27話 神はかく語りき 4

 あ、これ本格的にヤバイやつだ。

 洋人がそれをはっきりと自覚したのは午後二時半を過ぎ、やっとのことで休憩に入った時だった。

 休憩室の自分のロッカーの前にしゃがみ込んだら、そのまま立てなくなってしまった。昼間から感じていた悪寒はますます酷くなり、目の奥にズーンと重たい痛みが走る。事務所にいる時は息つく間もない顧客対応と、この状況を打開せねばという気力と責任感だけで持っていたが、ここへ来て一気にその反動に襲われてしまった。

 明らかに発熱している。

 しかも、微熱などという可愛いレベルのものではなさそうだ。

 休憩に入る時間が遅くなったため、部屋には洋人以外いない。こんな姿を誰かに見られなくて良かったと内心ホッとしながら、洋人は身体が動かせるようになるまで、そのままの体勢でしばらくじっとしていた。

 一階にあるコンビニに行くことすら億劫で、それでも何か食べなければと、ロッカーに常備していたカップラーメンを取り出し、重たい体を引き摺りながらポットのお湯を注いだ。

 ラーメンが出来るまでの間、休憩室に置いてある常備薬を漁り鎮痛解熱剤を探し当てた洋人は二錠だけ残ったアルミシートを取り出し、空箱をゴミ箱に放り込む。薬箱の中には風邪薬や腹薬の他に、二日酔いの薬なんてものまで準備されているのに、鎮痛剤と絆創膏だけは需要が多いらしく、どちらも最後の一箱だった。

 三分後、出来上がったカップラーメンを啜った洋人は、マイカップの底に僅かに残ったコーヒーにお湯を継ぎ足して解熱剤を流し込むと、そのまま部屋の隅に設置されたソファーにパタリと横になった。

 休憩室で唯一のソファーは、夜間勤務や災害時の泊まり込み対応をする社員のために誂えられた簡易ベッドも兼ねている。室内を探せばどこかにブランケットがあるはずだが、夜勤経験のない洋人にはその場所が分からず、探す気力もなかった。

 熱と倦怠感以外に自覚症状はない。しかし、溜まりに溜まった疲労が限界値を超えてしまったのか、身体の方は十分でもいいからとにかく横になれとあちこち軋みを上げる。スマホのアラームをかけ、身体の悲鳴に耳を傾けるように目を閉じると、洋人は五分と経たず眠りに堕ちていた。


 ——どれぐらい眠っていたのだろう。

 ひんやりとした手が額に触れる感触で洋人は目を覚ました。薄らと瞼を開くと、夢うつつの視界の中に、神妙な面持ちの誠が浮かんだ。


「あ……」


 バレた。

 洋人は目を瞬いて覚醒したが、身体を起こすことが出来なかった。身体は相変わらず鉛のように重く、洋人の意思がどうであろうと一度得た休息を手放してなるものかと全身全霊で起き上がることを拒否してくる。


「熱あるじゃん」


 市松模様に敷かれたタイルカーペットの上に誠の言葉が落ちる。ヒタリとおでこに当てられた手と同じぐらいその声は冷たく、硬い怒りを含んでいた。

 昼間、ネットワークセンターの後輩に当たり散らしていた時とは全く種類の違うものだ。なまじ顔の造りが綺麗な分、口数の少なくなった誠は凄みが増す。

 いつも子供のように文句ばかり言っているので、やんちゃな王子様のイメージが定着しているが、あれは不器用で照れ屋な誠なりのコミュニケーションの取り方なのだということが、今、真の怒りを目の当たりにした洋人にははっきりとわかった。


「今日はもう早退して、病院に行け」


 いつもの洋人なら、愛想笑いでのらりくらりと躱すとことだが、本気で心配している誠を前にこれ以上嘘や誤魔化しを重ねるのは良くないと感じた。熱があることももうバレている。


「さっき解熱剤飲みました。定時までは頑張れます……あと、二時間ですし」


 昼時を迎えて再び燃え上がった入電を捌くために、コールグループ社員は一丸となってその対応に当たっていた。

 ノーティスの修正が昼過ぎに完了し、ホームページにもその旨が掲載されたものの、既に発生しているアカウントロックについてはこちらで対応する以外にない。ノーティスからたらい回しにされ、どこに掛けても繋がらないと怒りを増した顧客の対応は、朝よりもずっと骨が折れる作業であった。

 洋人も何度か休憩に行けそうなタイミングはあったのだが、その都度受電チームから相談を受けたり、遅番のメンバーから質問を受けたりして完全にその機会を逸してしまった。結果、この時間になってようやく休憩に入れたわけだが、それでもコールセンターは正常とは程遠い状態にある。

 こんな所でへばっている場合ではないのだ。


「お前なぁ。インフルエンザだったらどうすんの? 皆にうつすぞ?」


「多分違うと思います。時期が違うし、喉も痛くないし……昔からあるんですよ。キャパ超えると、こんな風にポンと熱が出ちゃうことが……。ここに異動してきた時にもありましたもん。秋ぐらいに九度まで熱が出て……」


 洋人が説明すると、誠は更に不機嫌になった。

 

「俺そんなの知らないけど?」


「誠さんには話してないですもん」


「はぁぁぁ?」


 いやだって、あの時はただのセフレだったじゃないですか。

 そう言おうとして、洋人はふと疑問を感じた。

 ? では、今は何だと言うのだろう?

