第四章 暗雲 1

 イストモス使節団がピュートーに来てから三日目。

 その日は曇天に近い薄曇りだった。


 アスカニウスはフェリクスと共に午前中の村の手伝いを終え、迎賓館へ戻ろうとするところだった。

 いつもなら神官や子供たちと共に簡単な昼食をとるが、今日はユリアンの様子を見るために早めに手伝いを切り上げたのだ。


 昨夜の食事で、イストモスの使節団におだてられたユリアンが葡萄酒を飲みすぎ、朝の祈りにも参加できないほど寝入ってしまった。

 フィレヌス家は代々大酒飲みで、ユリアンもすでにその片鱗を見せているが、いかんせんまだ体が小さい。念のため体調の確認をしないと心配だった。


「長殿! 長殿~!」


 そうして酔っ払って起きられなかったはずのユリアンが、ピョコピョコ飛び跳ねながらアスカニウスの方へと駆けてくる。

 朝寝坊してすっかり回復したようで、ポンペイウスとヘラスとパリスを従えて広場を横切ってくるところだった。


「叔父上が参られました! レグルス叔父上が!」


 満面の笑みで、全身で喜びを表して、ユリアンはそう叫んだ。

 レグルスはユリアンの母アクィリアの弟だ。我が子同然に甥っ子を大層可愛がってくれるので、ユリアンはレグルスに懐いている。


「レグルスが? そうか、やはり先に動いてくれていたか」

「火急の用だとおっしゃっています。馬を繋いだらすぐこちらに来ると」


 巡礼者用の厩舎はここからは見えないが、村人たちがざわついている空気が感じられる。

 アスカニウスにユリアン、イストモスの使節団が来たと思ったら、今度はレグルスだ。立て続けの来訪者に困惑しているのだろう。


 アスカニウスたちは道沿いに設けられた厩舎の方へと急ぐ。

 古い木製の厩舎ではアスカニウスの私兵が馬の世話をしていて、新たに馬と兵士が加わって随分と過密になっていた。


 レグルスの姿はすぐに分かった。こちらへ小走りに近づいてくる数人の兵士の中で、唯一緋色のマントを翻している。

 赤褐色の髪はアルバ軍人らしく短く刈り込まれ、陽に晒される手足と鼻の頭が赤黒く焼けていて、元の白い肌とくっきり色が分かれている。背は高いがヒョロリと細長く、優しげに垂れた目尻と相まってひ弱そうに見えてしまうのが彼の特徴だった。


