第一章 神域 1



 ――水の匂いだ。


 馬上のアスカニウスは、濃い緑の香りとともに漂ってくる澄んだ水の匂いを深く吸い込んだ。

 心地よい春の風が、アスカニウスの青みがかった銀髪を靡かせる。


 かつて彼は帝国軍の最高司令官も務めたが、三年前に軍人を引退した。

 それから伸ばした髪はそろそろ背中の中ほどまで届く。鍛え上げられた体躯は変わらず、貴族だけに許される緋色のマントを翻す姿は現役時代と遜色がなかった。


 しかし、今の任務は戦いではない。

 軍人としてではなく、クラディウス一門が代々務めてきた祭司業として。

 平和で未来ある仕事のために神域を目指しているのだ。


 もうすぐ真上に昇ろうとする太陽の光を、豊かに枝を伸ばす木々がほどよく遮ってくれる。


 そのうららかな木漏れ日に、ふと影が出来た。

 列の中ほどにいた若い兵士が葉の隙間から見える空を指差して叫んだ。


「龍だ……! 天龍が!」


 陽に透ける新緑の向こうの青空に白い影が踊る。

 それは大きな翼を持ち、春の陽射しを受け、あたりに漂う緑と水の匂いにはしゃいでいるかのように、ふわふわと空中で回転していた。


 アスカニウスも手綱を引いて馬の速度を落とし、紐にじゃれつく子猫のような動きをする龍の姿を見つめる。

 何度目かの旋回の後に行き先を思い出したのか、天龍は西の方角へ悠然と飛び去って行った。


「二日続けて龍に会うとは……!」

「本当にモレアは龍が多いな」


 州都モレア市近くの海でも水龍を見かけたし、昨日立ち寄った宿場町でも空に天龍の姿があった。

 地上で最も龍の多い土地と言われるだけのことはある。


 アルバから来た兵士たちにとって龍の姿は珍しい。


 同行する兵士は二十人ほどだったが、誰もが呑気に天を仰いで龍の軌跡に感動していた。

 これが戦いのための旅であれば、戦勝を予見する吉兆だと雄叫びを上げていただろうが、兵士たちは平和を謳う龍神の加護だと、手綱を指に絡めたまま手を合わせて祈る。



 ――本当に平和になったな。



 アスカニウスが龍の去った空をのんびりと眺めていると、隣に馬を止めた従者のポンペイウスが小声で訊ねた。


「アスカニウス様、お加減は……?」


 ポンペイウスとは三十年来の付き合いだが、このところかんばしくない主人の体調を酷く心配している。


 他の兵士には悟らせないようにしているが、ポンペイウスにだけはここまでの旅路で弱った姿を見せてしまった。

 そのせいで日に日に懸念は深まり、こんな風に何度も同じことを聞いてくるのだ。


「今日は快調だ。もうすぐピュートーの水を飲めると思うと楽しみで仕方ないぞ。神域に湧き出る聖水の泉……どんな味だろうなあ」


 アスカニウスが歯を見せて笑って見せると、ポンペイウスは特に表情を変えず軽く顎を引いて頷いた。


 目指す神域・ピュートーはもう目前だ。

 山肌に茂るこの木々の向こうに神域がある。


 神に愛された地を目指して、彼らは帝都アルバ市からここまでひと月近くかけて旅して来たのだ。

 馬車の轍がくっきりと残る山道は歩きやすく、馬も安定して蹄を鳴らして進んでいく。何千年の時を経て巡礼者や商人たちが踏み固めてきた道だ。


 龍を見送った一行が再び馬を進めると、ほどなくして道の横に木製の柵が現れた。

 その柵に沿うようにさらに道を行くと、街道から枝分かれした登り坂の分岐点があった。


 ピュートー村の入り口だ。


「ずいぶんと長閑な村ですね」


 呆れた声を出したのはポンペイウスだ。

 分かれ道に設置された門扉は開け放たれ、見張り番もいない。


「この辺りはまだ神域の外側だからな。警備も厳重じゃないんだろう」

「ですが、こういう森には野盗が潜んでおります。宿場でも警備隊が目を光らせていたではありませんか」


 街道を狙う盗賊というのは、どんなに取り締まってもなかなかいなくなるものではない。

 都市の警備範囲からは外れているが、人通りはそれなりに多い。こういう場所が最も危険だ。


