第四章 暗雲 4

 その夜、村の代表者たちが神域の劇場に集まった。


 自然の傾斜地を生かして作られた伝統的な野外劇場は、半円形ですり鉢状、階段座席に五千人は収容できる。ピュートーの赤ん坊から老人まで全員が座ることも可能だろう。

 ところどころ色の違う石があり、何千年も修復を繰り返しながら大切に使われてきたことが窺える。


 舞台の背後に篝火が四つ置かれ、座席に腰かける人々の顔を赤く照らしている。舞台の前方、座席の近くにもひとつ小さな灯りが置かれているのは、聴衆と向き合う演者の顔を照らすためだ。



 ――もう少し座席を増やす必要があるな。



 アスカニウスはすり鉢の底、半円形の舞台の片隅で村人たちが集まってくる様子を眺めながら、この場所で大祭を開くことに想いを馳せた。

 まだ土地に余裕があるので、もう一つ劇場か競技場を増やしてもいい。


 すでに座席に落ち着いた者たちの囁きあいが漏れ聞こえてくる。


「守村の神官が刃傷沙汰とは、世も末だ…」

「イストモスはあまり活況ではないとは聞いてたが、あそこまですさみ切っていたとは」

「だからってフェリクス様に切りかかるなんて、許されるもんか!」

「不憫だね。あの子ら、まだあんな若いのに」


 人々の話題は当然のようにイストモスのことばかりだ。


 怒りをあらわにする者、憐憫を浮かべる者、口にはせず顔を顰める者。

 反応はさまざまだが、おおよそが同情的であることにアスカニウスは内心驚く。


 もしアルバ市内で同様の事件が起こったとしたら、議会や裁判所が裁定を下す前に、いきり立った市民が暴動を起こして犯人を私刑に処してしまうことすらあるだろう。

 いくらフェリクス本人に被害がなかったとしても、彼を慕う村人たちに怒りの色が濃くないことは意外だった。


「神官殿、会議に参加する代表者はどうやって決めているんだ?」


 隣に立つフェリクスは紫色のトーガを纏っている。日暮れの祈りからそのまま移動して来たのだ。

 フェリクスは座席の方を見ていた視線をアスカニウスに向ける。


「五戸寄り合いと呼んでいるのですが、近所の家五軒の中からひとり代表を立てます。その代表十人から、さらに頭領ずりょうを決めています」

「五戸の代表十人の中からまた代表を決める……なるほど、軍団と同じだな」

「それ以外に、神官と見習いは全員。医師と巡礼者世話人の代表、六十歳以上で歩ける者も参加します。あと、十七歳以上の独身者からも数名、これは年に一度会議で指名されます。今は全部で五十名ほどで、欠席の場合は代理人を立てます」


 会議に出席するのは、軍隊でいえば百人隊長以上ということか。

 組織というのはどこも似たようなことをするものだ。


 アスカニウスが感心して頷いていると、フェリクスが目をこするようにして片手で眉間を揉んだ。目が乾くようで何度も瞬きをしている。


「結局寝なかったんだろう?」


 アスカニウスは不満を隠さない声を出したが、フェリクスは気にした様子もなく座席の方へ顔を向けてしまう。


「ポンペイウス殿にイストモスの話を聞いていたら時間がなくなってしまいました」


 彼は最初から休む気などなかったのだ。

 どうやらフェリクスはアスカニウスが部屋で寝ている間に、ポンペイウスや兵士たちに使節団の尋問の様子を聞いて回っていたらしい。


 日暮れの祈りの直前に目を覚ましたアスカニウスは、神域へ向かう道すがらフェリクスの質問攻めにあった。

 レグルスから聞いたイストモスの現状、使節団から得られた情報の確認はもちろん、彼らを取り巻く周辺都市や、モレア州の役人の動きまで……会議で説明の必要があるからと、根掘り葉掘りの厳しい尋問だった。


「会議の後はすぐに寝るんだぞ。ああ、食事をとってからな。どうせ何も食べてないだろ?」

「時間がなかったので」

「そうやって若さにかまけて無理をするなと言ってるんだ」

「あのですね、クラディウス様。私はあなたが思っているほどは若くはないのです」

「はあ?」


 こちらを見ないままのフェリクスの顔を覗き込もうとした時、神官見習の少女がおずおずと声をかけてきた。


「フェリクス様、そろそろ……」


 少女に促されてフェリクスが座席の方を向き、アスカニウスも同じように視線を送ると、階段を下りてくる人の流れはいつの間にか途切れていた。

 フェリクスは少女に礼を言うと舞台中央に進み出る。


「皆さん揃いましたね」


 フェリクスの凛とした声が劇場の石の座席にこだまする。

 劇場というのは舞台の声が隅々まで響き渡るように造られていて、普通の声で話しても大きくなって返ってくるのだ。


「今日は突然の招集になりましたが、必要なことと考えて集まってもらいました」


 人々の目は真剣だった。


 集まっているのはアスカニウスも見知った村人たちだ。風呂屋の主人、羊飼いの老爺、布屋の女主人も列席している。他にも宿屋の跡取り息子、迎賓館の世話人、木工の技師……みな普段は薪を割ったり、家畜の糞を掃除したり、繕い物をして日々を送る市井の人々だ。

