【BL】ネットワークセンターの神様
畔戸ウサ
二人を取り巻く人々
01話 満島洋人
スン、と
他愛のない会話をかわしながら二人で一つの鍋をつつく二年目の冬。すっかり定番化した冬の風物詩にほっこりと胸を温めて腹を満たし、洋人がシャワーを浴びてリビングに戻ってきた時のことだった。
換気扇がゴウゴウと回り、幸せの余韻だけ残して湿度が下がった室内にほんの僅か、甘い香りが漂っていた。洋人が使っているシャンプーの匂いとも、首にかけたタオルの柔軟剤の匂いとも違う。もっと馴染みのある甘くて、香ばしい匂い。
眉目秀麗な恋人は、動物園のライオンのようにだらしなくビーズクッションに身体を預けてテレビを見ているし、片付けられたテーブルの上には二つのマグカップと、
間違いない。タバコの匂いがする。
ある種の確信を持って洋人はタバコの箱を手に取った。中身を確かめてみると案の定、三本あったはずのタバコが二本になっていた。
「誠さん」
「ん?」
どうかした? と顔だけ気持ちこちらに向ける
「また吸ったでしょう?」
二人は大手通信会社に勤める先輩後輩である。
洋人は営業職で採用され、入社後一年で新人賞を獲得。その後もトップクラスの成績を収め続け、昨年は特別な功績を築いた人間に授与される社長賞まで獲得した。どんな難物であろうと類稀なる人たらしの才能を発揮する彼を、人は畏敬の念を込めて「営業の悪魔」と呼ぶ。
一方の誠はネットワークの保守を担当する入社九年目の技術者であり、その知識の深さと技術の高さから保守グループの「神」と絶賛されていた。
非営業部門の誠は洋人のように華々しく表彰されるような立場にはなかったが、人知れず解決してきた案件は保守グループの中でも群を抜いており、他部署の社員も相談を持ちかける程である。更には、一九〇センチ近い身長と、整いすぎた容姿は皆の注目するところとなり、入社式当日、社長直々の指名によって企業パンフレットのモデルに抜擢された過去は、彼を語る上で欠かすことの出来ないエピソードの一つとなっていた。
誠の入社以降、社内では非公認ファンクラブが雨後の筍のように結成され、あまりの加熱ぶりに剛を煮やした経理課の女性社員が、社内に淑女協定を布く事態にまで陥った。
そんな事情もあって、孤高の王子様と化してしまった誠は、ここ数年浮いた話の一つもなく完全フリーの状態でコールセンターへと異動してきた。
適齢期且つ、より取り見取り入れ食い状態の環境であるにも関わらず、黄色い歓声には見向きもせず、つまみ食いすることもない硬派な態度に淑女協定の圏外にいたコールセンターの女性たちは次々と虜になっていった。我こそはとチョモランマよりも高い星野誠という壁にアタックして数多の女性が散っていく中、やっと出てきたスキャンダルの相手というのが、あろうことか悪魔と呼ばれる男性社員だったのだ。
二人の関係が明るみに出た時は「誠ロス」という言葉と同時に「そういうことだったのか」「どうりで」という、落胆と納得の入り混じった衝撃が広がった。できれば誰の物にもなってほしくはないが、誰かの物になるのであれば、それなりに納得のいく相手であってほしいという外野の期待に、洋人はある意味これ以上ないほどの正解を叩き出したわけだが、誠との付き合いは皆が考えるほどロマンチックなものではなかった。
必要以上に注目を浴びてしまうことへの対策、周囲への配慮と社内での立ち回り方、そして何よりも大変なのが、比類なき容姿とは裏腹な、精神年齢低めの恋人に対するフォローだ。
「何が?」
「何が、じゃないですよ。タバコですよ」
営業職の洋人は接客もあるため、かなり気を使いながら喫煙を続けている。紙巻ほどではないにしろ、タバコの蒸気を吸って吐いていることに変わりはないので、匂いに対する配慮も欠かさない。タバコは必ず部屋の外で吸うこと、賃貸物件の壁紙よりも何よりもとにかくスーツにだけは匂いを移さない。それがこの部屋の喫煙ルールだ。換気扇の下もダメ、窓を開けるだけでもダメ、トイレなんてもっての外。暑くても寒くても必ず屋外で吸うこと。誰であっても洋人はそのルールを徹底するよう伝えている。
