10月
24話 神はかく語りき 1
その日は何かがおかしかった。
朝、いつものようにタバコを持って洋人がベランダに出ると、もう十月だというのに蝉の死骸が転がっていた。防水加工が施されたコンクリートの床の上、出てくる時期を間違ったのか、どこかに落ちていた物を鳥が運んできたのか……。
朝っぱらからそんなものを発見してしまった所為なのか、タバコの味もいつもとは違って感じる。頭がぼんやりして何となく体もだるい。
洋人はベランダの柵に肘を乗せ、白く霞む空にため息とともに煙を吐く。
この数週間、洋人は休日もずっと出ずっぱりだった。
先月は結婚式が立て続けに二つ。うち一つは大学時代の友人のもので、県外に泊まりがけで出席した。結婚指輪を交換する友を祝福し、久しぶりに顔を合わせた旧友及び、新婦の友人と同窓会だかコンパだかわからない状態で二次会へと足を運んだものの、女性からのアプローチに応じることはできず、場の雰囲気を壊さないようやんわりと回避しながら誠のことを思い出して寂しさを感じた。それが終わった翌週は祖父の七回忌で、こちらも遠路はるばる車を飛ばして県境を跨ぎ、翌朝再び同じ道を戻る。まさに息つく間もないスケジュールであった。
洋人の家族は父と母、それに妹二人の五人家族だ。母は後妻で、兄妹の誰とも血は繋がっていなかったが家族仲はそこまで悪くない。兄妹仲はというと平均値を取れば真ん中より下になる。一番下の妹とは非常に仲が良い、真ん中の妹とは絶縁状態と言っていいほど仲が悪い。アベレージに換算すると『ややマイナス』そういうことになる。真ん中が浮きやすいという話はその昔一世を風靡し、今でも時々子供番組で流れる団子の歌にも出てくるほど有名だが、洋人の家は少々事情が違った。
洋人は高校時代、自身の性的指向の問題で酷い虐めに遭った。それは
……否。今現在、こうして息をしているので『絶った』と言ってしまうと語弊がある。しかし、少なくとも洋人の中ではそうだった。洋人の生命を物理的な意味で助けたのは、運命と、元ネットワークセンターで働いていた件の男ではないガチな神様の気まぐれと、後妻として満島家にやってきた『満島由美』その人のお陰であった。
救急車が来る前に洋人は自分が死に損なったことを知った。その瞬間、意識はあったし、メッチャクチャ痛くて苦しかった。重症には違いなかったが、しでかしたことの大きさに比べれば医者も驚くほどの傷で命は助かり、退院するまでの間、心身共に地獄のような苦しみを味わった。
当然のことながらカウンセリングも受けた。そんな洋人を家族は献身的に支え、殊、由美においては自分の子ではない洋人のために矢面に立っていじめの主犯者や学校と戦ってくれたのである。主犯者たちからの謝罪といくばくかの慰謝料はもらえたものの、その後学校にいられなくなった洋人は転校し、大学に進学して現在に至る。
……で、妹との関係であるが、由美が怒り狂って学校と戦っている時、同じように拳を上げてそれを応援していたのが末っ子の妹。当時高校受験を控えていた真ん中は兄の奇行とその理由が校内に知れ渡り、好奇の目に晒されていた。
由美はもちろんそちらも気にかけてはいたが、後妻という部分で一歩踏み込むことができなかったのか完全に拒絶されてしまい、結果、真ん中の妹は第三志望校まで不合格という悲惨すぎる結末を迎え、家族の中でますます浮いた存在となった。
『何であんなことしたのよ?』
目に涙を一杯に溜めた妹から、一度だけそう問われたことがる。
洋人は様々な人から幾度もその質問を受けてきたが、答えられなかったのはこの時だけだ。
洋人だっていっぱいいっぱいだった。
妹もそうだった。
その重なりが全て悪い方向へと働いてしまった。
その後、妹は行きたくもない高校に進学し、そこそこの短大から地方銀行に就職したが、当時のことが尾を引いて実家に帰っても相変わらず浮いている。洋人に加担する人間は全て敵だとでも言うように由美にも心を開かないし、下の妹とも一定の距離を置いている。唯一の接点は父親だが、その父も静かにこの状況を見守ることしかできないようだった。
