39話 黒いサンタが来る夜は 7

 露店の店先で声を掛けられた洋人と春日は、そのままの流れで東嶋と部下のトナカイたちを引き連れて戻ってきた。

 洋人たちのワイン代まで東嶋がまとめて支払ってくれたらしく、その場で「ありがとうございます。では、さようなら」というわけにはいかなかったようだ。

 ワインを奢ってもらえてラッキーなどと春日は呑気に喜んでいたが、その飼い主はブラックサンタの登場でテンションがダダ下がりしていた。

 皆が次々に東嶋へ感謝の言葉を口にする中、誠だけは沈黙していた。何故なら、誠の烏龍茶は洋人が自販機で購入したものであり、東嶋の恩恵を受けなかったからだ。何のメリットもない上に、社内で最も苦手な東嶋と酒の席を共にしなければならなくなった誠は、こんなことなら奧枝美保子に襲撃される方がまだマシだと思った。

 東嶋がテーブルに置いたチラシには会社が主催するイベントの内容が掲載されている。添付された靴下型のカードに願い事を書いて写真を撮り、専用サイトにアップすると会場南側に設置された特設ステージのプロジェクションマッピングに投影されるというものだ。

 東嶋は『皆がハッピーになれますように』と書いて投稿したらしいが、誠のハッピーは確実に遠のいている。


「それにしても珍しいメンバーだね」


 大きな目でこちらを見ながら東嶋は湯気の立つ紙コップを口に運ぶ。


「俺たち同期なんですよ。たまたま星野がいるのを見かけて声かけたんです」


 定森が当り障りのない回答をする中、視線を向けられた誠は監視カメラで撮影されているような居心地の悪さを感じて東嶋から視線を逸らした。

 東嶋の職位はネットワークセンターのセンター長、西島薫にしじま かおると同等だ。営業のトップである東嶋と、保守を束ねる西島。業務上でも頻繁に対立する二人のことを、社内の人間は東西対決などと言って面白がっていた。

 もちろん、保守も営業も会社にとっては不可欠な存在である。しかし、利益を追求する営業と、安定した通信環境を守る保守とでは業務上の性質が真逆と言ってもいいほど相容れぬものだった。

 営業から見た保守は責任分界点を盾に職責を全うしない『無責任』だし、保守からすればネットワークの何たるかも理解しないまま顧客の要望ばかり取り付けてくる営業は口先だけの『無責任』である。

 インターネットの開通をする。通信回線や電話が繋がっていることを確認する。保守に出来るのはそこまでだ。やれ速度が出ないだの、どこぞのサイトが閲覧できないだの、『そんなもん知るか』の世界である。それでも何だかんだと顧客が騒ぐので致し方なく網内を確認したりもするが、調べても何も出て来ない。ありのままの事実を伝えても営業は客と一緒にあーだこーだとダダを捏ねるので、「はいはいはいはい。そこまで言うならポート交換してみましょうか?」なんてことを年がら年中やっている。

 仲良くなれるわけがない。

 

「君たちの同期って、田所さんとか、熊本さんもそうだっけ?」


「…………」


 つい今しがた話していた元カノの話を持ちだされて、誠は飲みかけていたワインを吐き出しそうになった。洋人の前では絶対に口外するなと同期に布いたかん口令は、思わぬ形で破られてしまった。


「田所さんはそうですけど……熊本さんって昔経理課にいた方ですよね?」


 何も言えない誠の代わりに真奈美が答える。


「そうそう。髪の毛がクルクルしてて背の低い」


「彼女は一つ下の代ですね」


「君たちの代っていろいろあったでしょ。だから印象に残ってる子多くてさ」


 ハハハと笑いながら東嶋が口にした人物は二人とも誠絡みで一悶着あった人物だ。実際に付き合って破局した田所は言わずもがな。そして熊本は直接的に誠と何かがあったわけではないが、経理課の女帝、奥枝美保子と激しくやり合って嵐を巻き起こした挙句、退職していった。どんな会社でも各年代毎の特徴や傾向はあるのだろうが、東嶋が言うように誠が入社してからの数年間は良くも悪くもあちこちで人間関係のトラブルが発生した時期でもある。


