23話 rendezvous 10 〜オトナの時間、コドモの時間〜
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「痛い」
ほんのりと湿気を含んだ髪に指を伸ばし、摘んだ一束をピンと引っ張ると洋人はタバコを咥えたまま顔を顰めた。
部屋の中でタバコは吸わないという喫煙ルールは誠の家でも健在で、半分開けた掃出し窓の前に座って洋人はタバコを燻らせていた。窓から差し込む僅かな光を頼りに、狭い庭と塀しか見えない景色から視線を移し、風呂上りの誠を振り返る。
2DKのこのアパートには、ダイニングキッチンの他に和室と洋室があった。兄弟はそれぞれ一室を自分用に確保していたが、誠が使っている和室はダイニングから続く居間としての利用を想定された部屋のため、仕切りの引き違い扉には鍵が付いていなかった。ダイニングに風を通す時は開放されるし、物干し場までの動線になっているしで、プライベートもへったくれもない。
就職したばかりの誠が育ち盛りの弟を養い、且つ専門学校に行かせることまで考えて選んだ物件は、設備も古く、洋人の家のようにオートロックや集合ポストなんてものもない昔ながらのアパートだ。職場も遠く、駅近とも言えないこの場所を選んだのは、
既に親しくなっていた実のクラスメイトや、二人が施設の育ちだと知っても変わらず接してくれるママ友、そして近所に住んでいる人の好い大家と、内覧の時に気さくに声をかけてくれた年金暮らしの老夫婦。そんな人々に囲まれて誠はこれまでなんとかやってきた。
公務員専門学校に通う弟も来年はいよいよ独立の年である。
「吸います?」
隣から差し出されたタバコを受け取り、誠はゆるゆると煙を体内に取り込む。肺一杯に吸い込んだメンソールは洋人のキスと同じ味がした。
「実君、起きませんね」
Tシャツにハーフパンツというラフな格好で寛いでいる洋人は、前髪の下からおっとりした瞳を覗かせた。自宅であれば部屋着でもそれなりの物を着ているのに、誠の家に置いてあるパジャマ替わりのTシャツはこのまま廃棄されても問題ないというぐらいサイズも柄も適当で、そんな奔放さもあるせいか、微笑みを浮かべるその姿はいつもより随分幼く見えた。
「満腹中枢刺激されるとあいつすぐ寝るんだよ。しかも誤飲してたし」
「不慮の事故でしたね」
頷く洋人を見て、誠も笑った。
塩対応の二人にイライラを募らせた
しかし、
寝苦しくないようパジャマに着替えさせ、クーラーを入れて部屋を適温に保ち、朝まで快適に寝られるよう環境を整えた。一応補足しておくが、これは全てアルコールを誤飲してしまった実を思っての行動だ。断じて、天に誓って、二人きりで過ごしたい自分たちの私利私欲のためではない。昭和のお母さんの言いつけに反して部屋の扉を閉めたのも、熱効率と電気代に配慮した持続可能な社会を目指す模範行動だから致し方ない。
「タコパ、どうでした?」
「うん。結構面白かったかな……相変わらず実はウザいけど」
「でも、実君もいた方が賑やかでいいでしょう?」
あれほどぞんざいな扱いを受けながら、洋人はそんな事を言っている。この結果を見ても歴然なぐらい、洋人と
洋人にはそれが分かっていたのだろうか? 誠は考える。
もしそうだとしたら、洋人は誠のみならず実のことも理解し、受容していることになる。兄弟二人して洋人の世話になって一体何をやっているのか。
「あいつ見てると、つくづくあんなんで就職できるのかなぁ、って思うよ」
「どこを受けても本人の頑張り次第ですよ。……でも、そもそもどうして公務員なんですか? 選択肢なんて他にも沢山あったでしょう?」
吐き出した煙に目を細める誠に、洋人が尋ねた。
「んー? 公務員って安定してるし、信用あるじゃん。……ウチ、こんなんだから分かりやすい職業に就かせたかったんだよ。警察官とか自衛隊とか何でもよかったんだけど……あいつヘタレだから体力系は無理かなぁ、って……」