恋人も例外ではない。そして、誠は洋人の仕事に対する姿勢を知っているのでそれを違えることはない。
問題は
「いいじゃん一本ぐらい」
「良くないですよ。ストック切らしているんです」
今やすっかり高級品となってしまったタバコ。一本ぐらいと見過ごせる時代はとっくに過ぎている。
手癖の悪い誠に、いつもいつもタバコをかすめ取られている現状を打破すべく、洋人は今日こそはと不退転の決意で挑む。
「えー……」
まだ吸いたいにの……。
形の良い切れ長の目が、すっきりとして魅力的な唇より雄弁に不満を語っていた。
誠は口下手な分、表情に気持ちが表れる。裏表のない性格は傍から見ていると清々しくもあるが、洋人はそんな誠に危なっかしさを感じてしまう。
仕事であろうとプライベートであろうと終始こんな調子であるため、誠はいらぬ反感を買ってしまうこともしばしばだ。それを稚拙な本人が全く気にしてない点にも多大な問題があるが、誠は社歴も実力も充分に備わった中堅社員である。上層部としては当然、次を期待していることだろう。
つまりは中間管理職としての資質、プレイヤーではなくリーダー或いは、マネージャーとしての役割である。社にとって有益な人間であることは明白なのに、コミュニケーションに難があり、扱いづらい事この上ない誠の手綱を引くのは並大抵の作業ではない。監督を託された者はたまったものではないだろう。
日々、誠の上司の愚痴に付き合っている洋人としては同情も禁じ得ない。
「買ってきてください」
「俺が?」
「誠さん以外誰がいるって言うんですか。僕は風呂上りですよ。湯冷めしたくないです」
「でもお前、今からタバコ吸うんじゃないの?」
「吸いますよ」
「ベランダに出たら湯冷めするから同じじゃない?」
「同じじゃありません」
揚げ足を取るようなことを言って外出を拒む誠に、洋人は首を横に振る。
これは是が非でも動きたくない気持ちの表れだ。腹も膨れてタバコも吸ってポカポカあったかい部屋で明日のことも扶養家族のことも何も気にせず、上げ膳据え膳でのんびり寛ぐ。そんな時間が誠にとってどれほど貴重か、洋人だって分らないわけではない。無理強いすることで新たな火種が生まれてしまうかもしれないと、これまでは自分が妥協するか我慢するかしてきたが、そろそろ誠にも理解してもらう必要がある。
「屁理屈言ってないで行ってきてください。コンビニすぐそこでしょ」
「明日買えばいいじゃん」
「……わかりました。誠さんはタバコを我慢するってことですね」
洋人は、ビーズクッションを抱きかかえ視線だけこちらに向けている恋人を呆れたように見下ろした。苛立たしいことこの上ないが、ここで相手の土俵に乗ってしまったら負けである。
皆が羨む『神様』を陥落した洋人。しかし、その実態は、忍耐、忍耐、そして忍耐の連続だった。
「そういえばあっちの方もストック切れてるんですよね」
聞き分けのない誠になんでもない風を装いながら、洋人はとっておきのカードを切った。
「……というわけで、今日は手を繋いで大人しく寝ましょう」
たまにはそういうのもいいですよね、と絶対に誠が納得しないことをわかっていてニコリとほほ笑む。
二年前の春、同時期に異動してきた二人は紆余曲折あって今の関係へと発展した。周囲は恋人と認識しているようだが、よほどの事情がない限り互いのシフトを合わせるようなこともない、さっぱりとした関係だ。誠は夜間勤務もあるため、二人の休みがピタリと重なるのはひと月に一日、二日程度で、そのほかは互いに都合のつく時間を狙って逢瀬を重ねている。
奇跡的なシフトで、且つ誰にも邪魔されないこの好機に、アレのストックを切らしていたのは洋人にとっても大きな誤算だった。今朝、そのことに気づいてインターネットで注文したがもちろん間に合うわけもなく、帰り際に買おうと思っていたことも、仕事に追われてバタバタしているうちに、うっかり失念していた。
