもイストモスは、候補地としても有力ではない。

 かつてはモレアの中心地として名を馳せたが、アルバ帝国が西から勢力を伸ばしてまず叩いたのはイストモスだった。そこから斜陽の一途を辿り、先の東方紛争でも反乱軍の根城になったため大規模な掃討戦が行われ、今でも港の一部が機能していない。

 モレア州の中でも重要な救済対象でありながら、役人たちに捨て置かれている土地なのだ。


 今回クラディウスの中でも最も優秀な若手を派遣したのも、大祭誘致と同時に古都復興の算段をするためである。

 怠惰な州役人共に現状を突きつけて働かせるためだ。


 そのため物腰柔らかで誠実なレグルスを適任と判断したのだが、その意図にも気付いていないというのか。


「僕たちが、ただ媚を売りにきたと思われているのなら、心外です」


 コリンの声が低くなる。

 アスカニウスが思わず振り返りそうになった時、廊下の先からポンペイウスが姿を現した。


「アスカニウス様。お迎えに上がるところでした。皆揃っております」

「では、僕は先に食堂に参りますね」


 コリンは浅く頭を下げると、そのまま食堂の方へと去って行った。

 アスカニウスは小さく息を吐いてからポンペイウスに向き直る。


「最初にアレが来たのは、偶然か、相変わらず噂が流れっぱなしなのか……どう思う?」

「アスカニウス様の愛人になるには、少々線が細すぎますね。歴代の愛人は皆軍人でしたから。私が直接知っているのはひとりですが、思い返してみればフェリクス殿と気性が似ていました。気が強くてしっかり者で、少々頑固なところなどが」


 アスカニウスが問うと、ポンペイウスはいたって真面目な顔のままそう答えた。


「歴代の、って……嫌な言い方をするな。俺ほど清廉せいれんな貴族もそうそういないぞ」


 戦場で恋人を作っていたのはもう随分前のことになるし、長い人生でたったの三人。

 結婚後ので三人だ。

 なんと慎ましいことか。


 それに尾がつきヒレがつき、羽根や爪までついて「戦場で若い男を見繕っている」「赴任地で美少年を集めている」「見目のいい戦士に出世の道が開かれている」などと言われるようになってしまった。


「私も若い頃は散々噂されましたね。アスカニウス様の私邸はさながら娼館のようになっていて、毎夜私兵を侍らせ淫らな饗宴三昧だったらしいですよ」

「そんなことしてる暇があるもんか!」


 アスカニウスは力の入ってしまった眉間を指でほぐし、今度こそ食堂へと足を進める。

 行先である食堂にイストモスの使節団が勢揃いしていると思うと、足取りは自然と重くなった。


「イストモスに送った早馬が、明日には到着するはずです」


 半歩前を歩くポンペイウスが周囲に気を配りながらそう囁いた。


「そうだな……おそらく、レグルスの方が先に動いていると思うが」


 アスカニウスの返事に、ポンペイウスは振り返ることなく頷いた。

















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