第一章 神域 3


 久しぶりの軽やかな目覚めだった。


 ポンペイウスが起こしに来るよりも前に目覚め、まだ薄暗い部屋の中から窓の外の景色を眺めるほどの余裕がある。

 このところの体調不良などなかったように体が軽かった。


 迎賓館の最も豪華な寝室は、西側の窓から神域の山々を臨むことが出来る。

 かすかに白み始めた空の下、龍神の住まう火の山は昨日と変わらずそこに聳えている。山頂は木々も生えないほど高く、かつて火を噴いた口があるそうだ。中腹からは豊かな森が広がり、聖水をたたえる湖を守るようにアスカニウスの目から隠していた。


「もう起きていらっしゃったのですね」

 ポンペイウスが世話人の少年と中年女性を従えて入室し、アスカニウスの着替えが始まった。

 少年の方は紫の縁取りのトーガを纏っていて、神官の見習いであることが分かる。

「失礼致します」

 少年が恭しく衣装を掲げ持ち、アスカニウスの足元に跪いた。女性がその衣装を持ち上げて広げ、布の端をアスカニウスの肩に着せ掛ける。


 トーガは貴人や神官の正装だ。長い布を体に巻き付けていくつものひだを作り、帯を締めて固定する。貴族はその身分を表す緋色のトーガを着ずに人前に出ることはない。

 昨日は騎馬での旅の後だったので、トゥニカにマントという略装だったが、今日からはまた長い布に巻かれる日々が始まる。

 軍役が長く、動きやすい服装で過ごすことの多かったアスカニウスは、毎日トーガを着ることが好きではなかった。


 女性が緋色の布の襞を整えながら、アスカニウスの顔色を窺う。

「フェリクス様は、本当に村のことを考えてくださっているのです。どうかご容赦ください」

「案ずるな」


 昨夜から世話人たちは口々にフェリクスを庇った。

 貴族の怒りに触れて罰せられないかと怯えているようだが、アスカニウスにそんなつもりはない。


「お咎めはないのですか?」

 少年が縋るような目で見上げてくる。


 苦笑するアスカニウスに、すかさずポンペイウスが助け舟を出した。

「アスカニウス様は、あのくらいのことで人を罰したりはしない。安心なさい」

「神官殿は慕われているな。まだ若いのに村の代表者なのか?」

 ふたりの様子に世話人たちはが安堵の息を漏らす。

「はい。長老もおりますが、お年なので普段はそう出歩けません。フェリクス様が代わって諸事を見てくださっているんです」

「本当になんでも面倒を見てくれて、フェリクス様がいなくては村はなり立ちませんよ」

 女性も少年も誇らしげに微笑みながら答えた。


 長老というのは神殿で一番高齢の神官のことだ。神殿を置く土地では長老と言えば神官で、もっと小さな集落になると文字通り村の最年長者の意味になる。


 アスカニウスは瞼に焼き付けておいたフェリクスの姿を思い浮かべて、ついニヤニヤと口元を歪めてしまった。

 美しく聡明で、権力にも臆せず村を守ろうとする、人々に慕われる献身的な神官。

 フェリクスのことがすっかり気に入ったのだ。


「その神官殿は、今はどこに?」

「今ならザーネス神殿に。もうすぐ朝のお祈りが終わる時間です」


 神殿では日の出と共に祈りはじめる。

 西のアルバでも、日の出と日の入りに神殿に集まるのは同じだ。細かな作法が違うと聞くが、それも尋ねれば教えてくれるだろう。


「ポンペイウス、ちょっと神殿に顔を出してくる。朝食は別にしてくれ」

「畏まりました」


 短い言葉からアスカニウスの意を汲んで、ポンペイウスは目礼して部屋から出て行った。

 アスカニウスは旅先では従者や兵士と食事をとることも多いが、今日は席を分けることにした。のどかな旅路だったとはいえ、ひと月も移動してきたのだ。一日くらい主人から離れて休息を取ってもらうのもいいだろう。


「神殿は村の奥だったな」

 アスカニウスは少年が帯を締め終えるのと同時に歩き出していた。

 迎賓館の廊下はまだ誰もいない。昨日演説した列柱屋根の前の広場も無人だった。


 ピュートー村は山々に囲まれた窪地に築かれている。

 中心の平らな場所に民家や商店、浴場や迎賓館などが置かれ、葡萄や小麦の畑は斜面にあり、牧草地はさらにその上。

 神殿のある神域は、村の北側の坂の上にある。


「ご案内致しましょうか」

「いや、だいたい分かるから大丈夫だ。この先の坂の上だろう?」

 アスカニウスはふたりが頷くのを見て小走りに広場へと駆け出した。

「あ! でも今の時間はまだ」

 少年の声は耳に入らなかった。


 夜明けのひんやりとした空気が心地よい。それに目指す道の先からは、あの甘い水の匂いが漂ってくる。

 アスカニウスは匂いに誘われるように守村の路地を進んで行った。





 *






 昇りきった朝日に照らされ、白亜の神殿群が輝いている。


 半円を描く神殿群の中心にあるのは、創造神のためのザーネス神殿だ。

 神聖の象徴とされる四本の柱が四列ある列柱屋根の奥に、祭壇の置かれた心室と呼ばれる天井の高い部屋がある。心室に入ることはできないが、祈りの時間は扉が開かれ、参列者も祭壇を見ることができる。