「田所さんは面白い子だったんだけどね……」


「第一営業部で働かれていたんですか?」


 そして、こんな話題になれば、社交辞令であろうとなかろうと洋人が反応することは目に見えている。東嶋の余計な一言でニアミスが発生しているが、できればこのまま穏便にフェードアウトしてほしいと、誠は密かに両手を合わせた。

 洋人も誠もそれなりに恋愛経験は積んでいる。そして、その全てが清廉潔白と言い切れるわけではないことも互いに折り込み済みではあるが、社内の人間に手を出していた誠は洋人に比べるとどうにも分が悪い。現にここには田所麻有のことを知っている人間が誠の他に三人もいて、真奈美に至っては未だに連絡を取り続けている友人でもある。


「いや。店舗にいたよ」


 洋人の方はと言うと、生涯の伴侶を求めるという大きな野望を抱きながらも、性的マイノリティである自身の都合もあって、社内恋愛NGというルールを徹底していた。セフレ契約を持ち出した時も随分渋られ、誠はそれを何だかんだと言いくるめて、なし崩し的に身体の関係に持ち込んだのだ。

 口では頑なに断っていたものの、一旦身体を繋いでしまえば思いの外洋人はグズグズで、本人もそんな性質を重々承知していたからこそ社内の人間とは繋がりたくなかったのかもしれない。

 それは、品行方正謹厳実直なキャラを守るために、洋人が自身に課したルールだった。そこを侵害されることは、洋人にとっては命取りにもなる事案だったはずだ。それを無理やり押し破ったのは誠。そして、洋人の事情を慮ることもなくうっかりミスでこの関係性をコールセンターで暴露してしまったのも誠だった。

 考えれば考えるほどダメダメな自分に落ち込む誠は、東嶋を前にした所為か更なる焦燥感に駆られた。早くこの話題が終わらないか、と内心ビクついている誠を他所に東嶋は余裕綽々笑いながらカップの淵を親指と人差し指で挟んで再びワインを口に運ぶ。


「彼女ね。バレー部作るって言って頑張っていたんだよ。俺も学生時代バレー部にいたから、よし、作れ作れって言ってメンバー集めてたんだけどね」


「そう言えば、会社の中にもいろいろありますね。ジョギングクラブとか、ボーリング部とか……」


「一定人数集めて申請すれば福利厚生で部費を貰えるからね。微々たるものだけど」


「それでバレー部は出来たんですか?」


「いいや。結局メンバー集まらなくて。星野君に広告塔になってもらおうかなんて話もしてたんだけど」


「えっ⁉︎  いや、ちょっ……うわっ!」


 部活の話になったことで安心していた誠は不意を突かれ、手元にあったマグカップを倒していた。四分の一ほど残っていたワインがテーブルの上に流れ出し、誠の袖を濡らした。

 真奈美が悲鳴を上げ「もー! 何やってんのよ!?」と叫びながらウェットティッシュを誠に投げつける。


「いきなり話振られたからびっくりしたんだよ」


 誠はティッシュを引き出して零れたワインを拭く。


「星野さん、そんなことまでやってたんですか?」

 

「やるわけないだろ」


 テーブルの掃除に精を出す誠を洋人がじっと見つめる。その視線に特別な意味が隠されていることは確認するまでもなく、痛いだけの腹を探られたくなかった誠は敢えて洋人と目を合わせないようにした。


「星野はいろいろ目立ってたから……ほら、パンフレットのモデルとかやってたし」


 ナイスフォロー。と頼りになる同期の言葉に感謝したのも束の間、


「そうそう。さすがに彼女のお願いなら聞いてくれるんじゃない? って言ったんだけど、絶対無理って断言されてさ。東嶋さんポケットマネー出してくれたらそれで釣りますって……はははは。本当、面白い子だったよ」