 レグルスはアスカニウスの眼前まで来ると、細長い足を折りたたんで片膝を立て、兵士の礼を取った。


「申し訳ございません長殿。イストモスから数名、先走った者が押し掛けたようで」


 すぐに立ち上がったレグルスはアスカニウスと視線を合わせると、今度は浅く頭を下げる。


「やはりお前に何も言わずに来たんだな。そんなことだろうと思った」

「彼らは何か思い詰めています。今どこに?」


 レグルスの問いに答えたのはポンペイウスだった。


「朝の祈りの後は村を見て回っているようで、それぞれに過ごしていますが」

「双子の姉弟していがいただろう? そのふたりは?」


 レグルスが前のめりにポンペイウスに詰め寄った時だった。

 誰かの怒号、それについで幾人かの悲鳴が聞こえてきた。


「なんだ?」


 広場を振り返るが、騒ぎのもとは広場ではない。

 ポンペイウスが周囲を警戒する。それを兵士たちが囲み、数人が騒ぎの元を探しに走った。


「ユリアンはここにいろ。ヘラス、パリス、頼んだぞ」


 護衛ふたりにユリアンを任せ、アスカニウスはポンペイウスたちと共に駆け出した。

 ざわめきがざわめきを呼び、それを辿っていくと、中央広場から路地を一本入った商店の並ぶ通りにたどり着いた。路地には小さな人だかりができ始めている。


「このエセ神官め! 僕たちが泥水を啜っているのを見て何も感じなかったのか!」


 アスカニウスたちが人垣に近付くと、コリンが騒ぎの中心で叫んでいた。コリンと向き合って罵声を浴びせられているのはフェリクスだ。

 紫のトーガを纏ったふたりがそのような騒ぎを起こしていることに、人々が驚愕の表情を浮かべている。


「何事だ!」


 兵士のひとりが割って入ろうとしたが、コリンが突き出した短剣を見て動きを止める。

 切っ先は真っ直ぐにフェリクスに向けられていた。腕を伸ばせば掠めるような距離だ。

 目の前に刃物を突きつけられたフェリクスは息を殺してコリンを見つめ返す。その表情は冷静だが、酷く傷付いた人間の顔にも見える。金色の両眼が、悲しみに染まっていた。

 フェリクスとコリンを取り囲む輪はどんどん大きくなっていく。


「どうして僕たちばかりがこんな目に遭うんだ……同じ神域の守村なのに、ピュートーはこんなに栄えてる!」

「何してるのコリン、やめて!」


 叫んだのはミアだ。

 駆けつけてきた姉が止めようとしても、コリンは憎々しげにフェリクスを睨みつけたまま。止めには入ろうとする周囲を、剣先を左右に振って牽制する。

 弟に縋りつきそうなミアを制して、レグルスが輪の内側に一歩入る。


「やめなさい、コリン。自分が何をしているか分かっているのか?」


 イストモスですでにふたりには浅からぬ交流があったようで、レグルスの顔を見たコリンは剣呑だった表情を一瞬だけ緩めたが、今度は強い痛みをこらえる様に顔を歪める。


「口先ばかり……役人も、神官にすら慈悲がないなら、僕らは永遠に救われない……!」


 コリンが肩で息をし始め、剣を握る右手がブルブルと震え出す。左手はトーガをかき寄せてきつく握りしめる。完全に錯乱状態だ。

 じっとコリンを見つけ返すばかりだったフェリクスが口を開いた。


「どうか剣を収めて……あなたの故郷に何か不安があるのなら、必ず力になります。話を聞かせてください」


 ゆっくり一言一言噛みしめるようなフェリクスの言葉に、コリンの瞳が潤んで揺れた。怯えたように何度も首を振る。


「嘘だ、誰も助けてなんてくれない」

「何か誤解があります、私は同じ神域の守村を見捨てたりなどしません」

「嘘だッ! どうせ、どうせこれでもう……!」


 コリンの声が掠れる。浅い呼吸を繰り返し、肩が大きく上下して短剣を握る手が暴れ出しそうに震えている。

 限界だ。兵士たちがコリンを取り押さえようと一斉に身構える。


 最初に踏み込んだのはレグルスだった。

 一気に間合いを詰められ、コリンの腕がとっさに短剣を突き出し、刃がレグルスの右肘のあたりを掠めた。

 それで怯んだのはコリンの方で、隙を見逃さなかったレグルスは手首を返して短剣を叩き落とし、素早くコリンの体を地面に引き倒した。兵士たちが剣を回収し、コリンを拘束する。