 ザーネス神殿の両脇には一回り小さな神殿が左右ふたつずつあり、それぞれ天龍、火龍、水龍、土龍を祀っている。

 ピュートーの地は火龍パルナの加護の下にあるため、火龍の神殿はザーネス神殿に匹敵するほどの豪華な彫刻が施され、多くの供物が捧げられていた。


 日の出の祈りを終えて村へと戻ろうとしたフェリクスは、神域の入口でアスカニウスを見つけて眉を顰める。

「どうしてまた捕まっているのですか……」


 アスカニウスがふたりの警備兵に挟まれて、槍を突き付けられていたのだ。


「フェリクス様! この男が神域への侵入を試みたため拘束しました!」

「違う、誤解だ! 祈りが終わるまでは入ってはダメだと言うから、遠くから眺めていただけなんだ」

「境を踏み越えただろう!」

「だから、境目がよく分からなかっただけだ! むしろなんでお前たちは区切りが分かるんだ?」

 アスカニウスは槍の切っ先に触れないように、目線だけで足元を見た。


 坂から続く踏み固められた土の道が、途中から石の階段になり、石畳になったあとは三又に道が分かれる。一本は右の野外劇場へ、一本は奥の円形闘技場へ、左へ曲がるもう一本が神殿群へと伸びている。

 アスカニウスは三又に差しかかる手前で警備兵に止められた。日の出と共にはじまった祈りが終わるまで神域に入ることは許されないと言われ、おとなしく足を止めたのだ。


 その場所からは、神殿前の広場に集まっている人々の姿が小さく見えた。

 アスカニウスはせめて祈りの様子を眺めようと、石畳を左に逸れて草地を数歩だけ進んだ。道の奥へ入ろうとしたわけではなかったのだが、神域の境目とやらを踏み越えてしまったらしい。

 血相を変えて飛びかかって来た警備兵に槍を突き付けられ、今に至る。


「まったく……」

 フェリクスはわざとらしく溜息を吐いて見せる。

「放してやりなさい。この方が、帝都からいらした先祖返りの水龍様ですよ」


「えっ!」

「クラディウス一門の長だという……!」


 警備兵たちが目を丸くし、トーガの襞の下に隠れていた右手に視線が注がれた。アスカニウスはそれをゆっくりと掲げて見せる。

 龍の手を見た警備兵たちは驚いて一歩身を引き、突き付けていた槍を下ろした。


「職務を遂行したあなたたちに罪はありません。クラディウス様は私がお送りするので、そのまま警備を続けてください」


 警備兵たちが跪くより先に、フェリクスが間に入ってアスカニウスの背を押した。兵士たちは緊張した面持ちで頷き、持ち場へ戻って行く。

 フェリクスに促され、アスカニウスは来た道を引き返して村への坂を下りることになった。


「すまん、騒ぎを起こすつもりはなかったんだが」

「よくあることですので、お気になさらず」

 こちらに顔も向けずにフェリクスは冷たく言い放つ。


 昨日は見られなかったフェリクスのトーガ姿は優美だった。

 紫色のトーガを纏ったフェリクスの姿をしっかりと視界に収めながら、アスカニウスは石畳に慎重に足を置く。自然の斜面に作られた階段は高さも幅もまちまちで、うっかり踏み外すと坂の下まで転がってしまうだろう。


「神殿に御用でしたか?」

「俺も祈りに参加しようと思ったんだが、遅刻したみたいだな」

「参列なさるなら明日はもっと早く起きてください。日の出前にいらっしゃれば、どなたでも歓迎します」


 口調はちっとも歓迎している様子はないが、どうやら締め出されはしないらしい。

 生真面目で規律正しいのだろう。彼にとって都合の悪い存在であるアスカニウスにも、来るなとは言わないのだ。


「なあ神官殿。考えてみたんだが、神官殿の仕事を手伝わせてもらえないか?」

「……はあ?」

 フェリクスは怪訝な顔を隠しもせずにアスカニウスを見上げる。

「何について、どう考えた結果ですか?」

「ピュートーの守村の現状を正しく理解し、大祭開催に必要なことを知るため、村一番の賢人と名高い神官殿に付いて回ろうと考えた結果だ」


 アスカニウスが即座に切り返すとフェリクスの表情は不思議そうなものに変わった。

 意外と感情が顔に出るようだ。


「ひと月の滞在の間は、自由に過ごしていいと言ってくれたじゃないか」

「本当に泥仕事を手伝わせますよ?」

「なんでもやるぞ。荷運びでも、畑仕事でも。出来ないことは、そうだな……この手だからな、楽器や料理は大の苦手だ」


 龍の手をひらひらと振っておどけて見せると、フェリクスが今度は眉を寄せて不機嫌を露わにした。

 大きな目が眇められたり、吊り上がったりするのをもっと見たくなる。


「大祭の話はお断りしたはずです」

「それはまた、おいおい話す。まずは村の様子を知りたいんだ。それに、神官殿自身にも興味がある」


 フェリクスは酷く驚いた顔でアスカニウスを見返した。

 金色の瞳が大きく見開かれたので、アスカニウスはさらに機嫌が良くなる。


「分かりました……では遠慮なく、お手伝いをお願いしましょう」

 最後にフェリクスは、慈愛に満ちた女神像のような微笑を見せてくれた。
















  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る