第二章 守村 1

「おお、臭いな! このニオイ久しぶりだ」


 アスカニウスは羊の糞が詰まった木桶を運びながら笑っていた。


「手慣れていらっしゃいますね」

「遠征の馬の世話は自分でしていたからな」


 フェリクスと共に村の仕事を手伝い始めて五日目。アスカニウスはすっかりピュートーの村人たちと打ち解けていた。


 今日は朝から牧草地の羊飼いの家を手伝いに来ていた。一家の主人が足を怪我してしまい、他家の者が順に手伝いに来るのだという。

 アスカニウスとフェリクスが家畜の糞尿を掃除し、干し草を運び、牧羊犬を撫でてやっていると、杖をついた一家の主人が両手を合わせて涙ながらにふたりを拝んでいた。


「ありがとうございます、フェリクス様、水龍様。なんとお礼を申し上げればいいか……」

 主人と並んで家族たちも頭を下げる。

「クラディウスの水龍様がこんなにお優しい方とは」

「水龍様、どうぞお召し上がりください」


 一家の娘が差し出した木製のカップには白茶色の液体が入っていた。

 プティサネという薄い麦粥のようなものだ。モレア州ではよく飲まれていると聞いてはいたが、アスカニウスはピュートーに来て初めて口にした。

 これが、体を動かした後に飲むと実に美味いのだ。


「いい香りだな。大麦の酒も美味いし、この土地の麦は上等だな」

 わずかにとろみのある液体を一気に飲み干して、アスカニウスは満足げな息を吐く。


 先日この地で取れた葡萄から作った葡萄酒ワインと、やはりこの地で取れた大麦から作ったキュケオンという酒を飲んだ。キュケオンはプティサネをもっと濃くして発酵させたもので、水で割って味を整え、ミントの葉を入れて飲むのだ。

 純水を好むアスカニウスがピュートーに来てからは葡萄酒や麦の飲み物の虜になっていた。もとの水が美味いし、他の素材も美味い。


 手伝いへの感謝の振る舞いを受けたふたりは、早々に牧草地を後にする。

「感謝致します、水龍様、フェリクス様」

「どうか水龍様にザーネス神と龍のご加護がありますように」

 ふたりを拝み倒す一家に見送られ、アスカニウスとフェリクスは牧草地から村へと下りて行った。坂道はところどころに木材を埋め込んで階段状にしてある。


 牧草地は村の中でも山の斜面に沿った高い場所にあり、畑の間の坂と階段を下りながらピュートーの町並みを見渡すことが出来る。左手には神域、その奥にはパルナ山。


 今日もピュートーは快晴だった。すでに初夏を感じる日差しの下、森からはひっきりなしにアオスズメのさえずりが響いている。

 アスカニウスは自然と込み上げてくる笑みを隠さず、にんまりと口角を上げる。


「水龍様と呼ばれるのは、なんだか面白いな」

「面白い、ですか?」

「ああ、新鮮だ。親しみが込められているように感じる……嬉しいものだな」


 アルバ帝国の貴族は三つの名を持つ。

 アスカニウス・クラディウス・ヴェネトゥスという仰々しい名の真ん中にあるクラディウスは氏族名、最後のヴェネトゥスは家名だ。クラディウスという貴族の一門の中にもいくつかの家があり、アスカニウスはヴェネトゥス家に属するという意味になる。


 帝都では氏族名か家名で呼ばれることが多いため、ピュートーの村人たち愛称を貰ったことが嬉しいのだ。


「我々はずっと水龍様の帰りを待っていますから。水龍の先祖返りであるクラディウス様が村にいらっしゃったことが、吉兆のように感じられるのでしょう」

「ラコウヴァが湖に戻ってこないという話か? だが、龍の時は人間よりずっと長い。五十年や六十年は、龍にとってほんの短い期間なんじゃないか」

「戦前はもっと頻繁にラコウヴァ様の姿が見られたそうです」


 そう言ってパルナ山を見上げるフェリクスの目は、どこか悲しげだ。


「火龍パルナはずっと山におられるのに、水龍ラコウヴァはずっとどこかへ行ったきり」

「ラコウヴァがいなくなったのは本当に戦争が理由なのか?」

「ええ、先の争いで逃げ延びた人々を聖水で癒した後、姿を消しました……嵐の日だったそうです。我々がラコウヴァ様はいつお帰りになるか尋ねてみても、パルナ様もザーネス様も、水の清めを命じられるばかりです。きっと清めが終わらなければラコウヴァ様は湖に帰ってきてくださらないのです」


 フェリクスは視線をパルナ山からその上の空へと彷徨わせた。

 水龍に天龍のような翼はないが、雲をたどって移動することが出来る。雲の上から地上を眺めて、気に入った場所に雨を降らせ、雨粒と共に下りてくるのだ。


「雨が降るたびに、ラコウヴァ様がお帰りになっていないか確認します。いつか必ず黒い雲と共にこの地に戻ってくるはず……その日を待ち焦がれて、しかしそのお姿を再び見ること叶わず逝ってしまったピュートーの先人たちを思えば、少しの穢れも許すことはできません」


