第一章 神域 2

「謝罪は致しません。我々に一切の落ち度はありませんので」


 フェリクスと名乗った、若く美しい神官は変化にとぼしい涼しい顔でそう言った。


 フェリクス――『幸福な者』を意味するそれは、帝国に生まれる男児につけられる極めて一般的な名のひとつだ。男の子を十人集めれば、中に二人はフェリクスくんがいるだろう。


「もちろん、謝るのはこっちの方だ。うちの先触れが無様だったせいで迷惑をかけた」


 アスカニウスはなるべく寛大に聞こえるよう意識して答えながら、跪いて足を洗ってくれるフェリクスの、形のいい後頭部と艶やかな黒髪を堪能していた。


 神官の覆い布のせいで、髪の結び目から下が隠されているのが残念だ。髪を結っても首筋を見せないのは、天界で神に仕える者の衣装を模しているからだと言われている。

 白い石造りの迎賓館の床に、フェリクスの赤い肌と黒い髪がくっきりと映えて美しい。


 案内された木のベンチは古いがきちんと手入れされており、アスカニウスの大きな体もしっかりと支えてくれる。同じように足を洗う従者たちも居心地良さそうに寛いでいた。

 守村の迎賓館は話に聞いていたよりずっと立派で、入り口の列柱とレリーフの屋根の下はいくつものベンチが置かれている。

 巡礼者たちは皆ここで汚れを落とすのだ。


「奥にいらっしゃるのが水龍様だよ」

「先祖返りってホントにいるんだね!」

「帝都の大貴族が、なんだってこんな遠くまで……」


 迎賓館は見物人たちに囲まれていた。

 アスカニウスは聞こえて来た声にチラと目線をやったが、すぐ自分の足元に目を戻す。


 フェリクスが床に置いた木桶の上で布巾を絞ると、肩の半ばから剥き出しの腕に筋肉と血管が浮き上がった。片膝を立てているせいでトゥニカの裾からは贅肉の少ないしなやかな太ももが覗いている。

 フェリクスが下を向いているのをいいことに、アスカニウスはその脚線美をじっくりと眺めることができた。


 武人のような盛り上がった筋骨ではないが、スラリとした若々しい男の肢体はアスカニウスの目にひどく官能的に映った。

 サンダルを履いた足に泥除けの布が巻かれているのが残念でならない。麻布に包まれた足は、体格からすると随分大きいようだ。

 素っ気ない態度に反して、細長い指先が優しく脛を拭ってくれる。


 誤解は解けた。


 アスカニウスが先触れを出したのは半島の玄関口、州都モレアの街からだ。

 一行に先んじること三日、早馬を与えられた男はこの村にいち早く到着し、アスカニウスの来訪の目的を伝える役――のはずだった。


 男は道中で何者かに襲われ、鎧や馬、路銀はおろか下着まで全て奪い取られて森の奥に捨てられてしまったのだ。

 二日ほど森をさまよった男は昨夜遅くピュートー村に辿り着き、龍の彫像が守る水盆を見つけてフラフラと近付き、神域の警備兵たちに捕まったのだった。


「野党に襲われたのならそう言えば良いのです。失態を隠し、自分は貴族の使いだ、大役を仰せつかったのだから丁重にもてなして然るべきと……泥まみれの裸の男の言葉を信じる者はおりません」

