31話 神はかく語りき 8

 ゴトっという音で洋人は目を覚ました。

 部屋は薄暗かったが、壁越しにみのるが見ているテレビだか動画だか、そんな音が聞こえてくる。洋人が寝返りを打って音のした方を向くとスエット姿の誠がテーブル替わりのこたつの下に手を突っ込んで何やら格闘していた。


「ごめん。起こした?」


「……どうしたんですか?」


「いや、タップが……」


 そう言いながら手を伸ばした誠は、こたつの下から電源タップを引っ張り出し、スマートフォンの電源を差し込んだ。


「すみません。僕がここ使っちゃってるから……」


 洋人の枕元にはコンセントに繋がれたスマホがある。洋人が電源を占領してしまったので、誠が別の電源を確保していたのだ。

 スマホを畳に置いた誠は四つん這いで洋人に近付き、そっと額に手を当てる。間近に迫った体温と共に、石鹸の香りがふわりと洋人の鼻を掠めた。


 夕方、誠に連れられて星野家を訪れた洋人は、食事の後軽く汗を流し、すぐに床に就いた。

 予想外だったのは実の反応で、突然姿を現した宿敵に一度は難色を示したものの、誠が「こいつ、会社で倒れた」と体調がすぐれないことを説明するとすんなりとその矛先を収め、不承不承ながら洋人を迎えてくれたのである。

 もし自分が実の立場だったら相手が病気であろうとなかろうと攻撃の手は休めないだろうなぁ……と熱に浮かされた頭で洋人は自分の性格の悪さを反省しつつ、弱っている人間には殊のほか優しい星野家の兄弟を微笑ましく思った。

 血の繋がりが半分で、姿形も全く違う二人であってもやはり兄弟だ。普段はツンケンしているのに、いざというところで手を差し伸べる、その素直ではない優しさが兄にそっくりだった。

 星野家のダイニングテーブルには大障害に見舞われた兄を労わるように、揚げ物や、焼肉のタレで味付けされた実お手製の野菜炒めやらが並び、平常時であれば洋人も喜ぶがっつり系の男飯ではあったのだが、とてもそんなものが入る気分ではなく、それを見かねた誠が個別に雑炊を作ってくれた。

 その後、風呂に入る段になって、誠が自室から洋人の着替えを持って現れると、柄にもなく洋人に譲歩してしまった自分の甘さを反省したのか、そこでようやく実のスイッチが入りひと悶着が巻き起こった。


『……てかさぁ……何でこいつの着替えが誠の部屋から出てくんの?』


 当然と言えば当然の疑問を口にした実。


『え? 泊まる時いるじゃん』


 洋人と顔を見合わせ「それ以外に理由があるか」と誠はそのあたりの諸事情を一切合切切り捨てて、結論だけを伝えた。

 ……が、もちろん実は納得しない。

 そもそも誠の部屋に洋人の私物が置かれるようになったのは、六月の経営計画発表会が切っ掛けなのだ。

 あの日、洋人の家で一夜を明かした誠は、翌日洋人の私服を着たまま帰ってしまった。それまで互いの家を行き来していたものの、私服通勤な上に会社に作業着がある誠は、洋人の家から出勤する時でも下着の予備さえあればそれほど困ることはなかったし、洋人はいつも車に荷物を置いていた。ところが、その日の誠は異例のスーツ出勤だったため、そこで初めて不便が生じた。

 あの時、誠は洋人が持っている私服の中でも大きめのものを選んでいたのだが、身長にして十センチ以上も対格差がある体にはギリギリで「いい加減私服を常備しよう」という話が二人の間で持ち上がった。以降、互いの家に私物を置くようになったのだが……。


『まさかとは思うけど、アンタの家にも誠の服があったりするの?』


『…………泊まる時に必要ですから』


 洋人はどう答えてよいか分からず、オウムのように誠と同じ回答を繰り返した。


『何当たり前みたいな顔してんだよ。いいか、よく聞けこの間男! お前の服なんかこの家に住む俺の権限でぜーんぶ捨ててやるからなっっ!』


 みのるは声高らかに住人の権利を主張したものの、


『うるせぇよ』


 本来の賃借人である誠に背後からペチっと頭を叩かれた。


『洋人の服は捨ててもいいけど、誠と洋人のラブグッズって書いてる箱は捨てるなよ』


 安定の塩対応で迎え撃つ兄は、火に油を注ぐことを分かっていて、とんでもない言葉を口にした。


『そんな箱ないでしょ』


 そして、ただ一人平常モードではなかった洋人だけが口を滑らせた。

 口八丁の誠に突っ込んだつもりだったのに、過激な反応を見せたのはその弟の方で、真っ赤になった実は口をパクパクさせながら洋人を指さした。


『箱じゃなくてモノを否定しろ! をっっっ‼』


 みのるは時々鋭くて賢い。

 実際、誠の押し入れの中には二人で使うあれやこれが入っているので、洋人の方もついつい言葉選びを誤ってしまった。急激に疲れがぶり返し、それ以上戦う気にもなれなかった洋人はサラリと実の追及を逃れ風呂へと避難したが、その後も兄弟の遣り取りは続いていたようだ。