弟を公務員にしたかったのは誠の一存だ。
誠の母は、誠が中学生の時に亡くなった。原因は恋人の暴力——
星野家で起こった陰惨な事件をこの先誰かが面白半分に掘り起こしてくるようなことがあっても、
「立派に保護者やってるんですね」
「もう二度とやりたくないけどね」
虫の鳴き声が響く夏全開の夜に、静かな二人の会話がポツポツと薄闇に浮かんで消える。こんなに暑くて喧しいのに、灼け付いた昼間の空気を夜は優しく包み込んでいた。
「実君いなくなったら寂しくなりません?」
「ないない。せいせいするでしょ。扉閉めても文句言われないし……心置きなくエッチなこともできるし」
笑った誠が洋人の方に身体を傾ける。
それが合図だったかのように、二人はそっと唇を重ねた。
どちらからともなく舌を絡め、互いの存在を確かめるように腕の中の温もりを抱きしめ合う。誠の手にあったIQOSがコロンと落ちても、二人は気にも留めなかった。火事になる心配がないのがこのタバコの利点だ。放っておいても自動的に電源は消える。
加熱を止められないのは昭和のお母さんの忠告を破った二人の子供の方だった。
角度を変えながらキスを深めると、洋人はスルリと誠の首に腕を回す。何度もキスを交わし、頬や眦にもキスを落としながら、誠は洋人の体をそっと畳の上に横たえた。
「……今日、何があったんですか?」
誠の体重を受け止めた洋人が、下から見上げてきた。
透き通る濃紺の空気の中、闇に慣れた瞳に心配の色が浮かんでいることを知って、誠は深々とため息を吐いた。
「あー……やっぱお前は誤魔化せないね」
誰よりも長く一緒に生活している実さえも気付いていなかったのに。
誠は脱力して洋人に覆いかぶさり、ペタリと胸の上に頭を乗せた。
「そりゃ、あんな所でキスされたら誰でも気付きますよ」
洗い立ての髪を指で梳きながら、洋人は穏やかな表情で微笑む。誠はトクトクと音を立てる洋人の心音に耳を澄ませながら、うーん。と唸って目を閉じた。
「クレーマーが喧嘩するから、昔の事思い出した。……急に心臓がバクバクして……」
悲惨な体験と言うのであれば、誠とどっこいどっこいの洋人である。高校時代虐めに遭い、行き着くところまで行った洋人はそこから立ち直って大学に進学し、今では『悪魔』と揶揄されるほどの鋼メンタルの営業マンに成長した。
誠にしてみれば洋人はいつも自分の一歩先を歩く先駆者だ。しかし、誠は洋人に慰められたいわけでも、可哀想がられたいわけでもなかった。傷を舐め合って自己憐憫に浸るぐらいなら、もっと別の場所を舐め合う方が遥かに楽しいとすら思っている。
普通でいたい。
ただそれだけなのだ。小さなことに一々傷つくことなく、怯えることなく、皆と同じように平穏な生活を送りたい。
「お前はないの? ……フラッシュバックとか」
平気になったつもりでいるのに、こういうことが起こる度に逐一引き戻されて、自分の中に解決できない問題が残っていることを知る。それが時々どうしようもなく辛くなる。
洋人だって生まれた時からこのメンタルを持っていたわけではないだろう。それでも誠よりよほど強靭に、逞しく生きている。
「昔はありましたね。最近は開き直ってしまったと言うか……。仕事で色々結果が出せたからじゃないかって思いますけど。自己肯定感が生まれてからは随分楽になった気がします」
洋人の声が胸から直接耳を伝って誠に届いた。確かに、誠は開き直れていない。それどころか、あの日から泣いてもいない。未消化な感情が自分の中に残っていることもよく分かっている。
「お前が仕事頑張るのって、それが理由?」
「まぁ、それは……今すべきことに集中してたらこうなった、というか……」
「今?」
「色々考えても不安になるだけだったので、一旦全部棚上げして、今ある物を大切にしようって思ったんです。目の前の事だけに集中して、そうやって一日一日過ごしてたら、案外どうにかなったというか……気付いたらこうなっていたというか」