 都合よく快楽だけを求めて始まった関係が、周囲に付き合っていると認知され、便宜上互いに「恋人」と認識はしているが……。

 こんなに長く続くなんて、あの時想像していただろうか?

 『生涯の伴侶を見つけるんです』それが、当時の洋人の口癖だった。

 

「それに、今病院かかっても検査に出てこないでしよう? 明日遅番なのでゆっくり出来るし、朝まで熱が下がらなかったらその時はちゃんと病院に行きます」


 未だに生涯の伴侶は見つかっていない。それなのに、洋人はこんな風に誠に叱られて、甘やかされることに幸せと心地よさを感じている。

 考えれば考えるほどいたたまれなくなって、洋人は過保護なお母さんぶりを発揮する誠を向こうへ押しやった。

 

「誠さんはもうすぐ終わりですよね?」


「残業するからみのるに連絡しようと思って……」


「ほら。テクサポだって頑張ってるじゃないですか。こんな状態で帰れませんよ。僕も定時までは頑張ります」


「でもさ……」


 体調不良をおしてまで頑張る必要があるのか、とその意見も分からないではない。洋人だってこんな障害が起こらなければ、昼の時点で正直に事情を話して、午後から半休を取らせてもらっていた。でも今回は障害の規模が違う。

 今やノーティス問題は社内全土に影響を及ぼしている。そして、その最前線で戦っているのは他ならぬコールセンターのメンバーなのだ。その筆頭ともいえる誠から戦力外通告を受けるのは、洋人には耐え難い屈辱だった。


「……ツールは完成したんですか?」


「もうとっくに動いてる。それでも明日まで時間はかかるけど……」


「だったら尚更ですよ。夕方になればまた電話も増えます。テクサポの対応が終わっても、コールは最後まで案件を引き摺ることが多いんです」


 誠が心配してくれたお陰か、身体はともかく心の方はだいぶ回復した。このまま薬が効いてくればあと二時間ぐらいは働ける。

 誠は再び洋人の頬にピタリと手を当てた。その手は相変わらずヒンヤリしていて気持ちが良い。


「飯は? ちゃんと食った?」


「カップラーメンを……」


 洋人は窓際のテーブルに放置した容器を指さす。


「夕飯はちゃんと食べます……病人らしく、おかゆとか」


 眉を顰める誠に、洋人は言い訳を重ねた。

 お腹は空いていたが、コンビニに行く気力と体力がなかったなんて言ったら、誠はますます心配するだろう。それに温かい物を食べたかったので、コンビニに行ったとしても、カップラーメンは買っていた。

 最初に誠に訊かれた時、正直に体調のことを話さなかった申し訳なさを感じつつ、洋人は吸い込まれるようなこの眼差しを独り占めしている切なさを噛みしめながら目を閉じた。


「絶対に定時であがるんだな?」


 やがて、誠が手を離し洋人に小さく尋ねてきた。


「はい。帰り際には皆にちゃんと話します」


「もし、約束破ったら……」


「ミニ四駆返しましょうか?」


「いや、お前にミニ四駆あげてないし……」


 洋人の冗談に誠もやれやれといった様子で、諦めてくれたようだ。


「誠さん……一つお願いがあって……」


「何?」


「休憩室にブランケットあったと思うんですけど、どこにしまってあるか知りませんか?」


 まだ、休憩時間は二十分残っている。その間はゆっくり眠りたい。


「あー……あれはやめた方がいい。一度も洗ってないから、使うと身体痒くなる」


「えぇっ?」


 誠はそう言って、休憩室内にあるロッカールームの方へと姿を消した。

 バタンバタンと扉を開閉する音がしたかと思ったら、自分のブルゾンを持って現れ、洋人の上にバサッと掛けた。

 黒いブルゾンは薄手ではあるが、中綿が入ったものだった。


「それ使っとけよ。何なら仕事中着ててもいいけど……」


「や……それはさすがに」


 こんな格好で事務所に戻ったら皆何事かと目を丸くするに違いない。


「目立つの嫌なら屋外用の作業着もあるけど?」


「いや……それもコールグループではそこそこ目立ちますから……」


 日々スーツで仕事を行っているのに、『緊急時なので』なんて言い訳をしたところでコスプレ感満載だろう。大災害が起こった時の総理大臣ではあるまいに、服装で意気込みを主張する必要もない。


「使い終わったらロッカーの中に戻しといて。……ゴミは片づけとくから」


「すみません」


 洋人が謝ると誠は全てを承知してくれたように、ポンポンと頭を撫でて立ち上がった。きっと納得はしていないのだろうが、この障害に対する気持ちはきっと同じなのだろう。

 そして、洋人が出したカップラーメンと薬の殻を片付けた誠は、


「絶対定時だからな。約束破るなよ」


 部屋を出る間際、もう一度念押しして休憩室を後にした。

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