 息を飲んで見守っていた群衆からワッと歓声が上がった。


「さすがだな、レグルス」


 レグルスは柔和な見かけによらず、武人としても力があった。幼い頃はよく稽古をつけてやったが、今はアスカニウスでも勝てるか分からない。

 胸を撫で下ろすアスカニウスたちの前で、フェリクスがレグルスの足元にひれ伏した。


「どうかその方をお許しください! 私の失言が原因です、彼の罪は重くありません」


 フェリクスは両膝を地面につけ、両手もついて、トーガの襞の中に埋もれるようにして頭を下げる。

 その姿に野次馬がどよめいた。村人たちからは悲しみの悲鳴が上がる。

 アスカニウスは人ごみをかき分けてフェリクスに駆け寄った。


「神官殿、何をしてるんだ!」


 アスカニウスの声にフェリクスはわずかに視線を上げたが、すぐにまた地面に額を擦り付けてしまう。


「彼を、イストモスの者たちをお許しください」

「ピュートーの神官殿、そのような事はやめるんだ」


 レグルスが身をかがめて声をかけるが、フェリクスは固い声で言い募る。


「どうか彼らの話を聞いてやってください。彼はイストモスの神官ですが、かの神域は苦難を抱えていて、その苦難が彼を突き動かしてしまっただけなのです」

「分かった、話はきちんと聞くから、頭を上げるんだ。私はレグルス・クラディウス・フィレヌスと申す者。イストモスの窮状をよく知っている」


 レグルスの言葉でようやく顔を上げたフェリクスに、アスカニウスが左手を差し出す。いつも力強いフェリクスが、涙を堪えるように顔を歪めていた。

 アスカニウスは出した手が取られないのに早々に焦れて、フェリクスの腕を掴んで立ち上がらせた。


「この方は、クラディウス一門の……?」

「ああ。レグルスは俺の曾孫ひまごで、ユリアンの叔父に当たる。大祭誘致でイストモスを担当しているのはこいつだ」


 兵に拘束され項垂うなだれるコリンに、ミアが取り縋って泣いている。野次馬の中にはイストモスの使節団もおり、当惑して立ち竦むばかりという様子だ。


「場所を移そう。お前たち、イストモスの者を集めるんだ」


 レグルスの言葉で兵が動き出す。コリンとミアは立ち上がらされ、使節団も移動を促される。

 フェリクスは歩き出したレグルスの右肘を見て眉根を寄せた


「お怪我を」

「擦り傷だ。大したことは……」


 かすかに血が滲んだそれを確かめるように腕を折って、レグルスは顔色を変えた。


「どうした?」


 アスカニウスが尋ねると、レグルスは左手で自分の右腕に触れる。


「……痺れが」

「なんだと? そんなに悪い箇所では……」


 怪我が原因で四肢の機能が失われることはあるが、レグルスの負った傷は本当に小さく、深い部分を切っているようにはとても見えない。

 アスカニウスたちが訝しげに思っている間にも、レグルスの顔色はみるみる青くなり、呼吸が荒くなった。明らかな異変にアスカニウスがレグルスの体を支え、ポンペイウスが兵に道を開けるよう指示を出した。


「店先でいい、場所を貸せ! 怪我人だ!」


 野次馬が再び騒ぎ出した。

 人波を掻き分ける兵士に悲鳴を上げる者、厄介ごとに巻き込まれまいと逃げていく者もいた。


 ちょうど目の前で騒ぎが起こり、成り行きを見守っていた布屋の女主人が兵士を手招きした。


 アスカニウスはレグルスの左腕を自分の肩に回させた。レグルスの四肢は力が入らず小刻みに震えていて、ほとんどアスカニウスに引きずられるようにして短い距離をなんとか移動した。

 商品を乗せた石造りの台の奥に、この商店一家の小さな居室がある。まずフェリクスが女主人に続いて建物に入り、仕切り布をめくってアスカニウスとレグルスを中へ通す。


 家人の寝台に横たえられる頃には、レグルスは意識朦朧となり目を開けていることもままならなかった。

 すぐにフェリクスがレグルスの容態を確認しはじめる。女主人が診療所の医者を呼びに駆け出して行った。


「貴様、剣に毒を塗っていたな!」


 ひとりの兵士がコリンを引っ立てて来てアスカニウスの前に突き出した。

 レグルスの様子を見たコリンは顔面蒼白でうろたえている。後ろ手に縛りあげられ、乱れたトーガの裾を地面に引きずり、兵士の剣幕に後退ろうとするが、布に足を取られてよろけてしまう。


「し、知らない、毒なんて……」

「正直に言え、なんの毒を使った!」

「本当に知らないんだ、あの剣は、もらい物で」


 アスカニウスはなおもコリンを追い詰めようとする兵士を押しとどめた。


「話は後で聞く。イストモスの者は全員、迎賓館の一室にでも集めておけ」


 短く返事した兵士はコリンを力づくで立ち上がらせた。

 コリンが一瞬、縋りつくような視線をよこした。もともと肉の少ない顔が、さらに細く頼りなく見える。

 アスカニウスはそれに背を向けて、レグルスの体を診るフェリクスの隣に膝をついた。











 短剣に仕込まれていたのはドクニンジンだろうと、医師は固い表情で告げた。

 ドクニンジンは薬になるが、処刑にも使われる毒草の一種だ。


「かすり傷でこれだけの症状が出るとは、よほど腕のいい薬師が調合した毒です……フェリクス様がすぐに傷口を洗ってくれたおかげで、これ以上悪化することはないと思いますが、回復までかなりの時間がかかるでしょう」