 言いやがったよ、コイツ‼

 誠は心の中で盛大な舌打ちをした。


「へぇー…………。田所さんって、星野さんの彼女だったんですか……」


「まぁ……そんなことも……あった…………かな」


 後ろめたい気持ちを胸一杯に抱えて洋人の様子を伺うと、すいっと目を反らされた。温かいマグカップを両手で包み込み、ボルドーの水面に視線を落として口を噤んだ洋人に気付いているのかいないのか、東嶋は相変わらずの調子で話しかけている。


「満島君は何かスポーツをやったりするの?」


「ああ、いいえ。僕は特に……」


「あら、そうなんだ。それこそ、キャプテンとかしてそうなのに……」


「いえいえ。そんな器じゃないです。運動もそんなに得意ではないし、どちらかと言うと一人でぼーっとしている時の方が多いですよ」


「意外だな。毎週毎週予定が詰めないとダメなタイプかと思ってた」


「ですよね。自分もそうだと思ってました」


 トナカイの一人が東嶋の言葉に賛同すると、周りのトナカイたちも一様に頷いた。


「ビジネス書とか、経済誌とか、ずっと読んでそうなイメージがあるのになぁ……」


 洋人はONとOFFの落差が激しい。知らない人間から見れば、寝ても覚めても仕事一本の意識高い系で、いつだって真剣というイメージがあるかもしれないが、化け猫の装甲を解いた洋人は人並みにだらしない一面も持っている。


「そんなことないですよ。たまに一緒に飲む友達はいますけど、プラっと一人でドライブに行ったり……休みの日は結構のんびり過ごすことの方が多いですよ」


「へぇ、ドライブって——」


「あ、洋人、そう言えばお金」


 やはり洋人のプライベートに話題が流れ始めていることを察して、誠は東嶋の言葉を遮った。


「いいですよ。それぐらい」


「いや。買ってきてもらって悪いし、最初の清算もまだじゃん?」


「……でも、料理は星野さん持ちだったでしょう?」


「ワイン代の方が高かったし」


 誠の申し出に洋人は不思議そうに目を瞬いて、「じゃぁ……」と遠慮がちに口を開いた。


「今度出勤した時、コーヒー奢ってください」


「コーヒーだけでいいの?」


「え? じゃ、タバコもお願いします」


「いや、それは違うだろ」


 軽口をたたいた洋人に、いつもの調子で突っ込みを入れると、洋人がフフフと声を上げて笑った。その顔に誠の方も自然と頬が緩む。


「まぁ、でもいいか。……いつもタバコ貰ってるし」


 こんなことをしても今更なことは誠にも分かっていたが、気前よく皆のワイン代を支払った東嶋を前に、誠も何かをせずにはいられなかった。

 本音を言えば、洋人のワイン代だけは今すぐにでも東嶋に返還して、この場から立ち去りたい。

 子供のような小さな意地をどう受け取ったかは分からない。しかし、いつもと違う誠の様子に洋人は戸惑っている様子だった。


「仲いいんだねぇ、君たち」


 二人の遣り取りを眺めていた東嶋が笑いながら横槍を入れてくる。その言葉に棘があったのも、きっと気のせいではない。口元は微笑みながらその目は全く笑っていなかったし、誠に送る視線は相変わらず冷ややかだ。

 やっぱり、そうだったのかと誠は確信した。

 いつから……?

