【NWC】2月 多勢に無勢
いえね、こうなることは分かっていましたよ。
分かっていたんですけどね……。
築三十年、軽量鉄骨2DKのアパートのダイニングテーブルは大小様々、色取り取りの小箱に占領されていた。
二月十四日。バレンタインデー。
随分前から覚悟はしていたものの、この類のイベントが廃止されたはずの会社で、よくもまぁこれだけのチョコが集まったものだ。
「……さすがですね。誠さん」
その受取人に嫌味たっぷりに声をかけてしまった後で、洋人はほんの少し後悔した。チョコを受け取った誠と、それを見てモヤモヤした気持ちを抱えている自分。この不均衡がもたらす意味をこれ以上追求することを本能が拒否していた。
誠と洋人は通信会社に勤める先輩後輩であり、恋人同士である。
同じ職場に異動になり、同席した飲み会の後、誠が洋人の家に泊まったことで二人の関係は始まった。
眉目秀麗な誠は、社内では『超』が付くほどの有名人で、厳格な淑女協定に守られた王子様だった。恋人の気配など漂わせようものなら、途端に蜂の巣を突いたような騒ぎが巻き起こり、誠は不本意な厄介事に巻き込まれてしまう。そんなこんなの煩わしさを嫌った結果、同じ職場で男性の洋人に手を出したのである。
王子様が聞いて呆れる。
誠は決して女性が憧れる品行方正な王子様ではない。本来の彼は男女の区別もない、何でもござれの無法者である。淑女協定と家庭の事情に阻まれて思うように恋愛できなかっただけで、野放しにしていたら何十人という被害者を生んでいただろう。
一方の洋人は同性愛者であるが、生涯のパートナーを見つけるという大きな目標を持っている。自分に非があるわけでもないのに、こそこそ日陰の道を歩くようなしみったれた人生などまっぴら御免だと常々思っていた。
マッチングアプリはもちろんのこと、同士が集まるバーで恋人探しに精を出していたのだが、誠との一夜に溺れ、なんだかんだと流された結果今に至っている。
方向性もモチベーションも異なるものの、二人は手頃な相手で妥協している似た物同士、同じ穴のムジナ、目くそ鼻くそ……つまりはそんな関係だった。
洋人は、生涯の伴侶を見つけるという目標を誠にも伝えている。誠も承知の上で洋人と付き合っている。互いにパートナーが出来たらこの関係を解消することを前提に、全ては始まった。
だから、バレンタインデーのこの日に、自分の存在が軽んじられていることにどれだけ狂暴な怒りがこみあげてきたとしても、洋人が怒るのも、ましてや誠にそれをぶつけるのも筋違いな話だった。
今日も今日とて二人で約束していたわけではない。
何となく帰り際に誠が洋人に声をかけてきて、何となく二人とも荷物が増えていたので、何となく車通勤の洋人が誠を家まで送ることになったというだけの話だ。
実際、洋人は誠のためにチョコレートを準備しているわけではなかったし、誠はいつもと変わらない様子で帰宅途中のスーパーで夕飯の買い物をしていた。駐車場で一服していた洋人の元へ戻って来た誠は食材だけでなく安売りされていたトイレットペーパーまで購入していたのだ。「車があるから、嵩張る物も買える」とか何とか。渡りに船とばかりに大荷物を抱える誠は相変わらずカッコよかったが、そこにロマンチックな要素は欠片もなかった。
「……てか、お前もそれチョコだろ?」
「そうですけど、誠さんとは意味合いが違いますよ。これはすべて、完全に、義理チョコですから」
——適当なのは、お互い様。
地に足のつかないこの関係を見透かされているのか、洋人の存在を蹴散らさんばかりに誠に秋波を送る女性は後を絶たない。
二人が付き合っていることが会社に知れ渡り、淑女協定に綻びが生まれたことも一因ではあるが、淑女協定よりも効力があるはずの「恋人」という肩書きを持ってしてもこれなのだ。
一々目くじらを立てていてはこちらの神経が参ってしまう。
洋人は砂を噛むような気持ちで沸々とした怒りをやり過ごした。
「こんなに沢山、一人で食べちゃうんですか?」
「いや。手作りの分は
「いや……それどうなんですか」
危険なものは率先してたった一人の弟に食べさせよう、なんて。