「それで、新人賞? どうにかなり過ぎてるだろ、それ」
冗談めかして言うと、洋人が笑うのと同じタイミングで誠の視界が揺れた。
温かい手が誠の髪を撫でていく。
その心地よい感触に目を閉じながら誠は頷いた。
「……でも、お前の言う通りかもね」
実のことだってまだ何も起こってはいない。普通じゃなかった幼少期に怯えているのは誠の方で、動かせない過去の出来事を隠したいのも自分なのだ。
誠は両手をついて身体を起こし、開き放しになっていた掃き出し窓を閉めた。
「今を大切にすべきだよな」
そう言って床に寝そべる洋人の芳しい匂いを嗅ぐように誠は滑らかな首筋にキスを落として薄い皮膚の下で拍動する頸動脈を甘噛みする。洋人はため息のような声を上げ、くすぐったそうに肩を竦めた。
「……ここでするんですか?」
すぐそこに布団があるのに、と訴える割に、洋人は誠の性感を煽るように項に指を差し込んできた。静電気が背筋を這うようなもどかしさを感じながら誠はシャツの裾から手を忍ばせる。指先が直接肌に触れると洋人の身体がピクンと震え、それを楽しむように誠はそのまま頬からこめかみ、耳へとキスを落とし、耳元で囁いた。
「……声、出さないで」
「えっ?」
うっとりと誠の愛撫に身を委ねていた洋人が現実に引き戻されたように眉間に皺を寄せる。
「だって、実が起たらマズイじゃん?」
途中で止めるとかできそうにないし、と誠。
「や……無理ですよ」
ああいうのは勝手に出ちゃうものですから、と洋人。
「あいつ、あれで案外眠り浅いよ? ここ壁薄いし、鍵ないし」
何なら息遣いなんかも聞こえてしまうかもしれないし、振動だって伝わるかもしれない。真っ裸でまぐわっている最中に殴り込まれるなんて、お互い絶対に回避したい事態だろう。
「……だったら、誠さんもあまりイジワルなことしないで下さいよ」
洋人は困惑した様子で誠を見上げた。
第一営業部の無茶振りよりも遥かに難題だ、と言わんばかりのその表情は、どうやら本気で困っているらしい。窓から差し込む薄い灯りの中で羞恥に頬を染めながら懇願する洋人を見てしまった誠は、理性が崩壊するほどの情動を覚えた。
それに突き動かされるまま、一瞬も考えることなく首を振る。
「無理」
「えぇっ?」
「や、だって無理だもん」
誠は、言うが早いか、洋人のシャツをたくし上げた。
エアコンの冷気に晒された滑らかな肌がざわりと粟立ち、誠がその胸にキスを落とすと洋人は抵抗するように体を竦ませて、甘やかな声を上げた。
「洋人……」
「だって……」
「じゃ、止める?」
もちろんそんな事を本気で望んでいるわけでもないが、誠が拗ねたように訊ねると、洋人は心底困り果てた様子でウルウルと瞳を滲ませ、観念したように営業マンの常套句を口にした。
「……誠心誠意、努力します」
****
翌朝、星野家にはスッキリした表情の誠がいた。
夏の空のような晴れ晴れとした表情をしているのは誠のみで、兄の表情を見て季節外れの梅雨入りをしたのは弟だった。もう一人の客人はと言うと、寝室でタオルケットに包まったままそれから三十分後、誠が起こしに行くギリギリまで眠り続けていた。
「おはよ」
誠が朝の挨拶をすると洋人はニコリともせず、寝不足だけでは説明がつかないほど赤く充血した目で睨み、十秒ほど間を開けたあと、ドスの効いた低音で「おはようございます」とぶっきらぼうな挨拶を残しさっさと風呂場へ消えてしまった。実もドン引きするぐらいの不機嫌さは、きっと、いつもの巨大化け猫を装着する前の素の状態だったからなのだろう。
二つの不機嫌に囲まれて、誠の新しい一日が始まった。
蝉の鳴き声は相変わら喧しかったが、また一日、季節は秋に近付き、薄皮を剥ぐように誠の傷も癒えてゆく。
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