28話 神はかく語りき 5

 二十分後、アラームで目を覚ました洋人はゆっくりと体を起こした。

 仮眠を取ったお陰で、先ほどよりまともに体は動いている。解熱剤が効けばもう少し楽になるだろう。多少なりとも回復したことに胸を撫でおろし、洋人は誰もいないのをいいことに、ぼんやりした視界に映る誠の上着にボフッと顔を埋めた。心ゆくまで愛しい匂いを吸い込み、もう一度気力を振り絞って仕事に戻る。


 事務所の中が落ち着きを取り戻したのはほんの束の間のことで、午後五時を過ぎると再び入電が増え始めた。コールグループ社員はその対応に当たり、幾度口にしたかわからない謝罪の言葉を並べ、ひたすら同じ対応を繰り返す。社内に情報が行き渡り店舗からの問い合わせはなくなったものの、十八時を過ぎて家人が帰宅すればフリーダイヤルへの入電は更に増えるだろう。そうなる前に今の時点で捌ける案件はできるだけ処理を進める必要があった。

 コールグループは通常勤務と遅番の二交代制だ。十八時以降、一般問い合わせのフリーダイヤルが閉じる二十時までは、遅番の社員二名体制で仕事をすることになる。人数が揃っているうちに出来るだけ処理するというのは、コールグループに関わらずテクサポも同様の方針で、現に早番の誠はとっくに定時を過ぎているのに残って仕事をしていた。

 皆が当たり前に残業を覚悟する中、洋人はなかなか自分の体調のことを切り出せずにいた。次々に仕事の依頼が来ることもあって、後手に回した結果、ようやく明日の業務のことを口に出来たのは定時まで五分を切った頃であった。


「高見さん、ちょっといいかな?」


 洋人は高見の仕事の状況を見計らって声をかけた。

 とりあえず昨年のデータに間違いがあったことだけでも伝えておけば、彼女が明日出勤した時点で作業に取り掛かることはできるはずだ。頭の中で予定を組み立てつつ、高見に前年の件数に間違いがあったことを伝えた。


「ちょっと待ってくださいね……えーっと……」


 定時を目前に控えたこんな時間だというのに、高見は嫌な顔一つせずフォルダの中から該当のデータを開き年計の数字がズレていることを確認すると「あー……」と頷きながら画面に顔を近づけた。


「これ確認するの、結構時間がかかりそうですね」


 洋人がパソコンを覗き込む高見の言葉に賛同したところで、壁掛け時計から十八時を告げるチャイムが鳴った。

 ウェストミンスターの呑気な響きとは裏腹にコールグループには緊張感が走る。これからまた入電が増えるだろう。本当に今帰ってしまっても良いのだろうかと心配しつつ、洋人は高見への説明を続けた。


「CSVのデータを張り付けているはずだから、数字の転記ミスってことはないと思うんだけど……」


「そうですね……ピボットで集計して、ひと月ごとに確認していくしかなさそうですね……」


 高見はエクセルのスキルが高い。前職は通信業とは全く関係のない会社で営業事務をやっていたという話だが、電話対応のみならず、この手の事務作業でも非常に役に立つ人材であった。洋人も資料作成程度であれば、エクセルは使えるが、関数も巧みに使いこなせる彼女ほど知識があるわけではない。こうやって、高見が自分で解決方法を考えてくれることも、大いに助かっていた。


「満島さんは……あ、そうか。明日遅番ですね。分かりました午前中にデータのチェックをしておきます」


「ありがとう、助かるよ。……あの……それで、ちょっと話しておきたいことがあって……」


 実は今、結構ギリギリの状態で仕事をしていて、場合によっては明日休むことになるかもしれません。つきましては、月報の件数を修正した上で昨対比に間違いがないかチェックして、的野さんに報告していただけないでしょうか?

