【BL】ネットワークセンターの神様

畔戸 ウサ

【NWC】12月 神様のお使い 〜悪魔の憂鬱〜

 スン、と洋人ヒロトの鼻が動いた。

 他愛のない会話をかわしながら二人で一つの鍋をつつく二年目の冬。すっかり定番化した冬の風物詩にほっこりと胸を温めて腹を満たし、洋人がシャワーを浴びてリビングに戻ってきた時のことだった。

 換気扇がゴウゴウと回り、幸せの余韻だけ残して湿度が下がった室内にほんの僅か、甘い香りが漂っていた。洋人が使っているシャンプーの匂いとも、首にかけたタオルの柔軟剤の匂いとも違う、もっと馴染みのある、甘くて、香ばしい匂い。

 眉目秀麗な恋人は、動物園のライオンのようにだらしなくビーズクッションに身体を預けてテレビを見ているし、片付けられたテーブルの上には二つのマグカップと、IQOS加熱式タバコ。風呂に入る前に見た光景と何ら変わらないのに、違和感が拭えず洋人はその匂いの出所を辿るようにもう一度鼻を鳴らした。

 間違いない。タバコの匂いがする。

 ある種の確信を持って洋人はタバコの箱を手に取った。中身を確かめてみると案の定、三本あったはずのタバコが二本になっていた。


「誠さん」


「ん?」


 どうかした? と顔だけ気持ちこちらに向けて目で訴える恋人に、洋人はすっと目を細めた。

 二人は大手通信会社に勤める先輩後輩であり、二年前の異動で知り合い、紆余曲折あって現在の関係へと発展した。

 洋人は、営業職で入社一年目にして新人賞を獲得し、以降トップクラスの成績を収め続けている超新人である。どんな難物であろうと類稀なる人たらしの才能を発揮する彼を、人は畏敬の念を込めて「悪魔」と呼ぶ。

 一方の誠はネットワークの保守を担当する技術者であるが、その知識の深さと技術の高さから「神」と称賛されている。

 ルックスにも恵まれた誠は六年前に企業パンフレットのモデルに抜擢され、社内で非公認ファンクラブが結成されるほどのモテぶりであったが浮いた話の一つもなく、完全フリーの状態だった。適齢期且つ、より取り見取り入れ食い状態の環境であるにも関わらず、黄色い歓声には見向きもせず、つまみ食いすることもない硬派な態度に女性たちは次々に虜になっていった。我こそはと数多の女性がチョモランマよりも高い誠という壁の前に散っていく中、この度やっと出てきたスキャンダルの相手というのが、悪魔と呼ばれる男性社員だったのだ。

 二人の関係が明るみに出た時は「誠ロス」という言葉と同時に「そういうことだったのか」という、落胆と納得の入り混じった衝撃が広がった。できれば誰の物にもなってほしくはないが、誰かの物になるのであれば、それなりに納得のいく相手であってほしいという外野の期待に、洋人はある意味これ以上ないほどの正解を叩き出したわけだが、誠との付き合いは皆が考えるほどロマンチックなものではなかった。

 必要以上に注目を浴びてしまうことへの対策。周囲への配慮と社内での立ち回り方。そして何よりも大変なのが、精神年齢低めの恋人のフォローだ。


「また吸ったでしょう?」


 営業職の洋人は接客もあるため、かなり気を使いながら喫煙を続けている。紙巻ほどではないにしてもタバコの蒸気を吸って吐いていることに変わりはないので、匂いに対する配慮も欠かすことはない。タバコを吸うときは必ずベランダで吸うこと、賃貸物件の壁紙よりも何よりもとにかくスーツにだけは匂いを移さない。それがこの部屋の喫煙ルールだ。換気扇の下もダメ、窓を開けるだけでもダメ、トイレなんてもっての外。暑くても寒くても必ずベランダに出て吸うこと。誰であっても洋人はそのルールを徹底するよう伝えている。

