32話 神はかく語りき 9

 『ガッチリ体型で包容力がある男』

 それが洋人の理想だった。あんなクズ男とは全く違う、心優しい誠実な伴侶に出会うべく、洋人は出会い系アプリにも登録していたし、忙しい仕事の合間を縫ってその筋の酒場にも顔を出していた。

 誠に会う前は彼氏がいた事もあったのだ。どれもこれも全て長続きしなかったけで……。


 翌朝、洋人が目覚めると誠の姿はなく、主を失った簡易寝床もどこかへ消えていた。

 たっぷり睡眠を取ったお陰で熱も倦怠感もすっかりなくなり体調はすこぶる良い。頭はぼうっとしていたが、洋人の身体には充実感と共に気力が漲っていた。猫のように布団の上で大きく背伸びをしてから洋人は身体を起こした。


「おはようございます」


 ダイニングに続く引き違い扉を開けると、つけっぱなしのテレビを見るともなしに眺めながらトーストを齧るみのるがいた。誠の席は既に空になっていたが、もう一席には手付かずの食器と箸が準備されている。いつ起きるか分からない洋人の分までしっかりと食事を準備してくれている辺りに星野家の優しさが滲んでいた。

 昨日の残り物に、目玉焼きとコーヒーと……あり合わせを並べただけの朝食ではあったが、昨日の昼から軽い食事しか摂っていなかった洋人にはありがたいメニューであった。


「パンはそっちにあるから、勝手に焼いてね」


 みのるがトースターを置いてある棚を顎で示す。洋人が寝ぐせだらけの頭をペコリと下げ、まずは顔を洗おうと洗面所の方へ向かおうとしたら、そこから勢いよく誠が飛び出してきた。


「ああ、洋人! もう起きたの? 熱は?」


 ぶつかる直前で急停止した長身にガシッと肩を掴まれる。誠は既に身支度を整えていた。


「もうすっかり元気になりました。昨日はありがとうございました」


 正直に自己申告しているのに誠は洋人の額に手を当てて熱がないか確かめている。どうやらまだ過保護モードが続いているらしい。苦笑する洋人の視界の隅っこに、恨めしそうな顔でこちらを睨むみのるが映った。


「今日何時からですか?」


「九時から。でも、チャリ駅に置きっ放しだから、もう行かないとバスに間に合わない」


 洋人の言葉に嘘がないことを確認した誠は満足したように頷いて、ダイニングチェアにかけておいたボディバッグに手を伸ばす。


「誠さん、ちょっと!」


「え?」


「車使ってください」


 洋人はそれを引き留め、誠の部屋に置いてあったキーケースを持ってきた。

 誠にこの鍵を渡すのは二度目のことだ。


「僕、遅番なので公共交通機関で行きます。どっちにしても、駐車場が混むので早めに出た方が良いですけど」


「マジで? 助かる。サンキュ」


 誠は車の鍵を受け取ると、玄関でバタバタとスニーカーを履いた。そして、靴箱代わりの三段ボックスの上に置かれた白い小皿にいつものように手を伸ばしかけて、ピタリと動きを止める。


「洋人、家の鍵ここにあるから、お前出る時閉めてきて」


「分かりました」


 洋人が頷くと、誠は「行ってきます」と二人に手を振って玄関から出て行った。

 洋人の家にいる時とは大違いの慌ただしさだ。普段の誠の生活はこんな感じなのかなぁ、と想像しながら洋人が振り返ると、そこにいるみのると目が合った。


「昨日は、ご迷惑をかけてすみませんでした」


 考えてみれば、みのると二人きりという状況は初めてだ。況して、犬猿の相手と会話だなんて通常であれば対処に困るシチュエーションではあるが、洋人は持ち前の対人スキルでみのるの視線を受け止めた。


「別に……」


 みのるは決して「別に」という雰囲気ではない顔で、フンと鼻を鳴らす。そして、洋人を上から下までスキャンするように眺めた後、ぼそっと口を開いた。


「アンタさぁ……本当に誠のこと好きなの?」


 ド直球な質問だなぁ、と思いつつも、誠を巡って毎度毎度喧嘩をしている身としては今更隠したり、取り繕うようなことは何もない。洋人はあっさりとそれを認め、首を縦に振った。


「そうですよ」


「どこがいいわけ? 誠って最低じゃん?」


「最低ではないでしょ。子供だなぁ、とは思いますけど……」


 嘘をついて人の家に上がり込み、一夜の関係に味を占めてセフレ契約を持ち出し、人のタバコを勝手に掠め取り、責任分界点を逆手に仕事の依頼は断り続ける…………一般的にも客観的にも最低最悪なダメンズに属する行動だが、真面目で教師受けも良く、表向き友達思いでも心の中がゴミ溜めだった男を知っているだけに、洋人はみのるの言葉を額面通りに受け取ることはなかった。

 しかし、『誠は最低だ』というみのるの言葉を否定するに足る『誠の美点』というものも咄嗟に思い浮かばない。


 顔が良いことと仕事のスキルが高いこと以外に何かあるだろうか?