 アスカニウスが何も返せずにいると沈黙が流れた。

 木々の葉が擦れる音とアオスズメの囀りが、足を止めたふたりを追い越して坂を下りて行く。


「ですから、大祭の開催はお断りします。水の浄化が進まなければ、皆が待ち望む水龍の帰還もない……それでは神域の守村としての役目を果たせません」


 フェリクスは物憂げな表情をやめ、アスカニウスを睨むように見上げた。


「このように尽くしていただいても、我々の心は変わりませんよ!」


 それはわざと厳めしい顔を作っているようにしか見えなかった。

 アスカニウスは笑顔のままゆるく首を振る。


「まだ五日しか経っていないぞ。人の心が変わるにはもう少しかかる。それに俺は毎日楽しんでやっているからいいんだ」


 相変わらずのアスカニウスの答えに、フェリクスは心底不満げに口元を歪める。形のいい赤い唇が不機嫌な子供のように突き出されるのがなんとも可愛らしい。

 アスカニウスはますます笑みを深めた。


「そう簡単に振り向かれては、せっかくの美人も価値が下がるというもんだ」


 フェリクスは目をすがめてわずかに首を傾げた。

 どうやら彼は自分の容姿の良さをまったく理解していないらしい。言われ慣れていないから照れているとか、返答に困っているという様子ではない。


 アスカニウスはこの五日間、大祭復古の説得と並行して、やんわりとフェリクスを口説いていた。容姿を褒め、声を褒め、知性を褒めた。

 しかしフェリクスの反応は薄いもので、特に容姿を褒めると毎回不思議そうな顔をするのだ。


「所が変われば美の基準も違うんだろうか……」

「なんの話ですか?」

「モレアの人間は君の姿を絶賛しないのか? 帝都に来てみろ、一日もかからずに街中の噂になる。とんでもなく美しい神官殿が来たぞ、って」


 地域によって美醜の好みに違いはあるだろうが、同じ帝国内でここまで話が通じないとは驚きだ。

 アスカニウスの知る限り、帝都で評判の美人が遠方の州に嫁げばその地でも評判が立つし、属州で話題の美形楽士や踊り子が帝都に来ればやはり噂になる。

 仕事柄アスカニウスは帝国内での人の動きを多く見てきた。フェリクスの美貌に誰も――村人も、アスカニウスの従者たちですら、まったく興味を示さない理由が分からない。


 特に大きな金色の瞳は格別だ。

 午後の暖かな日差しを器に満たし、蜂蜜と一緒に煮詰めたような神秘的な色をしている。舐めたら蜜のように甘いのだろうか、それとも太陽のように熱く、触れた者を焦がしてしまうだろうか。


「同じものが手に入るというなら、世界中の貴婦人が全財産を手に殺到するだろうに……」

「さっきから何をおっしゃっているんですか?」

 フェリクスは呆れた声を出すと、真剣な顔で首を捻っているアスカニウスを置いてさっさと坂道を進んでしまう。


 もうすぐ畑の斜面を下りきるという時、広場から神域へ続く石畳を、数人が慌てた様子で走ってくるのが見えた。

 その中のひとりはポンペイウスだった。

「アスカニウス様、坊ちゃまが!」

 ポンペイウスは珍しく狼狽しており、走りながら叫んだからか咳込んでしまった。


 一緒に走ってきた若い村人が言葉を引き継ぐ。彼は確か宿屋の跡取りで、ルキウスといった。

「クラディウス一門だという方がおいでです。フィレヌス家だと」

「フィレヌスというと、クラディウスの中心家族ではありませんか?」

 フェリクスの問いにアスカニウスは短く頷いて答える。


 アスカニウスのヴェネトゥス家はクラディウス一門の中ではもともと傍系のひとつだ。代々一門の長はフィレヌス家から出される決まりで、先祖返りのアスカニウスだけが例外だった。


