29話 神はかく語りき 6
強制終了なんてしたら、ハードディスクに負荷がかかって最悪壊れてしまうことだってあるんですよ?
洋人が抗議の声を上げると、そんな事は百も承知のネットワークセンターの神様は運転席に滑り込みながらフンと鼻で笑って宣った。
「パソコン立ち上がらなかったら俺に言えよ。何とかしてやるから」
……洋人にもその言葉が単なる出まかせや大言壮語でないことが分かるだけに、憎たらしい限りである。
電源長押しの強制終了なんて人間の頭を殴って気絶させるようなものだ。何の問題も起きてないパソコンに対してやることではないし、ワーカホリックの業務を終わらせるために使う技でもない。
結局、あれからパソコンを立ち上げることも出来ず、洋人は打刻も日報も打たないまま誠に引き摺られるように事務所を出た。コールグループのメンバーは憐みとも好奇ともつかない目でその様子を眺めていたが、誰一人として誠の暴挙を止めてくれる者はいない。それだけ誠の勢いが凄かったのか…………或いはただの痴話喧嘩だと思われたのか。
「体調は?」
尋ねながら、誠は手にしていたブルゾンを洋人の方へと放る。着ていろ、という意味なのだろう。洋人は渡されるまま誠の服に包まった。
「薬が効いているので昼よりマシですが、早く横になりたいです」
正直に自分の状態を伝えると誠は呆れたようにため息を吐いた。
「飯は? 食えそう?」
「軽いものなら」
それよりも、今日はもう何もせずに寝てしまいたい。
誠には昼間『病人らしくおかゆを食べる』などと言ったが、思った程お腹も空いておらず、実際のところ夕飯の調達すら面倒になりつつある。仕事が終わって気が抜けたのか、先ほどの小競り合いで更に疲れが蓄積されてしまったのか……こうしてシートに収まると身体に溜まった疲れが全身から染み出して、目を開けていることさえ辛くなってきた。
「着いたら起こしてやるから、それまで寝てろよ」
「帰りに薬局に寄ってもらえますか? 解熱剤とポカリ買いたいです」
「はいはい。薬局ね」
サイドミラーの位置を修正しながら誠が答える。作業着を脱いだ誠は黒の長袖にカーゴパンツという出で立ちで、相変わらず魅力的な鎖骨がチラ見えしていた。腕から首にかけてのラインも、男らしくて見惚れてしまいそうなほどだが、洋人はやっぱり作業着の誠が好きだと思った。
誠は仕事中でもふざけているような男ではあるが、一旦スイッチが入ると原因特定から問題解決までの最短ルートを一気に駆け抜ける。そこにはチームやグループといった枠組みは存在せず、何をどう使えば一番早いという計算しかない。余計なものを一切排除してパソコンに向かう真剣な目つきや、黙々と作業をする誠には人の目を惹き付けて止まない鋭利な美しさがあった。
その緊張感から解き放たれ、疲れを滲ませたあの一瞬があんなにも背徳的で官能的なものだということに、洋人は今日改めて気が付いた。
会社でしたことはないし、する予定もないが、万が一休憩室で作業着のまま誠に迫られるようなことがあったら、洋人はひとたまりもないだろう。荒々しいキスと共にその体重で机の上に縫い留められ、戸惑い躊躇するこちらの気持ちなど一切勘案しない誠に後ろから……。
——とその光景を頭に描きかけて、洋人はフルフルと首を振った。
「どうかした?」
「いえ。何でもありません」
完全に欲求不満だ。
誠に気付かれぬよう、洋人はブランケット替わりの服を引き上げて熱くなった頬を隠す。早く頭を切り替えなければ、このまま誠の匂いに包まれズルズルと不埒な妄想に捕らわれてしまいそうだった。
「…………そういえば、月報の間違い、どうしてわかったんですか?」
「計算すれば分かるじゃん」
洋人が尋ねると誠は不思議そうに首を傾げ、さも当たり前のように言った。
「計算って、三百六十五日分のデータですよ?」
それを全部計算したと言うのか? 関数も、電卓もなしで?