 アスカニウスは不穏な気配など感じさせない爽やかな風を頬に受け目を細める。


「道も綺麗だし、静かでいいなあ……きっと野盗も、神域の間近で悪事を働くのは気が引けるんじゃないか?」


 立ち並ぶ樹木の隙間からは真昼の日差しが漏れ、アスカニウスの青白い肌に緑色の影を落としていた。



 ――今日は火龍がご機嫌だな。



 ピュートーが主に祀っているのは火の龍神の神域だ。神域の中心は火龍の住処である火の山。

 熱を好み太陽を愛する龍が、天に向かって高く吠えそうな日和だった。


「いい土地だな。俺はこういうところで隠居したい」


 門の中は緩やかな登り坂になっており、車輪の跡がくっきりと残る土の上を進むと、まばらな木立の間に建物が見えてきた。

 水が流れ込む涼やかな音も聞こえる。


「水だ!」


 アスカニウスは子供のようにはしゃいだ声を上げ、馬の脇腹を蹴って急かす。


 なんて良い匂いだろう。

 今までに嗅いだことのないほど、甘くかぐわしい。水の流れる音も名手が奏でる竪琴のようだ。


 主人の独走に兵士たちも慌てて馬を蹴った。


「お待ち下さい!」

「我々が先を守りますので!」


 アスカニウスは兵士たちの慌てた声を無視して駆ける。


 緩やかな登り坂の道が大きく曲がりくねった先に、それは忽然と現れた。


 石で作られた水盆のような溜池の周りは厳重に柵が張り巡らされ、この地を守護する龍の彫像がこちらを威嚇するように睨みを利かせている。

 巨大な彫像は男たちの背丈よりも大きく、黒々とした石に刻まれた火龍の姿は精巧で、今にも飛びかかってきそうな迫力があった。


「泉を守るのが水龍じゃなく、火龍か。面白いな」


 ひとりで馬から飛び降りたアスカニウスをポンペイウスが慌てて諌める。


「手綱をお預け下さい!」

「馬から下りるくらい、ひとりでできる」

「ここは戦場ではないのですよ。クラディウス一門の長として、属州の民にも威厳ある振る舞いをお見せください」


 過保護な従者に、アスカニウスはわざとらしく溜息を吐いて見せた。


「人の手を借りて馬を下りる方が、格好悪くないか?」

「貴族ならば当然のことかと。なるべく騎馬でなく、馬車か輿にお乗りになる方がもっと宜しいでしょう」

「そんなことより!」


 アスカニウスはポンペイウスを振り切って溜池に駆け寄った。


 池の前に鎮座する火龍の彫像を間近で眺めると、鱗の一枚一枚まで細かく作られているのが分かる。台座には悠久の時を表すメアンドロス柄が施されていた。


「なんてすごい……帝都の名工も泣きながら手を合わせるぞ。継ぎ目が見えないが、まさか岩から削り出したのか?」


 彫像の奥には柵に囲まれた水盆があり、一角から湧き出すように流れ出る水がシャラシャラと涼やかな音を立てながら水面を揺らしている。


「これが神域の湖から来るという、聖水の泉か? もっと村の奥にあるかと思ったが」


 アスカニウスが龍の彫像の横を通ろうと踏み出した時だった。


「そこまでだ!」

「覚悟しろ、水泥棒め!」


 物陰から憤怒の形相の男たちが一斉に飛び出して来た。

 アスカニウスは反射的に腰の剣を抜き、兵士たちも即座に臨戦態勢に入る。


 男たちは木立の向こうや下草に隠れていたのか、次々と数を増やしてアスカニウスらを取り囲む。

 ある者は片刃の剣、ある者は棍棒、またある者は槍と盾を手にしている。身につけた鎧や武具の形もまちまちで、素材はほとんどが牛革だが、金属も見受けられた。


「なんのつもりだ、貴様ら!」

「こちらのお方は帝都の大貴族、クラディウス一門の長であらせられる! 武器を置け!」


 兵士が命令するが、男たちはものともしない。


「水泥棒に身分があるか!」

「武器を置くのはそっちの方だ!」


 アスカニウスは自分を取り囲む男たちを素早く観察した。


 野盗にしては小綺麗な身なりをしている。軍隊というには粗末な装備だが、彼らの動きは統率が取れていた。功をはやって飛び出す者はひとりもおらず、かといって及び腰の者もいない。

