【NWC】8月 rendezvous 10  〜オトナの時間、コドモの時間〜

*****


「痛い」


 ほんのりと湿気を含んだ髪に指を伸ばし、摘んだ髪をピンと引っ張ると洋人はタバコを咥えたまま顔を顰めた。

 部屋の中ではタバコは吸わないという洋人の喫煙ルールは誠の家であっても健在で、半分開けた掃出し窓の前に腰を下ろして洋人はタバコを燻らせていた。窓から差し込む僅かな光を頼りに、洋人は狭い庭と隣の塀しか見えない窓の景色から視線を移し風呂上りの誠を見た。

 2DKのこのアパートは、ダイニングキッチンの他に和室と洋室があった。誠と実はそれぞれ一室づつ自分の部屋として使用しているが、誠の部屋は鍵のない引き違い扉の和室で、もともとリビングとして利用されることを想定された部屋らしかった。

 半間の収納がついただけの簡素な部屋は、ダイニングに風を通す時は開放されるし、物干しまでの動線になっているしで、プライベートもへったくれもない。

 就職したばかりの誠が育ち盛りの弟を養い、且つ専門学校に行かせることまでを考えて選んだ物件は、設備も古臭く、洋人の家のようにオートロックや集合ポストなんてものもない、昔ながらのアパートだった。職場からも遠く、駅までも決して近いとは言えない。利点など一つもないように見えるのは実の校区を優先した結果であり、ストレスフルな幼少期を送った実に、転校などして余計な負担をかけたくなったし、誠自身もできればこのまま慣れ親しんだ環境で生活したかった。

 既に親しくなっていた実のクラスメイトや、二人が施設の育ちだと知っても変わらず接してくれるママ友、そして近所に住んでいる人の好い大家と内覧の時に気さくに声をかけてくれた年金暮らしの老夫婦。そんな人々に囲まれて誠はこれまでなんとかやってきた。

 高校卒業後、公務員専門学校に通い始めた弟も来年はいよいよ独立の年である。春からいくつか試験を受けているが、状況はあまり芳しくなく九月にも試験を受ける予定だ。


「吸います?」


 隣から差し出されたタバコを受け取り誠はゆるゆると煙を体内に取り込む。肺一杯に吸い込んだメンソールの煙は洋人のキスと同じ味がした。


「実君、起きませんね」


 洋人はTシャツにハーフパンツというラフな格好で寛いでいる。いつもきっちりとセットされている髪を下ろすと年齢よりも少しだけ若く見えた。


「満腹中枢刺激されるとあいつすぐ寝るんだよ。しかもしてたし」


「不慮の事故でしたね」


 頷く洋人を見て、誠も笑った。

 塩対応の二人にイライラを募らせた実は、洋人と晩酌しながらたこ焼きを食べている兄のグラスに手を伸ばした。

 実はまだ二十歳の誕生日を迎えていない。法律違反なので洋人は『それは誠さんのために注いだビールなので実君は飲まないで下さい』と言って止めたし、誠は『俺と間接キスなんかしたら洋人が嫉妬するから絶対に口をつけるな』と警告したのだ。しかし、実はよほど喉が渇いていたのか、二人の声などまるで聞こえていないかのようにビールが入ったグラスを一気に空けた。それで慌てた誠がお茶を飲ませようとして、うっかり洋人のグラスを実に渡してしまったので、更なる誤飲が発生した。立て続けにコップ二杯のビールを誤飲した実はその後、ポヤンとなって若干静かになり、洋人に勧められるままたこ焼きを腹一杯食べた。一応これも、腹に何か入れてアルコールの影響を少なくした方が良いだろう、という配慮だったが食欲が満たされると今度は頬を紅潮させて気持ちよさそうに寝てしまったので、無理に起こすのも忍びないと、二人は細心の注意を払いながら実を寝室に運ぶことにした。

 寝苦しくないようにパジャマに着替えさせ、クーラーを入れて部屋を適温に保ち、実が朝まで目を覚ますことなく快適に寝られるように環境を整えた。勘違いされては困るので一応補足しておくが、これは全てアルコールを誤飲してしまった実を思っての行動だ。決して、断じて、天に誓って、自分たちのためではない。

 そんなこんなで、昭和のお母さんの言葉に反して扉を閉めて二人きりの時間を過ごしているが、これは持続可能な社会を目指し、熱効率と電気代を考えての行動だから致し方ない。


「タコパ、どうでした?」


「うん。結構面白かったかな……相変わらず実はウザいけど」


「でも、実君もいた方が楽しいでしょう?」


 あれほどぞんざいな扱いを受けながら、洋人はそんな事を言っている。この様子を見ても歴然なぐらい、洋人と実は最初から喧嘩になっていない。実だって、洋人に敵わないことはもう分かっているだろう。それでも洋人に突っかかって兄に執着するのは、離れしなければならない不安やジレンマの表れだった。