 しかし、経営計画発表会の時には既に……きっともっとずっと前から、東嶋は洋人に目を付けていたに違いない。

 何が言いたいんだ、と訝る誠をサラリと無視した東嶋は、ノリの良い上司の顔で皆に提案した。


「ねぇねぇ、せっかくだからこの後皆でカラオケ行かない?」


「いいですね! 行きまーす!」


「あ、部長。俺、丁度クーポン持ってますよ」


 東嶋の提案に根っからのパリピであるトナカイたちは一も二もなく賛同する。


「小石ちゃんは、どう?」


「あー……私は今朝早かったので……。すみません、今日は……」


「俺も、もう帰らないと……」


 定森も特に理由は言わなかったが当たり前のように離脱した。

 誠は確認するまでもなく帰宅組だ。

 しかし、洋人は……


「満島君は?」


「あーっと……」


 東嶋の視線を受けた洋人がチラリと誠の方を見た。


「え? 行かないの? 明日早い?」


 即答しなかった洋人に、トナカイその一がアルコールに染まった顔を傾げた。その隣のトナカイは陽気に笑いながら、洋人を手招きする。


「いいじゃん、いいじゃん。俺、満島君ともっと話してみたいんだよなぁ……ほら、夏に佐々岡さんの対応してくれたのも君でしょう? ウチの課の人間が本当に悪かったね。お詫びに奢らせてよ」


 トナカイたちが「あれ、満島君だったのか!」とどよめいて一斉に洋人を見る。

 そう言えば、あの案件も第一営業部からの無茶振りだったと誠はうんざりした顔でその様子を眺めていた。


「ええ。でも、僕だけじゃなくて……」


 誠も一緒だったと説明したいのか、そのタイミングを掴めずに、珍しく洋人は困惑していた。

 今は仕事ではないのだから、営業の飲み会に付き合う必要もない。


 洋人は……


 誠は連れ去られそうな洋人を引き留めようとした。

 しかし、その瞬間


 ——マコト——


 すぐ真後ろで誰かに声を掛けられた気がした。

 洋人を引き留めようと伸ばしかけた手の袖口には赤紫のワインの染みが出来ていた。心臓がひっくり返ったように一度脈打って、誠はそこから先動くことが出来なくなってしまった。


「……星野さん?」


 異変を察したのか、洋人が声を掛けてくる。

 しかし、誠はそれどころではない。

 袖に滲む赤紫の染みがどんどん広がり、頭の中に『あの日』の光景が次々にフラッシュバックした。赤黒く腫れあがった母の顔、鼻と口から血を流し、髪の毛は所々抜け落ちて、耳朶も切れていた。


 ——あんたが私を殺したのよ?——


 そう、言われた気がした。

 お前に、幸せになる資格はあるのか、と。


「…………行けば?」


 気づいたら、心とは全く裏腹な言葉が口をついて出ていた。

 言ってしまった後で、自分の失態に気付いたが、誠には一度口にした言葉を取り消すことはできなかった。

 紫の染みがジワっと心に広がる。


「せっかくだし……」


 これも仕事だろ?

 取って付けたような言い訳を添えると、洋人は一瞬目を見開き、僅かに悲し気な表情を浮かべた。

 言いかけた言葉を飲み込み、自分を納得させるように小さく二度頷くと、いつもの営業スマイルを作った。

 

「……そうですね」


 笑った唇が微かに震えている気がした。

 それに気付いたのは、多分誠だけだ。


「そこの白黒君はどうする?」


「俺は明日早番なので!」


「よし、じゃ、決まりだね」


 ワイワイ騒ぐ営業部の人間も他所に、誠はこみ上げてくる吐き気を抑えるだけで精一杯だった。こんなに寒いのに首筋にひんやりと汗が流れ、尋常ではないぐらいの動悸を感じる。

 勝ち誇ったように笑った東嶋とは対照的に、記憶の中の母はその死に顔にうっとりと幸せそうな微笑みを浮かべ「それでいいのだ」と頷いている。


 悪い子にはお仕置きが必要でしょ?


 笑いながら酒を飲む営業メンバーを遠巻きに見ながら、誠は先刻洋人が口にしていた黒いサンタの言い伝えを思い出していた。

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