「……面目ない」


 足を清め終えたフェリクスは立ち上がり、他の神官が運んで来た盆から硝子の杯を受け取ってアスカニウスに差し出した。

 丸い器に脚をつけただけの簡素な細工だが、均一な厚さと濁りのないその姿はひと目で名工の品と分かる。


「御所望の水をどうぞ。巡礼者には泉の聖水が与えられます」

「あの龍の彫像の泉か!」


 杯にはなみなみと水が注がれていた。透明度の高い硝子の器に光が差し込み水面はキラキラと輝いている。

 硝子も見事だが、水がこの上なく清らかだ。


「いいえ、あれはただの溜池です。貴方たちのような水泥棒に対する目くらましのために作りました。あんな坂の上に泉が湧いていたら、不自然でしょう」


 はしゃぐアスカニウスにフェリクスは冷たく言い放った。

 神域は村の奥にあり、聖水の泉も神殿の近くにあるという。


「だから泥棒じゃないと……」


 憮然と杯に口をつけたアスカニウスは、すぐに機嫌を取り戻すことになる。


「美味い‼」


 喉の奥を滑り落ちていくひんやりとした感覚が、気付かぬうちに旅の疲れで凝り固まっていた肩の力を取り去っていく。

 アスカニウスは何日も水を飲めなかった者のように夢中になって杯を空けた。


 水龍の先祖返りであるアスカニウスは水にうるさい。職務で訪れた土地ごとの美味い水を飲むのが生き甲斐だった。

 その中でも一番美味いと断言できる。


 百二十年も生きてきて、こんなに美味い水を飲んだのは初めてだった。


「美味過ぎる!」

「当然です」


 空の杯を受け取ったフェリクスは勝ち誇ったような笑みを浮かべた。


「火龍パルナ様の造った山に、水龍ラコウヴァ様が造った湖。聖水の泉は、湖の水がそのまま湧き出しているんですから」



 ――ようやく笑った。



 アスカニウスは水の美味しさの余韻を味わいながらフェリクスを見つめた。


 親に手柄を褒められた子供のように。仕上げた作品を初めて師匠に認められた職人のように。誇らしげな自信にあふれた無邪気な笑顔でフェリクスは続ける。


「この守村は神域ピュートーをずっと守ってきたんです。我々は日々、水を清らかにするための努力を怠りません」


 神域ピュートーの歴史は古い。

 今の帝都が興るよりもずっと以前、それこそ龍が人間を最初に作った時代まで遡ると言われている。


「俺はその神域でしたいことがあって遥々やって来たんだが」

「神域で?」


 アスカニウスはベンチから立ち上がると、列柱屋根の周りを取り囲む村人たちの前までゆっくりと進み出る。


 玄関には階段があり、地面より数段高くなっている。

 そこに大柄なアスカニウスが立つと、村人たちは彼を見上げることになった。


「皆の者、聞いてくれ。俺の名はアスカニウス・クラディウス・ヴェネトゥス。アルバ元老院から祭司業の任を仰せつかっている」


 アスカニウスは人々に向かって一度大きく両手を広げた。緋色のマントが体の動きに合わせて揺れる。


「帝都アルバ市からひと月の船旅を経て、東のモレアまでやって来た。モレアは始まりの地であり、いくつもの神域を守り続けている――天龍が治める山脈のエリス、肥沃な大地が広がり土龍に愛されるネメア、海に挟まれた水龍の故郷イストモス。そして、火龍が造ったパルナ山の麓、ここピュートーだ」


 迎賓館を背に広場の皆に語りかけると、自然とピュートー村の景色が目に入る。


 村人の家々もしっかりとした造りだ。木造と石造りが混在しているが、土地の起伏に逆らわず自然な道が整備され、中には都市と同じような二階建ての集合住宅もある。

 人々は健康そうで、質素ながら充実した日々を送っているのが伝わってきた。


「これら四つの神域のどこかで、ザーネス大祭を復古する。俺はそのためにモレアまで足を運んだのだ」


 アスカニウスの言葉を聞いた人々は騒めいた。


 ザーネス大祭とは、五年に一度開かれる創造神ザーネスへの奉納祭である。

 季節は秋と決められたその祭は、世界中から巡礼者が集まり、ありとあらゆるものが奉納される。

 収穫物はもちろん、動物の生贄や絵画、踊りや弁論、競技や模擬戦闘まで。彫刻家であれば五年かけて神像を造り、楽士であれば奉納演奏の代表奏者に選ばれることは末代まで伝えられる名誉となる。


