第四章 暗雲 2

 アスカニウスは神殿前の広場に座り、だんだんと白んでくる東の空を見上げていた。


 神の声が聞こえるのは日の出と日の入りの時だと言われている。

 特に朝日が昇る瞬間こそが、もっとも天界と地上が近づく時であり、朝の祈りが重要視されている理由のひとつでもある。


 祭壇を整え、新たな供物を捧げ、何種類もの香を焚き……準備は夜を徹して行われた。

 そして神託は夜明け前に始められた。


 ザーネス神殿には神託を聞く神官が五人と、その言葉を聞き取って記録する書記官が三人、そしてユリアンが入り、扉が固く閉じられたまますでに一時刻ほどが経っていた。

 広場にはひとつだけ篝火かがりびが焚かれ、兵士や従者たちが座っている。神官以外の世話人など、ピュートーの村人も共に見守ってくれていた。


「アスカニウス様、お体は?」


 ポンペイウスの問いにアスカニウスは苦笑を返した。

 主人が地面に座っているだけで気を揉むようで、神託を待ち始めてからすでに三度目の問いかけだった。


「心配ない。そう何度も聞くな。ほら、もうすぐ夜が明ける……そろそろ神託が下るはずだ」


 アスカニウスの言葉に、少し離れた場所にいるヘラスとパリスが東の空に向かって手を合わせた。


「ザーネス様、ポイボス様、パルナ様、ラコウヴァ様……どうかレグルス様をお救いください」

「どうかユリアン様の心にお応えください」


 それを見た他の者たちも同じように祈った。アスカニウスも東へ体を向け、胸の前で手を固く結んで頭を垂れた。


 このままでもいずれレグルスは回復するだろう。しかし医師の言った通り、全快するかは誰にも分からない。武人として振舞えない体になるかもしれない、その聡明な頭脳が脅かされるかもしれない。


 アスカニウスはそういった不幸な運命を知っている。近しい人間が病に苦しみ、大けがを負い、命を落とすことだってあった。

 それは自然なことだ。普通のことだ。人が地上で生きる限り、毎日誰かの家族が冥界への扉をくぐっている。


 しかし、神の力に縋れるなら、縋ろう。レグルスは幸運にも聖水の恩恵にあずかれるかもしれないのだから。

 もしそれが叶わなかったとしても落胆してはならない。

 アスカニウスは何度も自分に言い聞かせる。

 湖の水が与えられないとしたら、レグルスには不要だっただけのこと。聖水がなくともすぐに元気になるに違いない。

 アスカニウスはそう胸の内で繰り返した。


 どれだけ空に向かって祈っただろう。

 石の扉が開かれる音に皆が顔を上げると、すでに太陽は地上に姿を現し、木々の合間から白亜の神殿を眩しく照らしていた。


「結果は?」

「お言葉は?」


 列柱屋根の向こう、心室の扉から歩み出てきた書記官の姿に兵士たちは思わず腰を上げる。


「ふたすくいの命と、ひとにぎりの大地を」


 書記官が噛み締めるように読み上げると、広場が歓喜に沸いた。

 無事ザーネス神の言葉を賜ったのだ。


「許されました! 叔父上は助かります!」


 書記官の脇をすり抜けて、ユリアンが転がるように神殿の階段を駆け下りてくる。それをしっかり抱きとめて、アスカニウスはユリアンの髪を力一杯かき回してやった。


「よくやったユリアン!」


 ユリアンはアスカニウスの胸に顔を押し付けてしゃくりあげた。共に神託を待ってくれたピュートーの者たちが労いの言葉をかけてくれる。

 ユリアンの祈りはザーネス神と龍神たちに届いたのだ。


 書記官に続いて神官たちも神殿の心室から出て広場へと下りてくる。見習い神官たちに迎えられたフェリクスは、その場でトーガを脱ぎ捨てた。


「柄杓と桶と袋を。警備と荷運びを二名ずつ。すぐに山へ入ります」

「フェリクス様、少しお休みになられては?」


 紫の縁取りのトーガを纏った少女が心配そうに声をかけるが、フェリクスははっきりと首を横に振った。


「レグルス様に早く水をお届けしなければなりません」


 アスカニウスはユリアンを腕にぶら下げたままフェリクスに駆け寄る。


「湖の取水も、神官殿が行くのか?」


 朝日に照らされたフェリクスの顔から疲労の色が見て取れる。神託には酷く体力使うと聞く。


「私が一番道を分かっていますから、私が先導するのが早いのです。ご安心ください。ザーネス神はレグルス様をお救いになります。ふたすくいの命と、ひとにぎりの大地――ラコウヴァ龍神から柄杓ふた掬いの湖の水と、パルナ龍神から一掴みの山の土が与えられます」