「これでも断れる分は断ったんだけどなぁ……。こんなにいっぱい食えないし。でも、バイク便で届いたり、机とかロッカーの前に放置されている分は仕方ないじゃん?」
「…………」
誠の言葉に、洋人は愕然とした。
つまり、断らなければ誠はもっとチョコを貰っていた、ということだ。
無言になった洋人に気付いたのか、誠が手を止めてこちらを振り返る。
「怒ってんの?」
「怒ってません」
脊髄反射のように即答した洋人に、誠は相好を崩す。
ベンチの上でくつろぐ猫のような表情は会社では絶対に見ることのできないものだった。誠がこんな顔をするのは心の底からリラックスしている証拠だ。甘えるような視線に射抜かれて洋人は少女のように胸がトクンと高鳴るのを感じた。
「お前本当、会社にいる時と違うよな」
「からかわないでくださいよ」
ぺっと誠の手を叩き落として、洋人は気を取り直すように椅子の上に荷物を置く。素の誠を知れば知るほど、写し鏡のように知らない自分に遭遇して戸惑ってしまう。
洋人は人知れずため息を吐いた。
職場で毎日顔を合わせているからだろうか?
安易に身体だけを繋いでいた一年前が嘘のように、最近は軽い触れ合いだけでも誠の存在が心に響くようになってしまった。過去の恋愛において、別れる間際ですら冷静に対応できていたはずの自分が、誠の取り扱いに手を焼いている。
有限の関係だと油断してしまったことがそもそもの失敗だった。いつもは相手の細やかな気持ちの変化を見逃すまいと気を張っているのに、適当すぎる誠に付き合っているのも馬鹿馬鹿しくなって、洋人自身も誠に遠慮することなく振る舞っていた。
らしからぬその行動が自身の心に安心感をもたらしていたことを、今更のように認識する。
洋人は後悔していた。
もう、バランスは崩れ始めている。
これ以上進んでも苦しくなるだけだ。
洋人はずっと自分が誠に施しを与えているのだと思っていた。搾取されるだけの関係を見過ごしてきたのは、そうすることでしか誠の中にある絶望感を埋めることができないと感じていたからだ。
洋人がどんなに頑張っても誠が抱える複雑さは何も変わらない。
誠のバックボーンを知って、ただ見守ることしかできないと悟り、洋人は最初に自分と誠の間に線引きをした。
誠が触れられたくないものまで無理にこじ開けようとは思わなかった。
洋人の中にも大きな傷がある。今思えば、洋人は無意識のうちに、誠の中に自身を見出していたのかもしれない。誠を労ることで、癒されていたのは洋人の方だった。
「はい」
「…………なんですか、その手」
「いや、お前からのチョコは?」
差し出された手を見て、洋人は椅子の上の袋から一つの包みを取り出した。真っ赤な包みに星を散りばめたような金色のリボンが巻かれている、一際ゴージャスなチョコだ。
洋人が取り出したそれは、デパートの売り場でも屈指の人気を誇るチョコレートショップのものだった。
はいどうぞ、と差し出された手のひらに置くと、誠はすぐさまその箱をポイっと机の上に放り投げた。
「女史のじゃん!」
「なんか文句ありますか? それ、めっちゃ高級なんですよ。この前テレビにも出ていました」
「俺も同じの貰ってるよ!」
「あ、そうですか」
『女史』こと奥枝美保子は、本店の経理一課に在籍する先輩社員である。
社内に星野誠淑女協定を布いた張本人であり、メンズにチヤホヤされることを生き甲斐に働いている。
周りの評価に臆することなく我が道をゆく奥枝のことを、皆ある種の尊敬と嫌悪を込めて「女史」と呼ぶ。
社内一のイケメンである誠はもちろんのこと、洋人もどうやら女史に気に入られているようで、入社以降、バレンタインには毎年チョコをもらっていた。
「チョコなんて、ポッキーで充分なんだよ。こういう高級なのあんま好きじゃない」
「今しか食べられないのもありますよ?」
「いやいや。こんだけあったら、どれも変わんないって。しかも、まさかの本命からは貰えないって……!」
大仰な素振りで肩を落とした誠は再び冷蔵庫に向き直る。
これだけチョコがあっても洋人に強請る誠の言動は、どこまでが嘘で、どこまでが本気なのかいまいちよく分からない。
「そう言う誠さんは僕に何か準備してくれてるんですか?」
どうせお互い様でしょ?