洋人は祖父の七回忌で、久しぶりに妹と顔を合わせた。相変わらず会話はない。目も合わせない。妹から無視されていることを知りながら、親戚一同の前で満島家の長男としての役割を果たさねばならなかった。
とどのつまり、洋人は自覚できるほどに疲れていたのだ。
家族はもちろん、友人にしろ、親戚にしろ、洋人の身に起きた事件のあらましは知っている。そこにいる全員が理解を示してくれた人々だと分かっていても、ほんの少し洋人の心には引っかかりがあって、それを悟られないようにずっと気を張り続けていた。
自身がマイノリティであること。全ての原因はそこにある。それが分かっているから、いつもどこかに発生してしまう『遠慮』はマジョリティと関わる限り、どんなに努力しても消せるものではなかった。
有給でも取って誠と一緒にのんびりと過ごせたら……。
タバコを燻らせながらそんな願望が頭を過る。日帰りドライブデートだとか、絶景風呂でのんびり入浴だとか。そこまでの贅沢は出来ずとも、スーパー銭湯で一日のんびりなんてのでもいい。まったりして、食事はできれば誠の手料理を食べたいが、面倒なら総菜でもデリバリーでも構わない。夜はぬくぬく二人で布団に包まって、朝まで抱き合って眠れたらそれ以上求めるものは何もない。
考えてみれば、この一ヶ月セックスもしていなかった。誠の方も九月は台風やら何やらでバタバタしていてそれどころではなかったのだ。昼休み一緒に食事に行くことはあるし、職場で隠れて何度かキスはした。でもそれだけだ。圧倒的にスキンシップが足りていない。処理しきれない欲望は自慰行為で済ませているが、誠の方はどうなのだろう……。
明け透けになんでも打ち明けてきた仲ではあるが、まさか『浮気していますか?』なんて質問もできるはずがなく、洋人は心にモヤモヤを残したまま、いつものように朝食を済ませ、いつものように車で出勤した。
パソコンを立ち上げ、九時半から朝礼が始まるのもいつもの流れだ。昨日の残務の状況と今日の行動予定、業務確認等を終え着席した途端、デスクに置かれた固定電話が鳴った。
受電チームの電話とは違い、こちらは社内の直通電話だ。店舗の開店は十時からなので、開店前のこんな時間に鳴るのも珍しい。
「コールグループ高見です」
それでも、たまにはこんなこともあるだろうと隣に座る派遣社員、高見の軽やかな電話対応を聞きながら、洋人は取り立てて気にすることもなく、再来週予定されている会議資料の作成を始めた。
社内サーバーに格納された作成途中の資料は、先月の受電状況をまとめた月報だった。前年比、時間ごとの受電件数や内容、更にはお客様からの要望なんかがまとめられている。
コールセンターは文字通りお客様からの電話の問い合わせを一手に引き受ける部署だ。一般問い合わせ、技術関連、料金関連と三つの部門に問い合わせ先が分かれ、それぞれに後方支援としてプロパー社員が常駐している。受電を担当するのはコールサービスを専門とするリンリンシステムズである。同じ職場で働いてはいるものの、業務委託先であるリンリンシステムズとこちら側の社員及び派遣社員の間には明確な線引きがあり、休憩室やロッカールームも別に用意されていた。
業務委託する、受託するといった企業間の遣り取りについては、コールグループが窓口になっており、月毎の人員配置も二社の話し合いによって決められる。
コールグループの社員が作成する月報は、リンリンシステムズとの話し合いに利用される他、企画、営業サイドからもリアルなお客様の反応が得られるということで重宝がられていた。雨後の筍のように湧いて出てくる競合他社に勝つために、経営陣は常に次の一手を繰り出す必要があり、各部署から上げられる月報にはそのヒントが詰まっているのだ。
ところが、その月報にも『何か変』な事態が隠れていた。
今年度に入ってから洋人が月報作成を担当し、月初に取り込んだ受電データの分析を手掛けていたが、何気に目にした前年の数字が違っていることに気付いた。
これ、計算ズレてない?