 敢えて説明するのであれば、洋人がこれまで歩んできた諸々全て含めて丁度良かった、ということだ。常に何かが掛けている自分たちだからこそ分かち合えるものがあった。無理やり心の裡に押し入ってきた誠と、それを受け止めた自分の形がピタリと嵌り、本人ですらも掌握できていなかった心の凹凸を意識することなく本能的に補い合っている。そういう事だ。


「……それに、完璧だからその人を好きになるわけでもないですからね」


 欠陥を挙げるのなら洋人にだって山のようにある。

 これまで何人もの男と付き合い破局してきたが、その恋愛がうまく行かなかった理由が今ならよくわかる。

 頭で思う幸せと、洋人の心が欲していたものがこんなにも乖離していたのだ。思い描いた理想はここにはなかったが、自分でも認識することのなかった本当の自分に洋人は気付いてしまった。

 その尊い事実には理屈も及ばない。

 洋人の言葉に揺るぎない決意を感じたのか、みのるはスッと目を伏せた。


「……バリューバリューにさぁ、……子持ちシシャモのフライが売ってあるの」


「え?」


 何の話?

 何故突然、ご当地スーパーの総菜の話になるのか理解できず、洋人は眉を寄せた。


「誠の好物だよ」


 洋人の顔を見て、みのるはそれだけ言うと「ごちそうさま」と行儀よく手を合わせて席を立った。


「俺ももう家出るから。最後戸締り確認しといてね」


「はい。……分かりました」


 ……なんだこれ? まさか、敵である自分に情報提供してくれたのか?

 今までにはなかったみのるの意外な反応に、洋人は口元をぎゅっと引き締めた。そうしていないと途端に頬がにやけてしまって、せっかく情報を横流ししてくれた宿敵の反感を買いそうだった。

 その後、みのるを見送り一通り片づけを終えた洋人は戸締りを確認してアパートを出た。途中、バリューバリューに立ち寄り二人分の弁当と子持ちシシャモのフライを購入し、電車で職場へと向かう。電車の最寄り駅は誠の家からも、職場からも離れていて不便な場所だが、それもこれも全ては弟の生活を優先させた誠の判断だと言うのだから洋人は頭の下がる思いだった。

 スーパーのレジ袋をぶら下げる洋人のポケットには、星野家の鍵が入っている。道頓堀で最も有名なマラソン選手のチャームが付いたキーホルダーは、みのるが中学生の時に行った修学旅行のお土産という話だ。最低だと言いながら、誰よりも兄のことを理解しているのは他ならぬみのるなのだろう。洋人は弟から大切な兄を奪ってしまったことに多少の罪悪感を抱きながら、それでも、ウチには兄ちゃんが二人いるとみのるに受け入れてもらえるよう、これからも頑張ろうと密かに決心した。

 知らず知らず足取りも軽くなり、洋人は製菓会社のロゴと共に描かれたあのランニング姿の選手のように、両手を上げてみのるとのやり取りを誠に報告したい気分だった。

 始業より三十分前に職場に到着した洋人は、早速テクサポに赴いた。

 昨日の今日でテクサポは少しバタついている様子だったが、誠のツールでアカウントロックは解消したらしく、受電チームの方は落ち着きを取り戻していた。


「あら、どうかした?」


「あの……星野さんは……」


 洋人に気付いて対応に出て来た山﨑に返答しながら、既に休憩に出てしまったのかと、キャビネットのドアに貼られているテクサポの行動予定表を確認してみるが、誠の欄には特に何も書かれていない。


「あぁ……! なら、今局舎で作業していますよ」


 そして大仰に頷き、嫌味たっぷりの言葉を口にした山﨑を見て、洋人は固まった。

 噂になることは覚悟していたが、こんなに早くテクサポにまで影響が出るとは思わなかった。洋人はその伝播力に驚き、危険を察知した心が幾重にも設置された防火扉を一斉に閉める。

 職場でプライベートな呼び名を口にしてしまい、注目を浴びるのはこれで二度目だ。しかし、今回は一度目の時とは比較にならないほどの波及効果だった。

 しかも、山﨑は何故か怒っている。洋人にその心当たりはなかった。

 ビキッと音がするぐらい頬が引きつって、ぎこちない笑顔のままの顔を上げると、ニコニコしつつも全っっ然、目が笑っていない山﨑がこちらを見ていた。


「えーっと…………」


 僕、何か悪いことしましたか?