 洋人にはそれが分かっていたのだろうか? 誠は考える。

 もしそうだとしたら、洋人は誠のみならず実のことも受けれて赦しているということになる。兄弟二人して一体何をやっているのか。


「あいつ見てると、つくづくあんなんで就職できるのかなぁ、って思うよ」


「どこを受けても本人の頑張り次第でしょ。……でも、どうして公務員なんですか?」


 吐き出した煙に目を細める誠に、洋人が尋ねた。


「んー? 公務員って安定してるし、信用あるじゃん。……ウチ、こんなんだから分かりやすい職業に就かせたかったんだよ。警察官とか自衛隊とか何でもよかったんだけど……あいつヘタレだから体力系は無理かなぁ、って……」


 弟を公務員にしたかったのは誠の一存だ。

 誠の母は、誠が中学生の時に亡くなった。原因は恋人の暴力——ミノルの遺伝子上の父親に命を奪われたのだ。実は加害者の子であり、被害者の子でもある。当然ながら本人に非はないし、やっと言葉を喋るか喋らないかぐらいの年齢だったので事件のことは何も覚えてはいない。それでも、さがない噂が絶えないこの世の中でいつ足元を掬われるかわからない状況を誠はずっと危惧していた。

 星野家で起こった陰惨な事件をこの先誰かが面白半分に掘り起こしてくるようなことがあっても、実が社会的信用の高い職に就いていれば、その客観的事実が実とあの男を切り離す証明になると考えた。


「立派に保護者やってるんですね」


「もう二度とやりたくないけどね」


 虫の鳴き声が響く夏全開の夜に、静かな二人の会話がポツポツと浮かぶ。こんなに暑くて喧しいのに、焼け付いた昼間の空気を夜は優しく包み込んでいた。


「実君いなくなったら寂しくなりません?」


「ないない。せいせいするでしょ。ドア閉めても文句言われないし……心置きなくエッチなこともできるし」


 笑った誠が洋人の方に身体を傾ける。

 二人はそのまま唇を重ねた。

 どちらからともなく舌を絡め、互いの存在を確かめ合うように腕の中の温もりを抱きしめる。誠の手にあったIQOSがコロンと畳に落ちたが、二人とも気に留めなかった。火事になる心配がないのが加熱式タバコの利点だろう。放っておいても自動的に電源は消える。加熱を止められないのは昭和のお母さんの忠告を破った二人の子供の方だ。

 角度を変えてキスを深めても洋人は抵抗することなく誠の首に腕を回してきた。何度もキスを交わしながら、誠は洋人の体をそっと横たえた。


「……今日、何があったんですか?」


 誠の体重を受け止めた洋人が、下から見上げてくる。

 透明な濃紺の夜の闇の中で、その瞳に心配げな色が浮かんでいることを知って、誠は深々とため息を吐いた。


「あー……やっぱお前は誤魔化せないね」


 誰よりも長く一緒に生活している実さえも気付いていなかったのに。

 誠は脱力してペタリと洋人の胸の上に頭を乗せた。


「そりゃ、あんな所でキスされたら誰でも気付きますよ」


 洗い立ての髪を指で梳きながら、洋人は穏やかな表情で微笑む。誠はトクトクと音を立てる洋人の心音に耳を澄ませながら、うーん。と唸って目を閉じた。


「クレーマーが喧嘩するから、昔の事思い出した」


 悲惨な体験と言うのであれば、誠とどっこいどっこいの洋人である。高校時代虐めに遭い、行き着くところまで行った洋人はそこから立ち直って大学に進学し、今では『悪魔』と揶揄されるほどの鋼メンタルの営業マンに成長した。

 しかし、誠が洋人に感じる気持ちは『羨ましい』とは少し違う。

 誠は慰められたいわけでも、可哀想がられたいわけでもない。傷を舐め合って自己憐憫に浸るぐらいなら、もっとを舐め合う方が遥かに楽しいとすら思っている。

 ただ普通でいたいだけなのだ。

 小さなことに一々傷つくことなく、怯えることなく、皆と同じように平穏な生活を送りたい。


「お前はないの? ……フラッシュバックとか」


 平気になったつもりでいるのに、こういうことが起こる度に逐一引き戻されて、まだ自分の中に解決できない問題があることを知る。それが時々辛くなる。

 洋人だって生まれた時からこのメンタルを持っていたわけではないだろう。それでも誠よりよほど強靭に、逞しく生きている。


「昔はありましたね。最近は開き直ってしまったと言うか……。仕事で色々結果が出せたからじゃないかって思いますけど。自己肯定感が生まれてからは随分楽になったと思います」

  

 洋人の声が胸から直接耳を伝って誠に届く。確かに、誠は開き直れてもいない。それどころか、あの日から泣いてもいない。未消化な感情が自分の中に残っていることもよく分かっている。