 さらに大祭の前後三ヶ月間は争いが禁じられ、巡礼者がひとりでもいる土地は全て休戦協定を結ぶという決まりがある。

 これを破れば神の名に背くことと同義であり、かつて休戦期間に軍を侵攻させた国は王族が死に絶えたという記録も残っている。


「ザーネス大祭は帝都アルバ市で五年に一度盛大に開催されている。しかし、この大祭の興りはここモレアの地だ。アルバの源は、モレアにある」


 おおっ、と人々の口から感嘆が漏れた。


 モレアの誇りは、全てのはじまりの地であることだ。

 神が龍を造ったのも、龍が人間を造ったのも、そこから生まれた全てのモノゴトのはじまりはモレアにある。


 西の地より勢力を伸ばしたアルバ帝国の支配下となって二千年を経てもなお、モレアの人々は自分たちこそがはじまりの地を守っているのだと自負し続けている。


「古のザーネス大祭を再びモレアの地で行うのだ。その開催地は、四つの神域のどこにするべきだろうか?」


 アスカニウスに問いかけに人々は目を輝かせる。


 ザーネス大祭は特定の地で開かれると決められていたわけではなかった。古代においても神域同士の勢力争いがあり、より荘厳な祭りを行える財のある土地が開催権を持ったのだ。

 アルバ市に開催権が移る前は約二百年の間イストモスで大祭が行われていたが、その前はここモレアで、さらにその前はエリスで……という具合だ。


「そう簡単には決め兼ねる。どの神域も由緒正しく、それぞれ偉大な龍神を祀っており、甲乙つけがたい。ゆっくりと考えなければならない」


 アスカニウスは期待に満ちた民衆に向かって頷いて見せる。


 人々は興奮と戸惑いの間で揺れた。かつて大祭の開催権を勝ち取ったアルバ市の貴族が、大祭を返上するなど想像したこともない。

 大祭の開催はこの上なく名誉なこと。

 一度開催権を手にした土地は、なかなか手放そうなどと思わないものだ。


「ザーネス大祭の開催地は帝国の伝統に則り、投票で決定することとする」


 伝統的にアルバ帝国は、投票による意思決定を重んじている。

 皆で話し合い、多くの賛同を得た意見に全員が従うことが何よりの美徳だった。


「およそ三ヶ月後に元老院で最終投票が行われる。俺はここ、ピュートーを強く推薦するためにはるばる海を渡って来た。他の神域にもクラディウス一門の若者がそれぞれ推薦人として赴いている。俺は若い者に負けぬよう、ピュートーの歴史と誇りを余すことなく学び取り、帝都へ持ち帰ると誓おう!」


「お断りします」


 アスカニウスの熱弁と人々の興奮は、その一声で一瞬にして静まり返った。


 背後から放たれた予想外の言葉に面食らい、アスカニウスはしばし目を瞬かせて群衆を眺める。

 声の出所が背後だと気付き振り返ると、眉間に深い皺を刻んだフェリクスがこちらを睨みつけていた。


「今のは、神官殿か?」

「そんな恩着せがましい大祭など要りません。ピュートーは候補から外してください」


 空の杯を乗せた盆を手にフェリクスはアスカニウスの脇を通り過ぎて階段を降りていく。アスカニウスが慌てて追うと、取り囲んでいた人々が割れて道を作った。


「恩着せがましいと思われたなら悪かった。そんなつもりはないんだ。俺の考えをもう少し詳しく話そう」

「あなたにどんな崇高な理念があっても、我々には関係のないこと。帝都で手垢まみれになった娯楽以下の大祭など要らないと言っているのです」

「ちょ、ちょっと待て!」


 振り向きもせず広場を横切っていくフェリクスに追いつき、アスカニウスは彼の肩を掴んで立ち止まらせることに成功した。

 その拍子に盆の上の杯がぐらつき、フェリクスは盆に乗せておくことを諦めて片手で杯を握った。木の盆はわきに抱え、勢いよくアスカニウスを振り返る。


「千五百年前、当時イストモスが二百年持ち続けていた開催権を、守村を殲滅してまで持ち去ったのはアルバです。傲慢に過ぎると思わないのですか?」

「確かに君の言う通り、かつてアルバは力ずくで大祭を奪った。でも俺たちは千五百年前の人間ではない」


 村人たちは険悪な様子の二人を取り囲むようにして見守っている。


「開催権が要らなくなったのなら、返上を宣言すればいいだけのこと。欲しがる都市がすぐに名乗り出るでしょう。それを、次はどこに開催権を与えるかをアルバ元老院が決めるのですか? 一体、なんの権限があって?」