どんな天才ですか、アンタは?
冗談言わないでくださいよ、と洋人は失笑すら浮かべて運転席を見上げたが、同じく洋人を見下ろす誠は至極真面目な顔で、
「四則演算って、訓練でどうにでもなるものだからな」
カチンとシートベルトを締めた。
「え? 本当に計算したんですか?」
「うん。たまにテレビでやってるじゃん。ぱぱぱーっと出てきた数字計算する子供とか……」
「でも、あれはテレビでしょう? 実際にそんな事が出来る人、見たことありませんよ」
「だから訓練なんだって。昔から暇つぶしにそういう遊びやってたんだよ。……試しに適当な数字言ってみる? 計算するから」
誠が言うので、洋人は視界に入った車のナンバーを右から順に読み上げた。
「4626+658+3906+2907+1566+75-9521」
「4217」
微妙にマイナスを入れたのに、間髪入れず誠が答える。
「合ってる?」
「分かりません」
洋人が答えると、誠が隣で吹き出した。
「なんだよそれ? 外国人に英語で話しかけたけどリスニングできませんでした、みたいなオチ、やめてもらえません?」
「だって……」
「もう、いいから寝てろって」
誠はそう言って、車を発進させた。
やたら頭のいい人間だとは思っていたが、誠がこんな特技を隠し持っていたことを洋人はこの時初めて知った。
洋人が知っている誠は、社内一のイケメンで、奧枝美保子のお気に入りで、女性社員の注目を一身に集める王子様である反面、仕事は真面目にやっているのかいないのかいまいちよくわからないし、年がら年中ふざけているし、コールグループからの協力要請は全力で拒否する問題児である。その他のことと言えば、ブラコンの弟がいることと……中学の時に悲惨な体験をしたことぐらいだろうか。
洋人はその事実を、本人の口から聞かされた。
母親が恋人に殴り殺されたこと、その男が
そして、誠自身も虐待を受けていたこと。
——お前、知ってた? 骨ってゆうパックで送れるの——
弟を引き取る際に、母親の遺骨を海洋散骨の業者に送ったのだ、と誠は笑いながら洋人に話した。
誠の過去を聞いた時、一応、洋人の心にも人並みの感情は湧いたのだ。『可哀そうだ』とか『大変だったろうな』とか。ただ、本人がそんなものを求めていないのは一目瞭然で、ニヤニヤ笑いながら遺骨の話をする誠の心の中に母親の存在が未消化のまま残り続けていることが洋人には分かってしまった。
きっと誠は洋人に同情してほしかったのだ。同情する洋人に幻滅して、何も変わらない現実に一人ぼっちでいたかったのだ。洋人にはそんな風に見えた。
だから、洋人は驚きもしなかったし、同情もしなかった。
『あー……。部屋、狭くなりますもんね……』
そう答えたら『サイコパス』と呼ばれた。
失礼な。
実際、邪魔だったという理由で母親の遺骨を処分したサイコパスにサイコパス呼ばわりされる筋合いなど全くなかったが、当てが外れた誠が悪魔だ鬼だとギャーギャー騒ぐので、仕方なく洋人も言ってやった。
——確かにそうかもしれません。僕ね、マンションの七階から飛び降りたことがあるんですよ——
それ以降、ズルズルと誠との関係は続いている。
洋人とて、自殺未遂事件は進んで打ち明けたい過去ではなかったが、人の生き死にがかかった修羅場を経験している誠には抵抗なく話すことができた。そして、セックスであらぬ場所を他人に見られたり触られたりするよりも、一番に隠しておきたかったセンシティブな問題を自ら暴露したことで、洋人の中でも何かが変わった。
誠に対して遠慮することがなくなった。
そうしたら過去のイジメ問題や、自分がしでかした事件を他人に知られることがあまり怖くなくなった。
世の中にはこんな人間もいる。
誠を見て、それを実感した。
傷の舐め合いではなく、淡々と生きている、自分以外にもそういう人間がいるのだと、洋人はこの時本当の意味で同士の存在を実感できたのだ。
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