このままでは昨対比も狂ってしまう。
「はい。……はい……分かりました。結果が分かり次第お客様に連絡しますね……んーと……そうですね……ちょっとよく分かりませんけど……なるべく早く対応してもらえるようにお願いしてみます」
受話器を置いた高見が部屋の対岸にいるテクニカル受電チームの様子を確認している。いつもより長めの対応が気になって洋人はすぐに声をかけた。
「大丈夫? どこからだった?」
「モールの社員さんからなんですけど、三日前に開通したお客さんから社用携帯に直接電話があったみたいです」
「フリーダイヤルは?」
「繋がらなかったって仰ってるみたいで……」
顧客情報を印刷して再び自席に戻ってきた高見は、その紙に話の詳細を記載しながら洋人の方を見た。
「光電話は使えているみたいなので、操作の問題じゃないですかね」
引継ぎ事項を書き終え「では、行ってきます」と高見が席を立った直後、再び同じ電話が鳴った。
「コールグループ満島です」
ワンコールで電話を取り洋人が応答すると、電話の向こうから困惑したような声が返ってくる。
『お疲れ様です。北口店の宮田です。三日前に開通したお客様から、インターネットが使えないっていう電話が入って、切り分けをお願いしたいんですけど……』
ついさっき耳にした内容をそのまま繰り返される。洋人は一瞬デジャブが起こったのではないかと自分の耳を疑ったが、今度はショッピングモールの担当者からではない、別の担当者だ。
「分かりました。……でもここを経由するより、フリーダイヤルに直接かけてもらった方が早いと思いますが……」
洋人はキーボードを叩きながら、それとなくテクニカルチームのフリーダイヤルへ誘導を試みるが、担当者はそうなんですけど……と言い淀んで『電話が繋がらなかったみたいで……』と不思議そうに言った。
『温度感高めなんで、なるはやでお願いできますか?』
「分かりました」
『ちなみに、そっち、何か起こってるんですか? お客さんに言われて自分も試しにフリーダイヤルにかけてみたんですけど、アナウンスがずっと流れてて……』
「いいえ。特にそういう話は聞いていませんが……」
万が一、何か問題が起こっていたのだとしたら、朝礼の時点でテクサポからの情報共有がないわけがない。
単純に電話が重なっただけだろう。
コールの入電が増えるのは午前十時の開線直後とお昼時、あとは夕方だが、テクニカルサポートのフリーダイヤルは二十四時間、三百六十五日開いている。
保守はネットワークセンターだろうと局舎だろうと、どこでも夜勤込みのシフトで似たような動きをしている。それはコールセンター勤務のテクサポも例外ではなかった。テクニカルの受電チームも夜になると夜間専門の担当者にバトンを渡し、テクサポの夜勤メンバーと共に対応に当たる。ケーブルの断線や機器の交換は工事会社の手配が必要になるので翌日持ち越しになるが、電話案内で解消できる問題はその場で終えるのが常だった。
「確認次第連絡します。お客様にフォローの電話だけ入れてもらってもいいですか?」
とにもかくにも、設定から確認すべきだという認識だけは共通しており、洋人は高見と同じように顧客情報を印刷し、テクニカル受電チームが席を並べる場所へと向かった。
団地のように並ぶデスクの間を歩きながら、洋人が両グループの中間地点にある壁掛け時計を確認すると、時刻はまもなく十時に差し掛かろうとしていた。
「ん?」
しかし、その隣に掲げられた電光掲示板を見た瞬間、洋人は立ち止まり、思わず眉を顰めた。
受電状況を知らせる掲示板には、一般問い合わせとテクニカル部門、それぞれの入電や応答の件数、そして待機人数と待ち時間が表示される。
開線前の一般問い合わせは当然のことながらどの項目も0表示だが、テクニカルの入電件数は既に二桁に達し、且つ、待機まで出ている。待ち時間も五分越えとこの時間帯ではあり得ない数字を示していた。