 フェリクスの目の下には影があり、唇は渇いて白くなっていた。

 アスカニウスはそれを指摘しようとして、やめる。瞬きよりは長く目を瞑り、抱えたままだったユリアンを地面におろしてフェリクスに向き直った。


「……すまんが、頼む。レグルスが動けなくなることは、帝国にとっても大きな損失だ」

「心得ています」


 色の薄くなった唇の端を持ち上げて見せ、フェリクスは早々に山に入っていった。


 泉向こうに広がる森がパルナ山の入口だ。

 湖のある中腹までだとしても、相当な高さになる。水を汲んで下りてくるだけでどれだけの時間がかかるだろう。


「フェリクス殿はすごいお方なのですね」


 ユリアンが呟く。

 ほとんど寝ずに神託に臨んだユリアンも疲れを覚えてきたのだろう。眠そうに目をこすりながら、しかしフェリクスの消えて行った森の入口を必死に見つめている。


「心室の中で、最初にザーネス神の御声を賜ったのは、フェリクス殿でした。他の者は聞き取れないようなことをたくさん呟いていて、書記官は全て書き取っていましたが、どれも正しい神の声ではなかった……誰よりも先に、はっきりと御声を聞いたのはフェリクス殿だったのです」

「そうか。他の神官よりも優秀だと聞いたな。神に愛されているんだろう」


 アスカニウスはユリアン抱き上げ、石畳に尻を付けて座り込んだ。膝の上に乗せてやると早々に船を漕ぎ始める。普段は子供扱いを嫌うくせに、時折赤ん坊のように無防備になる。


 この子の母が、五人兄妹の中でも特にユリアンを気にかけている気持ちがよく分かる。本人は自身の境遇を窮屈に感じているが、ユリアンは自由と可能性の塊のような存在に思えるのだ。ずっとこのままでいて欲しいと願わずにはいられない。


 高齢の女性神官が近づいてきて、寝入ってしまったユリアンに大きな布をかけてくれた。

 それは先程フェリクスが脱いでいった紫色のトーガだった。


「使って良いのか? 神官殿のトーガじゃないか」

「今は他にありませんので。フェリクス様が戻るのに、昼までかかります」


 女性が微笑むと目尻の皺が深くなった。六十歳を過ぎた頃だろう。すっかり白くなった髪に、堅くなった褐色の肌。


 アスカニウスが礼と共に名を尋ねると、彼女は恥ずかしげに目を伏せながら『イレーネ』と名乗った。

 平穏、平和を意味する言葉だ。


 イレーネはしわがれた、優しい声でアスカニウスに語りかける。


「フェリクス様が神託決められた時点で、安心して宜しかったのですよ」


 イレーネは緩慢な動きで石畳に腰をおろそうと身をかがめたので、アスカニウスは片手を差し出してそれを助けた。片膝を立てた格好で腰を落ち着けると、彼女は一度大きく息を吐いて、再び話し始めた。


「神託を願っても、必ずザーネス神が応えてくださるわけではありません。神の御声を賜った上で、その者の死の運命を知るだけ、ということもあるのです」


 アスカニウスはユリアンを抱え直して、イレーネの言葉に耳を傾ける。


「以前、村で重い病に罹った男がおりました。父ひとり娘ひとりで、娘はもうすぐ嫁入りも決まっておりましたので、花嫁姿をどうしても見せてやりたいと、神殿に神託を頼みに来たのです」

「なるほど。神官殿はそれを断ったのか」


 イレーネはゆっくりと頷いた。


「そういう時は、フェリクス様は決して託宣をしないのです。娘はもちろん、泣いて縋りました。もし声が届かなくてもいい、それでもザーネス神に訊ねてみて欲しいと。フェリクス様は娘の訴えを振り切って、父親を診療所に移しました」


 イレーネは村の方へと視線を向けた。


 ピュートー村には立派な診療所があり、病の者を寝泊まりさせる家もあった。すぐ近くに医師や神官が控え、ゆっくり療養することができる。家族が毎日薬をもらいに医師のもとを訪れたり、病人を背負って連れて行く必要もないのだ。

 大都市なら特別な療養施設が存在するが、人口が多いとはいえ山間の村落で診療所がこれだけ充実している土地も珍しい。


「神が応えてくれるかどうか、フェリクス様にはおおよそのことが分かるのです。口にはなさいませんが。きっと、神に見捨てられたと思わせないよう、先にフェリクス様が断っているのです」

「そうすれば、人は神を憎まず、神官殿を憎むだけで済む……か」

「子供の頃から一緒におりますが、あの方はいつもそう。でも誰も、フェリクス様を憎んだりはしておりませんよ」


 イレーネは瞳が見えなくなるほど目を細めて笑う。

 天を駆け上がる太陽神の光が眩しくなってきた。ユリアンを乗せた太ももが痺れて鈍痛を訴えている。


 アスカニウスはユリアンを落とさないよう支えながら、首を巡らせてパルナ山を見上げた。山頂の岩場より少し下、森が途切れる手前に、水龍が造った湖がある。

 それは遥か高みで、訓練された軍人でもたやすくはない道のりだ。



 ――あんなところまで登るのか。



 フェリクスは躊躇なく森に入った。

 よく知った山であっても、道が整備されているわけでもない。馬も使えない斜面を這うようにして進んでいるだろう。


「もし、無断で湖の水を取ったら、どうなるんだ?」


 ほんの好奇心から出た問いだった。

 何も考えず口にしてしまってから、アスカニウスはさすがに不謹慎だったと思ったが、イレーネは驚いた様子もなく微笑んだままだった。


「それも、神のみぞ知ることでしょう。怒りに触れ罰せられるのか、許されるのか、はたまたお褒めに預かるのか……我々には分からないことです」
















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