 要件は以上であったが、高見を驚かせないためにどう伝えれば良いかと、洋人が悩んでいると、


「洋人!」


 コールグループの仕切りから、憮然とした誠が姿を現した。

 高見はキャッ! と声を上げ、少女漫画のようにキラキラ目を輝かせながら両手を揃えて口に当てる。もういい加減この顔、見慣れたでしょう? と洋人は思ったが、入口に立つ誠は作業着の前をはだけ、その下の黒いシャツを惜しげもなく晒している。着替える途中であるかのようなラフな格好で、しかも、ボートネックの襟ぐりからは、普段作業着で隠れている鎖骨がチラリと覗いていた。ポケットに手を突っ込んで、やる気の感じられない登場であったが、この男がそれをやると何故か全て絵になってしまうのだから困りものだ。

 誠は疲労の度合いが濃く残る半眼で洋人を見下ろし、不機嫌さを隠そうともしない。何かに対して強い執着を見せるその横顔には野生動物ような気高さと男の色気が漂い、高見が顔を赤らめて歓喜するのも無理はなかった。

 何事かとコールグループのメンバーが見守る中、誠はそんな視線もお構いなしに、洋人だけを見据えてズカズカ歩いてきたかと思うと、一言。


「定時」


 ……昼間の約束のことを言っているのだ。

 洋人とて、忘れたわけではない。ついさっきチャイムが鳴ったので、定時を迎えたことも承知している。だからこそ、洋人は今こうやって高見に明日の業務の話をしている。


「今引継ぎしているところです」


 タスクバーの右隅にある時計は十八時三分を示していた。キンコンカンコンとチャイムが鳴って、退勤の打刻をして、諸々を片付けたとしても五分ぐらいはかかるはずだ。

 チャイムとほぼ同時に他部署に姿を現すなんて、貴方の時計にアディショナルタイムはないんですか……? 

 洋人はよほどこの場で叫びたかったが、誠はそんな甘えすら許してくれそうにない。剣呑な光を帯びた瞳を更に細めて腕を組む。


「六時に上がるのに、六時から引継ぎすんな。それも計算して仕事しろ!」


 言っていることはごもっともだが、そんな業務の終わり方ができるのは保育園のお迎えが差し迫っている時短勤務者か、電車に乗り遅れたくない遠方からの通勤者か、体調不良の恋人が定時で仕事を終えることを監視したい過保護ぐらいだろう。

 誠が六時ピッタリロクピタで業務終了したということは、それ以前から私物を片付け、六時を狙って虎視眈々と準備していたということだ。

 昼間正直に話をせず、誠を本気で怒らせたとは思っていたが、まさかここまでやるとは思わなかった。

 第一、洋人には一緒に帰る約束をした覚えはない。誠は当然の如くコールグループのブースまでやって来たが昼間の『約束』にそれも含まれていたということか?


「無茶言わないでください! あと少しで終わるので、休憩室で待っててください」


 もちろん、洋人だって一緒に帰りたいのは山々なのだ。昼間のお礼もきちんと言いたいし、何よりほんの僅かでもいいから誠とゆっくり話をしたい。しかし、互いの意思がどうであれ仕事は仕事。こんな中途半端で『お迎えが来たのでハイ、さようなら』なんてできるはずがなかった。


「はあぁぁ? お前そうやって、性懲りもなく仕事するつもりだろう? 熱あるんだから無理すんなっつってんだろ!」


 その瞬間、コールグループのメンバーが『えっ!?』と驚きの声を上げ、一斉に洋人の方を見た。今の今まで誰一人としてそんなことには気づかった、という様子だが、当然だ。洋人はここにいる間、全力で体調不良を隠していたのだから。