「誰だ? 他の神域で何か問題でも起きただろうか」


 アスカニウスの実子はもうすでにこの世にはいない。孫もそろそろ高齢で、曾孫たちが働き盛りの世代だ。

 その曾孫たちの中からピュートー以外の神域の担当者を選んだ。フィレヌス家の若者ならばイストモスの担当になっていたが、彼がアスカニウスを訪ねてきたのだろうか。


「それが、随分とお若い方で……若いというか、まだ子供というか……」

「ユリアン様です! ユリアン様が、ピュートーまで来てしまったのです!」


 ポンペイウスの叫びにアスカニウスは仰天した。


「ユリアンが? どうやって!」


 聞き返しながら、足はすでに走り出していた。

 一大事だ。


「どうやっても何も、船でいらしたのでしょう!」

「そういうことを聞いてるんじゃない!」


 すぐさま追いついたポンペイウスがアスカニウスの前を走り案内を務める。

 後ろからついてくるフェリクスと、知らせに来てくれた村人たちの足音を聞きながら、アスカニウスは土と板から石畳に変わった道を駆け抜けた。










 巡礼者用の厩舎の周りには小さな人だかりができていた。アスカニウスの兵士たち、迎賓館の世話人や神官たち、村の警備兵もいる。


 その中に、大人たちに比べると二回り小さな体の人物がいた。白いトーガの縁取りが緋色なのは、未成年の貴族であることを表している。

 立派な四頭立ての馬車の横に立つその子に、アスカニウスは大慌てで駆け寄った。


「ユリアン!」

長殿おさどの!」


 アスカニウスに気付いて、少年の両脇に控えていた護衛の男ふたりが素早くアスカニウスに向かって礼を取る。


「お久しゅうございます長殿。ユリアン・クラディウス・フィレヌス、馳せ参じました」


 ユリアンはトーガの裾を左手で摘み、右手を胸の前に掲げて優雅に頭を下げた。

 貴族の子息らしい堂々とした振る舞いだが、小さな体で大人と同じ仕草をするのが不釣り合いに見える。立派な少年トーガは、着るより着られているといった風情だ。


 髪と瞳はテラコッタ色で、肌は柔らかそうな乳白色。子供らしく赤く色づいた頬にはうっすらとそばかすが散っている。

 垂れ目がちの丸い瞳は日差しが眩しいのか、何か不満なことでもあるのかやや細められていて、可愛らしい見目に反して少しばかり剣呑な雰囲気を纏っていた。


 ユリアンは十二歳になるが、年齢より幼く見られることが多い。

 決して痩せ細っているわけではなく、髪や肌の艶から十分な栄養を取れる身分にあることは一目瞭然だ。しかし、それが返って彼を幼く見せ、育ちのいい十歳くらいの子供に見間違わせる。


「いったいどうやって来たんだ?」

「帝都アルバからフマイオーロ川をくだり、ケントゥム・セラ港から海に出ました。ひと月の航海の後モレア市に入り、馬車を借りて、ここまでは五日かかりました」

「そういうことを聞いてるんじゃない」

「母の許しも得ています」

「許すだろうな……あの子はなんでも許すんだ」

 アスカニウスは頭痛を感じて、左手の人間の手でこめかみを揉む。


 ユリアンの両脇で専属護衛のふたりが冷や汗を流していた。ふたりはユリアンの母から息子の護衛にと推薦された若い戦士で、この通り小さな主人の突飛な行動にいつも振り回されているのだ。


 ユリアンはアスカニウスたちが帝都アルバを発つ時、自分も行きたいと食い下がった。さすがに船でひと月もかかる土地に子供を連れては行けないと説き伏せたはずだったが、諦めなかったらしい。

 母の許可を取っていると言ったが、この子の母親はたいそう豪快な性格で、五人の子供たちの要望をそう簡単には断らないのだ。


「クラディウス様、そちらは」


 それまで黙って事の成り行きを見守っていたフェリクスが、アスカニウスの後ろから控えめに声をかける。


「この方が、他の神域を担当していらっしゃるのですか……?」

「まさか。この子は俺の玄孫で、まだ十二歳だ。仕事を任せるには早過ぎる」

「……やしゃご」

 フェリクスは珍しく言い淀み、アスカニウスの言葉をそのまま繰り返した。


 子、孫、曾孫の次が、玄孫。アスカニウスの四代下になる。

 周りの従者や村人もついつい指を折って代数を数えた。三十台ほどにしか見えないアスカニウスの玄孫の登場は、頭で理解できても感覚的には違和感が拭えないのだろう。いつものことだった。


 アスカニウスが大きな溜息を吐いていると、ユリアンは集まっていた村人たちの前に進み出て居住まいを正す。


「僕はユリアン・クラディウス・フィレヌスだ。このたびは長殿の職務を見て学ぶために参った。僕もいずれはクラディウス一門の者として祭司業の任に当たる日が来るからな」

 ユリアンは相変わらず目を眇めたまま、ゆっくりじっくりと周囲を見渡した。

「うむ。皆の者、大儀であるな。美しい村だ。神域を守り続けてきたそなたらと、その祖先を誇りに思うがいい」


 まだ声変わりもしていない可愛らしい声で紡がれた仰々しい言葉に、全員が面食らった。

 フェリクスも驚きに口を開けているし、警備兵たちは反応に困って眉根を寄せている。ポンペイウスに至っては目を閉じて現実を見ないようにしていた。

 ユリアン本人は顎を上げて胸を張り、臣民を見下ろす皇帝のように満足げに頷いている。



 ――この展開は想定してなかった。



 アスカニウスは再びこめかみを押さえる。アオスズメの囀りだけが、何事もなかったかのように元気良く辺りに響いていた。
















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