 恋人も例外ではない。そして、誠は洋人の仕事に対する姿勢を知っているのでそれを違えることはない。問題は匂いではないのだ。


「いいじゃん一本ぐらい」


「良くないですよ。ストック切らしているんです」


 今やすっかり高級品となってしまったタバコ。一本ぐらいと見過ごせる時代はとっくに過ぎている。

 手癖の悪い誠に、いつもいつもタバコをかすめ取られている現状を打破すべく、洋人は今日こそはと不退転の決意で挑む。


「えー……」

 

 まだ吸いたいにの……。

 形の良い切れ長の目が、口より雄弁に不満を語っていた。

 誠は口数が少ない分、表情に気持ちが表れる。裏表のない性格は傍から見ていると清々しくもあるが、洋人はそんな誠に危なっかしさを感じてしまう。何も知らない外野からすると、すこぶる顔の良い技術職の寵児がその評価に乗っかって誰彼構わず文句を垂れ流しているようにしか見えないからだ。コミュニケーションが下手なうえに、自分の見せ方がわかっていない誠は誤解を招きやすく火種になり易い。言っていることは至極まっとうな正論であっても、周囲の状況に配慮して発言することができないためにいらぬ反感を買ってしまうのだ。一プレイヤーなら上司の庇護である程度のお目こぼしはあるかもしれないが、誠は社歴も実力も充分に備わった男である。

 上層部としては当然、次を期待しているだろう。つまりは中間管理職としての資質、プレイヤーではなくリーダー或いは、マネージャーとしての自覚である。社にとって有益な人間であることは明白なのに、扱いづらい事この上ない誠の手綱を引くのは並大抵のことではない。監督を託された者はたまったものではないだろう。日々、誠の上司の愚痴に付き合っている洋人としては同情も禁じ得ない。


「買ってきてください」


「俺が?」


「誠さん以外誰がいるって言うんですか。僕は風呂上りですよ。湯冷めしたくないです」


「でもお前、今からタバコ吸うんじゃないの?」


「吸いますよ」


「ベランダに出たら湯冷めするから同じじゃない?」


 揚げ足を取るようなことを言って外出を拒む誠に、洋人は首を横に振る。

 これは是が非でも動きたくない気持ちの表れだ。腹も膨れてタバコも吸ってポカポカあったかい部屋で明日のことも扶養家族のことも何も気にせず、上げ膳据え膳でのんびり寛ぐ。そんな時間が誠にとってどれほど貴重か、洋人だって分らないわけではない。無理強いすることで新たな火種が生まれてしまうかもしれないと、これまでは自分が妥協するか我慢するかしてきたが、そろそろ誠にも理解してもらう必要がある。


「屁理屈言ってないでコンビニに行ってきてください」


「明日買えばいいじゃん」


「……わかりました。誠さんはタバコを我慢するってことですね」


 洋人は、ビーズクッションを抱きかかえ視線だけこちらに向けている恋人を呆れたように見下ろした。苛立たしいことこの上ないが、ここで相手の土俵に乗ってしまったら負けである。皆が羨む神様を陥落した洋人。しかし、その実態は、忍耐、忍耐、そして忍耐の連続だった。


「そういえばあっちの方もストック切れてるんですよね」


 聞き分けのない誠になんでもないことのように言って、洋人はとっておきのカードを切った。


「というわけで、今日は手を繋いで大人しく寝ましょう」


 たまにはそういうのもいいですよね、と絶対に誠が納得しないことをわかっていてニコリとほほ笑む。

 二人は現在同じ職場で働いているが、よほどの事情がない限り互いのシフトを合わせるようなことはしない。誠は夜間勤務もあるため、二人の休みがピタリと重なるのはひと月に一日、二日程度で、そのほかは互いに都合のつく時間を狙って逢瀬を重ねている。奇跡的なシフトで、且つ誰にも邪魔されないこの好機に、のストックを切らしていたのは大きな誤算だった。今朝、そのことに気づいて洋人はインターネットで注文したがもちろん間に合うわけもなく、帰り際に買おうと思っていたことも、仕事に追われてバタバタしているうちに、うっかり失念していた。


