第一章 神域 4
百二十年生きてきて初めてだった。
赤ん坊の排泄物を片付けるのは。
「おい、これでいいのか? なんかおかしくないか?」
迎賓館の列柱屋根の下で、揺籠の中の赤ん坊の肌着を着せ替えてやりながら、アスカニウスは何度も首を傾げた。
幅広の包帯のような布を赤子の腹のあたりに巻かなくてはならないのだが、どうしても股を通す時にグチャグチャになってしまう。悩んだ末に股に通すことを諦めたのだが、両足を一緒くたにして布を巻きつけたため、赤子はまるで木乃伊のようにグルグル巻きにされている。
酷い有様だ。自分の右手は細かい作業には向いていない、なんて言い訳も通用しない。隣で他の幼児を抱えているポンペイウスが言葉に詰まっている。
脚をひとまとめに巻きあげられてしまった赤子は、しばしキョトンとした顔でアスカニウスを見つめていたが、思うように体を動かせないことに気付いてグズリ出した。
それはみるみるうちに号泣に変わり、元気な泣き声が列柱屋根に木霊した。
「ふんぎゃああぁぁぁぁっんあぁぁぁぁっ」
「やっぱりダメか! 待て、待て、分かった、今はずしてやるから」
「何をやっているのですか!」
広場で子供たちの相手をしていたにフェリクスが駆けつけ、アスカニウスを叱り付けた。泣き喚く赤子の体から手早く布を取り去る。
「肌着を替えろと言うから、やってみたんだが」
「出来ないなら出来ないとおっしゃってください」
「すまない」
「そちらの方も、見ていたのなら注意してください」
「も、申し訳ない」
アスカニウスに続いてポンペイウスも反射的に頭下げる。
フェリクスは文句を言いながらも器用に赤子に肌着を当ててやった。
まず腹に二回巻き付け、股を通してもう一度腹へ、それを三度繰り返して残りを腹から胸にかけて巻いて端を念入りに折り込んで留める。
アスカニウスたちは手早い所作に感心してその手元を覗き込んでいた。
「手に包帯を巻くのと同じです」
赤子を籠に戻したフェリクスは、ふたりに向かって自分の左手を広げて見せた。
「手首を固定するために巻くと仮定します。親指と人差し指の間が股に当たり、手首が腹です。赤子の腹を冷やさないよう、この部分を一番厚くします。股に通す時に折り返すことさえ忘れなければ大丈夫です」
「なるほど、包帯に似ていると思ったが、本当に似たようなものなんだな」
「それなら私にも理解できます。包帯なら手にも足にも巻いたことがありますから」
元軍人のふたりは揃って深く頷いた。
アスカニウスは午前中、フェリクスに付いて村中を歩き回った。
紫色のトーガを早々に脱ぎ去ったフェリクスは、昨日と同じように簡素なトゥニカ一枚で村人たちと共に働き始めた。
まず小麦畑の草取りと水撒きをした。小麦農家の老婆が腰痛だと言うので、フェリクスが負ぶって神官舎近くの診療所へ連れて行き、手当てを終えるとアスカニウスが負ぶって帰った。
村で唯一の浴場に顔を出して施設の不便を聞き取り、ついでに薪割りを手伝う。当然、アスカニウスも斧を振るった。
その隣の家の妊婦の体調を伺い、そのまた隣の家の病人を見舞う。老人の話し相手になり、荷運びを手伝う……という調子で、あっという間に太陽神ポイボスが南の頂点まで車を進めていた。
「本当に隅々まで歩き尽くしたな」
「何をおっしゃいますか。まだ牧草地や葡萄畑、警備兵の詰め所も見れていませんよ」
「思っていたより広いな」
簡単な昼食をとったあとは、子供たちの相手だ。
神官たちは村の広場や迎賓館の周りを使って、村の小さな子供たちを預かり、読み書き計算を教えている。
アスカニウスは引き続き手伝いをしているが、まだ荷物を運んだり薪を割ったりしている方がずっと楽だった。
迎賓館の周りで暇をつぶしていた兵士たちも、主人がやるなら自分たちもと名乗り出たはいいが、揃いも揃って役立たずの汚名を着せられている。子供たちと駆け回って遊ぶ役を勝ち取った者だけは神官たちに感謝されていた。
「フェリクス様、まだぁ?」
「今日はご本読まないの?」
勉強用の蝋板を抱えた子供たちがフェリクスを取り戻しにやってきた。