タバコでも吸ってこようと、ポケットを漁っていた洋人に、
「お前が食いたいって言ってたから、今日タコパ」
「え?」
誠が予想だにしない回答をしてきた。
どんなクレームだろうと、本音と建前のお世辞であろうと、顔色ひとつ変えずそつなくあしらえるはずの営業部期待の新星は、冷蔵庫の前に立つ長身の背中を凝視したまま絶句した。
そういえば、たこ焼きパーティーをしたいと、誠に話したような……。
誠は記憶力が良い。だからきっと、その通りなのだろう。しかし、言い出しっぺの洋人が忘れてしまうほど取るに足らない願いを覚えていてくれて、且つ、準備してくれた事が驚きだった。今日もてっきりチョコを持って帰るのが面倒で洋人に送迎を頼みにやってきたのだと思っていた。嵩張るトイレットペーパーがすべてを物語っていではないか。
ひょっとして、それだけではなかった?
洋人は改めて何も準備していなかった自分の手抜きっぷりを痛感した。
「僕、夕飯食べて行っていいんですか?」
「え? ここまできて食わずに帰るつもりだったの? 逆に驚くわ」
「だって、実君、帰ってきますよね?」
「うん。でも、こういうの人数多い方が面白いじゃん。丁度チョコもあるし、甘い系も作ろう。ウィスキーボンボン入れたらどうなると思う?」
誠のは必要な食材意外は冷蔵庫にしまいつつ、片やたこ焼きパーティーに必要な材料は流しの作業台の上に並べてゆく。
「で、洋人君は何してくれてるのかな?」
まさか何もない、なんてことはないよな?
誠が半眼でこちらを振り返る。そして、思わず視線を反らしてしまった洋人に、向かって一言。
「営業のクセに」
「職種は関係ないと思いますけど」
「いいや。お前、いつもヘラヘラおべんちゃら言ってるだろう。しょっちゅうしょっちゅうコールの人間にサプライズとかやってるじゃん」
「それはチームの士気を高めるためですよ。ただでさえお客様の電話対応で疲弊してるんですから、コールグループにはそれぐらいの楽しみあって然るべきです」
「俺だってお客様対応やってるじゃん。疲弊してるじゃん。サプライズは?」
「誠さんは暴言吐きながら、ちょこちょこ発散してるじゃないですか。三日前にも”この客ぶった切っていい”とか
「それ速度遅いとか言ってたやつだろ? 相性問題の、しかも自作PC。んなとこまで面倒見れないっつーの。ウチの範疇は
「そうですけど、受電チームを変に焚きつけるような言い方しないでくださいよ。相手はまがりなりにもお客様なんですから」
「はいはい。じゃ、お前はどうすんの?」
「え?」
「チョコ貰えなくてブーブー言ってるクレーマーをどうやって納得させるわけ?」
「…………」
痛い所を突かれて、洋人が再び机の上のチョコに手を出そうとしたら、その腕を誠に掴まれた。
「女史のチョコはいらない!」
こんな時はどうすれば良いか。
話して納得してもらうか、代替案を提供するか。切り捨てて退会してもらうか。
「……じゃぁ……タバコ一箱」
「んー、それもいいね。今から買ってくる?」
「ええー……」
今から外に出るのも嫌だなぁ、と洋人は思う。
洋人はチラと誠を見上げ歩み寄ると、少しだけ背伸びをしてその唇にチュッとキスをした。
「チョコよりも甘いキス」
誠がぷっと吹き出した。
「もうちょっと真剣に考えろよ」
しかし、満更でもなさそうに誠は洋人の身体を抱き寄せる。洋人も抵抗することなく、すっぽりとその胸の中に納まった。
