第四章 暗雲 3

 布屋で休むレグルスのもとに湖の水が届けられたのは、昼を少し過ぎた頃だった。


 聖水を口に含んだレグルスはすぐにうっすらと目を開いた。

 アスカニウスと医師がレグルスの顔を覗き込む。


「レグルス!」

「気が付かれましたか。レグルス様、私の声が聞こえますか?」


 レグルスは眩しいものを見たように数回瞳を瞬かせた。


「俺が分かるか、レグルス。神域の湖の聖水を与えられたんだ。もう心配はいらない」

「聖水を……? ああ、確か、コリンが……」

「短剣の毒で倒れたんだ。しかし神官殿がザーネス神託で許しを得て、お前は助けられた」


 まだぼんやりしていたが、レグルスは想像よりしっかりと受け答えができた。

 医師が全身の具合を訊ね、動かない箇所もないことが分かると、アスカニウスは安堵の溜息と共に小さな椅子に腰をおろす。


「イストモスは、聞いていたよりも酷い状態でした」


 寝台の傍らに座るアスカニウスの顔を見たレグルスは、掠れた声でそう切り出した。

 なにも目覚めて早々仕事の話をしなくてもいいと思ったが、懸命に紡がれるレグルスの言葉を遮ることもできなかった。


「食料は、どう見ても足りていない。備蓄倉庫はほとんど空で……それでも神殿は、なんとか我々に食事を振舞おうとしました。西側の港は、辛うじて機能していましたが、東は酷い有様で……」


 途中で咳き込むレグルスの背をさすり、水差しから水を飲ませてやる。

 湖の聖水はわずかだったが、泉から汲んだものは桶いっぱいに用意されていた。


 アスカニウスはレグルスの呼吸が穏やかになったのを確認してから、静かに話し始めた。


「ポンペイウスが尋問したが、コリンは何度聞いても、短剣に毒を仕込んでいないと答えるそうだ。嘘を吐いている様子じゃない。あれが武器の扱いに長けているようには、とても見えないしな」

「ええ、そんな子では……」


 レグルスは何度かゆっくりと呼吸を繰り返し、悲しげに目を閉じる。


「双子もルフスも身分に偽りはありませんが、実際のところ肩書のままの暮らしをしていない……東側の港を海賊に占拠され、商会は仕事になりません。双子は巡礼者相手に楽士の真似事をして生活していると」

「あの大量の寄進の出所は?」

「それは、まだ分かりません……しかし彼らが、自力で金品を用意するのは、不可能です」


 アスカニウスは顎に手を当て、目を細めて思案にふけった。


 無事神託を賜った後、ポンペイウスの指揮のもとイストモス使節団は全員尋問を受けた。

 彼らは一様に、イストモスを訪れた巡礼者から入れ知恵されていた。


 コリンはレグルスのことを、困窮するイストモスをさらに貶めようとする悪徳貴族の先鋒だと思い込んでいた。アスカニウスをたらし込んで大祭の開催権を獲得すれば守村を再興できると聞き、さらに護身用にとあの短剣も渡された。

 彼が突然激昂した理由は、フェリクスがイストモスの現状を知りながら放置していると思ったからだ。フェリクスがイストモスを訪問したのはずっと前のことだと知らず、救いを求めていた張り詰めた心が、神に仕える者にも見放されたと思い一気に崩れ落ちてしまった。