「お前が仕事頑張るのって、それが理由?」


「これは……今すべきことに集中してたらこうなった、というか……」


「今?」


「色々考えても不安になるだけだったので、一旦全部棚上げして、目の前にある事だけに集中しようって思ったんです。そうやって一日一日過ごしてたら、案外どうにかなったというか……気付いたらこうなっていたというか」


「それで、新人賞? どうにかなり過ぎてるだろ、それ」


 冗談めかして言うと、洋人が笑うのと同じタイミングで誠の視界が揺れた。

 温かい手が誠の髪を撫でていく。

 その心地よい感触に目を閉じながら誠は頷いた。


「……でも、お前の言う通りかもね」


 実のことだってまだ何も起こってはいない。普通じゃなかった幼少期に怯えているのは誠の方で、動かせない過去の出来事を隠したいのも自分なのだ。


「今ある物を大切にすればいいんじゃないですか? 誠さんはちゃんとできていますよ」


 洋人の静かな声が降ってくる。


 そうね……。その通りかもしれない。


 誠は両手をついて身体を起こし、開きっ放しになっていた掃き出し窓を閉めた。

 床に寝そべった洋人を上から見下ろし、


「今が一番大事だよな」


 そう答えると、洋人は優しく微笑んだ。

 首筋にキスを落として薄い皮膚の下で拍動する頸動脈を甘噛みする。

 洋人はくすぐったそうに肩を竦めながら、誠の背に手を這わせてきた。


「……ここでするんですか?」


 すぐそこに布団があるのに、と訴えてきた洋人の口を塞ぎながら、誠はシャツの裾から手を忍ばせる。指先が触れると洋人の身体がピクンと震えた。

 キスを解いた誠はそのまま頬からこめかみ、耳へとキスを落とし、耳元で囁いた。


「……声、出さないで」


「えっ?」


 うっとりと誠の愛撫に身を委ねていた洋人が眉間に皺を寄せた。


「だって、実が起たらマズイじゃん?」


 途中で止めるとかできそうにないし、と誠。


「や……無理ですよ」


 勝手に出ちゃうものですから、と洋人。


「あいつ、あれで案外眠り浅いよ? ここ壁薄いし、鍵ないし」


 何なら息遣いなんかも聞こえてしまうかもしれないし、振動だって伝わるかもしれない。真っ裸でまぐわっている最中に殴り込まれるなんて、お互い絶対に回避したい事態だろう。


「……だったら、あまりイジワルしないで下さいよ」


 クレーム処理よりも困惑した様子で、洋人は誠を見上げた。

 第一営業部の無茶振りよりも遥かに難題だ、と言わんばかりのその表情は、どうやら本気で困っているらしい。

 窓から差し込む薄い灯りの中で珍しい物を見てしまった誠は、それだけで理性が崩壊しそうな情動を覚えた。

 それに突き動かされるまま、一瞬も考えることなく首を振る。


「無理」


「えぇっ?」


「や、だって無理だもん」


 こっちは、昼間から我慢していたのに、そんな顔されたら……。

 さっきから一足飛びにギアチェンが進行している。今、目の前にあるものに集中する、と言うならそれは洋人であり求めて止まない二人の時間だ。

 誠は、言うが早いか、洋人のシャツをたくし上げた。

 エアコンの冷気に晒された滑らかな肌がざわりと粟立ち、誠がその胸にキスを落とすと洋人はびくっと体を竦ませて、驚いたように声を上げた。


「洋人」


「だって……」


「じゃ、止める?」


 もちろんそんな事を本気で望んでいるわけでもないが、誠が拗ねたように訊ねると、洋人は心底困り果てた様子でウルウルと滲ませた瞳を反らして、観念したように営業マンの常套句を口にした。


「……誠心誠意、努力します」


****


 翌朝、星野家にはスッキリした表情の誠がいた。

 夏の空のような晴れ晴れとした表情をしているのは誠のみで、兄の表情を見て季節外れの梅雨入りをしたのは弟だった。もう一人の客人はと言うと、寝室でタオルケットに包まったままそれから三十分後、誠が起こしに行くまで眠り続けていた。


「おはよ」


 誠が朝の挨拶をすると客人はニコリともせず、寝不足だけでは説明がつかないほど赤く充血した目で睨み、十秒ほど間を開けたあと、ドスの効いた低音で「おはようございます」と挨拶を残しさっさと風呂場へ消えてしまった。実もドン引きするぐらい尋常ならざる不機嫌さは、きっと、いつもの巨大化け猫を装着する前の素の状態だったからなのだろう。

 二つの不機嫌に囲まれて、誠の新しい一日が始まった。

 蝉の鳴き声は相変わら喧しかったが、また一日、季節は確実に秋に近付き、薄皮を剥ぐように誠の傷は癒えてゆく。


(完)

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