「満島君、大丈夫なの?」


「ダイジョウ……」


「大丈夫じゃない。こいつ、休憩時間に解熱剤飲んでたし、今も無理してる」


 目を丸くした的野の問いかけに、答えようとした洋人を遮って誠が洗いざらいぶちまけてしまった。


「ええっ!? そうなんですか?」


 高見までもが眉を顰め、洋人はすっかり病人扱いだ。

 ああ、余計なことを……と洋人は誠の暴露を恨めしく思ったが、事実は事実として伝えておかなければ、明日の業務に支障が出る。


「……まぁ……そうなんですけど……それで、明日出勤できるか分からないので、高見さんにデータの確認と修正をお願いしたいなぁ……と思って……」


「え? データが違ってた? どこ?」


 月報のことだと瞬時に分かったのか、的野が洋人の席にやってきた。


「ひーろーとー……」


 ますます不機嫌になる誠を「すぐ終わりますから」と宥めて、洋人は机の上にあった二つの月報を的野に手渡した。


「前年の累計が、違っていて……」


「あ……本当だ」


「昨対比が変わってしまうので、修正しなければならないんですけど、どこで数字がずれたのか分からなくて……あ」


 的野が手にした月報を三人で覗き込むようにして眺めていると、横から伸びて来た手がそれをひょいと取り上げた。


「ちょっと……! 邪魔しないでくださいよ!」


「いいからお前はさっさと片づけをしろ」


 誠は三人のことはすっかり無視して、去年の月報をペラペラと捲りだした。

 仕方がないので、洋人は的野への報告も含めて高見に改めて業務指示を出す。


「それで、明日なんですけど、体調次第では出勤が難しくなるので、高見さんにはデータの確認と、今年度の月報の修正もやってもらえたらと思って……」


「わかりました」


「満島君、気付かなくてごめんね」


「いいえ。今日は非常事態だったので、僕もなかなか言い出せなくて……もっと早く報告するべきだったのに、すみません。解熱剤を飲んだらだいぶ楽になったので、大丈夫とは思うんですけど、何かあれば早めに連絡します」


「何ならもうシフト変更しておく? 俺遅番でもいいけど……」


「いいえ。今日のこともありますし、的野さんは朝からいた方がいいと思います」


「本当に大丈夫? 運転できる?」


「はい……本当に、たまにあるんです。こういうこと。一晩ゆっくり寝れば回復すると思います」


 それでは、お先に失礼します、と洋人が切り上げようとした時、


「高見さん、ここ」


 洋人の隣で、黙々と紙を捲っていた誠が、あるページを指さした。


『え?』


 再びコールグループ全員の視線を集めた男は、相変わらずのマイペースで、洋人の机の上にあったペンで月報に丸をつけた。


「あと、ここも」


 そう言って、更にもう一箇所丸を付けた後、机の上にペンを放った。


「え? 星野さん、何したんですか?」


「何って、月報の不備見つけただけだろ。ほらとっとと勤怠打てよ」


 どうやって、いつの間にそんなことをしたのか、驚く面々に説明もなければ解説もない。これで全ては完了したと、机の上にあったマウスを洋人の方へ押しやり、誠は手にしていた資料はまとめて高見に押し付ける。


「はい、これ。間違ってるとこ丸つけといたから、あとよろしく。高見さんが修正するんでしょ?」


「え? あっ、はい! も、もちろんです!」


 突然資料を渡された高見は、背筋をピンと伸ばしてそれを受け取り、顔を真っ赤に染めて頷いた。


「で、月報の修正が終われば、あとは的野さんの方で何とかできますよね?」


「や……そりゃもちろん、そうだけど……」


 高見の次に話を振られた的野もこの美男子は一体何をしたのかと及び腰になりながら頷いている。


「じゃ、こいつが明日休んでも問題ないっすよね? 所感なんて誰が書いても同じでしょう?」


「そう……ね。数字さえクリアしとけば、とりあえず……」


 真顔の誠に詰め寄られ、的野は一歩後退して距離を取った。


「星野さん、的野さんを脅さないでくださいよ!」


「脅してねーよ。お前がちんたらしてるから段取り組んでやってるだけだろ」


「ちんたらって……たかだか三分じゃないですか!」


「んなこと言ってズルズル仕事してんのは誰だよ? ここまでお膳立てしてやったんだから、ワーカホリックも大概にしやがれ!」


 サッカーの審判よりも更に厳しい表情で洋人の一挙一動を監視していた誠は、大きな牙を剥いてその抗議をことごとく却下した挙句、最後の最後にパソコンの電源ボタンに手を伸ばしてきた。


「ちょっと待ってください! 何やってるんですかっ⁉︎」


「うるせぇ! もう十分過ぎたぞ。これ以上待てるか!」


 よもやの行動に、洋人は誠の腕を掴んで止めようとしたが、一歩及ばす、誠はボタンを押してしまった。


「止めてくださいっっっ‼︎ 誠さん!」


 電源長押しでパソコンを強制終了させようと企む誠に、洋人はここが職場だということも忘れて思わずその名を叫んでいた。

 辺りに響いた大声に、コールグループの面々がはっと息を飲み、コールグループのブースを訪れていた一般受電チームのマネージャーは入口で固まってしまった。

 聞いてはいけない言葉を聞いてしまった彼女は、茹蛸のように真っ赤になり、手にしていた顧客情報をハラリと床に取り落とす。

 そして、それとほぼ同時に、洋人のパソコン画面はシュン……と、末期の息を吐いて暗転したのである。

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