第九章 決意 3

「さ、寒い……まずいぞ、また死にそうだ」

「そういうことを軽々しく口にしないでください。それに、私も寒いです」


 明朝、日の出と共に山を下り始めたふたりに襲い掛かったのは秋口の朝の冷気だった。

 ラコウヴァの力で夜を明かすことができたが、濡れた服や髪を乾かす術はなく、ずぶ濡れのままの下山を余儀なくされた。


「湖に戻らないか? もう一度ラコウヴァ様に温めてもらって、それから帰ろう」

「同じことの繰り返しになるだけでしょう。早く帰って、風呂を沸かしてもらうしかありません」


 昨夜まで降っていた冷たい雨の名残が空気を冷やしているようで、薄曇りの隙間から差し込む日差しも森の中までは暖めてくれない。

 震えながら必死に坂を下った。いかに頑健な先祖返りの肉体でもこれは堪える。初めこそ寒さを紛らわすために下らないお喋りをしていたが、ふたりはだんだんと無口になった。


 どれだけ時間がかかっただろう。

 すっかり会話がなくなり、冷え切った手足の感覚が麻痺した頃、ようやく神殿群が見えてきた。

 行きは警備の目を掻い潜るために避けたが、帰りは歩きやすい道を選んだため神殿近くの泉がある場所に出たのだ。


「フェリクス様だ!」

「お帰りになったぞ!」


 そこには、守村のみんなが待ち構えていた。

 ふたりが泉の横から石畳に踏み出す時には、村人たちがわっと駆け寄って取り囲まれることになった。


「ラコウヴァ様がお帰りになったんですね!」

「どうしてそれが分かったのですか?」


 フェリクスは予想していなかった展開に、間抜けに口を開けてしまった。

 てっきり自分たちの失踪や、勝手に神域に立ち入ったことで騒ぎになっていると思っていたのだ。しかしみんな嬉しそうにしている。


「イレーネ様が、ザーネス様とパルナ様のお声を聞いたんです。フェリクス様はラコウヴァ様のところにいらっしゃるって!」

「ついに二柱がお揃いになりましたね!」

「ピュートー万歳!」


 フェリクスは村人たちの顔を見回した後、アスカニウスを振り返った。

 アスカニウスは寒さに耐えることの方に気を取られているようで、肩を竦めて自分の腕をさすっていた。


「だ、誰か布を持って来てください。クラディウス様に」


 フェリクスの呼びかけでようやくふたりが濡れていることに気付いた人々が、手元の羽織ものを貸してくれた。

 アスカニウスの体にありったけの布を巻き付けていると、人垣をかき分けてルキウスとニコレが輪の中心に飛び込んで来た。


「フェリクス様! 俺、俺、思い出しました!」

「私も、思い出しました。私たち、フェリクス様に名前を付けて貰ったんですよね」


 ルキウスはすでに鼻水まで垂らして泣いていて、ニコレも目元を真っ赤にしている。フェリクスが何か言うより先に、ふたりは突進するように濡れた胸に抱き着いた。


「俺たちみんな思い出したんです、ずっとフェリクス様に守ってもらってたこと!」

「ずっと、ずっと見守ってくれてたんですね。私たちが生まれた時から、それよりもっと前から」


 まじないが消えたのだ。

 アスカニウスに足を見せ、もうラコウヴァの加護は必要ないと告げたからだ。フェリクスが先祖返りであることが、皆に分かってしまったのだ。


「フェリクスちゃん……!」


 見習い神官に支えられながら歩いて来たのはイレーネだった。


「覚えています、覚えています、ずっと一緒でしたもの、フェリクスちゃん……」

「イレーネさん」

「小さなフェリクスちゃんと、よく一緒に遊んだ……でも、いつの間にか私よりもずっと大きくなって、お兄さんになったわ。その後は、今度は私が追いついて……追い越してしまった。そう、覚えています。私たちはずっと、ずっと、一緒にこの村で育ちました」


 ルキウスとニコレに並んで、イレーネもフェリクスの胸もとに縋る。濡れたトゥニカは冷たいだろうに、その冷えた布をぎゅっと握りしめてフェリクスに寄り添った。

 ふたりは同じ戦災孤児で、神官舎で共に育てられたのだ。

 共に学び、共に育ち、共に神に仕えてきた。およそ六十年の間、ずっと一緒に。


「共に生きる方を、見つけられたのですね」


 涙を拭いながら顔を上げたイレーネが、フェリクスの背後のアスカニウスに視線を移す。


「ピウス様がずっと願っておられたのは、このことでした。今やっと分かりました。ピウス様は天に召されるその時までずっと、フェリクスちゃんの孤独が癒されることを願っておられた……やっと分かりました」


 フェリクスを導いてくれたピウス神官はイレーネの指導者でもあった。イレーネを通じて、亡き師の祈りの声が聞こえたような気がした。



 ――平和が訪れますように。

 ――豊かに栄えますように。

 ――健やかに育ちますように。

 ――愛しい先祖返りのあの子に、良き友が現れ、孤独が慰められますように。



 フェリクスは何か言おうとして、言葉が出ないことに気付く。

 空気を吸おうとするのに涙があふれて息が詰まって、それを吐くとまたどっと涙が流れた。何度やり直しても声は出ず、息が上手く吸えない。

 苦しい。幸福は、苦しい。

 自然と腕が伸びていた。イレーネの肩に、ルキウスとニコレの背に。相手を思いやることなんかできなくて、力いっぱい抱き締めた。


「俺も仲間に入れてくれ」


 しゃくりあげるフェリクスの背にアスカニウスが寄り添った。少しだけ隙間のあった腰のあたりに腕を回され、ピッタリと体が触れ合う。


「神官殿はあったかいな。同じように水に浸かったのに、どうして俺と違うんだ?」


 アスカニウスの肌は相変わらず冷たい。でももう、心配はいらない。


「お風呂に行きましょう」


 フェリクスは満面の笑みを浮かべてアスカニウスを振り返った。

 熱い湯に浸かった後は、いつも通りの食事をしよう。

 今日は寝台で休むが、明日からはまた村の仕事を手伝って、朝晩には一層の祈りを。

 元通りの生活が戻って来る。


 フェリクスは喜びを噛み締めた。

 その日常は、アスカニウスと共に。守村のみんなと共に。ザーネス神が名付けてくれたこの土地で、帰って来た水龍ラコウヴァと、ずっと見守ってくれていた火龍パルナと共に。


 見上げたパルナ山から、龍の鳴き声が聞こえた気がした。
















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