フェリクスは勉強熱心な教え子たちの頭を撫でてやってからアスカニウスの方を振り返る。
「その子を見ていてください。たまに籠を揺らして」
「たまに?」
アスカニウスは真剣な表情で問い返した。
綺麗に肌着を巻きなおしてもらった乳児は、まん丸の黒い瞳を瞬かせて大人たちを見つめている。彼女――女の子だった――がすっぽり納まった籠は木の皮で編まれた楕円形で、少し触れるだけでゆらゆらと揺れるのだ。
たまに、とは具体的にどのくらいの頻度だろう。細かいことにこだわる正確ではないのだが、なにぶん赤子の相手などしたことがない。
「間隔はどのくらいだ? 一度揺らしたら止まるまで待った方がいいか?」
フェリクスは冷たい目でアスカニウスを睨みつける。声も一段と低くなった。
「失礼ですが、クラディウス様には御子がいらしたのでは?」
「いたぞ。いたのだがな……」
百二十歳のアスカニウスは、妻との間に五人の子を設けた。孫も、曾孫もいる。なんなら玄孫もいるのだ。
押し黙るアスカニウスに、すかさずポンペイウスが助け舟を出す。
「帝都の貴族はご自身で赤子の世話はなされませぬ」
「左様ですか。では良い機会です。この子をよく見て、この子が心地良いように籠を揺らしてあげてください」
フェリクスはそう言いおき、子供たちの輪に入っていった。
アスカニウスとポンペイウスは顔を見合わせ、赤子の入った籠をおそるおそる揺らしてみる。激しく揺すってはいけないことだけは分かっていた。慎重に、ほんの少しだけ傾いて、同じだけ戻ってと繰り返す籠の中で、赤子は小さな口をいっぱいに開けてあくびをした。
「おお、揺らすと寝るのか」
「赤ん坊ですから」
「なんだ、知ったような口を聞いて。お前も赤ん坊のことなんかよく知らないだろう」
「……恥ずかしながら、その通りにございます」
今度はポンペイウスが黙る番だった。貴族ではないが長く軍に身を置いてきたポンペイウスも、子育ては家族に任せきりだったのだから。
この村に限らず、両親はもちろん隣近所で子の面倒を見るのは当たり前のことだ。帝国中の人間の数からすれば、アスカニウスやポンペイウスの方が少数派になる。
「では、今日はたくさんの巡礼者がいらっしゃいますので、ピュートー村の成り立ちについて話をしましょう」
フェリクスは子供たちの中でも比較的年齢の高い子を集めて、書物の解説を始めた。
歴史や哲学、自然科学などの基礎を教わることで子供たちは教養と倫理を身につけ、それは自然と仕事に生かされる。帝都アルバの街の子供たちと同じだ。
「この大地がザーネス神によって造られたあと、モレアの地で起こったことを見ていきます」
――綺麗な声だ。
アスカニウスは小さな寝息を立て始めた赤子を横目で見ながら、フェリクスの声に耳を傾ける。しっとりとしてよく通る、甲高いわけではないが男臭いほど低くもない、容姿にぴったりの美声だ。
午後の明るい日差しが列柱の影を濃くし、白い床に反射したほのかな明かりがフェリクスの顔の右側を照らしていた。彼と柱の向こうには村の広場があり、家々の屋根の奥にはなだらかな緑の起伏――畑や牧草地が広がっている。
「全知全能の神ザーネスが最初に造ったものはなんでしょうか?」
フェリクスが問いかけると、床やベンチに思い思いに座り込む子供たちが一斉に手を上げた。アスカニウスはその光景に笑いを噛み殺す。
さすがに簡単過ぎる。
授業を見守る兵士たちもアスカニウスと同じように笑顔を浮かべている。
フェリクスに指名された男の子が元気に答えた。
「空と太陽、大地と海のよっつです!」
それぞれザーネス神の子供たちだ。空の神、太陽の神、大地の神、海の神としてザーネス神と共に地上の人々を見守っている。世界が安定する四という数字が重んじられるようになった最初の逸話でもあった。
「正解です。ザーネス神は四人の子供たちにそれぞれ、世界に住まうものを生むよう命じました」
アスカニウスが指先で傍らの籠を突いて顔を上げると、フェリクスと目が合った。フェリクスは子供たちに向けていた優しげな笑みのままで、アスカニウスは思わずドキリと胸が躍ってしまう。