「枕営業とか安直すぎる」
「すみません。何も準備してないんです。……僕、営業として失格ですね」
二人で笑って、どちらからともなく唇を重ねた。
戯れる様に何度か小さなキスを繰り返した後、しっとりと唇を合わさる。躊躇うことなく侵入してきた誠の舌に、自らのそれを絡めながら洋人は官能的な柔らかさと甘さを愉しんだ。
もうこんなことも慣れっこで、互いの身体の知らないところはないというぐらいに情交を重ねてきたのに、誠のキスはいつも、洋人に心地よさを与えてくれる。
「他の奴にはすんなよ」
キスの合間、誠がそう言って洋人の頬を撫でた。
「え——……っ」
よく聞き取ることが出来ず、洋人が見上げると再び誠に唇を塞がれた。
今、誠は何を言ったのか……。
洋人聞き返そうとするが、その思考をかき乱すように誠の舌に口腔を犯された。吐息が絡み合うだけで身体の奥がじわっと潤んでくる。飄々としている誠の様子とは裏腹に情熱的に動く舌の感触と唾液が混ざり合う音が、二人以外知り得ない秘密の世界を彷彿させる。洋人は目を閉じて、誠が与える全ての感覚に身を投じた。
「んっ…………誠さん、それ以上されたら……」
悪戯な舌先に上顎の敏感な部分をくすぐられ、洋人が思わず官能の吐息を漏らした時だった。
——ガチャ。
玄関の扉が空いて、実が姿を現した。
「あ゛……」
咄嗟にキスを解いた洋人と誠が間抜けな声を上げるのとほぼ同時に、実が手にしていた小さな紙袋を落とした。
何一つ言い訳できない状況で、洋人は玄関で呆然としている実と目が合った。
「誠のばかぁぁぁあぁ!」
兄の濡れ場を目撃してしまった実は見る見る顔が赤くなったかと思ったら「わー!」と叫びながら、玄関を飛び出してどこかに消えてしまった。
あーあ。見られてしまった。
洋人はげっそりとため息を吐く。
飛び出していった実とは対照的に、イチャイチャを見られた二人はノーダメージで顔色一つ変えることもなく淡々と日常に戻った。
「……追いかけなくていいんですか?」
「どうせ友達んとこに行くだろうから、放っておいてもいいんじゃね?」
誠はそう言いながら、開けっ放しの玄関扉を閉め、実が落とした紙袋を拾い上げた。
「チョコ……一個追加ですね」
紙袋の持ち手には『兄ちゃんへ』という実からのメッセージが結びつけられていた。いつも面倒を見てくれている兄へ、弟からのせめてもの感謝の気持ちだったのだろう。それこそ、兄へのサプライズだったのではないか。
実がチョコを手にドアを開けるまでのドキドキ感と、そこに待っていた光景の落差はいかほどか。称名滝……否ナイアガラの滝ぐらいは余裕であったかもしれない。
真正ブラコンの実は、これまで何かにつけて誠の恋愛を邪魔してきた。そして、その実が未だに攻略できない唯一の相手が洋人である。
当然ながら、実と洋人の仲は良好とはいえない。実が『兄ちゃんのステディ』である洋人を一方的に嫌い、誠が洋人を庇うので、二人の関係はドツボに陥る一方だ。
「……それで何個目ですか?」
「十九個」
「……お返しするんですか?」
「するわけないじゃん」
誠はそう言って机の上のチョコを見下ろした。
「お前さ、こういうのなんて言うか知ってる?」
「……ハーレム?」
「違う。多勢に無勢」
誠はそう言って、手にしていた紙袋をチョコの山に重ねた。
(完)
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