「すみません。今混み合ってて……」
一体何が起こっているのかと、慌てた洋人がテクニカルチームの状況を確認してみるが、出勤人数はいつも通りであるにもかかわらず、皆が皆、受電チームのマネージャーを務める富岡までもが電話にかかっている。何も知らない十時出勤のメンバーが新たに数名入室してきたが、この状況を知った途端、皆顔色を変えてすぐさま受電の準備を開始した。悠長に挨拶を交わしている暇もない。フリーダイヤルが繋がらないのも納得の状況で、辺りには殺伐とした空気が漂っていた。
洋人は先に遠隔試験を依頼しようと、通路を挟んでコンパートメントで仕切られたテクサポのブースへと進路を変えた。一足先にやってきた高見も同じことを考えたのだろう。誠の向かいに座る平尾に先ほどの案件を依頼している最中だった。
機器のランプ状態は正常、インターネットのみが繋がらいという場合は、受電チームに発信依頼をして、お客様の設定を確認してもらうのが通常の流れだ。しかし、受電担当がそれどころではないことは明白で、待ち時間の長さに痺れを切らした顧客が電話を切ったかと思うと、すぐさま別の入電者が待機にカウントされるといった状況が電光掲示板からも見てとれた。
「どうした?」
コンパートメント越しに異常な動きを見せる電光掲示板を眺めていた洋人に、手の空いた誠が声を掛ける。
「取り込み中のところすみません。インターネットが繋がらないっていう話で店舗から電話があって……」
説明を終えないうちに洋人の手から顧客情報を奪った誠がキーボードに指を滑らせた。テクサポを見ると、誠と平尾だけでなく他の課員も……役職者までもが机に顧客情報を広げて対応をしている。ひっ迫しているのは受電チームだけではないようだ。
「何が起こってるんですか?」
「分かんない」
短く答え、誠は険しい表情で画面を食い入るように見つめていたが、表示された英語ばかりの画面を確認するとすぐさま顔を上げた。
「またアカウントロックだ。平尾そっちは?」
向かいに座る後輩に声をかける。
「こっちもです」
持っていた紙を洋人に突き返し、
「解除するからコールから折り返しできる? こっちパンパンで……」
「分かりました。高見さん、そっちも僕が引き受けるから」
「本当ですか!? ありがとうございます!」
高見が顔を上げると同時に、爆発したように電話が鳴り始めた。
一斉に電子音を響かせた受電チームの席を、何事かとその場にいた社員が振り返る。午前十時を回り一般問い合わせの回線も開放されたのだ。
——絶対にこれ、おかしい——
皆何かを確信したが、その原因はわからない。テクサポ社員ですら困惑しているこの状況は異常事態だった。
電光掲示板が点滅を繰り返す度に入電件数も待機人数もどんどん膨れ上がる。
洋人がコールセンターに異動してからも、台風だのゲリラ豪雨だの、大きな障害は毎年のように発生していた。しかし、災害に伴う障害はユーザーの方も原因を把握できているせいか、ここまで急激に入電件数が上昇することはない。
堰を切ったように鳴り響くコール音に言葉を失う洋人の隣で、誠の席の固定電話が鳴った。
「星野です」
誠は瞬時に受話器を取り、お疲れ様の挨拶も端折っていきなり本題に入る。
「定森? やっぱなんかおかしい。今も立て続けにアカウントロックばっかで……えっ⁉︎ マジ? どこで? あー……分かった。……はいはい。こっちで対応するわ。何か分かったら連絡する……うん。じゃ」
誠は険しい顔を一層顰め、電話の相手と二、三言葉を交わした後、受話器を置いた。
何が起こった? と戦々恐々しているテクサポの社員と、その上席に座る眼鏡の中年男性に向って声を張る。
「グループ長、西区で幹線ケーブル切れたらしいです」
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