Epilogos ――幸福―― 前編



「フェリクス――俺の幸福」


 アスカニウスは囁くようにフェリクスの名を呼ぶ。

 普段は神官殿と呼ぶのだが、ふたりで同じ寝台に入るようになってから、夜の秘め事の時にだけ名を呼ぶようになった。


 ラコウヴァ龍神の加護によりアスカニウスが健康を取り戻すと、ふたりは互いに何を告げるでもなく、引き寄せられるように寝台の中で抱き合うようになった。

 口付けはまず、そっと触れ合うものから。

 不慣れなフェリクスの体を優しく抱きしめ、髪に手を差し入れ、肌を撫でて強張りをほぐしていくことに、アスカニウスは強い喜びを感じた。


「フェリクス――俺の幸福、会いたかった」


 腕の中のしなやかな赤い肌をいつまででも見つめていられる。しかしそうして眺めてばかりいると、フェリクスは恥ずかしがって身を縮めてしまうのだ。

 不安にならぬよう丁寧に撫でて、ゆっくりと感覚を引き出してやる。

 アスカニウスは左手の丸い指でフェリクスの肌をなぞる。左手はフェリクスの右手と繋ぐためだけに存在した。龍の右手を掴みきつく目を瞑るフェリクスが、感じ入って体を震わせるさまに喉が鳴る。


 アスカニウスはフェリクスの腰を引き寄せ、抱え上げた足の先に口付けた。普段は麻布に覆われ隠されているそれは、アスカニウスだけが触れることのできる神域。

 そこから脛に、膝にと順に唇でなぞり、これ以上体が曲がらなくなったところで再びフェリクスに覆いかぶさる。

 すると待ちかねたようにしなやかな腕がアスカニウスの頭を抱えた。ふたりは隙間なく肌を触れ合わせ、熱を奪い合うようにきつく抱きしめ合い、吐息を吸いつくすように互いの唇を食んだ。






 *






「行きたくない、ここにいたい、仕事が忙しい……」


 フェリクスを抱きしめて愚痴をこぼしていると、ぺちりと腕を叩かれる。


「何度それを言うつもりですか。あなたはモレア州総督なのですよ。民のために働かねばなりません」

「分かってる。分かってるが、せっかくモレアにいるのに、神官殿に会えないなんておかしいじゃないか」


 快復したアスカニウスは、レグルスに代理を任せていた州総督の職務のためモレア市へと赴くことになった。それからは息つく間もない多忙な毎日で、フェリクスと愛し合うどころかピュートーへ戻ることすら容易にはできなくなってしまった。

 州総督に正式に就任しておよそ二か月。

 なんとか一時帰宅が叶ったのだ。


 すでに季節は真冬。

 秋の収穫祭にも参加できず、毎日目にするのは書類の山か、レグルスの顔か、コンラードの顔だ。気が滅入るのも仕方がない。副総督に任命したコンラードが予想以上に優秀だったことだけがせめてもの救いだ。


「別におかしくはありません。モレア市とここは馬を飛ばしても三日以上かかる距離なんですから。モレアも広いのですよ」


 子供を叱るようなフェリクスの口調にアスカニウスは唇を尖らせた。

 ふたりで住むための邸宅もまだ建設を始めたばかりで、フェリクスは相変わらず診療所近くの小さな家で日々を過ごしている。

 早く仕事を片付け、新しい家でフェリクスとゆっくり暮らしたいが、その夢が叶うのは随分と先のようだ。


「神官殿が州都に来てくれてもいいんだぞ。やりたいことはないか? モレア中央神殿ならすぐ案内を手配するし、図書館で筆写するのもいいな。ああ、欲しいものはないか? 街で買い物もいい」

「私が行ったとして、クラディウス様にそんなお時間があるのですか?」


 フェリクスの問いにアスカニウスは言葉に詰まる。


「うっ……まあ、そうだな。夜には……会える時間もあるぞ」

「年末には休暇を取るのでしょう。春祭りはピュートーで迎えられますか?」

「ああ絶対に休む。何がなんでも帰って来る。それまで会えないのは辛いが……神官殿、ピュートーを任せたぞ」


 アスカニウスは腕の中のフェリクスを抱えなおし、艶やかな黒髪が覆う頭頂に唇を寄せる。


「言われずとも」


 強く気高い恋人の誇らしげな笑みに癒されながら、短い休暇の夜の甘さを味わった。

 次に会えるのは約二か月後……今年が終わる頃になる。






 *






 翌日、アスカニウスを見送ったフェリクスは建築現場を訪れた。

 ふたりが住む予定の邸宅だ。アルバ市で目にした豪邸に比べれば小さいが、守村の中では迎賓館、浴場の次に大きな建物になる。

 どこに建てるかとても悩んだが、結局、なるべく神殿や神官舎に近い場所にしようと村人たちが決めてくれた。林の一部の伐採から始めたため、工事にはかなり時間がかかっている。


「ご苦労様です。飲み物をお持ちしました。少し休憩しませんか?」


 フェリクスが大きな甕を抱えて声をかけると、職人たちが歓声を上げて仕事の手を止めた。

 彼らはアスカニウスがモレア市で雇い入れた建築士、石工、庭師など。もう少し工事が進めば壁画職人や家具職人も呼ぶのだそうだ。


「クラディウスの主人はもうモレア市に帰っちゃったのか。忙しい方だね」

「バカ、州総督だよ。総督が暇しててたまるもんか」


 職人たちは各々のわんを手に輪になって地面に座った。

 秋口までは青々としていた下草が枯れ、黒い土が剥き出しになっている。

 フェリクスは甕の中のプティサネを柄杓ひしゃくで掬ってそれぞれの椀に注いでいく。椀からはほんのりと湯気が立ち上った。プティサネは冬場には鍋で少し温めて飲むのだ。とろみが増して舌触りが良く、体も温まる。


「前の総督は相当悪どいことしてたんだって? 知らなかったよ。俺らの税も懐に入てたのかなあ」

「クラディウス様はそれを正しに来てくだすったんだろ!ありがたいねぇ。立派な屋敷を建てて差し上げてなきゃな!」

「でも、フェリクスさんも寂しいねえ。恋人がずっと仕事で州都にいるなんて」

「えっ」


 突然水を向けられたフェリクスは柄杓を取り落としそうになった。


「い、いえ、私は」


 どうにも、こういった扱いには慣れない。

 守村のみんなも、こうして働いてくれる職人たちも、フェリクスとアスカニウスを伴侶として扱う。その通りなのだが、慣れない。フェリクスはもう何十年と独り身だったのだ。


「次はいつお帰りになるの?」

「ね、年末には……まとまった休暇が取れるとおっしゃっていました。おそらくメルケディヌスの月の、中頃になるかと」

「メルケディヌス? あとふた月も先じゃないか! それまで全然会えないの?」


 石工の女性に大声で聞き返され、フェリクスは驚いて肩を竦める。

 メルケディヌスは十三番目、一年の最後の月に当たる。その半ばから新年――春を迎えるまでの間に長期の休暇を取るのは役人ならば普通のことだった。

 そういうものだと思っていたのに、彼らは何やらフェリクスを気の毒そうに見つめる。


「可哀想に……」

「クラディウス様は確か、ご病気が回復されたばかりなんでしょ? 心配だねえ」


 フェリクスは曖昧な笑顔を浮かべた。

 仕事に戻って行く職人たちを労いながら、トゥニカの上に羽織ったマントの胸元にそっと触れる。


 またあの霞が――時折フェリクスを襲う焦燥が広がっていくのを感じていた。
















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