綺麗な卵型の輪郭の中で血色の良い唇が弧を描いている。
「巡礼者の代表に答えていただきましょう。神の四人の子が産んだものとは?」
子供たちが一斉に振り返ってアスカニウスを見つめた。大半が不満げな顔をしている。自分も正解を答えられるのに、回答権を奪われて悔しいようだ。
「それは龍だ。天龍、火龍、土龍、水龍の四種。一番多いのは土龍で、一番少ないのは天龍だと言われている」
「では、龍が産んだものは?」
フェリクスはまたもアスカニウスに問いかける。
子供たちの嫉妬の眼差しを一身に受けながら、アスカニウスはひとつ咳払いしてから答える。
「龍が産んだのは人間だ。龍は守護たる巨体の姿から、神に似た姿に変わることもできた。その神に近い姿を模して生み出されたのが我々人間である……こんなところでいいか?」
アスカニウスはフェリクスに向かって両手を上げ、これ以上は勘弁してくれと言外に示す。
アスカニウスを困らせて満足したのか、フェリクスは浅く頷いて子供たちに向き直った。
「ピュートーは火の山の麓です。火龍がお造りになったパルナ山とその周辺の山々は暖かく、冬でも雪が積もらず木々が青々と繁っています。ザーネス神はこの山をとても気に入られ、神託を授ける土地に選ばれました。我が村があるのも全て火龍のおかげなのです」
アスカニウスはじめ、一緒に手伝いをしていた従者たちも皆フェリクスの説明にうんうんと頷いている。
「では、ピュートー以外の神域を知っている人はいますか?」
「はい!」
「はいっはい!」
また勢いよく子供たちの手が上がった。指名された女の子は立ち上がって元気に声を張り上げる。
「水のイストモス、土のネメア、天のエリス、そして火のピュートーのよっつです! えっと、ここから一番近いのはイストモスで、水龍の神域です」
「では、神域パルナ山の湖はなんと呼ばれていますか?」
「ラコウヴァ!」
「正解です」
ラコウヴァとは『水溜り』という意味だ。そして、ピュートーにゆかりのある水龍の名でもある。
「水が大好きなその龍――水龍ラコウヴァは、少しでも窪みを見つけると水を入れずにはいられない、あちこちに水溜りを作る悪戯好きでした。ラコウヴァは火龍パルナがつくった山に窪みを見つけ、大喜びで水を入れて湖をつくったのです。火龍パルナは怒ってラコウヴァを追い払ましたが、その巨大な水溜りこそが神域の湖としてこの地に残っていて、水龍ラコウヴァはたびたび湖に帰ってくるのです」
子供たちは見えない水龍の姿を探すかのように、フェリクスの向こうに見える空を見上げた。建物と木々の向こうにパルナ山の頂が覗いている。
「しかし、まだ水龍は帰ってきてくれません。それはどうしてでしょうか?」
また一斉に伸ばされる小さな手に、アスカニウスはフェリクスの思惑を理解した。
指名してくれと必死に主張する無邪気な声が耳に痛い。アスカニウスの隣でポンペイウスが赤子の籠をそっと揺すった。
フェリクスは生徒の中でも体の大きな年長の少年を指した。
「戦争で水が穢れたからです。水を浄化するため、ぼくたちは毎日神域に祈りを捧げています。神域に祈る人々の心が穏やかであれば、時間をかけて水は清らかになっていきます」
「その通りです。湖の水が清らかになると、ラコウヴァ様が喜んで帰ってくるのです。皆さんは水龍に会いたいですか?」
「会いたい!」
「水龍様見てみたい!」
キャッキャと盛り上がる子供たちの頭越しに、フェリクスはアスカニウスをまっすぐに見つめて満面の笑みを浮かべる。
「本日の講義はここまでにしましょう」
――これは手強い相手だ。
アスカニウスは再び両手を上げて降参の意を表明した。
その後、勉強から解放された子供たちはアスカニウスの龍の手に群がった。
アスカニウスがフェリクスに大祭復古の理念を説くことはできないまま、太陽神ポイボスは西の空へと姿を消してしまった。
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