「なんで⁉︎」


 案の定、誠はパッと体を起こし駄々っ子のように洋人に抗議してきた。


「勝手に持ち出したのは誠さんでしょう?」


 殊更冷たい声で言って、洋人はばっさりと切り捨てた。お互いのためとは言え、使っているのは誠の方なのだから在庫管理も誠の責任の範疇だ。


「全然ないの?」


「一個はありますよ。ってか、なくなってるならちゃんと声かけてくださいよ」


 楽しみにしていたのに、と口にこそ出さなかったが、ついつい恨みがましい口調になってしまう洋人である。

 タバコのルール同様、きっぱりはっきり線引きできる洋人は決して誠との関係を公私混同することはないが、本来、恋人にはベッタリ甘えていたい性格なのだ。誠との付き合いではその欲求を意地で押さえつけて、かなり我慢をしている。それでも、肌を重ねている時間だけはやっぱりどこか特別で、仮初でも錯覚でも誠の優しさに触れることができるような気がするのだ。


「……僕は朝からずっと誠さんのことばかり考えていたんですけどね」


 僅かな本音も込みで、これみよがしに溜息を吐くと誠はすぐさま立ち上がった。


「ん」


 督促するような視線と共に、さっと右手を差し出す。

 お金くれ、の合図である。

 紐男もここまでくるといっそ清々しい。

 洋人は嘆息し、それでも誠がお使いを引き受けてくれただけで良しとして、財布から千円を抜いてその手に置いた。


「二箱買ってきてくださいね」


「……俺一箱使い切る自信ないよ?」


「誰がそっちの話をしているんですか⁉ タバコの方ですよ!」


 そんなにされたらこっちの体が持たんわ!


「えー。足りないじゃん」


「残りは誠さんが払ってください」


 洋人は怒りに任せて、頭半分背の高い恋人の背中を押した。叱られたいたずらっ子のように背中を丸めて玄関を出ていく誠を見送る。

 どうしてこんな男と付き合っているのかと、傍から見ればさぞかし滑稽に見えることだろう。

 実際のところ、洋人自身にもその理由はわからない。

 虚栄心でも、自己顕示でもない。むしろ、洋人は生涯を見据えた包容力のあるパートナーを見つけようとしていたはずなのだ。そんな時に現れた、理想とは全くかけ離れた傍若無人な神様になし崩し的に体を開いてしまった挙句、一年以上もこのような関係が続いている。

 洋人も誠もそれなりに恋愛経験があるいい大人なので、中高校生のように物や言葉で意思確認をするようなこっ恥ずかしいことはしない。セックスに至っては一夜限りなんてこともザラだったので、洋人は相手が社内の人間ということに戸惑いはしたものの、何だかんだで流されたのは事実だ。

 誠は指向的に男女の区別がなく、女性とも関係を持てるはずなのだが、女性に対する不信感が強すぎる故に、そちらの方は見向きもしない。

 非公認ファンクラブのメンバーが、硬派だなんだと言っているのは、認知バイアスにかかっているだけで、誠は表沙汰にならないところで男性社員をつまみ食いしてきた過去がある。

 どうせ自分もそんな人間の一人なのだろう、と洋人は思う。コンビニエンスに性欲処理をさせてくれるパトロンなんて、誠にとってはこれ以上ないほどの逸材だろう。

 互いに具体的な意思表示をしないまま、何となく一緒にいて、会えば必ずセックスをする。それは一般的にはセフレと呼ばれる関係なのだろうが、それにしては洋人は誠のことを知りすぎたし、自分のことを語り過ぎた。

 都合よく利用されながらも、その点についても折り込み済みで誠のことを許せるのは、彼がどんな過去を歩んできたかを知ってしまったからだ。

 深入りするんじゃなかった、と思ったところで後悔先に立たずだ。

 あと二年もすればどちらかが、或いは二人とも異動になる。物理的な距離が離れてしまえばこの関係も解消されてしまうだろう。誠がどんな結論を出しても、その選択を拒むことはできないという諦めにも近い予感が洋人の中にはあった。