「要らなくなったというのは、違う。開催する場所を、帝国の中でも別の場所に移そうと話し合った結果だ。そのあたりを詳しく聞いて欲しいんだが」

「水が穢れます」


 フェリクスの顔から、先ほどの無邪気で誇らしげな笑顔はすっかり消えていた。


「どういうことだ?」


 アスカニウスは首を捻る。

 ピュートーが神域の湖を大切にしていることは重々承知だ。だが、祭りで水を清めることはあっても、穢れることなどない。


「我が村は火龍パルナ様の神域を守っています。パルナ山には水龍ラコウヴァ様の造った湖があり、その聖なる水から穢れを取り払うことも、神域の守村としての大切な勤めなのです」

「そうだろうな」

「水が穢れる原因は、我々人間の心にあります。人々の心が荒み、憎悪にあふれ、互いを嫌悪しあうことで水は清らかさを失うのです。そういえば、クラディウス様は先の東方紛争で司令官の任にあったと聞きました」

「ああ……もう六十年も前だが」


 フェリクスが口にしたのは、帝国領土の東半分を巻き込んだ争いのことだ。

 村の長老がようやく記憶に留めているような昔の戦争の話だが、確かにアスカニウスは帝国軍司令官として最前線にいた。


「家を失い、家族を失い、己の手足も失った人々が神域に助けを求めて来ました。その時の悲しみはまだ清められていないのです。新たな穢れを持ち込まれるわけにはいきません」

「待ってくれ。それと、大祭となんの関係がある?」

「人々が平穏な心で過ごすことこそが、水の清めになります。今の大祭は、かつてモレアで執り行われていた神への奉納の儀とは全く違うものになっているでしょう。もしこの村で大祭が開催されたとして、参加する人々の誰もが、ご自分のためだけに妙に煌びやかで大き過ぎる神殿を寄進したり、競技を賭けの対象にしたり、巡礼者に物品を売りつけたりしないと、どうして保障できるのですか?」


 アスカニウスは言葉に詰まった。

 フェリクスの指摘の通り、現在のアルバ市でのザーネス大祭は、見栄の張り合いと賭博と商売であふれている。


「それを見て、ピュートーの者たちは穏やかな心でザーネス神に感謝の祈りを捧げられるでしょうか? 神域を守り、水を清めるという我々の勤めに差し障りのある大祭など、お断りします」


 フェリクスの声は頑なだった。

 硝子の杯を握る手がかすかに震え、胸の前で盾にするように盆を抱えている。



 ――何かに怯えているようだな。



 アスカニウスはゆるく首を振った。


「分かった、今日のところは引こう。俺はここにひと月ほど滞在する予定だから、後でゆっくり話をしよう」

「話すことなどありません。滞在は御自由に。神域は巡礼者を拒みません」


 フェリクスは突き放すように言うと、心配そうに見つめる村人たちの間を小走りに去って行った。人々もそれに続くように広場から離れて行く。


「アスカニウス様……」


 いつの間にかそばにいたポンペイウスが控えめに声をかける。主人の演説が無残な結果となり、ポンペイウスも心を痛めているようだ。


「いかが致しましょうか」

「なに、まだ初日だ。明日からまた仕切り直しとしよう」


 アスカニウスは顔を上げた。

 周囲の山々の中でも一際高い尾根、その頂点が神域の中心であるパルナ山だ。今も火龍パルナが棲んでいる。

 空は相変わらず、火龍と天龍が機嫌を良くする好天のままだ。


 アスカニウスは頬を緩めた。

 ますます、ここで大祭を開催したいという思いを深めたのだった。















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