 アスカニウスは布屋が用意してくれた椅子に座り、医師と向き合う。


「命に関わらないのなら、まずは安心だ。だが、時間がかかるとは、どのくらい?」

「こればかりはなんとも……健康なお方ですから回復は早い方でしょうが、どこまで毒が回ったかによります。臓腑や頭を侵されていた場合、目が覚めたとしても影響が残ってしまうこともあります」

「そうか……」


 アスカニウスは努めて冷静に、しかし酷く心をかき乱されながら振り返った。

 

 寝台に横たわるレグルス。

 その隣に薬湯の入った水差しを持ったフェリクスが膝をついている。毒を体の外に出すための薬湯をレグルスの口に注ぐが、意識がはっきりしないためなかなか飲み込むことができないようだった。


 よもや短剣の刃に毒が塗られているとは。

 アスカニウスも、おそらくレグルス自身も油断していたのだ。コリンのような腕の細い神官に、命を脅かされるような攻撃を受けるはずなどないという油断を。


 嫌になるほど長かった戦場での経験を、あっという間に忘れてしまった自分に腹が立って仕方がない。


 危険はどこにでもある。敵はどこに潜んでいるのか分からない。

 それが一見平穏そのものの、神域の守村であったとしても。


「フェリクス様。お伺いを立ててはもらえませんか?」


 医師がフェリクスの背中に向かって問う。

 レグルスの口元を拭ったフェリクスが振り返り、まだ中身がほとんど残ったままの水差しを盆に戻す。


「分かりました。ザーネス様の御神託を仰ぎます」

「神託を?」


 聞き返したのはアスカニウスだ。それにフェリクスがゆっくりと頷いて答える。


「はい。ラコウヴァ様の湖の水を、直接汲んで良いか伺ってみます」


 神域ではザーネスをはじめとする神々の声を聞くことが出来る。


 パルナ山の中腹にある水龍ラコウヴァの湖。

 アスカニウスが毎朝もらっている泉の水源で直接汲んだ水は、龍神の力がさらに強く宿っている。飲めば病気や怪我の回復に効果が高い。

 それがあればレグルスは助かる……そこまで考えて、アスカニウスはフェリクスの言葉の意味をようやく理解した。


「伺うということは、断られる場合もあるということだな?」

「こればかりは、私たちが勝手に決められることではありませんので」


 アスカニウスも何度か神託の儀式を目にしたことはある。

 しかしそれはどれも皇帝の名のもとに戦況を占うもので、こうして具体的に神の指示を聞くのは初めてだった。


 神が『諾』と仰ればレグルスは助かり『否』と仰れば、助からないかもしれない。


「今ここにいてレグルス様に一番近しいお方は、クラディウス様で宜しいですか?」


 フェリクスはすでに立ち上がっていた。

 神託は決定事項のようだ。


「近しい家族がいる場合、神官と一緒に神殿に入って祈りを捧げます」

「一番近いというなら、ユリアンだ。レグルスはユリアンの母の弟で、普段からユリアンもよく懐いている」

「では神託のためにユリアン様をザーネス神殿でお預かりします」


 承諾を得るためではなく、報告のために告げられた断定の言葉だった。

 神の前では帝国一の貴族の長も、神官の言葉に逆らうことは許されない。


 もとよりアスカニウスに、フェリクスに逆らう気などかけらもないが。


「分かった。レグルスのことを頼む」


 アスカニウスの言葉にフェリクスは力強く頷く。


 不思議な心地だった。

 家族の命を神に委ねることが。


 もし、否と言われた時、自分はどんな心地になるのだろうか。
















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