「まだ少し熱あるな……薬飲む?」


 洋人の額に手を当てた誠が心配そうにのぞき込んでくる。


「……今何時ですか?」


「十時半」


 ということは、二時間半ぐらい寝ていたことになる。

 

「少しずつ楽になってきているので薬は大丈夫だと思います……ポカリ、取ってもらえますか?」


 袋ごと誠に渡され洋人は中身を取り出した。一口飲んで枕元にペットボトルを置き再び横になると、誠もその隣で毛布で作られた急場しのぎの寝床に寝そべった。


「布団、すみません……誠さんも疲れているでしょう?」


「気にしなくていいよ。それより寒くない?」


 はい、と頷きながら顔を向けると、こちらを見ていた誠と目があった。


「……お前と話すの久しぶり」


「え?」


「いや、会社では毎日会ってるけどさ……」


 洋人も同じことを考えていた。会社では顔を合わせている。話もしている。でもいつも仕事の話ばかりで誠と会話をした気分にはなれなかった。


のに……って?」


「そこは意地でも我慢するわ。体調不良の恋人襲うとか、BLじゃないんだから」


 洋人の冗談に誠が笑った。

 こんなやり取りも随分久しぶりな印象を受ける。


「そもそもなんでBLなんですか? まさか、押し入れにそんなものまで隠し持ってないでしょうね?」


 よもや、誠の口からボーイズラブなどという言葉が出てくるとは思っていなかった洋人は、それこそ笑い種だと肩を揺らした。


「ないない」


「ラブグッズの箱は?」


「それもない」


 もちろん、そんな箱がないことは洋人も承知している。微笑みを浮かべたまま誠は布団の外にはみ出していた洋人の手を取った。じゃれるように指を絡める誠を子供のようだと思いながら、洋人は好きにさせる。


「今日は手を繋いで寝ましょうか……って」


「え?」


「いや、前にお前に言われたことがある」


「そんなこと言いましたっけ?」


「言った言った。いつだったかあんまよく覚えてないけど……」


 しっとりと伝わってくる体温を握り返しながら、洋人が首を傾げたら誠と目が合った。洋人は、そのリラックスした穏やかな笑顔を見て、好きだなぁ、と改めて心の中で呟く。


「……落ち着いたら二人でどこか行きませんか?」


「ん?」


「だって、誠さん今月誕生日でしょう? 僕休み取るので……ドライブして、美味しい物食べて、のんびりして……泊まりでも、日帰りでもいいので」


 別に特別なことはしなくていい。ただ、何てことないいつもの馬鹿話をして、二人で同じ景色を見て同じ時間を過ごしたい。


「なんか…………」


 誠が口を開く。


「体調不良の恋人を襲いたくなる気持ち、ちょっとわかったような気がする」


 クスクス笑いながらそう言って、それでも洋人の手を弄ることはやめない。


「僕、ここから襲われるやつですか?」


「いやー、流石にそんなことはしないけど……」


 体調さえ許せば、明日が仕事だろうと朝まで裸で抱き合っていたのに……洋人は少しだけ自分の体調を恨めしく思った。誠の瞳にも僅かに情を含んだ色が浮かんでいる。BL的展開はないと言いながら、その裏では自分と同じように我慢を重ねているであろう誠のことを思うと、不意に切なさがこみ上げてきて洋人は胸が苦しくなった。

 

「温泉行きたいなぁ……」


「いいですよ。リクエストはありますか? 海とか山とか、どっちに行きたいとか……なんでもいいですけど」


 しんしんと音もなく雪が落ちてくるように、洋人の心にも優しくて暖かいものが降り積もってゆく。


「うーん……。でも、別に今月じゃなくてもいいから、きつかったら無理すんなよ」


 洋人を慮りながら誠が指と指の間に自らのそれを差し込んできた。手のひらと手のひらがぴったりくっついて、差し込まれた指の間からも誠の温もりと優しさを感じる。洋人は身体がふわりと宙に浮くような不思議な感覚に包まれた。裸にならずとも誠とこうして触れ合っているだけで、心の中まで柔らかくなる自分がいる。

 洋人の体調を思って距離を取ろうとする誠の気持ちと、それでも近づきたいと思ってしまう洋人の気持ちが不均衡を起こして大きく傾く。

 誠のことを想う気持ちが更に強くなった。


「……わかりました」


 この声が、この指が、そして星野誠というこの世でただ一人の人間のことがこんなにも愛おしい。


「じゃ、考えておいてくださいね、行きたい場所」


「本当、どこでもいいんだけど。俺、そういう場所よく知らないし……」


 そう言って優しい瞳を向けた誠が言った。


「……お前と一緒ならどこでもいい」


 大きな手から伝わった誠の想いに洋人の胸はトンと音を立て、今確かにこの世界で生きていることを主張してきた。

 洋人は自分の中に新たな拍動が生まれたことを感じた。

 止まっていた何かが動き出す。

 それは心なのか時間なのか……或いはその両方なのかは理解できなかったが、洋人にはただ一つだけ確信できたことがあった。

 

 ——自分は恋をしている——


 十年前のクズ男とは全く違う相手に——十年前と変わらない、あの初恋のように……。

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