 そんな彼らが医師や神官と同じように真剣にまつりごとに関わる姿勢に、アスカニウスは静かな興奮を覚える。


 アルバにも市民集会があり、成人した市民は誰でも参加できるが、雰囲気がまったく違う。どうしても貴族や元老院の影響が強く、集まる市民はその代弁者の色が強くなってしまう。


「フェリクス様。イストモスはどうしてあんなことを?」


 最初に発言したのは医師だった。


「どうやら今、イストモスの地は大変苦しい状態にあるようです。先の戦争の傷が一向に癒えず、人々は飢えに苦しんでいる……治安は悪化の一途を辿り、港の一部は荒くれ者に占領されて……刃物を取り出した彼も、なにも我々に恨みがあったわけではないのです。私がかつてイストモスの地を訪れたことがあると話したので、荒れ果てた神域を見ても救いの手を差し伸べなかったと絶望してしまった……私が隣の神域へ詣でたのはもっと以前のことだときちんと話さなかったために、彼の心を乱してしまったのです」


 フェリクスはアスカニウスに視線を投げる。

 心得たと頷き、アスカニウスは舞台の端から大きく一歩中央へ踏み出した。


 その場にアスカニウスがいる時点で人々も察していたのだろう。物言わぬ何十の視線が詳しく教えろと訴えている。


「ピュートーの代表者たち。まず、我が一門の若者を救ってくれたことに礼を述べる。皆の親切と献身と、神々の温情に心からの感謝を」


 アスカニウスが右手――龍の手を胸の前にかざして参加者を見回すと、皆が応えるように目礼や浅い頷きを返した。


 歴史ある大きな劇場に固まって座る、わずか五十名ほどの代表者たち。篝火は人々の顔を照らすのがやっとで、階段式の座席のほとんどは光が届かず夜の闇に沈んでいる。

 アスカニウスがいつも相手にしているアルバ市の何千何万という聴衆に比べれば、こじんまりとした集まりだ。しかし、だからこそひとりひとりの顔がよく見えた。


「イストモスは聞いていた以上に困窮している。大祭を誘致することができれば故郷を再興できると考え、発案者である俺のもとへ使節を送って来たというのは、みなの察する通りだ。そして、これはまだ調査中だが……この状況に拍車をかけているのが、恥ずかしながらアルバ元老院が指名した、現モレア州総督だと考えられる」


 人々が目を見開き、互いに顔を見合わせる。

 アルバ帝国は首都を中心とした本国の外縁部――後から領土を拡大した土地を四十五の属州に分けて統治している。属州ごとに総督職が置かれ、税収や役人の人事を管理しているのだ。


「情けない話だが、そういう噂は以前からあった。レグルスにはそれも含めてイストモスの現状を調べてもらうつもりだったんだ。そして、噂は真実だった」


 各総督はアルバ元老院議員の指名を受けて現地に派遣される。

 しかるべき人物を送り出しているつもりだが、税の徴収という大きな金額を動かす力を得ると、人間は簡単に堕落してしまう。

 属州総督の汚職は後を絶たず、遠隔地での出来事のため摘発は遅れがちだ。広い領土を誇る帝国の弱みでもあった。


 昨年新たに就任したばかりのモレア州総督は、イストモスをはじめとしたいくつかの困窮地域への援助を怠っただけでなく、本来収穫量や売買金額に応じて課せられる税を不当に多く搾取していた。

 そんなことをすれば当然事態は悪化し、町はさらに力を失う。イストモスの人々は役人に対して不満の声を上げただろうが、総督に声が届いたところで改善は期待できない状態だった。


「イストモスは大祭の候補地から外れることになるだろう。未遂とはいえ神官殿を傷つけようとしたことも理由のひとつだが、イストモスで五年後に大祭を開催するのは極めて困難と思われるためだ。悲願、とまで言った彼らを候補から外すのは忍びないが、今は大祭よりも町の再興だ。クラディウス一門は責任を持ってアルバ元老院に提起し、イストモスを救うと誓う」


 アスカニウスが宣言すると、もとよりイストモスに同情的だった彼らは口々に賞賛の歓声を上げた。


「私たちにも、何かできることはありませんか?」

「イストモスから贈られた寄進と相応のものを、クラディウス様にお預けし、イストモスの復興に役立ててもらうのはどうでしょうか?」

「人手は足りているのですか? うちはそんなに人がいませんが、宿場のミデイアで呼び掛ければ支援者が集まるかもしれません」


 怒涛の提案にアスカニウスの方が気圧されそうだ。


 なんて善良な人々なんだろうか……それこそが、ピュートーの豊かさを物語っていた。日々の生活に困ることなく、穏やかに暮らしていればこそ、他人に手を差し伸べることができる。


