第四章 暗雲 5
「イレーネさん!」
見習い神官に支えられながらゆっくりと舞台の前方へと歩いてくるイレーネに、フェリクスが駆け寄る。
小さな体だった。
アスカニウスは今朝早くにイレーネと言葉を交わしたことを思い出す。
あの時はアスカニウスも地面に座り込んでいて分からなかったが、イレーネは老齢の小さな体で、歩幅も狭く少しずつしか前へ進めない。舞台の奥から座席の近くまで、ほんのわずかな距離を移動するにも時間がかかるのだ。
「
彼女の登場で口論はだんだんと静まり夜の静寂を取り戻す。立ち上がっていた者は座席に座り直した。
イレーネはフェリクスに向かって微笑んで見せた後、ゆっくりとアスカニウスの方へと振り返った。
「水龍様。大祭のことは、今すぐに決めなくてもよろしゅうございますか? 私がみんなの意見をじっくりと聞いておきます」
「もちろんだ。イストモスへの支援はありがたく受け取ろう。だが、どのような支援にするかは元老院に持ち帰らせて欲しい。俺はあと半月ほどでアルバ市へ戻る予定だ」
「仰せのままに」
アスカニウスが頷くとイレーネはまたゆっくりとした動作で頭を下げた。
フェリクスがその肩を労しげに支える。
「すみませんフェリクス様、出過ぎた真似を」
「とんでもない。おかげで皆がこれ以上争わずに済みました」
「争ってなどいなかったでしょう。神域の平穏と、守村の発展を願う気持ちは誰も同じ……」
イレーネは支えてくれるフェリクスの手に自分の手を重ね、優しく撫でる様にさすった。
「今日はもうお休みください。ここは私が」
フェリクスに退席を促すイレーネに、すかさずアスカニウスが言葉を重ねる。
「そうだぞ、神官殿。いい加減に寝ろ」
「……分かりました。すみません、イレーネさん。後を頼みます」
会話を聞いていた神官見習いのひとりが、松明の棒を篝火に掲げて火をつけた。フェリクスのもとへ駆け寄り先導しようとしたが、フェリクスはそれを手で制して松明を取り上げてしまう。
「ひとりで戻れますから」
神官見習いは困ったようにフェリクスを見上げていたが、イレーネに手を差し出されるとそちらを支える役目に回った。
フェリクスは座席の代表者たちに向かってひとつ大きく頭を下げ、劇場の端の通路へと去って行く。
アスカニウスは迷わずその背中を追った。
劇場の通路をのぼり切り、神域の石畳に出たところでアスカニウスはフェリクスの横に並んだ。
「ひとりで戻れます」
フェリクスは前を向いたまま固い声で言う。
「俺も戻るだけだ。俺がいたら彼らも話しづらいだろう」
アスカニウスはそう一言だけ返し、あとは暗い夜道を進むことに集中する。
夜空はよく晴れていた。満月から少し欠けた月明かりが届き、松明一本だけでも足元が見えないことはないが、特に階段は危険だ。
神域から村への階段を慎重に下りきって、アスカニウスはいつの間にか詰めていた息を吐きだす。夜目は効く方だが、夜半に傾斜地を下るのは恐ろしいものだ。
平坦になった道の両脇にはまばらに木々が生えており、生い茂る枝葉が月を隠してしまった。
フェリクスの持つ松明だけがふたりの行く手をほのかに照らしてくれる。
「神官殿も大変だな。ああやって意見がぶつかり合うのは、どこも同じだ。俺もアルバでは毎度頭を抱えている」
「ええ、よくあることです……気にしてはおりません。明日また、きちんと話をします」
フェリクスの声は分かりやすく気落ちしていた。
よくあること、というのは本音だろう。あれだけ遠慮なく言い合いのできる会議ならば、紛糾は毎回のことに違いない。
しかしフェリクスは妙に落胆している様子だ。松明を掲げ持って大股で歩き、どんどん先に進んで行ってしまう。
「あ、おい。ここは左じゃないのか?」
分かれ道でアスカニウスが慌てて呼び止める。
まばらな木々が途切れ、住居や建物が増えてくる地点で、ここを左へ曲がれば広場に繋がる。迎賓館と宿屋が連なる奥に神官舎も建っている。
「私の住まいは神官舎ではありませんので」
「そうだったのか?」
てっきりフェリクスは神官舎に住んでいるものと思い込んでいた。