「なんで⁉︎」
案の定、誠はパッと体を起こし駄々っ子のように洋人に抗議した。
「勝手に持ち出したのは誠さんでしょう?」
殊更冷たい声で言って、洋人はばっさりと切り捨てた。お互いのためとは言え、使用するのは誠の方なのだから在庫管理も誠の責任の範疇だ。
「全然ないの?」
「一個はありますよ。てか、なくなってるならちゃんと声かけてくださいよ」
楽しみにしていたのに、と口にこそ出さなかったが、ついつい恨みがましい口調になってしまう洋人である。
本来の洋人は恋人にベッタリ甘えたい性格で、誠との付き合いではその欲求を意地で押さえつけ、かなり我慢をしている。タバコのルール同様、誠との関係もきっぱりはっきり線引きしている洋人は、職場でもプライベートでもその牙城を崩すことはないが、肌を重ねている時間だけはやっぱりどこか特別で、仮初でも錯覚でも誠の優しさに触れることで、自分も少しだけ素直になれる気がするのだ。
「……僕は朝からずっと誠さんのことばかり考えていたんですけどね」
僅かな本音も込みで、これみよがしに溜息を吐くと誠はすぐさま立ち上がった。
「ん」
督促するような視線と共に、さっと右手を差し出す。
お金くれ、の合図である。
紐男もここまでくるといっそ清々しい。
洋人は嘆息し、それでも誠がお使いを引き受けてくれただけで良しとして、財布から千円を抜いてその手に置いた。
「二箱買ってきてくださいね」
「……俺一箱使い切る自信ないよ?」
「誰がそっちの話をしているんですか⁉ タバコの方ですよ!」
そんなにされたらこっちの体が持たんわ!
「えー。これじゃ足りないじゃん」
「残りは誠さんが払ってください」
洋人は怒りに任せて、頭半分背の高い恋人を玄関へと押しやった。叱られたいたずらっ子のように背中を丸めながら出ていく誠を見送る。
どうしてこんな男と付き合っているのかと、傍から見ればさぞかし滑稽に見えることだろう。実際のところ、洋人自身にもその理由はわからない。
虚栄心でも、自己顕示でもない。むしろ、洋人は生涯を見据えた包容力のあるパートナーを見つけようとしていたはずなのだ。そんな時に現れた、理想とは全くかけ離れた傍若無人な神様に、なし崩し的に体を開いてしまった挙句、一年以上もこのような関係が続いている。
洋人も誠もそれなりに恋愛経験があるいい大人なので、中高校生のように物や言葉で意思確認をするようなこっ恥ずかしいことはしなかった。セックスに至っては一夜限りなんてこともザラだったので、相手が社内の人間ということに戸惑いはしたものの、何だかんだで誠に流されてしまったのは事実だ。
誠は指向的に男女の区別がないという話だが、女性に対する不信感が強すぎて、そちらの方にはあまり関心が向かないらしい。
非公認ファンクラブのメンバーが、硬派だなんだと心をときめかせているのは、認知バイアスにかかっているだけで、誠は表沙汰にならないところで、ちょこちょこ摘み食いもしてきている。
どうせ自分もそんな人間の一人なのだろう、と洋人は思う。コンビニエンスに性欲処理をさせてくれるパトロンなんて、誠にとってはこれ以上ないほどのカモだろう。
互いに具体的な意思表示をしないまま、何となく一緒にいて、会えば必ずセックスをする。それは一般的にはセフレと呼ばれる関係で、事実二人の関係は体ありきで始まったのだが、それにしては誠のことを知り過ぎたし、自分のことを語り過ぎた。
都合よく利用されながら、洋人がその点も折り込み済みで誠のことを許しているのは、彼がどんな過去を歩んできたかを知ってしまったからだ。深入りするんじゃなかった、と思ったところで後悔先に立たず。
再来年の春、どちらかが、或いは二人とも異動になり、物理的な距離が離れてしまえばこの関係も解消されてしまうだろう。誠がどんな結論を出しても、その選択を拒むことはできないという諦めにも近い予感が洋人の中にはあった。