 率直に尋ねようか迷っていた洋人に、山﨑は口元の笑みはそのままに、目を細めて言った。


「昨日、残りの作業ネットワークセンターに押し付けて帰っちゃったのよ。あの人。お陰でウチの旦那もとばっちり受けてね……」


 なるほど。それもあっての六時ピッタリロクピタか。

 洋人はその迫力に負け、思わず顔を反らしていた。


「星野君に伝言があれば伝えましょうか?」


「いいえ。大した話ではないので、出直します。ありがとうございました」


 鉄壁の営業スマイルで応じながら、洋人は逃げ出すように休憩室へと踵を返す。

 いずれにしても、誠から車の鍵を受け取らないといけないし、誠に家の鍵を返さなければならない。買ってきたフライは一旦冷蔵庫に入れておこうと、廊下を歩いていたら、社員用休憩室の先にある局舎の扉が、ピーっと音を立てて開いた。


「あ、星野さん」


 こんなタイミングで会うなんて、奇跡だ。運命かもしれない。洋人は少女漫画のようなことを考えながら誠の元へと小走りで近づいた。


「早いな。仕事一時からだろ?」


「昼ごはんここで食べようと思って早めに出たんです」


 説明をしながら、局舎から出て来た誠にポケットに入れていた鍵を返す。


「あ。車のキー、ロッカーの中だ」


「後でもいいですよ。それよりも渡したいものがあって……。昨日のお礼にお弁当買ってきたんです。バリューバリューで」


 洋人が説明すると、誠は途端に目を輝かせた。

 丁度、今から休憩に行くタイミングだったと喜んでいる恋人を満足そうに眺めて、洋人は言葉を続けた。


「子持ちシシャモのフライも買ったんですよ。好物なんですよね?」


 それこそガッツポーズでもして喜んでくれるだろう、と洋人もニコニコしながら隣を見ると、誠はゼンマイが切れた玩具のようにピタリと歩を止めた。急停止できずに洋人が三歩先で振り返ると、そこにはこの世の終わりかと思うほど沈痛な顔をした誠がいた。


「それ、誰情報?」

 

 低い声が人気のない廊下に響く。


「え?」


 誠が海よりも深いため息を吐きながら落ち込んでいる。尋常ではないその落胆ぶりに洋人の方こそ驚いて眉を寄せた。

 何かがおかしい……『何』というより誠が纏う『空気』が。


「子持ちシシャモの話。……みのる?」


「ええ……はい。そうですけど……」

 

 好物、なんですよね?


「なぁ、洋人……」


 真剣なトーンで名前を呼ばれ、洋人はその異変を敏感に察知する。


「俺、大概何でも食べるし、なんなら賞味期限切れてても気にせず食っちゃう方だけど、この世で唯一食えないものがある」


「え?」 


 まさか……?


「子持ちシシャモ」


 洋人はそこでようやく、みのるの罠に気付いた。

 

「スーパーで見かけたら逃げ出すぐらい、あのフォルムがダメでさ」


「そんなにっっ!?」


 単純に好きとか嫌いとかいうレベルではなく、もはや蝉と同等の嫌いレベルだ。しかも、ネグレクトの被害者で常にお腹を空かせていたという誠がそれでも食べられないというぐらいだから、よほど嫌いなのだろう。

 洋人は額に手を当て自分の失態を心の底から悔やんだ。いつもとは違うみのるの雰囲気に……病み上がりで本調子でなかったことも含めてあっさりと警戒を解いてしまった自分が情けない。


「お前やっぱ今日休んだ方がいいんじゃねーの? みのるの言うことすんなり信じるなんてさぁ……あいつがお前に本当のこと言うわけねぇだろ。騙されんなよ」


 呆れる誠の隣で、洋人は手に爪痕が残りそうなほど拳を握り締めていた。

 あっっっのクソガキっっっっっ‼‼

 まんまと洋人を騙し、哄笑を響かせているであろうみのるを心の中で罵倒する。

 本調子であれば絶対に、みのるになんて騙されなかったのにっ!

 次回こそは……そう、誠の誕生日プレゼントは絶対に泊まりの旅行にしよう。

 チェックインからチェックアウトまでずーっと誠を独り占めして、溜まりに溜まった欲求を開放して、みのるが聞いたら発狂しそうなぐらい二人でエロいことをしまくるのだ。行き先は、みのるも……そして、子持ちシシャモもいない山の絶景露天風呂で決定だ。

 まんまとみのるの策略に嵌った洋人は、絶賛発動中の巨大猫の裏側で臍を嚙みながらデートプランを練るのであった。

 そして、誠に受け取りを拒否された子持ちシシャモのフライは、その夜山﨑家の食卓に並ぶことになった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る