独身の神官は共同生活を送るものだ。家族を持ったり、特別な誓いを立てた者は居を移すが――アスカニウスはそこまで考えてフェリクスの足元に目を落とした。相変わらず彼の両足は布で覆われている。
「なあ、神官殿、その……」
「もし良かったら、こちらへ。今日はよく晴れていますから、パルナ山が見えます」
「山が?」
返事を聞かず歩き出してしまったフェリクスを追いかけ、アスカニウスは分かれ道を右に曲がった。
夜に山が見えるはずがない。
アスカニウスは怪訝に思いながらも、フェリクスの後について行く。まばらな木々を回り込むと、突然視界が開けて明るくなった。
満月の白い光を遮るものがなくなったのだ。
月明かりは太陽ほどの熱を持たず、静かに地上を浮かび上がらせていた。
アスカニウスたちの正面には黒い平らな地面が広がっている。おそらく畑だろう。ひざ丈ほどの木の柵や、伸び始めた作物の芽がうっすらと月光を反射して、銀色の縁取りを施したようだ。
世界は銀の線と、黒い影のふたつに分けられていた。
ふたりはちょうどパルナ山の方を向いていた。
満月は山の頂点に触れようとするところで、稜線がくっきりと見て取れた。空に浮かぶ月は銀箔を散らした眩しい乳白色で、山は黒。巨大な影が聳え立つ光景は圧巻だ。星は雪を押し固めたような白銀色で、その色を筆で刷いたような雲がうっすらと棚引いている。
アスカニウスは大きな感嘆の息を漏らした。
「本当だ、見えるんだな……」
フェリクスは松明を地面に突き刺し、そのまま片膝をついて手を合わせた。
炎の赤と月光の銀に照らされながら、固く目を閉じ、パルナ山に向かって一心に祈る。
祈りは長く続いたが、アスカニウスはじっとその姿を見つめていた。
「神官殿はまるで、皇帝に忠誠を誓った兵士のようだな……いや、命の恩人に尽くすみたいに見える。これほど神々を深く思う者は、いかな神官たちの中でも稀有だろう」
ようやく顔を上げたフェリクスに、アスカニウスは思った通りの感想を伝えた。
他の人間の信心と違うように感じるのは、彼が自分たちよりずっと神と親しい場所にいるからだろうか。
フェリクスは神託で誰よりも先にザーネスの言葉を聞くという。ただ神を崇めるのではなく、寄り添い、必死に守ろうとしているようだ。
「命の恩人ですか。そうかもしれません。私は……物心つく頃には親をなくしていましたから。ピュートーという地に救われ、生かされた身です。だから水を浄化しなければならない……ザーネス様と龍神に仕え、神域を守ることが、私の生まれてきた命運なのです」
フェリクスの顔には依然憂いが残っていた。
「なあ神官殿、ひとつ頼みを聞いて欲しい」
アスカニウスは自分が何を言うのかよく分からないまま口を開いていた。
慰めようなどとは思わない。そういったことを彼が喜ぶはずもない。自分が同じ立場でも、うわべばかりの耳当たりのいい言葉を嫌がるだろう。
「湖を見てみたい」
フェリクスが顔を上げてアスカニウスを見つめる。金色の瞳は炎の色をよく映すし、彼の目の中に灯りがあるようだ。
「近くに行けないのは分かってる。湖面が少し見えるだけでもいい。俺にも聖なる水溜りを見せてくれないか」
アスカニウスは言葉にしてから、それが名案であることに気付いた。
そうだ、自分はあの極上の水が湛えられた場所をこの目で見てみたい。それを叶えてくれるのはフェリクスだけだ。
「何を突然」
「思いついたんだ。ここは他にも高い山があるんだから、湖面が見える場所もあるんじゃないか? 神官殿なら知っているだろう」
この地に誰よりも詳しいフェリクスならと念を押すと、戸惑いを残したままだが小さく頷いてくれた。
アスカニウスはフェリクスと話したいことがたくさんあった。大祭のこと、水の浄化のこと、そしてイストモスのことも。
ゆっくり話すには、ふたりきりがいいだろう。そして、神域の湖が見える場所ならば、最高だ。
「決まりだな。明日だ、案内してくれ」
夜闇の下で、フェリクスは眩しそうに目を細めた。
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