ま、いっか。
洋人はいつも心の中でそう唱えている。
誠にとって自分の存在が、旅の途中の止まり木だったとしても。
この関係を誠がどう思っているのか本人に確かめたことはないが、そんな重い気持ちを持っていることを悟られたくもなかった。
洋人は「ほぅ」とため息を吐いて、机の上のIQOSを手に取った。ハンガーにかけていたダウンジャケットを羽織って凍てつくようなベランダへと出る。冷え切った履物に足を通すとつま先からブルっと震えがきて、縮こまりながらIQOSにタバコを差し込んだ。
「ま、いっか」
タバコを咥え、ベランダの柵から代り映えのしない景色にゆるゆると煙を吐き出した。空気に溶けて消えていく白い気体を見ながら、いつも唱えている呪文を繰り返す。
誠が幸せなら、まぁ、いいか。
そんな言葉が脳裏に浮かんだ瞬間、深層にある自分の本当の気持ちを覗き込んでしまったような気がして洋人は訳もわからないまま困惑した。
洋人がこの関係の生殺与奪を誠に任せているのは、自分にはそんな決断が出来ないと自覚しているからだ。いつか終わりが来るのであれば、誠の方から終わらせて欲しい。そして、やはり誠は一所には留まれない野良猫のような人間だったと、そう思えたら、洋人の心も傷まなくて済む。
我儘放題の誠も大概だが、相手に対して本心を明かさない時点で洋人も狡さがないわけではない。
今の誠を支えている。
それが答えだと、行間を読めない誠に全てを理解しろ、というのは到底無理な話なのに、重荷になりたくないという自分自身のつまらないプライドのためにその開示を拒んでいる。
鬱々とした感情とともに、肺の奥まで深く煙を吸い込んだら、少しだけ頭がクリアになってきた。
視界の隅に映った影に、洋人はふっと視線を落とす。後ろ姿すらも格好の良いブルゾンの男がマンション裏手にある駐輪場前の敷地を横切っていた。
「誠さん」
頭上から声を掛けると、ポケットに手を突っ込んだまま裏口へと向かっていた長身がふと足を止め、こちらを見上げた。
安物の服に身を包み、靴下に穴が開いていたこともあるぐらい身なりに頓着しない男なのに、顔とスタイルで全てを帳消しにしてしまえる神様は「何?」と三階にいる洋人に視線だけ寄越す。なんてことない仕草もファッション雑誌のモデルのように様になるのだから、このアドバンテージは大きいと改めて思った。
洋人はタバコを持った手で投げキッスを送る。きっと「バーカ」とかなんとか思われて、こんな冗談歯牙にもかけないのだろう、洋人はそう思った。
――が、相も変わらずポケットに手を突っ込んだまま突っ立ていた誠は、魚が餌を食べるように、ふわふわ飛んで行ったであろうキスをパクっと食べてしまった。直後、洋人と自身の行動に破顔一笑し、ヒラヒラ手を振って踵を返す。
共用灯に照らされた闇の中、普段では決してお目に掛かる事のない、何の
これは反則だ……。
洋人は動揺を鎮めるため、再びタバコを口に咥えた。
あんな笑顔ついぞ見たことがない。この一年……否、一年半、年がら年中一緒にいて初めて見た。誠もあんな風に笑うことがあるのだという驚きと感動が幸せという言葉に変換されて洋人の中に落ちてくる。
「ったく……子供じゃないんだから」
強がって独り言ちる洋人の顔がみるみる赤く染まっていった。
こんな事ぐらいで、中高校生のように胸を高鳴らせている自分を反省しながら、洋人は最後の一服を心ゆくまで堪能する。
誠と二人、ゆっくり過ごせる時間は貴重なのだ。忘れていたわけではないのに、洋人は改めてそのことに気付かされた。
ネット注文が届くのは明後日。今夜は間に合うとしても、受け取りまでの期間を考えたら、果たして一箱プラス一個で間に合うだろうか。
やっぱりもう一箱頼んでおくべきだったか?
そんなことを考えながら洋人は吸い終えたタバコを携帯灰皿の中にポンと落とした。
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