 姉のミアは私腹を肥やすピュートーの不正を暴きに来たのだと言い、ルフスはクラディウスに賄賂さえ渡せば開催権が手に入ると信じていた。


 兵士が手分けをして使節団全員に話を聞いたが、言っていることがてんでバラバラだ。


「面倒臭いことをしたヤツがいるな」


 アスカニウスは盛大な溜息をこぼす。

 イストモスの外から、彼らに曖昧な情報を吹き込んだ者がいるとしか考えられない。


「力及ばず、面目もありません」


 レグルスは疲れた様子でぐったりと寝台に沈み込んだ。


 背後で衣擦れの音がした。

 アスカニウスが振り返ると、荷物を抱えたフェリクスが、仕切り布をめくって短く目礼した。


「おい、神官殿も休まなくて大丈夫なのか?」


 アスカニウスは椅子から立ち上がりかけ、それをフェリクスに手で制される。

 フェリクスは先ほど水を渡してくれたばかりだ。てっきり神官舎で休んでいるものと思っていたが、今度は自ら荷物を運んで来たではないか。


「まだお渡しするものがありましたので」

「荷物なら誰かに預けろ。寝ていないだろ?」

「寝ていないのはクラディウス様も同じです。それに、これは神官の手で運ばなければなりません」


 フェリクスは包みを開いて、中から手のひらに収まるほどの小さな袋を取り出し、レグルスの枕元に置いた。


「パルナ山の土です。身に着けることで、火龍の加護を賜ります」


 寝台に置かれたのは頑丈に縫われた布袋で、中身は簡単に取り出せない作りだ。この中に土が入っているという。

 レグルスが驚きに目を見張る。


「神域の土を……私が賜って良いのか?」

「まだ伺っていませんでしたか? 神託により、ふた掬いの湖の水と、ひと掴みの山の土が与えられました。これはレグルス様のものです」

「なんと、名誉なことか」


 レグルスが袋に手を伸ばす。アスカニウスはレグルスの手に袋を握らせてやった。

 神域の土や石は大変貴重で、代々子孫に受け継がれている物もあるほどだ。ザーネス神と龍神の力を宿した守り袋を身に着けていると、旅や航海の安全、子孫繁栄など様々な加護があると言われている。

 レグルスは両手で袋を包み込んだ。


「温かい……不思議な、力を感じる」

「こちらは追加の薬湯です、診療所で煎じたものをお持ちしました。すぐに湯を沸かしますね」


 包みから取り出した麻袋を持って部屋の隅へ行こうとするフェリクスをアスカニウスが押しとどめる。


「神官殿、もういい、もういいから休んでくれ」

「しかし、ここの女将も休ませていますし」


 フェリクスはなぜ止められたのか分からない様子で、不思議そうにアスカニウスを見つめ返す。

 布屋の女主人は昨晩つきっきりでレグルスの面倒を見てくれたため、今は近所の家を間借りして休んでいる。


「いくら神官殿が頑丈でも、徹夜明けの山登りは堪えるだろう」

「私は大丈夫ですから、クラディウス様の方こそお休みください」

「俺も休むから神官殿も休むんだ」

「しかし、それではレグルス様が」


 アスカニウスとフェリクスが押し問答をしていると、狭い室内にくすくすと忍び笑いが響き、ふたりは口を噤んだ。

 レグルスが寝台に横たわったまま口元を手で押さえ、医師は隠す気もなく肩を揺らして笑っている。

 アスカニウスは肩を竦めてフェリクスに視線を送る。


「神官殿があんまり意固地だから笑われたじゃないか」

「なっ、私のせいですかッ?」

「あはっ、ははは、長殿はすっかり打ち解けっ、う……ゴホッゴホッ」


 生真面目に憤慨するフェリクスの様子に、笑い声を上げたレグルスが勢い余って盛大に咳込んだ。医師が素早くレグルスの背を起こし、水差しを口に突っ込む。


「それではここは、先に寝かせてもらった私が見ましょう。クラディウス様の兵を何人か手伝いにお借りしても宜しいですかな?」

「ああ。存分に使ってくれ」


 アスカニウスは頷き、まだ不満げなフェリクスを促して布屋を後にする。

 ふたりは商店の立ち並ぶ路地を広場へ向かって歩き出した。


「二、三日寝ないくらい、なんともありません」


 フェリクスは空になった包み布を折りたたみながら歩く。


「若いうちはみんなそういうことを言うんだ。俺も昔は三日徹夜で軍団を移動させたりしたが、その後ドッと疲れが来る。八十を過ぎた頃からは、そもそも徹夜なんかできなくなって」

「八十って……では、私はまだまだ大丈夫ということですね」

「違う、そういう意味ではなくて、俺は人間の中では例外であって」


 アスカニウスがなおも言い募ろうとすると、フェリクスは歩く速度を上げてどんどん先へ行ってしまう。


「おい神官殿、ちゃんと寝るんだぞ」

「少しなら。夜の会議のための準備もありますし、あまり時間が……」


 言いかけてフェリクスが足を止めた。

 思わずアスカニウスも立ち止まるとフェリクスはが振り返り、正面から向かい合うことになる。


 フェリクスはやはり疲れた顔をしていた。濃く日に焼けた肌で分かりにくいが目の下には影があり、朝見た時よりも唇の色が白い。しかし本人の言う通り体の動きはしっかりしていて、合わせた視線に眠気は感じられない。


「どうした?」


 アスカニウスの問いかけにフェリクスは手に持っていた包み布を軽く握りしめる。


「今夜、村の代表者を集めて会議を開きます。イストモスのことを皆で話し合わなくては」

「そうだな。きっと村の者たちも混乱しているだろう。話し合いをするに越したことはない」


 アスカニウスはフェリクスの金色の瞳を見つめ返して頷いた。


「クラディウス様も、会議に参加していただけませんか?」


 フェリクスは珍しく不安げに瞳を揺らした。訊ねた後で、気まずそうに視線を逸らしてしまう。

 いつだってまっすぐにこちらを見るフェリクスらしからぬ態度だった。


 アスカニウスはその姿に戸惑いながら、曖昧に頷いた。
















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