「クラディウス様」


 舞台の上でフェリクスがアスカニウスの方へ向き直った。いつものように背筋をまっすぐに伸ばし、きゅっと引き結ばれた口元がかすかに緊張していた。


「ピュートーも大祭の候補地を、辞退致します」


 フェリクスの言葉に、夜の劇場は静まり返った。イストモス救済案を出し合っていた代表者たちの中には口を開けたまま止まっている者もいる。

 真っ先に反論したのは当然アスカニウスだ。


「ちょ、ちょっと待ってくれ神官殿! 前向きに検討すると言ってくれたじゃないか」

「状況が変わりました。レグルス様に怪我を負わせ、イストモスの人々も悲嘆にくれている……悲しみと絶望が持ち込まれてしまいました。このような状態では、湖の浄化は進みません」


 フェリクスの瞳に憂いこそあれど、揺らぎはなかった。アスカニウスは思ってもみなかった展開に絶句する。


 戸惑いの空気の中、座席の端の方でひとりの男が立ち上がった。


「お待ちくださいフェリクス様!」


 声を上げたのは迎賓館近くの宿屋の跡取り息子で、年の頃は二十代半ば、名をルキウスという。アスカニウスも何度も顔を合わせていた。村の若者に共通するよく日に焼けた赤い肌で、癖のある黒髪は顔にかからない程度に短く整えられている。


 ルキウスは勢いよく立ち上がったものの、息が詰まったかのようにしばし口を閉じていた。


「ちょっと、なに黙ってんの」


 隣に座る女性がルキウスの腰を叩いた。ルキウスと同じ年頃の若い女性で、妙齢の女性らしく編み込んだ髪を後頭部で丸くまとめている。


「アンタが言わないなら私が言うけど」

「あ、いや、ええっと……その!」


 ルキウスは視線を彷徨さまよわせながらようやく話し始めた。


「フェリクス様、その……大祭を呼ぶのは、そんなに悪いことですか?」


 ルキウスの控えめな問いかけに、フェリクスは静かな声で答える。


「イストモスの様子を見たでしょう。大きな富の動きとは、人の心の隙に入り込んで狂わせることすらある……そんな危険を背負うことはできません」


 フェリクスは我が子や教え子を諭すような口調で話す。

 ふたりは同年代のはずだが、教師と生徒のような……いや、親子ほどの年の差と上下関係があるように見えた。


「でも、うちはイストモスのように飢えてない。ちゃんと大祭を担えますよ。名誉なことじゃないですか!」

「大祭の開催は確かに名誉なことです。しかし、神の名を奪い合うようなことは許されません。人々の心が曇れば水の浄化に影響が……」

「俺は大祭を諦める方が心が曇る!」


 ルキウスの叫びに、さすがのフェリクスも口を噤んだ。


「私からもお願いします!」


 ルキウスの隣にいた女性も立ち上がった。


「あ、あの私、ニコレといいます。ルキウスの従兄弟で、今は診療所の手伝いをしています」


 ニコレはフェリクスの隣に立つアスカニウスと目が合うと、緊張した様子でトゥニカの襟元を握りしめて自己紹介から始めた。


「ええと、その……ピュートーは今はとても豊かだし、大祭を開催することは問題ないと思います。要は私たちが、賄賂とか買収とかに手を染めなければいいんですよね?」

「そうです、俺もそう思います! そういう、困ったことが起こらないように気を付けて誘致すればいいじゃないですか!」


 ルキウスも両の拳を握って声を高くする。


 すると、最前列に座っていたひとりの男が立ち上がった。体の向きを変え、ルキウスとニコレの方を振り返る。

 口髭を生やした恰幅の良い五十代ほどの男性は、白髪の混じり始めた自分の頭をひと撫でした。


「ルキウス、ニコレ。気持ちは分かるが、フェリクス様の言うことが正しい。また賄賂だ、不正だと、ゴタゴタに巻き込まれるのはごめんだ」

「だから、そうならないように、どうにか頑張ろうって話をしてるんだよ!」

「どうにかって、どうするんだ」


 口髭の男性に続くようにルキウスたちへの反対意見が出る。


「俺も反対だ。普段の巡礼者にだって、信心の怪しい権力主義者がゴロゴロいやがる。大祭に釣られてそういうのが押し寄せるんじゃ、ザーネス様もお嫌だろうさ」

「おい、口が過ぎるぞ。勝手に神を代弁するな」

「俺はルキウスに賛成だ! 天下のクラディウス様が推してくださるんだ、こんな機会二度とない! パルナ様の神域が素晴らしい場所だって、元老院に認められたいだろ?」

「だから、そう能天気なことばかり言ってもいられないという話だろうが」

「今は自分たちのことより、イストモスへの支援じゃないの?」


 一斉に話し始めた人々の声で、劇場の中は木霊する声に埋め尽くされたように何も聴き取れなくなってしまった。


 しかし議論は止まらなかった。制止する神官たちの声も届かない。


 舞台の中央に立つフェリクスは、茫然とその光景を見ていた。小さな篝火ひとつでは表情の機微まではうかがえないが、その顔が喜んでいるようには思えない。

 アスカニウスが動こうとした時、人々の視線が舞台の奥に集まった。


「イレーネさん!」
















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