 ま、いっか。

 洋人はいつも心の中でそう唱えている。

 誠にとって自分の存在が、旅の途中の止まり木だったとしても。

 この関係を誠がどう思っているのか本人に確かめたことはないが、そんな重い気持ちを持っていることを悟られたくもなかった。

 洋人は「ほぅ」とため息を吐いて、机の上のIQOSを手に取った。ハンガーにかけていたダウンジャケットを羽織って凍てつくようなベランダへと出る。冷え切った履物に足を通すとつま先からブルっと震えがきて、縮こまりながらIQOSにタバコを差し込んだ。


「ま、いっか」


 タバコを咥え、ベランダの柵から代り映えのしない景色にゆるゆると煙を吐き出した。空気に溶けて消えていく白い気体を見ながら、いつも唱えている呪文を繰り返す。


 誠が幸せなら、まぁ、いいか。


 そんな言葉が脳裏に浮かんだ瞬間、根底にある自分の本当の気持ちを覗き込んでしまったような気がして洋人は訳もわからないまま困惑した。

 この関係の生殺与奪を誠に任せているのは、自分にはそんな決断が出来ないことを洋人が自覚しているからだ。いつか終わりが来るのであれば、誠の方から終わらせて欲しい。そして、やはり誠は一所には留まれない野良猫のような人間だったと、そう思えたら、洋人の心も傷まなくて済む。

 誠も大概だが、相手に対して本心を明かしてはいない時点で洋人も狡さがないわけではない。

 今の誠を支えている。それが答えだと、行間を読めない誠に全てを理解しろ、というのは到底無理だと分かっていながら、重荷になりたくないという自分自身のつまらないプライドのために、説明を拒んでいる。

 鬱々とした感情とともに、肺まで深く煙を吸い込んだら、少しだけ頭がクリアになってきた。

 視界の隅に映った影に、洋人はふっと視線を落とす。後ろ姿すらも格好の良いブルゾン姿の男がマンションの敷地を横切っていた。


「誠さん」


 頭上から声を掛けると、ポケットに手を突っ込んだまま裏の通用口へと向かっていた長身がふっと足を止めこちらを見上げた。量販店にある安物の服に身を包み、靴下に穴が開いていたこともあるぐらい身なりに頓着しない男なのに、顔とスタイルで全てを帳消しにしてしまえる神様は、何? と視線だけこちらに送る。なんてことない仕草もファッション雑誌のモデルのように様になるのだから、このアドバンテージは大きいと洋人は改めて思った。

 すごすごとお使いに行く神様に、洋人はタバコを持っていない方の手で投げキッスを送る。誠のことだから「バーカ」とかなんとか言って、そんな冗談など歯牙にもかけないのだろう。洋人はそう思った――が、誠は相も変わらずポケットに手を突っ込んだまま、魚が餌を食べるように、ふわふわ飛んで行ったであろうキスをパクっと食べてしまった。

 そして、自身の行動に「ははは」と破顔した後、ヒラヒラと手を振ってくるっと踵を返す。

 共用灯に照らされた闇の中、普段では決して見ることのない、何のてらいもない素の笑顔に洋人の胸がキュっと悲鳴を上げた。


「それは反則でしょう……」


 洋人は自分の動揺を鎮めるため、もう一度タバコを口に咥えた。

 独り言ちる洋人の顔がみるみる赤くなっていく。

 あんな笑顔ついぞ見たことがない。この一年……否、一年半、年がら年中一緒にいて初めて見た。誠もあんな風に笑うことがあるのだという驚きと感動が幸せという言葉に変換されて洋人の中に落ちてくる。

 こんな事ぐらいで、初恋をした中高校生のように高鳴る鼓動を鎮めることができなくなってしまった自分を反省しながら、洋人は最後の一服を心ゆくまで堪能した。

 誠と二人でゆっくり過ごせる時間は貴重なのだ。忘れていたわけではないのに、誠の笑顔を見て洋人は改めてそのことに気付かされた。

 ネット注文が届くのは明後日。今夜は間に合うとしても、受け取りまでの期間を考えたら、果たして一箱プラス一個で間に合うだろうか。


 やっぱりもう一箱頼んでおくべきだったか?


 そんなことを考えながら洋人は吸い終えたタバコを携帯灰皿の中にポンと落とした。

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