 確固たる信念を持った面構えでアスカニウスたちを追い詰めようとしていた。


「貴様が首謀者か?」


 男たちの輪の一箇所が割れ、ひとりの若者がアスカニウスの前に進み出た。


 年齢は二十歳と少しといったところだろうか。

 質素な生成りのトゥニカの上から牛革の胸当てをつけ、腕と脛には鉄製の覆いを結び、サンダルの下には泥除けの麻布を巻いている。獲物は腰に刺した短剣ひとつだが、まだ鞘に収まったままだった。


 長い黒髪を後頭部で束ね、結び目を布で覆って背中に垂らしている。

 腰まで届く長い髪と、うなじを隠すような覆い布は神官の証だ。


 神官が代表ということは、やはり彼らは野盗などではない。野盗でなければ、近隣の村人ということになる。

 アスカニウスが訪ねて来たピュートー村の者たちであるに違いなかった。


 若き神官は兵士たちの刃が顔に届くギリギリの距離で足を止めた。深い飴色になった革製の鎧の上からも、そのほっそりとした肢体が見て取れる。

 荒々しいやり取りの中でわずかも怯まない凛とした姿に、アスカニウスは釘付けになった。


 まず目を奪われたのは、金色の瞳。


 吊り上がった大きな瞳は、瞬きをしないのかと思うほどまっすぐにアスカニウスを射抜いた。

 モレア地方の民らしい日焼けした赤い肌。きつく引き結ばれた赤い唇。それらのパーツが、神に任命された芸術家たちが話し合って決めたように、ここだという位置にピタリとはめ込まれていた。


「水泥棒の首謀者は貴様かと聞いている」


 アスカニウスは剣先をゆっくりと下げ、美しい神官と対峙する。


「水は好きだが、盗んだことはないぞ」

「武器を置け」


 神官は腰の短剣に手をかけることもなく短く命令した。


「分かった」

「アスカニウス様!」


 半歩前にいるポンペイウスが咎めるように名を呼ぶ。


「いいからお前たちも剣を置け。誤解を解くべきだ」


 アスカニウスは兵士たちを促して、自分も剣を捨て両手を顔の横に上げる。


 村の男たちからどよめきが起こった。アスカニウスの右手が、明らかに普通の人間とは違っていたからだ。


「龍の手……!」

「先祖返りか!?」


 神官もわずかながら眉を動かし、アスカニウスの右手をその大きな金色の瞳で凝視する。


 アスカニウスの右手は指の股が深く、手のひらの面積が左手の半分ほどしかない。異様に長い指は根元が太く、先に行くほど細く鋭くなり、爪は獣のように尖っている。指の間には蜥蜴や蛙に似た水かきのような膜があった。


 指は、四本だ。


 先祖返り――龍の特徴を持って生まれてきた者をそう呼ぶ。


 人間の祖先には龍の血が入っている。

 地上の人間は、先に地上にあった龍によって生み出された。

 時を経て龍と人間が交わり、純粋な龍は数を減らしたが、時おり龍の特徴を持って生まれてくる人間がいる……先祖返りと呼ばれる者は、身体頑健で見目麗しく、寿命は二百年とも三百年とも言われている。


 帝都の大貴族クラディウス一門には、水龍の先祖返りがよく現れることで有名だ。


 アスカニウス・クラディウス・ヴェネトゥスは一門の長であり、すでに百二十年生きている。その若々しく精悍な姿は、何年も、何十年も変わらないままだった。


「クラディウスの水龍様が水泥棒とは」


 神官は眉をひそめ、まるで汚物を見るような目でアスカニウスを見た。


「だから泥棒じゃないと」

「昨夜遅く、ひとりの水泥棒がここで捕らえられた。その男は、帝都の貴族が神域の水を求めており、命じられてここに来たのだと白状したぞ」

「はあっ?」


 全く身に覚えがないアスカニウスが思わず口を開けて驚くのと同時に、兵士たちもいきり立つ。


「謀略だ!」

「我々は三日の余裕を持って先触れを送ったぞ!」

「カディスという名の男だ、この村に来ておらぬというのか」


「そのカディスなる者が昨夜ここで水を盗もうとしたのだ!」


 神官はもとより吊り上がった目尻を憤怒に歪め、怒れる火龍のごとく一喝した。

 その迫力に兵士たちも口を噤む。


 アスカニウスは顔の横に手を上げたまま天を仰いだ。

 木立に繁る大きな葉の間から覗く真昼の青空が、目に痛いほど眩しかった。















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